P.D.ウスペンスキーはその講義を出版する意図がないかと尋ねられたとき、こう答えた。「何に使うのか?最も重要なことは講義ではなく問いと答えである。」
この書は1921年から1946年にかけて、ウスペンスキーによって与えられた語り、問いと答えから言葉通りに抜粋したものである。第1章は基本的な考えを一般的に概観している。それらは後続の章で敷衍されるが、これはウスペンスキー自身に従って主題ごとに特別な序列 order に置かれている。
この序列を実現するために、多くの事柄がその時間的連続性から取り外されなければならなかったのだが、いかなる場合においても言い回しや意味の変更は存在しない。
システムは何に関してのものか−心理学の研究−人間の不完全性−世界の研究と人間の研究−スケールの原理−可能な進化−自己研究−多くの「私」たち−機能の分割−意識の四つの状態−自己観察−自己想起−二つの高次機能−機械の間違った作用−想像−嘘をつくこと−意志の欠如−コンロトールの欠落−不快な情動の表現−否定的情動−態度の変化−諸機能の観察−同一化−考慮−眠り−監獄と脱出−人間の七つのカテゴリー−機械性−3の法則−7の法則−幻想−私たちは「なす」ことができない−善と悪−道徳性と意識−少数の者だけが発達しうる−A,B,Cの影響−マグネティックセンター−私たちは宇宙の悪い所で生きている−創造の光−諸法則の命令/秩序 order
このシステムが関わるものを一般的に説明する前に、そして私たちの方法について語る前に、あなた方の心にとくに印象づけたいと思うことがあります。それはシステムの最も重要な観念と原理が私のものではないということです。主にこのことによって、それらの観念や原理が価値あるものとなるのです。というのは、もし私のものであったならば、通常の心 mind によって作り出される他の理論のようなものになってしまうでしょう。そういうものは事柄の主観的見方しか与えてくれないのです。
1907年に『宇宙の新しいモデル』を書き始めた際、以前からそしてそれ以後も多くの人たちがしてきたように、私は自分自身に対して次のような考えを明確にしていました。私たちが知っている生の背後には何かもっと大きくて、もっと重要なことが横たわっているのだということです。そして背後に横たわるものについてもっと知るまでは、私たちの生や自分たち自身の知識はすべて実際に無視しうるものだ、と私は自分に言い聞かせました。当時の或る会話を覚えています。「もしも意識が(あるいは今ではそれを知性と呼ぶべきでしょうが)物理的身体から分離されてそれ自体を顕わすことができるということが証明されたとものと受け入れられた場合、他の多くの事柄は証明されるでしょう。ただ、それが証明されたと見なされることができないだけです。」思考転移、透視、未来を知る可能性、過去を見る可能性など、超常的心理学が主張する現象が証明されていないことはわかっていました。ですから、私はこれらのことを研究する方法を発見しようと試みました。その線で何年も研究し続けました。そのようにして興味ある事柄を発見したこともあるのですが、結果ははなはだ捉えどころがないものでした。いくつかの実験は成功しましたが、再現させることはほとんど不可能でした。
これらの実験の最中に私は二つの結論に至りました。まず私たちは通常の心理学について十分に知ってはいないということです。私たちは超常的心理学を研究できないのですが、それは通常の心理学を知らないからであるということです。次に、或る現実の知識が存在するということです。私たちが知りたいと思っていることを正確に知っているスクールが存在しうるが、なにがしかの理由でそれらは隠され、この知識も隠されている、これが二番目の結論です。そこで、私はこれらのスクールを探し始めました。ヨーロッパやエジプト、インド、セイロン、トルコ、中近東を旅しました。しかしずっとあとになって、これらの旅をすでに終えてから、戦争中にロシアで一団の人々と出会いました。彼らは東洋の Eastern スクールに起源を持つ或るシステムを研究していました。このシステムは心理学の研究から始まります。それが始まらねばならないと私が理解していたようにです。
私たちは自分たちの能力 power 、力 force のわずかな部分さえ使っていないということがこのシステムの主たる考えなのです。私たちは自分の中に、いわば巨大かつ繊細な組織 organization を持っているのですが、ただその使い方を知らないのです。このグループでは或る東洋のメタファーが使われていました。図書室や他にたくさんの部屋を持ち、美しい調度品で一杯の家を私たちは自分の中に持っているが、私たちが住んでいるのは地下室や台所で、部屋から出ることもできないというものです。階上に何があるのか人から言われても私たちは信じませんし、それを笑い飛ばし、迷信だのお伽噺だの寓話だのと呼ぶでしょう。
このシステムは新しい原理に基づいた世界についての研究と、人間についての研究に分けられます。世界の研究と人間の研究はそれらの中に特別な言語を含みます。私たちは通常の言葉を使うように試みますが、そしてそれは通常の会話で私たちが使う言葉と同じですが、わずかに異なったもっと厳格な意味をそれらに付与します。
世界の研究、宇宙の研究は基本的な法則の研究に基づくものですが、科学においては一般的に知られ、認知されているものではありません。二つの主要な法則は3の法則と7の法則ですが、これらは後で説明されるでしょう。それらに含まれて、しかもこの観点から必要であるのがスケール scale の原理です。これは通常の科学には入らず、また入ってもほんの少しです。
人間の研究は、人間の進化の観念に密接に結びついています。しかし人間の進化は通常の進化とはわずかに異なって理解されなくてはなりません。通常、進化という言葉は人間や他のものに適用されているわけですが、これは機械的な進化を前提としています。つまりある種の既知の、あるいは未知の法則によって、あることが別のことに変容し、これら別のことがまた他のことに変容し、以下同様に変容するということです。しかしこのシステムの観点から見ると、そうした進化はまったく存在しません。私は人間について一般的に言っているのではなく、特殊的に言っているのです。人間の進化は、もしそうしたものが起こるならば、ただひたすら知識 knowledge と努力 effort の結果なのです。通常のやり方で知り得ることだけを知るならば、彼にとってはいかなる進化もなく、またいかなる進化もなかったということです。
このシステムでは心理学の研究をもって真剣な研究が始まります。つまり自己の研究とともに始まるわけですが、それは天文学と違って自己自身の外で心理学が研究され得ることはないからです。
人間は彼自身を研究しなくてはならない、そのことを言われたとき、自己自身を研究する方法を何も持っていないということ、自己自身についてはすでに多くの間違った観念を持っているということが即座にわかりました。だから自己自身についての間違った観念を取り払い、同時に自己自身を研究する方法を発見しなくてはならないということを理解しました。
おそらくあなた方は心理学が意味するものを定義する難しさを理解しておられるでしょう。異なったシステムで同じ言葉にたくさんの意味が結びついているので、一般的な定義を持つことは困難です。そこで、私たちは心理学を 自己自身の研究と定義することから始めます。あなた方はある方法と原理を学ばなくてはなりません。これらの原理に従い、これらの方法を使うことで、あなた方は新しい観点から自分自身を見るように試みるでしょう。
もしも自己自身を研究し始めるならば、私たちはまず他のどの言葉よりもよく使っている言葉、すなわち「私」という言葉に直面します。「私はしている」「私は座っている」「私は感じる」「私は好む」「私は嫌う」などなどです。これは私たちの主たる幻想です。というのは自己自身について作り上げる主要な間違いがこの自己自身を一つのものと考えることだからです。私たちは自己自身についていつも「私」として話し、いつでも同じもののことを話しているのだと想定しているわけですが、そのとき実際は私たちは数百の異なった「私」に分けられているのです。「私」というとき、私の一部分が話しているわけですが、別のときに「私」と言うときにはまったく別の「私」が話しています。一つの「私」を持っているのではなく、多くの「私」を持っていて、それが感情や欲求に結びつけられているわけで、私たちはコントロールしている「私」なるものを持ってはいない、このことを私たちは知りません。これらの「私」はいつでも変化し、一つが別のものを抑圧し、別のものにとって代わり、そうした戦いが私たちの内的生活を作り上げているというわけです。
自己自身の中に見る「私」はいくつかのグループに分けられます。いくつかのグループは正当なる legitimate ものであり、人間についての正しい分割 divisions に属していますが、いくつかのグループはまったく人工的で、人が自己について持つ不十分な知識と想像的な観念によって作り出されます。
自己研究を始めるためには、自己観察の方法を研究する必要がありますが、これもまた私たちの機能の分割を理解することにもとづく必要があります。私たちがこの分割について持っている通常の考えはまったく誤ったものです。私たちは知的機能 intellectual function と情動的機能 emotional function との間にある区別を知っています。たとえば、事柄を議論するとき、それらについて考え、比較し、説明を作りだし、真の説明を発見するとき、これはすべて知的作業です。対して、愛、憎しみ、恐れ、疑いなどは情動的なものです。しかし自己を観察するときには極めてしばしば知的機能と情動的機能を混合させてしまいます。本当に感じているときにそれを考えていると呼んだり、考えているときにそれを感情と呼んだりします。しかし研究の途上で、私たちはそれらがどのように異なっているかを学ばなくてはなりません。たとえば、速度において大きな差違があります。しかしそのことについてはあとでもっと語ることにしましょう。
それから他に二つの機能がありまして、これは通常のどんな心理学システムも正しく区別せず、また理解していないものです。それは本能的機能 instinctive function と運動的機能 moving function です。本能的機能は有機体の内的作業についてのものです。食物を消化したり、心臓が拍動したり、息をしたりというのは本能的機能です。本能的機能にはまた通常の感覚、見ること、聞くこと、嗅ぐこと、味わうこと、触ること、寒暖の感覚のようなものが属していて、実際これですべてです。
