情熱と運命



第一章 戦士の精神

「戦士の気持ちを実践するのはそう簡単なことじゃない。そいつは革命だ。ライオンもネズミも人間も、みんな同じものとして見るのは、戦士の精神のすばらしい働きなんだ。それをするには、力がいる」



第一節  頽落する実存

 行為の描写がそのまま思想になりうるという考え方は<狩人>の道としてカスタネダが密かにモデルを提示するものである。狩人が獲物を狩るときの周到な準備、状況変化への機敏な対応、忍耐と決断、意志と行為の調和、こうした狩りの姿勢は、そのまま世界観へと繋がっている。
  狩りがプラトンの昔から哲学のテーマであったとオルテガは指摘している。重要なのはその光景ないし描写がそのまま思想に、意味になりうるということだ。これは行為記述が錯綜した思考の場を準備するというのと同時に、救済がどうどうめぐりであることを暗示している。
  今はセラピスト、ドンファンの声に耳を傾けよう。

 「道の真ん中にいて、しかも道の真ん中にいないということが狩人の近づき難さなんだ」

 「おまえには何か安っぽいものがある。まわりの世界にただ調子を合わせとるだけだ」

 「もの事をそんなにリアルに捉えるな。これからは自分の見せたいものだけを人に見せるんだ」

 「狩人はまわりのものをいじくりまわして消耗させたりはせん。人も物もな。それに必要な時間だけとどまり、獲物を狩ったら矢のように立ち去るんだ」

  獲物に対しては狩人は距離のバランスを取る。近づきすぎても離れすぎてもいけない。この遠近の調和のイメージは地滑りを起こして心理的なものに重なっていく。

 「自分を哀れむしかなくなるほど世界に近づく」

  何を指して世界と呼ぶのか。今の段階ではわからないが、神経症とは状況の現実性に身動きが取れなくなるまで対応してしまうことだ、というのが本当なら、セラピスト、ドンファンと呼ぶのも妥当であろう。事の本質は、目的意識と時間性にあるという点でドンファンは実存論的精神分析の系譜にいる。狩猟民と農耕民の時間意識の差もまた考えられよう。

 だがドンファンは狩人と獲物の関係を<戦士>と<力>の関係に転用する。戦士は力を狩る。だから力に接近しなければならない。しかも距離を保って。この戦略が<履歴を消す>あるいは<管理された愚かさ>あるいは<忍び寄り>と呼ばれたものである。内容を見てみればそれらは実存主義が実存的と形容したものに他ならない。しかし実存が一つの<戦略>であるということはどういうことなんだろうか。

 「この世界で生き残るためには戦士でなけりゃいかん。おまえは事がうまくいかなくなると自分を哀れむことに頼っていたんだが、履歴を消した今となっちゃ、そういうものを使う気もしないだろ。わしには怒りがあった。だが、たとえ人間の自然なたてであろうとそういうものが余計なんだ。ひとたび呪術の道へ決断したからには、そんな古いたては使えないのさ」

 かわって実存が登場してくるというわけである。それは神の前での自己の受け取り直しであるとか、現存在の根本構造であるとかいう規定を離れて、まずはこの戦略の中に、すなわち<生き残るための<戦略>の中に状況づけられるのである。

 キルケゴールが<内面性の欠如>あるいは<確信の喪失>として分析した現象(『現代の批判』)は、ハイデッガーによって<実存失墜>(『存在と時間』)と名づけられた。ドンファンはこの現象に対応することを総じて<ふけること>と呼ぶ。

 「おまえが抱えている問題はな、カルリトス、すべてのことを誰にでも説明せにゃならんと思ってることだ。しかも義務的にな。と同時に、自分ですることの新しさを保ちたがっているってこともある。それでだ。説明してからじゃ興奮できんもんだから、続けるためにウソをつくのさ」

これは一体誰の考えであるのか?




