『狩猟の哲学』抜粋



 野外に身をおくや、第一番のもの、そしてあらゆる情況の軸となるものは動物との神秘的なこの合一、それを予感することであって、いつのまにかこれが周囲を、別に己が視点を捨て去ることなしに、獲物の視点でもって感じとらせるようになるということをかれらはよくよく知っているのだ。...すなわち追跡者は、追跡されるものが身につけている目ざとさで、もしも己れのそれを完からしてないのならば、追跡することもできない。ということはつまり、狩猟は動物の模倣である、ということである。したがって狩猟を人間界の事実ととって、人間が再現して喜んでいる動物界の事実ととらない者は、狩猟の何たるかがわかっていないわけである。

 狩猟者が獲物を真似るこのような特殊化したやり口は第二義的なことがらである。それはもっと根本的な模倣を根底としてその上にあらわれたものであって、この模倣とは、野生の動物の生き方になっているその実存の身構えをば人間に受け入れさせることであり、またそれの放棄こそは正しく人類の特質をつくりあげたといったものなのである。

 狩猟者の意味の一つは、どんな瞬間にも倦(う)まずたゆまず活動していなくてはならないという点にある。いう意味は瞳をこらしているという意味である。

 私たちの気のつけ方は視線に覘い(うかがい)をつけさせるようなものであって、それが地平線上の一点にへばりつくのは、そこに面白いものがあらわれるぞと私達が信じこんでしまうからである。ところでさて、あらかじめ考えられたものへのこのような気のつけ方は、目に見える地面の一点に吸い込まれてしまっていて、爾余(じよ)一切は気にもとめないことと等しい。

 狩猟者の視線や気のつけ方はこれとはまったく反対である。チャンスがどこから到来しようが、そんことがわかるなどとは狩猟者は信じていない。獲物はきっとそこから来るとあらかじめ確信して、心静かに一定の方向へ目を注いでいるなどということはない。狩猟者は、何がおころうとしているのか、それが自分にはわからないということがわかっている。そしてこれこそは、かれらの仕事における、もっとも大きな魅力である。

 ここからして一つのもっと別の、もっとすぐれた気のつけ方を取りあえずととのえることが必要になってくる。この気のつけ方は、既に(すでに)こうと臆断(おくだん)したことに釘づけになることにあるのではなく、正しく何一つ臆断しないことに、そうして迂闊(うかつ)さを避けるところにある。それは「無辺際」(むへんさい)の気のつけ方で、如何(いか)なる一点にも固定せず、あらゆるものに気を配ろうとすることである。それを名づけるのに私達は生き生きと切迫(せっぱく)した趣(おもむき)をなお悉(ことごと)く保持しているすばらしい言葉を持っている。曰(いわ)く、油断なきこと。狩猟者とは油断なき人である。

 ところがほかならぬこういうこと−−毛筋ほども油断なきこととしての生−−こそは動物が森の中で生存してゆく身がまえなのである。これによって動物は己(おのれ)が周囲の内にあってもそこから生きのびてゆく。農夫はただ五穀(ごこく)がみのり、果実が熟れるのに為になるもの、或いは為にならぬものに気をつけるだけのこと、爾余一切はその視野の外におかれて、従って自身は野という全体の外にとどまっている。旅行者は見はるかす広大な空間を眺めてはいる。けれどもその視線は辷(すべ)り、何一つ捉えず、平野を力学的に構築する成分一つ一つの役割には一向に気がつかない。ひとり狩猟者のみが、自身にとり何もかもが危険だという野育ちの動物の絶え間のない油断なさを模倣することによって、すべてを眺め、その一つ一つのはたらきを手軽か難儀か、危なっかしいか頼りになるかといちいち見てとるわけである。



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