外的な運動のうち、ただ単純な反射 reflex は本能的機能に属します。というのはより複雑な反射は運動機能に属しているからです。本能的機能と運動的機能を区別するのはとても簡単です。本能的機能については私たちは何も学ぶ必要はありません。本能的機能をすべて使う能力をもって私たちは生まれました。これに対して運動的機能は習得される必要があります。子供は歩くこと、書くこと、などなどを学びます。この二つの機能の間には大きな差違があります。運動的機能には生得的な inherent ものは何もありませんが、本能的機能は全部、生得的です。
そこで、自己観察においては、まずはじめにこれら四つの機能を分け、あなた方が観察するものをことごとくすぐに分類しなくてはなりません。つまり「これは知的機能だ」「これは情動的機能だ」というふうに。
もしあなた方が少しの間この観察を実践してみるならば、奇妙なことに気づくでしょう。たとえば、この観察で実際に難しいのはそれについて忘れるということです。あなた方は観察を始めるのですが、あなた方の情動が何かの思考と結びつき、そして自己観察について忘れてしまうのです。
さらにしばらく時がたって、もしあなた方が日常生活での方法とは違って使われるこの新しい機能である観察への努力を続けるならば、もう一つ興味深いことに気づくでしょう。それは一般的にあなた方は 自己自身を想起すること remember yourself をしていないということです。もしも常に自己自身に気づく be aware ことができるならば、あなた方はいつでも、あるいは好きなときに観察できるでしょう。しかし自己自身を想起することができないのですから、集中できないことになります。そしてだからこそあなた方は意志を持っていないと認めなくてはならなくなります。もし自己自身を想起できるのであれば、あなた方は意志を持ち、好むことをすることができるでしょう。ところが自己自身を想起できず、自己自身に気づくことができず、だから意志を持たないということになります。ときどきはほんの短い間意志を持つでしょうが、それは何か別のものに変わってしまい、それについては忘れてしまうのです。
私たちが自己の研究を始めるべきなのはこの状況、この存在状態からなのです。しかしやがて、あなた方が継続するならば、ほとんど自己研究の最初からあなた方自身の中にある正しくない事柄を正さなくてはならないのです。正しい場所にないものをきちんと配列 arrange しなくてはならないのです。システムはこのための説明を持っています。
私たちは意識の四つの状態の中で生きることができるように作られています。しかし私たちはその内たった二つのものしか使わないという状態にいます。一つは眠っているという状態です。もう一つは「起きている awake」と呼ぶ状態で、つまり、この今、話したり、聞いたり、読んだり、書いたりなどができるという状態です。意識の3番目の状態はとても奇妙なものです。もしそれが何であるかを説明しようとすれば、私たちはそれをもっていると考え始めます。3番目の状態は自己意識と呼ばれうるものです。そしてもし尋ねられれば、たいていの人々は「確かに私たちは意識している」と言うでしょう。私たちが意識していないという事実、ただ潜在的に意識的であれるという事実を本当に認知するためには、十分に時間をかけ、自己観察の努力を幾度も反復する必要があります。
私たちは尋ねられれば「ええ、私は存在しています」と言うでしょう。そしてその瞬間、私たちは存在しています。しかし次の瞬間には想起するのを止め、意識的ではなくなります。ですから、自己観察の過程で私たちは第3の意識状態には存在していないということを理解し、二つの状態の中でしか生きていないことを理解するのです。私たちは寝ているか起きている状態にいます。後者はシステムにおいては相対的意識 relative consciousnessと呼ばれます。第4の状態は客観的意識と呼ばれ、私たちには到達不能のものです。なぜならそこには自己意識を通ってのみ到達することができるからです。つまりまず自己自身を意識するようになることによって、ずっとあとになって私たちは意識の客観的状態になんとかたどり着けるかもしれないということです。
ですから、自己観察と同時に、「私はここにいる」という感覚をつかむことによって、私たちは自己自身を意識しようと努めるのであって、それ以上ではありません。そしてこれはすべての西洋心理学がいささかの例外もなく見損なってきたことです。そのことにとても接近した人は多くいますが、この事実の重要性を認識しませんでしたし、現在の人間の状態が変化しうるものだということを理解しませんでした。もし長い間試みるならば人は自己自身を想起できるということを理解しなかったのです。
これは一日や一ヶ月の問題ではありません。いかにして障害を除去するかというとても長い探求であり、私たちは自己自身を想起しないのですから、自己自身を意識することもなく、それは私たちの機械における間違った多くの機能の故にであり、これらの機能すべてが矯正され正される put right 必要があります。これらの機能がほぼ正されるならば、そのときには自己想起の期間がますます長くなり、そしてもしも十分に長くなれば、私たちは二つの新しい機能を獲得することになります。意識の三番目の状態である自己意識とともに、 高次情動的 higher emotional と呼ばれる機能を獲得します。とはいえこれも知性的であります。というのもこのレベルでは通常のレベルでのように知性的 intellectual と情動的 emotional との間に違いは何もないからです。そして私たちが客観的意識の状態に到ると、 高次心的 higher mental と呼ばれるもう一つの機能を獲得します。私が超常的心理学と呼ぶものの現象はこれら二つの機能に属しています。そのために、25年前これらの実験をしたとき、実験的作業は不可能であるという結論に達しました。なぜならそれは実験の問題ではなく、意識の状態を変えるということだからです。
いくつかの一般的考えをあなた方に示しました。さておわかりにならないところやもっとよく説明して欲しいと思うところを教えてください。私が言ったことに関して、あるいはあなた方自身の質問でもいいですから、なんでも問うてみようとしてください。そうすればもっと容易に始められるでしょう。
問い 意識の高い状態に達するためには自己自身に永続的に気づいていることが必要なのですか?
答え 私たちはそういうことはできません。ですから永続的に気づいているという問いは存在しないことになります。今は始まりについて語ることができるだけです。異なった機能を分けることに結びつけて私たちは自己自身を探求せねばなりません。しかも私たちは偶然に依存しているので、できるときに、つまり私たちが想起したときにです。
私たちが想起するとき、自己自身に気づくことを試みなくてはなりません。それができるすべてのことです。
問い あなたのおっしゃる本能的機能を意識できるようにならなくてはいけないのですか?
答え ただ感覚についてだけです。内的本能的作業は意識的である必要はありません。それはそれ自身で、知的機能から独立して意識しています。これを増大させる必要はありません。自己自身を見るときに意識するようにならなくてはいけないのは自己自身なのであって、内的機能ではありません。しばらくしてから意識するのが有益ないくつかの内的機能に気づくようになるかも知れませんが、今はそうではないです。ご承知のように、私たちはいかなる新しい感覚も獲得しません。生活から、人々から、あらゆるものから手に入れる通常の印象や事柄をよりうまく分類しているにすぎません。
問い 車を運転することのように、何かを学ぶとき、知的機能は運動機能に成すべきことを教えると言っていいのでしょうか? また熟練してくると、運動機能はそれ自体で作動すると言うことは正しいのでしょうか?
答え 全くその通りです。そのように多くのことを観察できます。まず知的機能によって学ぶわけです。
問い 私たちの身体的行為を観察することによって得られる知識はどれほど重要なのですか?これはたんに心を観察する訓練なのですか?
答え いいえ、それはとても重要です。私たちはたくさんのことをごちゃまぜにし、多くのことの原因を知りませんから。長い間つねに観察することでのみ原因を理解できるのです。
問い どうやって4つの機能のそれぞれに働きかけたらよいのか、教えて頂けませんか?
答え すべて説明されるでしょう。当面は、そして長い間、あなた方は観察することができるだけです。
問い 夜遅く寝るとき、次の晩は早く寝ようと決心し、また夜がくるとそうしないというようなとき、異なった「私」が働いているという例になるのでしょうか?
答え その通りです。ひとつの「私」は決心し、別の私はそれをしなくてはなりません。
問い 自己自身についてもっと意識しようと試みることについてはどうすればいいのでしょうか?
答え これは説明するのが簡単です。ですが達成するのはとても難しいです。まわり道というのは存在しません。良い状態は直接的努力によって達成されることができるのみです。ただもっと意識的であろうと試みること、できる限り「私は意識しているか否か」と自己自身に問うことによってです。
問い しかしあなたの方法が正しいという確かさにどうやって人は到達するのでしょうか?
答え 一つの観察を別のものと比較することによってです。そして私たちは出会うと語ります。人々は彼らの観察について話します。彼らはそれらを比較します。彼らが理解できないことを私は説明しようと試みます。私を助けてくれる他の人々がいます。そしてこういうふうに、人は通常のものごとについて確信するのですが、ちょうど芝生が緑であるのを知るようにしてです。
こうしたことすべては信仰とか信念の問題ではありません。まったく逆に、このシステムは絶対に何も信じないことを人々に教えるのです。ただそうしてこそ、あなた方は何かにたどり着くことができます。
同時に理解しなくてはならないのは、私たちの機械が完全には働いていないということです。間違った機能のために完全さからほど遠いので、自己探求のとても重要な部分がこの間違った機能に結びついていると言えるほどです。私たちはそれらを選り分けるためにそれらを知らなくてはなりません。とくに自己の中でしばしば気に入られている間違った機能の一つは想像です。このシステムでは想像は何かの主題についての意識的、知的思考を意味しませんし、何かの視覚化をも意味しません。ここで言われるのはいかなるコントロールもなく、いかなる結果ももたらさないような想像 imagination です。それは多くのエネルギーを必要とし、間違った方向に思考を変えてしまうのです。
問い 貴方が想像 imagination と言うとき、それは像を描くということではなく、何か本当であるようなものを意味しているのですか?
