インディアンたちが、なぜこのサボテンを神の植物として崇めていたのか−その理由はイェンシュ、ハヴロック・エリス、ヴァイル・ミッチェルなど、優れた心理学者たちが、ペヨトの主要成分メスカリンに関して心理学的実験を始めるにつれて、次第に明らかにされていった。事実、彼らはペヨトに対する迷信的崇拝の域に迷い込むことはなかったが、それでもメスカリンに対し、人間の意識を変革させるという特異な薬効を持つ同種の薬物の中でも特に一つの役割を与えることでは、同じ結論を出すことになった。つまり、メスカリンは、適切な処方によって相応な服用量が投与されるなら、薬物学者の知っている他のどんな薬物より人間の意識に深刻な変化を与えるいっぽう、害は他の薬物に比べて少ないものである、というのが彼らが実験から得た結論であった。(6)
人間は自分たちの経験したことについての情報をプールし合うことはできるが、それはあくまで情報であって、経験そのものではない。われわれ人間のグループは、小は家族から大は国家まで、どんなグループも個人個人単位に切り離されている”島宇宙”を寄せ集めた集団にすぎないのだといえよう。
しかし”島宇宙”の寄せ集め集団とはいっても、個々の”島宇宙”はお互いによく似た存在ではある。だから”島宇宙”同士は他の”島宇宙”のことを頭で類推して理解したり、時にはその気持ちに共感を感じる、いわゆる”感情移入”といったことさえできる。(9)
私は自分がそれまでに読んでいたメスカリン服用体験者の記録から判断して、自分の実験に先だって、私もこの薬を服めば、少なくとも数時間の間は、ブレイクやラッセルが描いているような内面の別世界が、心の中に開けてくるに違いない、と信じていた。しかし私の場合は、この予想に反して、期待していた事態が起こらなかった。私は眼を閉じてじっと横になっている−するとさまざまな色に彩られた幾何学的な模様や生きて動く建築物が見え始め、その周囲には宝石とか物語の中のような愛らしい生き物が沢山でてきたり、またヒロイックな人物のいる風景が現れたり、心の中のはるか彼方のスクリーンには刻々に変化を続けるシンボリックなドラマが展開されていく−私が実験に先立って持っていたのは、このような期待であった。(12)
しかし私の心の内部世界の中には、どんな意味でも革命といえるような大変化は、実際には起きなかった。メスカリンを服んで三十分ほど経った時、私は自分の視界の中で、金色の光がゆっくりとしたダンスを踊っているのに気づき始めた。そして少し経つと、異様に美しい赤い表面のようなものがいくつか現れ、それはピカピカ光るエネルギーの中心点を持っていて、その中心点から次第に外へ膨れ上がりながら広がっていた。
...要するに、メスカリンは私の心の中にヴィジョンの世界という別世界をもたらすものではなく、それは私の外部の世界、眼を開けて見る普通の世界の中に、通常時とは違った一つの別世界を出現させるものであった。確かに私の見る外部世界の事物の中には、大きな変化が生じた。これに比較すれば、私の主観の、心の中の世界に起きてきた変化は、ほとんど注意に値するほどのものではなかったというわけである。(14)
私は11時に薬を飲んだ。そして一時半ほど後には、書斎に座って小さなガラスの花瓶を熱心に見つめていた。花瓶にはただ三種類の花だけが挿してあった。
...私が眼にしていたもの、それはアダムが自分の創造のその朝に見たもの−裸の実在が一瞬一瞬に眼の前に開示していく奇蹟であった。
「気分はいいか?」
誰かが訊いた。(実験中のこの部分は、会話が全部録音され、私は後からこれを聴いて記憶を新たにするように仕組まれていた)
「よくも悪くもない」
私は答えた。
「それがありのままの気分だ」
イスティッヒカイト、存在そのもの−エックハルトが好んで使ったのは、この言葉ではなかったか?イズネス、存在そのもの。プラトン哲学の実在−ただしプラトンは、実在と生成を区別し、その実在を数学的抽象的観念イデアと同一視するという、途方もなく大きな、そして奇怪な誤りを犯したように思われる。だから可哀想なプラトンには、花々がそれ自身の内部から放つ自らの光で輝き、その身に背負った意味深さの重みにほとんど震えるばかりになっているこの花束のような存在は、絶対に眼にすることができなかったに相違ない。また彼は、これほど強く意味深さを付与されたバラ、アイリス、カーネーションが、彼らがそこに存在するもの、彼らが彼らであるもの以上のものでも、以下のものでもないということを知ることも、絶対にできなかったに相違ない。彼らが彼らであるもの、花々の存在そのものとは−はかなさ、だがそれがまた永遠の生命であり、間断なき衰凋、だがそれは同時に純粋実在の姿であり、小さな個々の特殊の束、だがその中にこそある表現を越えた、しかし自明のパラドックスとして全ての存在の聖なる源泉が見られる−というものだった。
私は花々を見つめ続けた。そして花々の生命を持った光の中に、呼吸と同じ性質のものが存在しているのを看たように思う−だがその呼吸は、満ち干を繰返して、もとのところにもどることのある呼吸ではなかった。その呼吸は、美からより高められた美へ、意味深さからより深い意味深さへと向かってだけ間断なく流れ続けていた。
...神の示現、至福の自覚−私は生まれて初めて、これらの言葉の意味するものを理解した。そしてその理解は、言葉の上での理解とか、その含蓄するものをほのかに感ずるといった距たりのある理解とは違うものであった。私はこれら驚くべき言葉が表象しようとしているもの自体を、正確に完璧な姿で知ったのであった。そして私は前に読んだスズキ(鈴木大拙)のエッセイの一節を憶い出していた。
「仏陀の悟りとは何ぞ?」
この問いは、禅の僧院では、困惑した見習僧たちが熱心に繰り返す問いである。すると先達の僧は即座に答えを与えるが、その答えはまるで喜劇役者のマルクス兄弟の掛け合いみたいにピントはずれなものである。
「奥庭の生垣だ」
見習僧はさらに困惑して疑わしげに恐る恐る訊ねる。
「その真理を知る者とは、いったいどんな人なのでしょうか?
