| 時の終わり−認知の測定 |
時の終わり the end of an era とは、慣れ親しんだこの世界を分解するのに適切な記述である。古代メキシコの呪術師の世界は、我々の世界とはその認知プロセスが配列される仕方において差異がある。(115) 我々の世界では感覚データは解釈されなくてはならない。有機体は宇宙のエネルギーフィールドに対してはそれを感覚データに変える。つぎに感覚データ sensory data が解釈されて、認知体系 cognitive system になる。個々の言語に違った構文があるように、世界の解釈にはわずかな配列の違いがある。 わたしはこの認知システムを言語と同一視していいのか疑問であった。時の終わりというのはドン ファンにとっては通常の認知が消失し、異なる認知のユニットが定着しだすことを意味していた。 たぶん私のもっとも大事なユニットはアカデミックな生活だった。それを脅かされるということは、自分の存在の核を脅かされるということに等しかった。これがロルカ教授について起こったことだった。 ロルカ教授は認知過程の権威であったが、彼は生涯苦労というものをしたことがないような外見をしていた。その服装も極度に手入れがしてあった。 ある講義で彼は「池の底で虫を待っている蛙の気持ちなどわかるわけがない」と言った。それをきっかけに、我々の認知体系の島のような insular 質についてのきらびやかな話をした。たとえばコウモリの音波探知など、人間には考えもつかない想像もできない認知のシステムであると彼は言った。(117) 私はこの講義を聞いてすっかりロルカ教授のとりこになってしまった。しかしその頃はドン ファンと出会ってすでに2年だった。日常生活で起こったことは全部ドン ファンに話すことにしていた。ドン ファンはロルカ教授への私のこだわりを聞くと、他人を賛美するのも気をつけなくてはならないと言った。もし死につつある存在としての自分を確信しているならば、どんなに気が違ってみえようと、決定的なものであるが、そうでなければただの言葉を操っているにすぎず、また価値などない、そうドン ファンは言った。(118) 死を受け入れる意識、これがなければ生きること、すること、世界のすべては扱うのが不能のことがらになってしまう。「けれどもたんに死を受け入れるってことがそんなに大それたことなのかな」「トリックは死を受け入れるってことじゃない。」呪術師にとっては死はもっとも冷静な観点である。一番の間違いは人間が不死であると思いこんでしまっているということである。それにともなって、私たちは自分の心でこの考えがたい宇宙を包み込むことができるという感覚が生じている。ドン ファンはそれが問題なのだと言った。 そのころロルカ教授とドン ファンとの間に私は引き裂かれていた。できることといえば、黙って従っていくということだけだった。私は認知について膨大な本を読んだが、ドン ファンは直接的な接触を確立するように私を促していた。(119) ドン ファンが言うには私がロルカ教授の後を追いかけているのはまるで女性をおそれて遠くから賛美している男みたいであり、そんな調子では精巣がおそれを払いのけ、やがて声をかけてくる最初の女性を崇拝するだろうということだった。 私はロルカ教授になかなか接近できなかった。が、呪術師のやり方では敵に対してはオープンに接するというドン ファンが、あいてに面と向かうように私をせっついていた。(120) 私はついにあるときロルカ教授をつかまえて、話をしてみた。呪術師の認知システムについて学びたいと言った。またメキシコで実在する呪術師といっしょに作業しているとも言ってみた。それからシャーマニズムについての文献には出てこないような振る舞いを教えられているとも言った。ロルカ教授は、たいていの人類学者はつきあっている対象の持つ認知システムに精通するのに十分時間をかけないと言った。 彼は「認知 cognition」ということを解釈の体系だと定義した。それは使用を通じて、個体が意味を使用することができるようになる through usage makes it possible for individulas to utilize...all the nuances.of meaning...。ロルカ教授は私たちの通常の世界の認知システムが呪術のシステムと同じではないということ、それが私の問題なんだろうと指摘した。 私は自分の問題を指摘されて大変うれしく、またますますこの教授についていこうとした。ドン ファンはそれを聞いて当惑した。彼は離れるべきだと言った。いつ離れるか知るのは難しい。がその知識で実際に離れるのはもっと難しい。(122) ところが、ドン ファンの勧めにも拘わらず、私はロルカ教授の忠実な生徒となった。彼は自分の議論をますますとぎすましていく一方、いろいろとテストを発案していた。たとえばポーカーをしながら読んだ本をどれだけ理解するかを調べるための単純な方法や、寝ているときに言われた複雑なことに認知を集中させる能力をはかるものとか。 しかしドン ファンはそのような試みを聞いて笑い出した。彼は私が古代メキシコの呪術師たちのやり方について正確にロルカに伝えていないと文句を言った。「古代メキシコのシャーマンの認知世界 cognitive world について呪術師たちが話すときには、この日常的世界にどんな等価物も存在しないことがらについて話しているのだ。」(123) 呪術師は宇宙の線 lines of the universe に従って名前のついていない知覚へ行く。この光景に即座に反応しているだけだ。しかしそういうことを体験したわけではないので、ロルカ教授に説明するわけにはいかないとドン ファンに言った。 帰りがけ、私はドン ファンがいかに正しいか理解した。科学者たちが極める実用性はますます複雑になっていく。それは内面から個人の生を変える実用性ではない。それは複雑な機械のようで作った本人が金銭的に満足するだけのようだった。(124) 一方、ロルカ教授の授業はいやましに鋭利なものになっていった。第二学期のおしまいに、私は袋小路にはまりこんだ。ドン ファンの教えとロルカの教えとの間に協調するようなものを見つけることはできなかった。サイバネティックスが台頭し、認知の実践的側面の研究が現実的なものとなっていった。 しかし現実的と言えばドン ファンの世界もますます現実的になっていった。だがドン ファンの世界を実践したことがないというのが致命的でもあった。ドン ファンはその致命的なことは正確ではないと言った。それは私がおかれた個人的状況には還元できないというのだった。 まるでこの話が私の耳から出てくるかのように何度も話しておきたい、そうドン ファンは言った。そして今までも何度も何度も話しているとも言った。 「わしらは死ぬ身だ。不死の存在ではない。しかしまるでそうであるかのように振る舞っている。これが個人としてのわしらを堕落させる brings us down 欠点だ。そしていつか、種族としても堕落させるかもしれない。」(125) 完全な確実性 total certainty としてこの死ぬという知を維持するために、途方もない努力をしなくてはならない、これがドン ファンの教えだった。
「なぜそれほど真実なものを認めることが難しいんだろう?」私は内的な矛盾の大きさに驚いて尋ねた。
「それは本当は人間の欠点じゃない。」彼は慰めるような調子で言った。「いつか、人間を馬鹿者のように行わせる力 forces について話してやろう。 |