答え 想像というのはたくさんの面を持っています。たんに通常の白日夢であったり、たとえば、それ自体存在しない力を想像したりです。それは同じことです。コントロールなしに、それ自体で動き、働くのです。
問い それぞれが自己欺瞞 self-deception だということですか?
答え それを自己欺瞞とみなすことはしません。人は何かを想像し、それから信じ、それが想像であることを忘れるのです。
現在の眠りの状態、統一性 unity のなさ、機械性とコントロールの欠如にいる人間を研究すると、この状態から結果する別の間違ったいくつかの機能を発見します。とくに、自分自身や他人にいつでも嘘をついているということです。通常の人間の心理学は嘘の研究と呼ばれることすらできるでしょう。というのは、何よりもまず人は嘘をつくからです。実際のところ、彼は真実を語ることができません。真実を語るのはそれほど単純なことではありません。人はそれをどうやってやるか学ばねばなりません。そしてときに長い時間がかかります。
問い 嘘をつくということで何を意味しているのか説明して頂けませんか?
答え 嘘をつくとは、人が知らないことについて考えたり話したりすることです。これが嘘の始まりです。それは意図的に嘘をつくこと、たとえば他の部屋に熊がいるとかいうお話を作ることを意味しているのではないです。あなた方は他の部屋に行き、そこに熊などいないことを見ることができます。しかしもし与えられた主題に関して何も知ることなく人々が進める理論を全部集めてみれば、どこで嘘が始まるのかわかるでしょう。人は自分自身を知らない。彼は何もしらない、それでもあらゆることについて理論を持つことができるのです。それらの理論はたいてい嘘をついています。
問い 自分の現在の状態を知るために、私にとって知るのが良い真実を知りたいと思います。どうしたらそれが嘘であるかどうかを発見できるでしょう?
答え あなた方が知っているほとんどのことに対して、それを確かめる方法をあなた方は持っています。しかしまず自分が何を知ることができるのか、そしてできないのかということを知らねばなりません。それが確かめることを助けます。もしそうして始めるならば、やがて考えなくても嘘が聞こえてくるでしょう。嘘は異なった響きを持っています。とくに私たちが知らないことについての嘘は。
問い 想像についてですが、もし想像する代わりに思考しているならば、いつでもその努力に気づくことになるのですか。
答え ええ。あなた方はそれに気づくでしょう。努力というよりはコントロールと言えます。あなた方は物事をコントロールしていると感じるでしょう。
物事はそれ自体で進むことはないですから。
問い 「自己自身を想起する」と貴方が言うとき、自分自身を観察してから想起するということなのですか、それとも自分の中にあると知っているものごとを想起するということなのですか。
答え いいえ、観察からはまったく切り離してください。自己自身を想起するとは、自己自身を意識するということ、「私は在る
I am」ということです。ときどき、それはそれ自体でやってきます。とても奇妙な感覚です。それは機能ではないし、思考でもないし、感覚でもありません。それは意識の異なった状態なのです。それ自体でほんの少しの間やってきます。一般的にまったく新しい状況においてです。そして人は自分自身に言うのです、「なんて奇妙なんだ。私はここに在る。」と。これが自己−想起 self-remembering です。このときあなた方は自分自身を想起しているのです。
後になってこれらの瞬間を区別し始めるならば、もうひとつ面白い結論に到達するでしょう。子供時代から覚えていることは自己−想起の一瞥にすぎないということです。なぜなら、通常の瞬間について知っていることはすべて物事が起こったということだからです。あなた方はそこにいたことを知っています。けれども正確に何かを想起しているわけではないのです。しかしもしこのひらめき flash が生じるならば、この瞬間取り巻いているすべてをあなた方は想起するのです。
問い 人は観察によってあることを得られなかったと意識することができるでしょうか?あらゆることが可能であるという観点からものごとを観察することになるのですか?
答え 「あらゆること」というような言葉を使う必要はないと考えます。ただ思わずに without guessing 観察するのです。そして見えることだけを観察するのです。長い間、あなた方はただ観察しなくてはなりません。そして知的、情動的、本能的、運動的機能についてできることを発見するように試みてください。ここから次の結論に導かれます。すなわち、四つの明確な心をもっているということ、一つの心ではなく、四つの心をもっているということです。一つの心は知的機能をコントロールします。まったく別の違った心が情動的機能をコントロールします。そして3番目のものが本能的機能を、4番目のものがまたまったく別のもので、運動的機能をコントロールします。私たちはそれをセンター centres と呼びます。知的センター、情動的センター、運動的センター、本能的センターです。それらはまったく独立しています。それぞれのセンターには固有の記憶と、固有の想像と、そして固有の意志があります。
問い 対立する欲望 desire があった場合に、もし自己自身について十分な知識を持っているなら、それらの欲望を対立させないようにすることができると私は想定しているのですが?
答え 知識はそれだけでは十分ではありません。人は知ることができるが、それでも対立状態にいることができます。というのは、それぞれの欲望は異なった意志を代表する represent するからです。通常の意味で私たちが意志と呼んでいるものは、欲望の結果 resultant にすぎません。その結果はときに行為の明確な境界線に到達しますが、他のときにはいかなる明確な境界線にも到達せず、私たちは何をするべきか決定できないということになります。これが私たちの通常の状態です。確かに私たちの未来の目的は多くのものである代わりに、今そうであるように、ひとつにならなくてはなりません。というのは、何かを正しく行うためには、何かを正しく知るためには、どこかにたどり着くためには、私たちは一 one になる必要があるからです。それはとても遠い目的です。そして私たちは自己自身を知るまではそこにアプローチし始めるわけにはいかないのです。
なぜなら、私たちが今そうである状態では、自己自身に関する無知によって、その目的を見たときに恐れ始め、かくて私たちはどこにも道を見つけることはないでしょうから。
人間はとても複雑な機械です。そして機械として研究されねばなりません。自動車や鉄道機関のような、どんな機械であってもそれをコントロールするために、まず私たちは学ばなければなりません。これらの機械を本能的にコントロールすることはできません。ですが、しかじかの理由によって、たとえどれほど複雑であっても、人間機械をコントロールするには通常の本能で十分だと考えられています。これは最初の間違った仮定です。コントロールは知識と熟練の問題である、このことを私たちは学ばねばならないということを理解していないのです。
それでは、一番関心のあることについて、もっと聞きたいと思われることについて教えてください。
問い 私は想像の問いに興味があります。言葉の普通の用法ではこの言葉は間違った意味で使われていると、私は受け取ったのですが。
答え 想像の普通の意味ではもっとも大事なことが見逃されています。このシステムの用語法では私たちはもっとも重要なことから始めるのです。各機能にとって一番大事なことは、「それは私たちのコントロールのもとにあるのか、それともそうでないのか」ということです。ですから想像が私たちのコントロールのもとにあるときには、私たちはそれを想像とすら呼びません。私たちはそれを様々な名前で、たとえば視覚化とか創造的な思考とか創出的な思考とか呼びます。それぞれの特殊な場合に名前を見つけることができます。しかしそれがひとりでにやってくるとき、そして私たちをコントロールし、私たちがその力の中にあるときには、それを想像 imagination
と呼びます。
さらに普通の理解で見逃されている想像の別の面があります。それは私たちが実在しない事物を想像しているということです。たとえば実在しない能力です。私たちは自分が持っていない力を自分に帰したり、実際にはそうでないのに自己を意識しているというふうに自分を想像します。私たちは想像的な力と想像的な自己意識を持ち、実際にはたくさんの異なった「私」であるのに、一つであると自分を想像します。そんなふうにして自分や他の人について想像することはたくさんあります。たとえば、私たちは「できる」、選択している、他の選択はない、私たちは「でき」ない、物事はただ起こる、というふうに想像するわけです。
問い 想像と白昼夢との間に違いがありますか?
答え もしあなた方が白昼夢をコントロールできなければ、それは想像のうちにはいることを意味しています。しかしかならずしもすべてが想像からではありません。想像は多くの異なった面を持っています。私たちは実在しない状態、実在しない可能性、実在しない力を持っています。
問い 否定的想像 negative imagination について定義して頂けませんか。
答え 不快なことを想像すること、自己を責めさいなむこと、あなた方や他の人たちに起こるそういうすべてのことを想像することです。それには様々な形があるでしょう。
いろいろな病気を想像する人もいるでしょうし、事故を想像する人もいるでしょうし、不運なことを想像する人もいるでしょう。
問い 情動 emotions をコントロールすることは根拠のある客観的なことなのですか?