先達の僧は見習僧の肩に鋭い警策の一撃を加えて言い放つ。
「金色の毛をした獅子だ」
私がこのエッセイを読んだ時、この一節は私にはナンセンスな文句をなにやら意味ありげに集めた無意味な言葉の寄せ集めにすぎなかった。だが今は、それは白日と同じに明白で、ユークリッドの公理のように自明のものになっていた。仏陀の悟りが奥庭の生け垣であることは、いうまでもないことなのであった。そして同時にまた、私の眼にしていた花々も、私−いや「私」という名のノドを締め付けるような束縛から解放されていたこの時の「私でない私−」が見つめようとするものは、どれもこれも仏陀の悟りなのであった。たとえば書斎の壁を埋めている書物も、仏陀の悟りであった。私が見つめるとき、本は花瓶の花と同じように、やはり輝く色と深い意味深さに燃えるのだった。
「空間の関係はどんなふうに見える?」
これは答えるのに困る質問であった。事実、私の眼にしている外界の様子は、どこか奇妙であり、部屋の壁も、いまは直角に交叉しているとは見えなかったからである。しかし実をいえば、これは大して重要なことではなかった。本当に重大な意味を持っていたのは、私の心の中では空間的関係というものがさっきから大した関心の対象ではなくなっていたこと、そして私は外の世界を、空間というカテゴリーとは違った別の秩序の中で眺めていたという事実なのであった。普通の時の人間の眼は事物を見るにあたって、それが”どこに?”とか”どのくらいの距離に?”とか”他のものに対してどんな位置に?”とかいった規準を基礎にして見ていて、この規準から逃れることができない。これに対し、メスカリン体験の中で服用者が事物を見る時に暗黙のうちに問題にしている規準は、通常時のとは違った種類の規準なのである。事物がどこにあるかという場所や距離といったことは、メスカリン服用者には大して関心を呼ぶ問題ではなくなってくるのである。そして彼の心は眼にする事物の実在感の強さは、どれほど強いか?意味深さはどれだけ深いか?それ自体が一つのパターンである自分の視野の中での他の事物との関連はどうか、といったことを規準に、外界を見るようになる。私も書棚の本を見る時に、それが空間の中のどこにあるかといったことには少しも関心を払っていなかった。私が関心を持っていたこと、事物が私の心に印象を刻みつけていたことは、本が生命を持った光で燃えていて、どの本はどの本に比べていっそう輝きが強いかといったことがらだけだったのである。このような秩序付けの中では、位置とか三つの次元というカテゴリーはメスカリン服用者の関心の中心問題ではなくなっている。もちろんそうはいっても、彼にとって空間というカテゴリーがまったく消滅してしまうというわけではない。私自身立ち上がって歩くときには、通常時と同様にそれができ、またものがどこにあるかも、正確に判断することができたのである。つまり「空間」は、依然として存在し続けていた。しかしそれは、私の関心の中心ではなくなり、私の心はまず実在感の強さと意味の深さに関心が集中し、距離や位置がどうかという問題には、それほど心を向けなくなっていたということなのである。
空間に対する関心がなくなった中で、時間に対するそれ以上の完璧無比な無関心がやってきた。
もし実験者が時間というものに対して、その時私がどのような感じで受け取っていたかを訊ねたとすれば、「時間はたっぷりあるように感じる」という答えだけが私の答えの全てだったはずである。
だがそれなら「たっぷりある時間」とはどれほどの量の時間かとう問いは、この場では完全にピントはずれで、全く場違いな問いでしかなかった。私はむろん、自分の腕時計を見ようとすれば見ることができた。しかし私はいまは、腕時計は自分のいまいる宇宙とは別の宇宙の存在になっているのだ、と知っていた。この時に、私が実際に心で感じ取っていたことの中身は、前からもそうであり、その時にもまたそうであったが、つぎのようなものであった。いつまで続くかもわからない時間の持続がずっと未来に向かって続いていっているという感じと、絶えず変化して止まない一つの啓示によって永遠に満たされていくその時々刻々の「現在」がそこに存在しているという感じが交互に感じられたのであった。(19)