第二節  カルロス・ハイデッガー


 第3巻、『イクストランへの旅』の最初の数章は、後になって、第4,5巻で修行過程がまとめられるときに登場する概念を提起している。呪術の最終目的は<内的対話を止める>ことである。そのための基本的な方法が
   1 正しい歩き方
   2 報いを期待することのない行為 である。

 これに追加して二つの副次的な方法がある。それらは、
   1 履歴を消す
   2 夢見ること  である。

 驚くべきことに、この履歴を消すこと(erasing personal history)が第二巻の<管理された愚かさ>(controlled folly)の系譜にあり、これがまた忍びより(stalking)という第5巻以降のテーマにつながっていく。相当息が長いテーマとなる。

 履歴を消す ということを考えてみる。「履歴を持っていなければ、話すことは嘘とは言えない」と言い、ドンファンの履歴を詳しく聞き出そうとするカルロスに彼は次のようなことを言った。

 「おまえのかかえている問題はな、カルリトス、誰にでもすべてを説明しなきゃいかんと思ってることだ。しかも義務的に。それと同時に、自分ですることの新鮮さや新しさを保ちたがっているということもある。それでだ、自分でしたことを全部説明してからじゃ興奮できんもんだから、続けるために嘘をつくのさ」

 ここでカスタネダとハイデッガーは容易に結びついてしまう。というのは、カスタネダは呪術的な<脱この世主義>を「履歴を消して」と「世界を止めて」の軸に収斂させるが、ハイデッガーの『存在と時間』 もまた、世界の世界性から始まり、歴史の歴史性に向かうわけで、世界の通俗性と歴史の通俗性というのがまずもって全面に出てくるからである。

 上のドンファンの主張を聞いてカルロスは「話の展開にあきれてしまった」と言っているが、これはあやしい。だれにでもすべてを説明する衝動とは、ここでは過去にしてしまう作用と見なされていて、それに対して新しさを保ちたがる作用が矛盾し、このような過去作用と未来作用とを損なうことなく双方とも保存しておくのが嘘ということになっているのであるが。

 これはハイデッガーの言ったことに対応している。<ひと>の日常的な在り方を公共性というものに見ていて、まず<おしゃべり>と<好奇心>が双方ともに<ひと>を確固たる地盤からの遊離、根こぎの状態としている。

 「おしゃべりは好奇心の進路を支配する、すなわちおしゃべりはだれにも読まれ、見られる必要のあるもの、読んでしまったり見てしまったりしないでおられないようなものをしゃべるからである。」

 ここではカスタネダがいう端的な矛盾は見られていない。しかもハイデッガーは<嘘>と言ったのではなく、<曖昧さ>と言ったのである。しかしそれらの違いにもまして興味深いのはこの第三の項目の曖昧さが、ひとの未来志向と過去志向とを同時に成立させる根拠となっているということである。

 「およそ他人が予知し、感づいているようなものは何であれ誰もがすでにつねに前もって予知し感づいていたんである。こういうふうに「跡をつけている」こと、それも聞き伝えをもととしているからには−−−けだし本当にある事の『跡をつけている』者はその事については話さないものであるが−−最もいかがわしいやり方なのであって、こんなやり方では曖昧性が現存在の諸可能性を先わたしすることになり、したがってすでにそれらの可能性の力を殺ぐというものである」

 「すなわち、「ひと」が予知し感ずいていたものがある日本当に実行に移されたとしたばあい、その実現した事柄に対する興味はたちまちさめはててしまうが、そうなるようにあらかじめ取りはからっていたものがほかならぬ曖昧性なのである」

 曖昧性とは、<了解>という場面で、了解されるものと了解されないものの区別がつかなくなる、ということであった。しかし、おしゃべりと好奇心は双方ともに未来の食い尽くしであることが言われている。可能性の未来をせわしげに先取りし、つまり間違った過去化ともいうべきものによって、可能性の未来を逆に閉ざしていることである、という説明になる。ということは、これをドンファンの言と比べると、表面的には違うが、同じところがあるのである。

 違うというのは、ドンファンの言では単純におしゃべりが未来の予感を現実にしてしまうもの、好奇心が自分ですることの新しさを保つ、というふうになっていて、両者が過去志向と未来志向として矛盾するからこの矛盾解消の手だてとして<嘘>が登場してくるのである。それに対し、ハイデッガーの言ではおしゃべりも好奇心も双方とも性急な未来志向の共同的在り方となっている。

 「..その実現とともに現存在はいつもそのれ自身への帰還を強いられるからである。おしゃべりと好奇心はそれらの威力を失う。そこでそれらはすぐと復讐する。..「そんなことなら自分にだって出来たんだが、なぜって−自分だってその事を予感してたんだもの」と。おしゃべりはしまいには、彼により予感されまたたえず求められていたものが、一度本当に起こると、不機嫌にさえなる。なぜってそれによっておしゃべりは、予感し続けて行けるせっかくの機を逸するではないか」