答え 情動のコントロールはとても難しいことです。それは自己探求のとても重要な部分です。しかし私たちは情動のコントロールから始めることはできないのです。というのは情動についてよくわかっていないからです。
説明しましょう。情動的機能を観察する手始めとしてできることは、私たち自身の中の個別の現れ manifestation を止めようとすることです。不快な情動の現れを止めようと試みなくてはなりません。多くの人にとって、これは最も難しいことの一つです。というのも不快な情動は素早く、かつたやすく表現されるので、それらを捕まえることができないからです。しかしそれでも試みない限り、あなた方は自己自身を真に観察することはできません。ですから、最初の最初から不快な情動の表現を止めようと試みなくてはならないのです。これが最初のステップです。このシステムでは、これらの不快で暴力的で気を滅入らせる情動を否定的情動という名で呼びます。
すでに申しましたように、最初のステップはこれら否定的な情動を 表現しないということです。次のステップは否定的情動自体の研究です。それらのリストを作ったり、それらの間の結合を見つけることです。結合と言うのも否定的情動には単純なものもあれば複合されたものもあるからです。そしてそれら否定的情動が全く無益なものであることを理解するよう試みるということです。それは奇妙に聞こえます。ところが、否定的情動はみな絶対に無益なものであることを理解するのはとても重要なことです。それらはどんな有益な目的にも訳に立ちません。それらは新しいことに親しませてくれたりしませんし、新しいことに近づかせてくれることもありません。私たちにエネルギーを与えてくれないのです。ただエネルギーを使い果たし、不快な幻想を作り出すだけです。それらは身体的な健康すら破壊します。
三つ目に、ある程度研究と観察が積み上がりますと、否定的情動を私たちは取り除くことが可能であり、それらは強制的な obligatory ものではないという結論にたどり着きます。ここでシステムが助けてくれます。というのは否定的情動にはいかなる現実的センターも存在しないということを示してくれるからです。それらは私たちの人工的センターに属しているということ、その人工的センターは私たちを取り囲む否定的情動を持った人たちを子供のときから真似することによって作られたのだということを教えてくれるからです。人々は子供たちに否定的情動を表現することを教えることすらします。そこで子供たちは真似することでさらに学びます。年長の子供を真似たり、年長の子供は大人をまねたり、そんなふうにしてとても若い年代で、彼らは否定的情動の教授になってしまうのです。
いかなる強制的な否定的情動も存在しないことを理解し始めるのは偉大な解放です。私たちはそれらなしで生まれました。ところがなんらかの知られざる理由によって自分自身に否定的情動を教えているわけです。
問い 否定的情動から自由になるためには、それらが起こるのを止めることができなくてはならないのでしょうか?
答え それは違います。というのも私たちは情動をコントロールできないからです。異なった機能には異なったスピードがあることはお話ししました。最も遅いのが知的機能です。次に運動的機能、本能的機能となります。これらはほぼ同じスピードですが、知的機能よりもはるかに素早いものです。情動的機能はそれらよりもさらに速いですが、一般的には本能的機能と同じぐらいのスピードで作動します。
ですから運動、本能、情動的機能は思考よりもとても速いのです。そして思考で情動を捉えることは不可能です。私たちが情動的状態にあるときには、情動はあまりに速く次から次へと連続しますから考える時間がありません。しかし思考機能 thinking functions と運動機能を比較することで私たちは速さの違いについての一つの考えを手に入れることができます。もしも何かしら素早い動きをしていながら自己を観察しようと試みるならば、それができないことがわかるでしょう。思考は運動にはついていきません。とてもゆっくり運動を行うか、あるいは観察することができないかです。これは決定的な事実です。
問い 運動ということで、あなたは物理的な運動のことを言っているのですか?
答え そうです。車を運転したり、書き物をしたりという普通のことです。そうしたものを観察することはできません。想起することはできます。後になって観察したという幻想を作り出すわけです。実際には素早い運動を観察することはできません。
ですから、おわかりでしょうが、否定的情動と本当に戦うのは未来の問題です。それほど遠い未来のことではないですが、最初に知らなくてはならないことがたくさんあり、研究しなければならない方法があります。直接的な方法はありません。どうやって否定的情動に向かっていくかという回り道の方法を学ばなくてはなりません。
まず第一に、私たちは多くの心的態度を変化させなくてはなりません。それらは多かれ少なかれ私たちの力の中にあります。私は知的態度のことを、あるいはものの見方のことを言っているのです。否定的情動について私たちはあまりにも多くの間違ったものの見方をしています。私たちはそれらを必要で、美しく、高貴なものだと思って、褒め称えることなどもします。これらを全部取り除かなくてはなりません。ですから否定的情動については心を掃除する必要があるわけです。私たちの心が正しく否定的情動に関係するときに、それらを褒め称えることを止めるときに、少しずつ、個々別々に否定的情動と戦う方法を見つけるのです。ある人はある否定的情動と戦うことがもっと簡単だと思い、別の人は別の否定的情動と戦うことがもっと簡単だと思います。あなた方はもっとも容易なものから始めなくてはなりません。私にとって一番容易なものはあなた方にとって一番難しいものかも知れません。ですから自分自身にとって一番簡単なものを見つけるべきです。そして後になってもっと難しいものに向かえばいいわけです。
問い 私自身の否定的情動を、幼年期の思い出にある人々に結びつける理由は、それで説明できるのでしょうか?
答え まったくその通りです。多くの否定的情動は模倣によって学ばれるからです。しかし私たちの本性に本質的なものもあります。私たちの本性もまたなにがしか異なった傾向性をいろいろ持っています。情動はグループに分けられます。ある人はある傾向を持ち、別の人は別の傾向を持つかも知れません。たとえばある人は違った恐れの形態への傾向を持ち、別の人は怒りの違った形態への傾向を持つとうふうに。しかしそれらは異なっており、模倣から来るのではありません。
問い 否定的情動と戦うのは一番難しいのですか?
答え そうです。しかしそれらはある種の弱さにもとづいています。なぜなら否定的情動の根底には一般的にある種の自己−耽溺 self-indulgence があるからです。自分自身を許す allow ということです。ある人が恐れを自分に許さなくても、ある人は怒りを自分に許します。ある人が怒りを自分に許さなくても、ある人は自己憐憫 self-pity を自分に許します。否定的情動はいつでもある種の許可 permission を基礎にしているのです。
しかし否定的情動と戦うというような複雑な問題にとりかかる前に、運動機能についての些細で日常的な現れの中で自己観察するのはとても重要です。
それから本能的機能について観察することもそうです。これはつまり快や不快、寒暖の感覚のように、私たちをいつも通り過ぎていくものです。
問い あなたはまだ同一化について話されていませんが、それについて質問してもよろしいでしょうか?
答え どうぞ。けれどもここにいるみなさんがそれについて聞いているわけではありません。ですから少し説明しましょう。ご存じのように、私たちがとくに情動を観察し始めると、実際には他の全ての機能についてもまた観察することになるわけですが、その私たちの機能全部が特別の態度に伴われていることがわかります。私たちは物事に没頭しすぎるようになります。とくにわずかでも情動的な要素が現れると物事の中で我を忘れてしまいます。これが同一化 identification と呼ばれるものです。私たちは物事に同一化します。それはあまりよい言葉ではありません。しかし英語ではそれ以上の言葉がありません。同一化の考えはインド人たちの書いたものの中にあります。仏教徒たちは執着 attachment や非執着 non-attachment について話しています。これらの言葉はあまり満足のいくものではないと思います。というのはこのシステムに出会う前、私はこれらの言葉を読んでいたわけですが、しかし理解していませんでした。あるいはむしろ理解していたのですが、この考えを知的に受け取っていました。私がこの考えを完璧に理解したのは、同じ考えが初期のキリスト教徒たちによってロシア語やギリシャ語で表現されていたのを見つけたときです。彼らは同一化の四つの段階に対応する四つの言葉を持っていました。が、私たちにとってはまだ必要ではありません。私たちはこの考えを定義によってではなく、観察によって理解しようと試みます。それはある性質の執着 --- 物事の中に我を忘れる being lost in things というものです。
問い 観察の意味を失うということですか? You lose your sense of observation ?
答え 同一化し始めると、観察ができないのです。
問い それはだいたい情動から始まるのでしょうか?所有性というのもそこに入ってきますか?
答え ええ。多くのことがやってきます。それはまず関心から始まります。あなた方は何かに関心を持ちます。そして次の瞬間、その中に入っています。それからもはや存在しないのです。
問い しかしもし貴方が考えていたり、考える努力を意識している場合には、同一化から守ってくれるのではないでしょうか?一度に両方をすることはできないのではないでしょうか?
答え そうです。ほんの少しの間は守ってくれますね。しかし次の瞬間に別の思考がやってきて、あなた方を連れ去ってしまうのです。だから保証はないわけです。あなた方はそれに対していつも目を見張っていなくてはなりません。
問い どんな否定的情動を褒め称えることになりがちなのでしょう?
答え 興奮したり、いらいらしたり、そんなことに誇りを持っている人たちがいます。彼らはとても気むずかしいと思われたがっています。実際には楽しめるような否定的情動などありません。これは理解するのが一番難しいことです。実に全ての快楽を否定的情動から得ている人たちもいるのです。
人々との関係における同一化は特別な形を取り、それはこのシステムでは考慮 considering と呼ばれています。しかし考慮には二種類あります。私たちが他者のフィーリングを考慮するときのもの、そして自分自身のフィーリングを考慮するときのものです。私たちは主に自分自身のフィーリングを考慮しています。人々が自分を十分に評価してくれないとか、十分に考えてくれないとか、気遣ってくれないとかいう意味で、たいていは自分自身を考慮するわけです。
これについてはたくさん言葉を見つけることができます。これは同一化のとても重要な面です。そしてそれから自由になるのはとても難しい。完全にその力の中に在る人もいます。いずれにせよ、考慮を観察するのは重要なことです。
個人的に私にとって一番興味のある考えは自己−想起でした。どうやって人々がこうしたことを見逃すのか、単純に理解できなかったです。ヨーロッパの哲学と心理学は全部この点を見逃しています。もっと古い教えには痕跡があります。しかしそれらはうまく偽装されていて、重要でない事柄の中に置かれていたので、この考えの重要性を見ることができないのです。
これらのことすべてを心にとどめ、自分たち自身を観察するように努めるならば、とても明確な結論にたどり着きます。この同一化、考慮、否定的情動を伴って私たちが存在する意識の状態では、私たちは実際に眠っているということです。起きていると想像しているにすぎません。だからもし自分を想起しようと試みるならば、それはたった一つのことを意味します。つまり起きるということです。そして私たちはほんの一瞬覚醒します。ですが、そのとき機械の中の多くのことを正してのみ、そして長い間この覚醒という着想にもとづき一貫してワークをすることによってのみ、私たちは起きることができるのです。
問い ひどい身体的苦痛は人の精神的な考えをねじ曲げるのですか?
