死者たちは、探し求めたものを見いだせず、エルサレムから帰ってきた。彼らは私の家にはいり、教えを得ることを願った。そこで、私は教えを説き始めた。
聞け。私は無から説き起こそう。無は充満と等しい。無限の中では、充満は無と同じだ。無は空であり充満である。無について、おまえたちは何とでも言うことができる。たとえば、それは白いとか黒いとか、それは存在しないとか存在するとか。無限にして不滅なるものは、何らの特性も持たない。つまり、それはすべての特性をもっているからである。
この無あるいは充満を、われわれは「プレロマ」と名づける。その中で思考と存在は停止する。不滅にして無限なるものは、何らの特性をもたないからである。その中には何ものも存在しない。もし存在すれば、それはプレロマから区別され、それをプレロマと異なる何ものかとなさしめる特性をもつことになるからである。
プレロマの中には何ものもなく、またすべてのものがある。プレロマについて考えることは、すなわち、自己の解体であり、益するところはない。
「クレアツール」はプレロマの中にはなく、それ自身のなかにある。プレロマはクレアツールの始めであり、終わりである。プレロマは、日光が空中のいずこも満たしているように、クレアツールに浸透していく。プレロマは到るところに浸透するが、クレアツールはそれを分有するものではない。それは全くの透明体がそれを通過する光によって、それ自身は明るくなるわけでも、暗くなるわけでもないのと同様である。
【ユングの言うプレロマは端的に言って、無という表象には還元されない意味を持っている。それはつまり<区別のなさ>である。であるからクレアツールは<区別>である。】
もし、われわれが区別しないと、われわれの本質を超え、クレアツールを超えてしまうことになり、プレロマの他の性質である非区別性の中におちこんでしまうことになる。われわれはプレロマそれ自身の中におちこみ、クレアツールであることをやめる。われわれは無の中に溶け去ってしまう。
【まさにこの意味でカスタネダの謂うナワールはプレロマであり、トナールはクレアツールである。「守護者が示してくれたのは違いのない世界だ、だれも違いについて聞く者などいないんだから。」】