 というわけでドン ファンの言う「続けるために嘘をつく」はハイデッガーにおいては「予感しつづける」曖昧さの自己運動というふうになる。全般的に「曖昧さ」というのは、可能性が喰いつくされることへの危惧という文脈の中にある。これはドンファンの言とは確かに違う。しかしながら、未来を求める作用が過去にしたい衝動と一緒になっている、というふうな在り方を「続ける」のはどうしてかという問いに対しては、ドンファンもハイデッガーも同じ地点にいるのではないかと思うのである。おしゃべりと好奇心と曖昧さ、この三つは実存論では現存在の頽落(Verfallen)と呼ばれ、<ひと>の日常的時間性の平均的モデルとされる。一方カスタネダにおいては、おしゃべりはこの世界を組み立てる仕組みであり、好奇心は師が弟子の注意力を捉える機会でもあり、曖昧さは不必要な現実から逃走する手段でもある。ハイデッガーは頽落現象を真性の病気にしたわけではなく、いかなる<ひと>も逃れることのない出発点にしている。どちらにおいてもあらゆることが両価的なのである。

 その両価性が、ハイデッガーにおいては非実存からの実存の受け取り直しとされ、カスタネダにおいては実存も非実存も<たて=盾>とされるのである。盾としての存在、これがカスタネダの全言説を導くものである以上、それをいっきに想起することができない。私たちは一歩一歩接近するためにまずは時間性の言説、死と瞬間と反復という、実存主義の常識の平面でカスタネダを一度は捕縛することにしたい。




第三節  死と時間性




 死がなんであるかという問いにドンファンは、それは何でもないというような答えをする場面がある。しかしたいていは何か実質的なことを語る。

 「死はわしらの永遠の仲間だ」ドンファンはひじょうに真剣な顔をして言った。
 「それはいつでもわしらの左側、腕を伸ばせばとどくようなところにいるんだ。おまえが白タカを見張っているとき、それはおまえを見張っていたんだ。それが耳元でささやいたとき、今日みたいに、その寒気を感じたのさ。それはいままでずっとおまえを見張っていたし、おまえをぽんとたたく日までずっとそうだろう」「おまえは獲物にそっと近づいて辛抱強く待った。死が待つようにな。それに死がちょうどおまえが白タカの左にいたように、わしらの左にいるってこともよくわかっとる」

「死がそっとわしらに忍びよってくることを知ってて、どうして自分をそんなに大事に思える?」と彼はきいた。

「がまんできないときは、左を向いて自分の死にアドヴァイスを求めるんだ。もしおまえの死がおまえになにかのそぶりを見せるとか、おまえがそれをチラっと見るとか、あるいは自分の相手がそこで見つめているという感じをもちさえすれば、山ほどのとるに足らんことなどすぐに切り捨てられる」

「死ってのはわしらの唯一分別のあるアドヴァイザーなんだぞ。おまえがいつもそうなように、なにもかもうまくいかなくなって、いまにもまいっちまいそうだと感じたら、死の方を向いてそうなのかどうかきくんだ。きっとおまえがまちがってると言うだろうよ」

 これらの語りは第4巻でもっとストレートな議論に再解釈される。死がアドヴァイザーである、ということと同時に死の他にあらゆるものがアドヴァイザーであるという面を強調しなくてはならない。というのは、アドヴァイザーというのが証人ともなり、証人とはとどのつまりはカスタネダが意識に与えた別名に他ならないからである。

証人的意識とはドンファンによって<トナール>と呼ばれる。これは目撃する者である。トナールは、また島とも呼ばれる。そして呪術の修行の第一局面とは、このトナールの島の上を掃除することだというのである。トナールの島の上を掃除することは、そのトナール外のナワールに達することを意味する。そこではおしゃべりを止めることがその都度の現象となる。内的対話を止めて沈黙に達する。沈黙は意図を生み、ナワールが開かれる。ナワールは意志であり、力であり、死であり、知である。死をアドヴァイザーにする、とは履歴を消すことの中の三つの補助手段のうちの一つである。