答え もちろんです。だから私たちはそれについて語ることができません。私たちが人間について話すときは、通常の状態にいる人間について話します。それからこれらの新しい機能、意識などなどを獲得することについて話すことができます。例外的な場合は入りません。というのも全体的な像をねじ曲げてしまうからです。
そのことと結びついている興味深いことがたくさんあります。私がモスクワで会ったグループは東洋的なメタファーや寓話を使っていました。彼らが好んで話したことの一つが監獄についてのものでした。つまり人間は監獄にいるのだということです。ゆえに彼が望みうるもの、欲することのできるものは何か?多少なりとも分別のある人間であれば、彼はたった一つのことしか望まないはずです。つまり逃げ出すことです。しかしこの欲求をちゃんと明確にする前に、脱出したいと望む前に、自分が監獄にいることに気づかなくてはなりません。もし自分が監獄にいることを理解しないのであれば、彼は脱出しようなどとは思いません。そういうわけで、彼がこの望みを明確にするときに、彼は脱出する可能性を理解しはじめるのであり、また自分では脱出できないことを理解するのです。なぜなら壁を掘ったり、そのようなことが必要だからです。まず彼は一緒に脱出することを望む人々、小さなグループと知り合いになる必要があります。そこで何人かの人々がおそらく脱出できるということを理解します。しかしすべての人ができるというわけではありません。できる人はいるがすべての人ではない。しかし少数の人たちはできる。さらに、どういう状況でかを考えなくてはなりません。彼は助けが必要なことを結論するに至ります。助けなしでは脱出することはできません。彼らは地図を持ち、情報を持ち、道具を持っています。
これが正確には、ほとんど字義通り、人間の状況なのです。私たちは自分の機械の使われていない部分を使うことを学びます。
この監獄が意味するのは、私たちが家の台所や地下室にいて、外に出られないということです。出られる人もいます。しかし自分一人でではありません。スクールなしではできません。スクールが意味するのは、すでに脱出している人たちがいるということです。あるいはともかく脱出を準備している人たちがいるということです。別のスクールの助けなしでは、すでに脱出した人の助けなしではスクールは始めることができません。彼らから私たちは或る思想を手に入れ、或る計画を、或る知識を手に入れ、これらが私たちの道具となるのです。繰り返しますが、すべての人が脱出できるわけではありません。それに反するたくさんの法則があります。これはあまりに重要なことなので単純に言うことはできませんし、機械的な力 forces からの反応を即座に引き起こすでしょう。
問い 脱出の意志は本能的なものなのでしょう?
答え いいえ。ただ有機体の内的作業のみが本能的なものです。それは知的、情動的であらねばなりません。というのは本能的機能は真実に下位のもの、物理的機能に属しているからです。それでもある状況では脱出する物理的意志がありえます。暑すぎる部屋にいて、外が涼しいことを知っている場合を考えてみてください。確かに私たちは脱出することを望むでしょう。しかし私たちが監獄にいること、そして脱出が可能であることを理解するには理性 reason と感情 feeling が必要なのです。
問い 多大な自己−観察なくしては、脱出におけるあなたの目標が何であるか what your objective is in escaping を知ることは困難に思えます。
答え 確かにそうです。監獄は例にすぎません。私たちにとって監獄とは眠りです。メタファーなしに言えば、私たちは眠っていることを理解したとき覚醒したいと思うのです。それは情動的に理解されねばなりません。眠りの中では助けがないということを理解しなくてはなりません。なんでも起こりうるのです。私たちは生の像 pictures of life を見ることができます。大変なことであれ、些細なことであれ、物事がしかじかの有様で起こる理由を見ることができます。そしてそれがそうなるのも人々が眠っているからだということを理解できます。当然、人々は眠りの中では何もすることができません。
これらの考えと方法に関連して言えば、私たちはある意味でかなり奇妙な時の中に生きています。というのはスクールは急速に消滅しているからです。3,40年前ならいろいろなスクールを見つけることができたはずです。それらは今では実際に存在していませんし、あるいは見つけるのがきわめて困難です。
問い 西洋と同じように東洋でもなくなっているのですか?
答え もちろん東洋のことを言っているのです。西洋ではずっと前に存在しなくなってます。しかしスクールについては別に話した方がいいと思います。それはとても興味深いことです。どうやって正しい区分 divisions をしたらいいのか私たちは知らないからです。様々な種類のスクールがあるのです。
問い まず観察しようとするとき、短い集中 occupatiaons をたくさん行うのがよいのですか?長く没頭するよりも?この二つに何か違いはありますか?
答え いいえ。様々な条件で自己を観察しようとしなくてはなりません。同じ条件でだけというのではありません。
問い それでは後から分析するのがよいのでしょうか?
答え いいえ。一般的に言えば、やり始めとそれに続く長い期間どんな分析もあってはなりません。
分析するためには法則を知らなくてはなりません。つまりどうして物事がある仕方で起こり、別の仕方では起こらないのかという法則です。ですから法則を知る前では分析しようとしないほうがいいです。ただ物事がある通りに観察し、それらを知的、情動的、本能的、運動的機能に分類するのです。これらの機能はそれぞれ固有のセンターを持ち、それが顕れる心を持っています。
諸機能や意識状態と関連して、そして可能な進化の観点からして、人は7つのカテゴリーに分けられます。人々は最初の三つのカテゴリーの内の一つのみに生まれてきます。本能的あるいは運動的機能が支配的である人間は人間第1と呼ばれています。もし情動的機能が他の機能を支配しているならば、人間第2と呼ばれます。そしてもし知的機能が支配的であるなら人間第3です。これら三つの種類の人間を越えたところに、そうしたものとして生まれてくるわけではないのですが、人間第4がいます。これは変化の始まりを意味します。おもに意識においてでありますが、また知識において、観察能力においてでもあります。次に人間第5が来ます。第三の意識状態、つまり自己意識を自己のうちにすでに発達させた人間です。その内では高次情動機能が作動しています。次に人間第6がいます。そして最後に人間第7です。これは完全なる客観意識を持ち、その内では高次知的機能が作動しています。
問い 何を探すべきか私たちが知らないときに、どうやってもっと高い人間を認知することができるのでしょう?
答え 私たちのうちに欠落しているもの、私たちが所有してはいないが自分たちに帰しているものが何であるかをよりよく知れば、私たちはそれについて観ることを始めるでしょう。もっとも実際には高次レベルの人間を彼らの知識によって見分けることができるのですが。もし私たちの知らないことを彼らが知っているならば、もしそれを誰も知らないということを私たちが理解するならば、そして他の通常のやり方ではそれは知られ得ないということを私たちが理解するならば、そのことは導きとして役に立ちます。
これら7つの人間カテゴリーの特性について考えてみましょう。たとえば、人間第1、第2、第3の一般的特性は何でありうるか。まず眠りです。自己−探求の可能性を与えてくれたなんらかのシステムと関係しつつ、人間第1、第2、第3が自己を研究し始めるまえに、彼らは生涯を眠りのうちに過ごします。まるで起きているかのように見えるだけです。本当は起きていないのです。あるいは少しの間たまたま起きているだけです。ぐるっと見回し、また寝てしまうのです。これが人間第1、第2、第3の最初の特性です。二番目の特性は、多くの異なった「私」を持っているが、これら「私」のいくつかはお互いに知ることもないという事実です。全く明確な態度、確信、見解を持ちますが、他方全く異なった確信、見解、好み、嫌悪を持つことがあります。そしてその内のあるものは別のものを知らないということになります。これは人間第1、第2、第3の主な特性です。人間はかなり分割されたものです。そしてそのことを知らず、知り得ません。なぜならこれらの「私」それぞれはただ連合 association によって出くわした特定の「私」しか知らないからです。他の「私」たちはまったく未知のままです。「私」たちは機能に従って分割されます。すなわち知的、情動的、本能的、運動的「私」たちがいるのです。
それら自身についてそれらは何かを知っています。けれどもそのこと以上のことは知らないのです。だからこの分割の知識をもって己を研究し始めるまで、機能や反応について正しい理解に至ることは決してできません。
人間のこの眠り、自己のうちなる統一の欠如が、もう一つかなり重要な特性を作りだします。これは人間の完全な機械性です。この状態にいる人間、人間第1、第2、第3は外的影響にコントロールされた機械です。外的影響に抵抗する可能性を持っていないのです。そしてそれらの影響を区別するいかなる可能性も、これらのことから分けて自分を研究するいかなる可能性も持っていません。いつでも自己を動いているときに
