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The Teachings of don Juan |
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1960年の夏、UCLAで文化人類学を研究していたカルロス カスタネダは南西部へフィールドワークをしにいった。そこでメキシコ、ソノラ出身のヤキインディアンであるドンファン マトゥスと出会い、以降65年に弟子としての見習い生活をつづったのがこの第一巻『ドンファンの教え』である。 ドン ファンはディアブレロと呼ばれる特別の知識を持った人だった。カスタネダはその内的一貫性をドンファン自身の概念で再構成するようにしていたらしい。しかし若干この巻では幻覚性植物の使用への注目が上回っている。それを彼は次のように表現する。 「わたしの最初の仕事は、概念化に関する彼の秩序を決定することであった。その方向で作業をすすめているあいだいに、わたしは、ドンファン自身、彼の教えのある領域を−とくに幻覚性植物の使用について−特別に強調していたことに気づいた。このことを基礎として、わたしはカテゴリーに関するわたし自身の図式を修正した」(21) ペヨーテ、ジムソンウィード、きのこ、この三種の薬草によって作られる意識/知覚状態をカスタネダは「非日常的現実状態」と呼び、この巻ではそれが記述されることになる。 最初の最初からしかしこの非日常的現実状態なるものは、力の獲得と結びついている。読者はこの物語がたとえフィクション的であるにしても、その内的整合性のゆるく貼られた意味連関におどろく。すなわちここには後年、「光景と力」というテーマで執拗に迫ってくる世界観がすでに登場しているのである。 この力は個人的なものであり、他のすべてはただこのためにあると言われる。 ペヨーテは守護者、これは力ではなく、いかに正しい生活へと人を導くか、ということに関わる。いっぽう、ジムソンウィードときのこはドン ファンが「盟友」と呼ぶ力の次元に関わる。この盟友はあとの方の巻では「非有機的実体」と呼ばれることになる。その詳しい話は第九巻『夢見の技』に書かれている。 同時にこの巻では、第二部として構造分析がついている。これはカルロス カスタネダが文化人類学徒として出発したという経歴からすればついていてしかるべきかも知れないが、あまりに杓子定規でここから意味を取り出すことはなかなかに難しい。 カスタネダ自身の言から推測するなら、まず1)ドン ファンの教えは体系的であること、2)内的意味を探るにはそれ以外の概念によっては無理であること、3)その体系は単なる概念の羅列ではなく、弟子をある一定のレベルにまで導くようになっていること、以上の三つが強いていえばカスタネダにこれを書かせたその動機ということになるだろう。 1 わたしの最良の場所 ペヨーテのことを知りたいというカスタネダにドン ファンはまず「自分の場所を見つける」作業を言いつける。これは暗闇の中で自分ともっともフィットする場所を、視覚的その他の通常の標識以外の感覚で見つけること、である。カスタネダはこれにどうにか成功し、「敵」と呼ばれる害を与える場所とそうでない自分に力を与える場所との違いを知ることになる。とはいえ、それは疲れて眠ってしまった場所が自分の場所だった、ということなので、はっきりとした違いの意識を持つにはいたらなかった。ドン ファンはまずもっとも不明確な課題、恐ろしく時間と意志を必要とする課題をこうして与えた。 2 メスカリトとの出会い ある程度ドン ファンはカスタネダを認めたので、ペヨーテの集会に彼を連れていくことになる。ペヨーテは背の低いずんぐりしたサボテンで、それを乾燥したものをいくつも食べる。カスタネダはこれを食べてまず注意力が抜けてしまい、いろいろなことをふわふわと考えるようになる。飲んだ水は奇妙な質感を持ち、思考は言葉にはならない。 目の焦点を合わせることも困難になり、視野が丸い点に減少する。ここで見られた光景の異常にするどく、犬の体に焦点を合わせると、それは透明になっていき、水が犬の体に浸透し、たてがみのように毛から吹き出しているのが見えた。 それから犬と戯れること数時間、カスタネダはこのあいだ表現しようもない至福感を味わう。しかし通常の状態への以降は相当にショックで、かれはそのあいだ「自分が人間であることを忘れていた」ことを思いだすことになる。 ドン ファンはこの体験についてカスタネダが犬と戯れたことに重きをおいた。カスタネダはペヨーテがどうやって人を守るのか聞き出したかったが、ドン ファンはそれは犬でもなかればペヨーテでもなく、メスカリトであり、大事なことはそれがカスタネダをドン ファンに選んだことだと言った。メスカリトは人に正しく生きる道を光景として示す。 学びの道は労多く、言葉はそれを裏切る。なぜなら暗闇の中で何時間も格闘していたとき身体はそれがあるということを確信していたのだが、その確信こそが困難と一緒になって、独特の自信を与えたのであって、もしそれをドン ファンが話してしまっていたなら、そういう自信は持ち得なかったはずだ、とドン ファンは言う。 知はその人自身の性格によって限界づけられる、よって知について語っても、もしそれがその人の限界を超えるならば話すこと自体が無駄になることになる。