 これは第四巻では次のような文脈の中にある。

  内的対話を止める

     1 薬草体験
     2 正しい歩き方
     3 報償なしに行為する

  補助
        1 履歴を消す
          補助  1 自尊心をとる
               2 責任を持つ
               3 死をアドヴァイザーにする

        2 夢見ること
          補助  1 日々のルティーンを消す
               2 力の足取り
               3 しないこと

 さて、人間の感情とは何か、という複雑な問題を乱暴にも次のように整理する。喜び、悲しみ、怒り、恐怖、後悔、倦怠、不安、と感情にも様々あるが、この内、何がこれだという図式なしに、感情を学ばれたもの、とそうでないものとにわけてしまおう。

 この学ばれたものがドンファンの言うトナールの島の上にある項目ということになる。ドンファンは、自分にとって、いつもあったのはインディアンとしての恐れと怒りだという。しかしそれはカスタネダの中にある自己憐憫という感情とともに、学ばれたものだという。

 「言うに言えない苦労のすえに、おまえは自分を憐れむことを覚えたのだ。だが同じようにして、差し迫った死というものを感じられるようにもなれるのだ。..アドヴァイザーとしてはだな、自分を憐れむなど死と比べたら、何も価値がないのだ」

 そして、同じようにして、隠れていたものを引っぱり出すことも可能だとドンファンはいうのである。

 「自分の島についておまえが変えた他のすべての要素についても同じことが言える。さっき言った四つのテクニック(履歴を消す、死をアドヴァイザーにする、自尊心をなくす、責任を持つ)を使わなかったら、首尾良く(トナールの)項目を変えることはできなかっただろう。だが外観を変えるというのは、前には重要だった項目に二番目の場所を割り当てることにすぎない。あいも変わらず、自分を憐れむことはおまえの島の特徴で、これからは奥の方にあることになる。ちょうど、自分は取るに足りない存在だとか、いつ死ぬかわからないとか、自分の行いには責任がある、という考えが表面に出ることなく心の奥にひそんでいたのと同じように」

 バイパス的に表現すれば、死とは、意識の取り戻しであり、精神の立て直しである。多くの言葉がこのことを表現している。「身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ」とか、いわゆる武士道のイメージが提示する死と精神の健全さとの結びつきなどもそうだろう。しかしドンファンはそのような直観的なことを言うに満足せず、もっと体系的なことを語っている。

 死が機能停止であり、誰かが死んだとか、この機械は死んだとか、いうことが通常の見解であるならば、死を超えて生きたり、死の向こうに何か異なる世界を描いたり、超越的な世界をもぐりこませたり、というようないわゆる超越世界の物語を語るものは、この通常の死の観念から一歩も外へ出ていない。死は終わりであり、その向こうに別の生が待っているだけである。それらとカスタネダとを区別するのは、死についての語りをドンファンが、ある明確な形而上学の中で語るということである。

 それは70年前にハイデッガーが『存在と時間』で述べたことと実によく似ている。実存論的死の解釈とは、死を終わりと端的に捉えることは拒否するが、終わりということを決して捨て去ることはない。実存論的に見られた現存在=人間は、死を本来の未来としている。それは<本来>ということで、代理不能の自己の自己性を表し、<未来>ということで、全体性なるものを意味しているのである。そして、現存在は「終わりへと至る全体存在可能」と呼ばれる。

 ここに登場する全体性という理念への注目こそが、カスタネダをハイデッガーによって読むということへ促すのである。ハイデッガーは現存在の在り方を次の定式によって記述する。「自己に先立ち、すでに世界の内にありながら、世界内部的に出会う存在者のもとにある」

 この定式は、「自己に先立ち」で未来性を、「すでに世界の内に」でもって過去性を、「世界内部的に」でもって現在性を表している。その場合、この定式は<実存的><日常的>の区別を受ける。だから、実存的未来が死なのである。これに対して日常的未来が「もしも〜だったら」という仮定的意識なのである。そうなると、通常の心理用語もそれにひきづられて、実存的未来=意志、日常的未来=願望ということになる。意志と願望を区別するのはカスタネダもしているが今は、死についての話である。死は、それがもっとも切迫した相で実存に迫る。そのとき、他の現存在や世界内部的存在者とは没交渉な可能性、最も極端な可能性を示す。しかしこれは何の可能性なのか。