on the move 観ることになります。そして、行きたいところに行く自由を持っている、望みに従って動ける、右や左に行くことができるという長く確立され、非常に強い幻想を持つことになります。「意志」はまったく間違った観念です。それは存在しません。意志は一つのコントロールする「私」を持った人間の内においてのみ存在できます。しかしお互い知ることもない多くの異なった「私」たちを持つ限り、ただ同じように多くの意志を持つにすぎません。それぞれの「私」は固有の意志を持っています。他の「私」や他の意志は存在できません。しかし一つのコントロールする「私」を獲得し、意志を獲得する状態に至ることはできます。そういう状態に到達することができるのは、ただ意識を発達させることによってのみです。これらがこのシステムの原理の基本です。
さて、もう一つ述べておきたいことがあります。私たちは心理学から始めます。それは自己自身の研究、人間機械の、意識状態の研究、物事を正す方法などです。しかし同時に世界に関する一般的法則の教義に、一つの重要なシステムの部分が与えられます。なぜなら私たちはもし物事すべての背後にある基本的な法則を知らなければ、自分自身についてすら理解できないからです。通常、このことにとって科学的知識は不十分です。まさに自己−想起の欠落という重要なポイントが心理学で見逃されているように、私たちの科学はすべてのことが基づいている基本法則を忘れるか、全く知らないでいます。
すでに述べたように、世界のすべてのことは、ことの大小を問わず、あらゆるスケールで二つの基本法則に基づいているのです。それはこのシステムでは3の法則と7の法則と呼ばれます。手短に説明すると、3の法則とはあらゆる顕れに入り込む三つの力を意味します。それらは(しかしこれらはたんに言葉に過ぎません。それらの言葉はそれらの質を表現しないのですから)積極的、消極的、中性化的、あるいは能動的、受動的、中性化的と呼ばれ、あるいはさらに単純に第一の力、第二の力、第三の力と呼ばれることができます。これら三つの力はあらゆるものに入り込みます。多くの場合、私たちは二つの力の必要性を理解します。或る力は行為を創造できないとか、行為があれば抵抗があるとか。しかし一般的に私たちは三番目の力に気づきません。このことは私たちの存在状態、意識状態に結びついています。別の状態では、私たちはそれに気づくかもしれませんが、多くの場合それを見ないでいます。
科学的研究ではときどきこの第三の力の実例を発見できます。たとえば、化学や生物学では出来事や現象の創出に第三の力の必然性を見つけることができます。
私たちは心理学から始めます。あとになって、三つの力についてもっとお話することにしましょう。そしてそれらの相互作用の例を見つけるかも知れません。しかし今は、これら三つの力の観念に慣れ、準備しておくというので良いことにします。
7の法則もまた手短に説明しなくてはなりません。これは世界の中の過程は中断なしには進行しない、ということを意味します。この考えを例証するために、振動が増大する活動の周期を取りあげてみましょう。一秒間に1000の振動から始まり一秒間に2000の振動まで増大するということを考えてみてください。この周期はオクターブと呼ばれます。なぜならこの法則は音楽に当てはまり、その周期は7つの音に区分され、最初の音が反復されるからです。オクターブは、とりわけ主オクターブは宇宙法則の像
picture ないし定式です。宇宙の組成では、一つのオクターブの中に振動がそれ自身で減衰する二つの瞬間があります。振動は規則的には発展しません。主オクターブでは欠落した二つの半音で示されます。これを宇宙法則の像と呼ぶ所以です。しかしこの法則は音楽とは何の関係もありません。
7の法則を理解する必要性はそれがすべての出来事のとても重要な部分を成しているということにあります。もしも7の法則がなければ世界のすべてのことは最終の結末に至るでしょう。しかしこの法則のおかげですべてはそれを免れるのです。たとえば雨が降り始めると止むことなく、氾濫が始まればすべてを覆い尽くし、地震が始まれば際限なく続くでしょう。しかしそれらは7の法則のおかげで止まります。あらゆる欠けた半音の時点で物事は逸脱し、直線的には進まないからです。私たちの生と機械のあらゆる事柄もまたこの法則に基づいています。ですから私たちの有機体の働きの中でそれを研究するのです。なぜなら私たちは心理学的にばかりでなく、心的生活に関連してばかりでなく、物理的な生活にも関連して自己自身を探求しなくてはならないからです。私たちの物理的な過程において、この法則が働いている多くの事例を見つけるのです。
また、7の法則は、方法と時間を知っているならば、オクターブに付加的ショックを与え、きちんとさせることができるということを説明します。人が物事をやり始める方法と、しばらくして全く違ったことをやる方法を、私たちは人間行動の中に観察するわけですが、物事が完全に変化したのに気づかず、最初の名前によってそれを呼ぶことがあります。しかし個人的なワークでは、とくにこのシステムと結びついているワークにおいては、いかにしてこれらのオクターブを逸脱から守り、まっすぐに保つかを学ばなくてはなりません。そうでなければ私たちは何も発見しないでしょう。
このシステムの他の面を研究するときですら、私たちは心理学に戻り続けなければなりません。というのは、ただに心理学的研究の助けがあってのみ、私たちの知識を増大させることになるからです。それなしでは、私たちは言葉を学び続けるだけです。私たちの心や認知の作業に関連させて、自分で心理学的に研究するやり方を知っているときにだけ、何かを理解し始めることができます。
いかにして自己−研究が始まるべきか、その例をいくつか挙げてみることにしましょう。私たちはすでに嘘をつくことについて語りました。そして「嘘をつくことの研究」として心理学の可能な定義を与えました。だからあなた方にとって最初のもっとも重要なことは嘘を観察することです。嘘をつくことにかなり近いのは幻想です。私たちはそれでもって自分をだまします。また間違った考え、確信、見解などなどです。これらすべては研究されなければなりません。というのは自分の幻覚を理解し始めるまでは真理を見ることが決してできないからです。あらゆることにおいて、私たちはまず事実から自分たちの幻覚を理解しなければなりません。そのときを経てのみ。私たちが何か新しいことを本当に学ぶことができるのかどうかを見ることが可能となります。
もっとも重要な、そして最も打ち勝ち難い幻想とは、私たちは「する」ことができるという確信なのです。このことが何を意味しているのか理解しようとしてください。私たちは望むものを計画し、決定し、達成できると思っています。しかしシステムの説明によれば、人間第1、第2、第3は「する」ことができません。何もすることはできません。すべてはただ起こるのです。それは奇妙に聞こえます。とくに皆が自分は何かすることができると考えている現在ではです。しかし、私たちが人間についての語りで慣れ親しんできたことが、一般には高次の人間についてのみ真理であること、通常の私たちの低いレベルについては当てはまらないことを、あなた方は少しずつ理解するでしょう。人間は「する」ことができる、と言うならば、それは人間第7とか第6については正しいということです。人間第5ですら、私たちと比べれば、何かをすることができます。しかし私たちは何もすることはできません。また、人は意識を持つと自分たちは思っている、とあなた方は言うかも知れません。人間第5から始めて、そのことは第5、第6、第7に関係しては正しいでしょう。そしてもし人は意識を持っていると言うならば、それは人間第4に関しては正しいでしょう。しかし人間第1、第2、第3に関してはそうではありません。私たちは人間のどのカテゴリーに物事が関係しているのかを区別することを学ぶ必要があります。なぜなら、或る事柄は或るカテゴリーに関連しては正しいけれども、別のカテゴリーに関連しては間違いとなるからです。
人は「する」ことができないということを理解するのはとても重要なことです。これが私たち自身の観点のベースとなるからです。そして自分たち自身に絶望するようになるときでさえ、私たちは他の人間は「する」ことができると考えるからです。物事は機械的に起こるということ、誰もそれらを押し動かす give a push ことはできないということを、私たちは完全にかつ十分に受け入れることはできません。まず、これは大きなスケールでは見ることが難しいです。しかしやがてあなた方自身のうちにそのことを見るでしょう。自己を観察することにおいて、もしあなた方が一般にはしないような或ることをしようとするならば、たとえば、もし自己自身を想起しようとするならば、もし自己自身に気づこうとするならば、すぐにも自分たちが何かを「する」ことができるのか否かがわかるでしょう。そして、たいていの場合、あなた方はそれができない、ということを発見するわけです。
問い 人間第1、第2、第3としての自己自身でもっては何もすることができないのだとすれば、気づきたいときには何か外側の作用 outside agency に訴えなくてはならないのでしょうか?
答え 私たちが訴える外側の作用などありません。なぜなら私たちは機械的だからです。私たちは何もできません。しかしすることにはいくつかの違いがあり、自己−観察はその違いを示してくれます。たとえば私たちは抵抗といったものを示すことができます。何らかの望みとか、傾向とかを持つかもしれませんが、私たちはそれに対する抵抗を示すことができますし、毎日抵抗し続けることができます。全く些細なものごとにおいて私たちは選択します。だから、引用符つきの「する」ことはできなくとも、今私たちがすることができる些細なことはたくさんあるわけです。たとえば私たちは自己自身に気づこうと試みることはできます。確かに、長い間、それはできません。しかし私たちは試みるのか試みないのか?これが問題です。これらの異なった私たちの行為を観察することにおいて、一般原理として、人間第1、第2、第3は何も「する」ことはできないけれども、もし何かに興味を持ち、普通のこと以上のものを望み始めるならば、そのとき、人は必ずしも同じレベルにあるということではなくなり、とても基本的な意味において、することを始める瞬間 moment を選ぶことができるのです。
もう一つ私たちが考えなくてはならないとても重要なことがあります。それはこのシステムにおける善と悪の考えです。というのは一般には人々の考え方はこの主題についてとても混乱していますし、いかにして理解するかということを自分で確立することが必要だからです。このシステムの見方からすれば、人間において比較したり見てとったりすることができるものごとは二つだけです。すなわち機械的法則の顕れであるか、意識の顕れであるかの二つだけです。もしもあなた方が善とか悪と呼びうるものの例を見つけて、何か標準的なものにたどり着こうと思ったならば、私たちが悪と呼びうるものはいつでも機械的であること、決して意識的ではあり得ないということ、善と呼びうるものは意識的であり機械的ではあり得ないということをただちに見て取るでしょう。その理由を理解するには長い時間がかかるでしょう。というのは、機械的、意識的という観念が私たちの心では混ざり合っているからです。私たちは正しいやり方でそれらを記述することができません。あなた方が次に理解し、探求しなくてはならないのはこの点です。
さらには、善と悪の問いに関連して、道徳性と意識の相関について理解を試みなければなりません。道徳性とは何か?意識とは何か?まず最初に、道徳性とは一貫したものではないと言えます。それは国が違えば異なっていますし、100年単位で、10年単位で、また階層によって、受けた教育などによって、さまざまに異なります。コーカサスにおける道徳はヨーロッパでは非道徳であるかもしれません。たとえば、ある国では血の復讐はもっとも道徳的なことです。もし人が遠縁の叔父を殺した者を殺すことを拒むならば、その人は最も非道徳と思われてしまいます。しかしヨーロッパでは誰もそういう風には考えません。実際のところたいていは、たとえ彼の叔父を殺した者の親戚であっても、その者を殺せばとても非道徳と思われてしまいます。だから道徳性はいつでも異なっており、いつも変化します。しかし意識は決して変化しません。意識は、ある明確な関係において、一般には行動や人間などに関連して、真理を情動的に理解することと言えます。これはいつでも同じです。変化できませんし、民族によって異なることもあり得ませんし、国によっても、人によっても異なることはあり得ません。
あなた方の心の中で、善と悪について私が言ったこと、機械性と意識性、道徳性と意識を結びつけようとしてください。そして問いを一つしてみてください。「意識は悪であり得るか?」
これに答えるには探求と観察が要求されますが、しかしこのシステムの観点からすれば、意識は悪であることはあり得ない、機械性は無意識であらねばならない、という明確な原理が存在します。
問い 悪はいつでも無意識であるという考えは理解するのがかなり難しいです。もう少し説明してくれませんか?
答え まずはじめに定義によってではなく、例示によって自分で悪と呼びうるものを見つけようとしてくださいと、私は言いました。例をある程度集めて、自分に問いかけるのです。それらは意識的であり得るか、と。悪なるものごとは意識的になされ得るのだろうか、と。後に、それらがただ無意識的に起こっているのだということがわかるでしょう。もう一つの答えを言います。あなた方が悪と呼びうるものは機械的に起こり得ます。そしてそれはいつでも機械的に起こります。ですからそれには意識が必要ではありません。
このシステムの考えは主に人間の進化と結びつけて探求するべきであると言いました。そして進化によって、意識過程、意識の努力を、継続的結合的に理解するべきであることを説明しました。ときどき理解されているような機械的進化というのは存在しません。進化とは、もしそれが可能ならば、ただ意識的であることによってのみであり、進化の始まりはいつでも意識の進化であり、他の何ものの進化でもありません。もしも意識が進化し始めたならば、他の事柄は成長し、進化します。もしも意識が同じレベルにとどまるならば、他のことは全部同じレベルにとどまります。
進化について、最初の最初から理解すべき重要なことがあります。まず第一に、1番、2番、3番の膨大な人間の中から、稀有の人たちだけが4番、5番、6番、7番になることができます。つまりは、まさにそこから始まるのです。そのことは、よく理解されなければなりません。というのは、誰もが進化できると考え始めるならば、進化の開始の必要条件についての理解を止めることになる。ちょうど、脱獄の例であなた方に話したように。
問い すべての人種に、同じような発達の可能性があるのですか?
答え それは、面白い質問です。私がはじめてこの仕事に着手した時、この問いを自身に問いかけましたが、その問いがまさに重要な時期に、まさに重要なスクールにおいて、討議されてきたものであるということを私は明かされました。そして、彼らは、このことに関し、可能な限りの実験を行った後で、起こりうる発達という観点からは、白色人種、黄色人種、黒色人種、褐色人種、赤色人種の間に違いなどないという結論に至りました。現在は白色人種と黄色人種が優勢ですが、過去においては、他の人種のどれかが優勢だったかもしれません。例えば、スフィンクスはヨーロッパ人ではなく、黒人を想起させるものです。
問い 善悪について、あなたが話したことに関してですが、このシステムの支持者は戦争に参加することがあり得るのでしょうか?
答え それは、その人次第です。外的な制約や条件などはありません。
問い しかし、その人は2つ[善悪]を調和できるものなのでしょうか?
答え それもまたその人次第です。この特殊なシステムは、人をとても自由なままに放っておきます。その人は意識と意志を創造することを欲します。意識も自由も、或る外的な制約に従うことでは創造されることはありません。人は自由でなければならない。
外的な事など、全くとるにたらないことだということを理解すべきです。重要なのは、内的な事、内的戦争なのです。
問い 私には、自分が犯しかねない悪というものがたくさんあるように思えます。
答え あなた方は、自身を捕まえることはできません。なぜならば、あなた方は、自分がすでに犯した悪事の実例を捕まえるだけだろうからです。ですから、一般的な観念を捕まえた方が良いのです。可能な限りの実例を見い出しなさい。−−私は、偶然や誤りを言っているのではありません。というのは、多くの犯罪は偶発的なものだからです。−−明確に意図してなされた悪と呼ばれるものすべてを捕らえなさい。そうすれば、そのような悪は、意識など必要としないものだということがわかるでしょう。1つの機械的な動きがあれば、すべてが進んで行くのです。
問い そのことは、選択という幻想を創り出します。
答え それは、最大の幻想です。−−「する」という幻想。そして選択という幻想です。これらのことは、より高いレベルに属します。4番から始めるというとき、人はすでに選択し始めていますが、1番、2番、3番では、選択はほとんどできません。
問い 黒魔術の研究は、意識的な悪とおっしゃっているわけではないでしょうね?
答え ひどく恐ろしい絵が出ている本を読んで自分を騙すようなまねをする人以外に、そんな研究をしている人を知ってますか?
問い 仮に故意に人を騙そうとしても、いわゆる故意の悪ではないということですか?
答え おそらくあなた方は我慢などできないでしょう。それ以外することはできないような環境か何かのプレッシャーのようなものがあれば。
これらは困難な問題であり、慣れるのには長い時間がかかります。というのも、私たちは誤った考え方に慣れ親しんでいるからです。例えば、歴史的事象を見渡せば、意識的であるはずのないことを意識と捉え、意識的かもしれないことをプロセスのような機械的なものと捉えるわけです。
さて、稀有の者だけが発達することができ、自身の中に隠された可能性を見出すことができるという考えに戻るならば、自ずと疑問が起こってきます。何が差異を決定するのか? 何故、まさに最初のうちから、チャンスのある人間とない人間がいるのか?彼らは、何も学べない環境に生まれるか、何かしら欠陥があります。ですから私たちは欠陥のある人々を除外します。というのは、彼らについては言うことがないからです。私たちは普通の環境にある人々に関心があります。そのような人たちは普通である違いなく、学びや理解などについての通常の可能性を持ち合わせています。そこでこれらの人々の中から稀有の者だけが、発達において、まさに第1歩を成し遂げることができるのです。どうやって、何故そのようになるのでしょうか?
通常の生活状況にあるすべての人々は、2種類の影響の元で暮らしています。まず、生活で創り出された影響、富や名声などへの欲望であり、私たちはこれを影響Aと呼んでいます。次に生活の外から来る他の影響があります。これは、違うものとはいえ、同じ条件で作用するため、影響Bと呼んでいます。
それは、宗教、あるいは文学、あるいは哲学の形で、人に届くのです。この第二種の影響は、その起源から意識的ですが、影響Aは最初から機械的なのです。この影響Bに人は出会うこともありますし、あるいは気づかず見逃すこともあります。また、それを耳にし、自分はそれを理解していると考えることもあるでしょうし、その言葉を使いながら、真の理解を持っていないこともあるでしょう。これら、2つの影響は、まことに人のさらなる発達を決定するものです。影響Bを人が蓄積するならば、この影響の結果がその人の内に結晶化します。(私は、普通の意味で結晶化という言葉を使っています。)そして、その人のうちにある種の誘引 attraction のセンターを形成するため、その中心を私達は磁気センターと呼んでいます。
これらの影響の記憶が密集する塊は、その人を或る方向に引き込みます。あるいはその人を或る方向に向けさせます。磁気センターが人の内に形成されれば、その人はより影響Bに惹きつけられることが容易になるでしょうし、影響Aに気を散らされることもないでしょう。通常の人々であれば、影響Aはその人々の大半の時間を使い、他の影響のためには何も残しません。そのため、そのような人々は影響Bを受けることがほとんどないのです。しかし、この磁気センターがある人の内で成長するならば、その後、他の人または集団に出会い、そこから何か違ったものを学ぶ可能性があります。その何かは、影響Bには含まれていないため、私達は影響Cと呼んでいます。この影響はその起源においてかつ作用において意識的なものであり、 直接的教示によって伝達されることだけが可能です。影響力Bは、本や芸術作品、そのようなものを通してやってきますが、影響Cは直接的な接触によりやってくるだけです。磁気センターの成長した人がある人物やあるグループに会い、その人達を通して影響Cに接触するようになれば、最初のステップを成し遂げたことを意味します。そのとき、その人にとって発達の可能性が存在するわけです。
問い 最初のステップとは何を意味するのでしょうか。
答え それは、<パス path>あるいは<道>という考えに関係します。理解するために重要なことは、この道が生活の通常のレベルでは始まらず、より高いレベルで始まるということです。最初のステップとは影響Cと出会う瞬間なのです。この瞬間から、数あるステップを持つ階段が始まるのです。その階段は、道が到達され得る以前に登られなくてはならないのです。その道は、一番下から始まるのではなく、最後のステップを登り終えた後に始まるのです。
問い あなたは、通常の人間をどのように見なしていますか。
答え 矛盾するようですが、他の定義はありません。−つまり、発達することができる人と言いたいのです。
問い 影響Bと影響Aの間になんらかの関係はありますか?影響Bが人に入ってきた場合、影響Aに作用し、変化させるとか?