 死の示す可能性とは実は何の可能性でもないのであって、それがそうなのは、ハイデッガーによると自己に的中している可能性だからであり、このさい可能性の対象が存在しないことが実存の仕組みなのである、と表現しておこう。この死に対する不安はだから、死亡することへの恐怖ではなくて、現存在自身が現存在に感じるものである。真の主観性の在り方は、あれこれについて不安を感じるというものではない。差し迫った死を感じ取るということは、自分が死んでしまうことに恐怖するということではない。だからカルロスが「ぼくはいつだって死ぬ準備ができている」と言ったときにドンファンはそういう言い方では不満だったのであろう。

 およそ準備するとか備えるとかいうことは未来を制御可能なものにするということである。そういう可能性は「追い越された可能性」であって、実存的可能性とは「追い越し得ない可能性」であり、自己そのものの別名であり、これが死を実存論的未来の中枢に据える根拠となる。

 <ひと>は死が「どこかからやってくるには違いないが」、「さしあたっては未だ目の前にあるのではなく」、他人が死ぬのを見ても、「この<ひと>とは誰でもないのであるから、つねにかならずしも自分のことだとはかぎらない」し、死にゆく者に対しては「死からのがれられるだろう」とか「世界の安らかな日常性に戻れるだろう」とか言って、不断に自己および他者をなぐさめ、そもそも「『死を考える』ことからしてすでに公共的には臆病な恐怖、生存のおぼつかなさ、陰気な遁世と」みなされている。

 このように、<ひと>の中で、まず自己は誰のものでもない死という印象に<誘惑>され、死からの遁走へ<慰撫>され、また不安を感じる者がその最自己的存在可能から<疎外>される。<頽落>は死からの絶えざる逃避によって特徴づけられる。このようにハイデッガーは言う。

一方カスタネダもまた、いかに死というものが世間一般では避けられているかを言うことにおいてはひけを取るものではない。

 「なにしろわしが相手にしていたのは、自分の生死に関心を持たず、厚かましくも自分を不滅だと思っている人間だったからな」

「時間はたくさんあると思いこんどる」彼は繰り返した。

「なんのためのたくさんの時間だい、ドン・ファン」
 「自分の命が永遠に続くと思っとる」
 「そんなことないよ」
 「それなら、永遠に続くと思っとらんなら、なにを待ってるんだ?なぜ変わることを躊躇するんだ」
 ...私は死ぬことを考えるのは恐ろしいことだとは認めたが、彼の確実な話し方や死への関心のせいでそら恐ろしくなってしまうのだといって彼を責めた。
 「だが、わしらみんな死ぬんだぞ..あそこにはおまえを待ってるものがある、確かだ。そしてわしはそこへ加わる。これも確かだ。だがたぶんおまえはちがうんだろう。死はぜんぜんおまえを待ってなぞいないんだ」
 「そんなことは考えたくないんだよ、ドン・ファン」
 「なぜ?」
 「意味がないからさ。もしそれがあそこでぼくを待ってるんだったら、なんでそのことで悩まなけりゃいけないんだい?」
 「そのことを悩まにゃいかんなぞとは、言っとらんぞ」
 「それじゃどうすればいいんだい?」
 「そいつを使うのさ。あわれみとか悲しみとか悩みとかを感じずに、自分と自分の死のきずなに注意を集中させるんだ。自分には時間がないという事実に注目して、それに応じて自分の行動をわき出させるんだ。自分のすることを地上最後の戦いにしろ。こういう条件がととのって、はじめておまえの行為には正しい力が生まれるんだ。さもなけりゃ、生きてる限り、臆病者の行動でしかないぞ」
 「臆病者になるっていうのは、そんなにひどいことなのかい?」
 「そうじゃない、もしおまえが不死身ならな。だが死ぬ身なら、臆病のための時間はない。...」

 ハイデッガーが死に求めるものは、実存が最自己的に未来へ関わるということを死がもしかしたら明かすかも知れないという可能性である。それはハイデッガーの場合には、未来−過去−現在という風に流れていく時間性の構造の中の第一番目の未来性の場としての死であった。一方カスタネダにおいては、死が道具とまではいかないものの、扱うものとなっている。死の意識はナワールからやってくる。これが死が内にあり、かつ外にあるという逆説のかなめである。私たちはまだそこまで行かない。ハイデッガーが死に与えた積極的な規定をまだ完全に記述していないし、それはカスタネダの方も同様だからである。





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