答え 影響Bは、影響Aに作用するかもしれませんが、同時に、どうしてもお互いに排除することになります。人はこれら2つの異なった影響下にある地上で生きるのです。人は一つの影響だけを選ぶかもしれませんし、両方の影響を選ぶかもしれません。あなたが、影響Aと影響Bについて話す時、事実facts について話し始めています。あなたがこの表現をなにがしかの決定的な事実で置き換えるとすれば、それらの事実がどういう関係にあるのか理解するでしょう。それはとても易しいことです。
この点について質問が当然出てきます。なぜ人が自分を変えることをし始め、成長の可能性に至るのがそんなに困難なのか。なぜならば、お分かりのように、私たちは自然本性上、とても興味深い仕方で創造されていることを想起せねばなりません。ある点までは発達していますが、それから後は己自身を発達させねばなりません。自然はある点以上には人間を発達させません。どの地点まで人間が発達し、どのようにさらなる発達が始まらなくてはならないのかは、のちに完全な細部に至るまで学習することになるでしょう。そしてこの観点からして人間がなぜ自身を発達させることができないのか、なぜ自然によって発達させられないのかを理解するでしょう。しかしその前に、ある一般的な条件を理解しなくてはなりません。
自己自身に関わるある種のワークに関しては、それを始めることさえ困難であります。なぜなら人は宇宙の中の悪い場所に生存しているからです。最初これは奇妙な考えのように思えます。宇宙の中にはよりより場所やより悪い場所が存在することを私たちは分かっていませんし、たまたま最悪の場所にいることも分かっていません。それを理解できないのは、ある見方をすれば、私たちの宇宙に関する知識があまりにも複雑だからです。また別の見方からすれば、それは本当の事実を説明しないからです。
宇宙の中で私たちに一番近い場所を探すならば、私たちは地球の上に住んでいることが分かります。そして月が地球の影響のもとにあることも分かります。同時に地球というものが太陽系の惑星の一つであり、もっと大きい惑星が存在し、おそらくは地球よりもっと力のある惑星が存在し、これら全ての惑星が一緒になって、地球に影響を与え、支配していることを理解します。スケールの次の段階では太陽が登場します。そして太陽が全ての惑星と地球を同時に支配していることが分かります。こういう点から考えると、これらには新しいことはないものの、私たちは太陽系とは違った観念をすでにもっていることがわかるでしょう。これらのことには新しいことはなく、それはある事を別の事に関連づける仕方の問題にすぎませんが。
地球は太陽系の惑星の一つであり、太陽は銀河の星星の一つです。それを超えて、私たちはすべての可能な世界を取ることができます。これは通常の見方から知っていることの全てです。純粋に哲学的な言い方として、そこに一つの条件、物事の関係を加えることができます。つまり絶対と呼ばれているもの、そこでは全てが一つである状態です。さて私たちは月から地球への、地球から惑星への、というような関係をわずかに異なって次のように表現できます。
◯ 絶対。全てのことの未知のはじまり。
◯ 全ての言葉。私たちの銀河と似ている、あるいは違っている全ての銀河。
◯ 全ての太陽。私たちの銀河。
◯ 私たちの太陽。私たちの銀河。
◯ 全ての惑星。太陽系を持つ全ての惑星。
◯ 地球。
◯ 月。
トップダウンで見てみると、全ての太陽を我々の太陽と比べ、地球を全ての惑星と比べるならば、スケールの広大な違いを理解し始めることができます。あるはっきりとしたスケールの関係で、それらが今ひとつのものに対して在るということが理解できるのです。一番小さいのは月です。そして月を超えては何も知られていません。これら全てのことは創造の光 the Ray of Creationと呼ばれています。他の光があります。というのはこの光は宇宙全体を含んではいないからです。私たちが地球上に住み、それが地球を貫いているがゆえに、私たちはこの創造の光に属しているわけです。このダイアグラムから、宇宙の悪い場所の意味がはっきりします。最悪の場所は月ですが、地球もほとんど最悪です。それは北極近くで生きるようなものです。これがかくも沢山のことが地上では難しいということの理由です。それについて私たちは何も変えることができませんし、何もすることができません。しかし私たちが知るならば、私たちは適合する adapt ことができ、そうでなければ逃れることのできない多くの事柄を逃れることができます。しかし私たちは自分の想像を流れゆくままにさせてはなりません。何もかも逃れることができるのだと想像力に言わせてはなりません。
一つのことを加えたいと思います。これまでのところ説明することが難しい理由があるのですが、創造の光の中ではこの全ての世界がお互いに結びついています。いろいろな影響がより高いところからより低いところまで通過します。しかし、諸惑星と地球の間には一つの溝があります。この溝に橋を架け、全ての惑星からの影響が地球に届くようにするために、ある道具が発明されました。それは一種の高感度フィルムであり、地球を取り巻き、いわば地上の有機的生命を取り巻いているものです。ですから、植物、動物、人間は確固たる目的に仕えています。彼らは地球と惑星の間のコミュニケーションのために仕えています。それらを受け取り保持することができる有機的生命の助けを借りて、惑星的影響が地球にまで浸透します。これが地上での有機的生命にとっての意味ないし根拠です。
問い あなたは地球上にだけ有機的生命を仮定しているのですか。他の惑星には何もないのだと?
答え いいえ、まったくそうではありません。しかし私たちは地球上の有機的生命に関心があるわけです。というのも私たちは地上に存在し、地上の有機的生命の部分だからです。ですから地球についてのみ語ることになります。他の全ての惑星は、私たちはこれを一つの塊とにして一緒に考えます。しかし私たちは地球については違ったふうに語ります。これがスケールの原理です。何かがあなた方に近いほど、あなた方の研究は完全なスケールに近くなります。もしもあなた方がこの部屋について研究するならば、人が何人やってくるか、椅子が何個必要かを知る必要があります。細部にまで研究するわけです。しかしもし家だけを取り上げるならば、そのような細部は知る必要はありません。もし通りを取り上げるならば、また事情は異なってきます。同様に、私たちは創造の光を様々なスケールで研究します。私たちは地上の有機的生命について話しますが、他の惑星の有機的生命については話しません。地上を除いては研究する方法を私たちは持っていないのです。
創造の光についてもう少し詳しいお話をしましょう。地球が宇宙の悪い場所であると言うとき何を言わんとしているのか、それが説明するでしょう。前に話したことを覚えていますか。宇宙の基本的な法則の研究に辿りつかねばならないと言いました。また私たちの研究すべき二つの法則は三の法則と七の法則であると言いました。そしてスケールの原理にも言及しました。さてこの原理にすでに遭遇し、かつあらゆるものを同じスケールで研究することはできないということを理解したのです。これは実際に通常の科学の弱点です。科学者たちはあらゆることを同じスケールで研究しようとします。そこではそんな必要がないことは理解されていません。事実、まったく反対です。実践的な目標にとっては、異なったスケールで物事を研究することに習熟しなくてはなりません。
私たちは三の法則に戻りましょう。すべての起こることは三つの力の作用の結果である、そして二つの力はそれだけではいかなる効果も作り出さない、ということがいかに説明されたか、あなた方は思い出してください。私はこの考えを創造の光に結びつけてみます。
絶対というのは世界1です。三つの力がそこで一つを成しています make one。それ自身の意志、意識によって、絶対は諸世界を造り出します。そこではそれはまったく意図的 intentional であり、そのそれぞれの力はそれぞれの場を占めています。このことは私たちには理解できないことです。次の世界、世界3では、同じ三つの力があります。ただそれらはすでに分割されています。それら三つの力がまた諸世界を造りだし、私たちはそれを一つのものだと受け取るわけですが、しかし世界6は絶対との接触にある世界3とは異なっています。それはすでにして機械的 mechanicak なのです。世界6は先立つ世界から三つの力を受け取りますが、それ自身の三つの力を持っています。次の世界12は第二度の of the second order 世界から三つの力を受け取り、第三度の世界から6つの力を受け取り、またそれ自身で三つの力を持っています。次の世界、世界24は24の力を持ち、次の世界は48の力を、最後の世界は96の力を持ちます。
世界1 絶対 1
世界3 全ての世界 3
世界6 全ての太陽 6(3+3)
世界12 太陽 12(3+6+3)
世界24 全ての惑星 24(3+6+12+3)
世界48 地球 48(3+6+12+24+3)
世界96 月 96(3+6+12+24+48+3)
これらの数字はそれぞれの世界を支配する法則の数を表しています。法則の数が大きければ大きいほど、何かを変えることが難しくなります。たとえば、人は地球に生きているのですが、それは48個の法則のもとにあるのです。彼自身はもっと多くの法則のもとにあるのですが、しかしこれら48個の法則ですら彼が何かを変えることを難しくしています。どのような小さなこともこれらの法則に支配されているからです。幸運にも、人がそのもとので生きている法則は必ずしも全部が彼にとって強制的であるわけではありません。ですから、彼はそのうちのいくつかの法則から逃れることができます。そして彼の進化の可能性は、基本的にはいくつかの法則からの脱出と結びついています。牢獄の壁をよじ登ることによっても人は法則から逃れるのです。