3 ダツラの体験と煙の準備 ジムソン・ウィードはデビルス・ウィードと呼ばれ、ドン ファンはふつうダツラと言う。これは盟友すなわち力に関わる。これの使用は根、茎と葉、花、種にわけられ、この順番に学ばれる。一番強力なのは種である。 ダツラの根を切り取ってそれを粉にして袋に入れ、それを水の中でもみ、ダツラ溶液のようなものを作る。何度も繰り返し、しまいには白っぽいどろどろしたおかゆ状になったものをカスタネダは飲んだ。 制御不能の状態でカスタネダは赤い点を見続ける。ドン ファンによれば黒い点を見たらダツラには向かず、内蔵を吐き出し長い間病気になるということである。しかし赤い点を見たものは根によって活力、快感を与えられる。 実際カスタネダはこの草の根の部分を飲んだおかげで奇妙な活力、エネルギーを体全体に持つことになる。が、それはダツラの奴隷になるということに等しいとドン ファンは言う。 1961/11/23 この日付の記述はメモしておくべきだろう。カスタネダがいつものようにドン ファンの家にいくと、「彼の義理の娘」が出てきた。ドン ファンはラ・カタリーナという女呪術師の襲撃を受け、足首を脱臼していた。ラ・カタリーナはクロウタドリになってドンファンのところに飛んできたのだ。 ドン ファンは故あってラ・カタリーナといざこざをもっていることをうち明ける。カスタネダは妖術やメスカリトで身を守ることはできないのかと聞くが、ドン ファンは自分を防御するのは「占者の煙=きのこ」だと言った。 「デビルス・ウィードは力を求める者のためにある。煙は物を見通そうとする物のためにある」(81) 煙はパイプときざみの両方から成る。それはどちらも大変慎重に扱われている。カスタネダはそれがそれほど重要なものだとは意識してないので、ドンファンの扱いにとまどう。そのとき自分の態度がドン ファンを怒らしているのではないのかと聞いたカスタネダにドン ファンは次のように答える。 「いいや、わしは誰に対しても怒りはせん!怒るほど本当に大事なことなど、誰にもできはせんのだ。人は他人の行いが重要なもののときに腹を立てるのさ。わしはもう決してそんなふうには感じはせんのだ」(85) |
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「力は人が持っている知の種類による。役にも立たないことを知ることになんの意味がある?未知との避けることのできない出会いに備えるのに、そういうのは役に立たない」 「この世のすべては贈り物なんかじゃない。なんにせよ学ばねばならないものは極めて苦労して学ばれなくてはならない。 「人は戦いに行くようにして知に行く。覚醒と恐れ、尊敬と絶対の確信を持ってな。知や戦いに他のやり方で行くことは間違いなんだ。そういう風にしていくと誰でも後悔して生きることにはならんだろうよ。人がこの四つの条件 − 覚めていること、恐れや尊敬や絶対的な確信を持っていること −を全て満たせば、責任を取らなくてはならない間違いはなくなるんだ。そういう状況が整って彼の行為からは愚か者の行為にあるヘマな特徴が消える。もしそんな人間が失敗したりうち負かされたりしたとしたら、彼は戦いを失うだけだ。そしてそのことにはくだらん後悔なんぞはないんだ。」 「自分自身にかまいすぎるとひどい疲れがやってくる。そんなふうになっていれば他のあらゆるものにつんぼでめくらになってしまう。その疲れ自体で身の回りの素晴らしいものを見ることを止めてしまう。」 「人が学びにつくとき、できる限りもっともつらい努力をしなくてはならない。そして学びの限界はその人自身の性格で決まるのだ。だから知識について語ることには意味はない。知識への恐れは自然のものだ。わしらすべてはそれを経験している。それについてできることなどない。しかしどれほど学ぶことが恐ろしいものであっても、知識のない人間のことを考える方が恐ろしい。」 「人に対して怒るということは、人の行動が重要だと考えているということだ。そのように感じるのは避けられない。人の行動はわしらの唯一の可能性を埋め合わせるほど重要なものにはなれん。変えることのできない無限との出会いだ。」 「なんでも百万もの道のひとつにすぎないんだ。だから戦士はいつも道は道にすぎんてことを肝に銘じておかにゃならん。もしそいつがそれに従うべきじゃないって感じたら、どんな状況でもとどまっては駄目だ。とどまるか離れるかそいつの決心は恐れや望みからは自由になっていなければ。どの道も近寄って慎重に見なければならん。そこで戦士は絶対自分に質問しなけりゃいけないんだよ。この道には心があるか?すべての道はおんなじだ。それらはどこにも導いてはくれない。だが心のない道は決して楽しくない。逆に心があれば、やさしい。それは戦士に好むように強制したりはしない。楽しい旅をさせるんだ。それに従っている限り、それとひとつなのさ。」 「ものごとの間に違いのない幸せな世界が存在する。なぜって誰もそこでは違いについて聞きはしないからな。しかしそいつは人間の世界じゃない。二つの世界で生きていると信じることに空しさを持つ奴もいる。だがそれはそいつらの空しさでしかない。わしらにとっては唯一の世界しかないんだよ。わしらは人間だ。人間の世界に満足して従わなくてはならないんだ。」
「人は四つの自然の敵を持っている。恐れと明晰さ、力と老いだ。恐れ、明晰さ、そして力は乗り越えられる。しかし老いは乗り越えられない。その効果は延期されるがそれは乗り越えられないのだ。」
ドン ファンが私の弟子生活の始まりに言ったあらゆることの本質は第一巻 The Teachings of Don Juan から選んだ引用の抽象的性質に閉じこめられている。この本で記述された出来事のあったとき、ドン ファンは盟友、力の植物、メスカリト、小さな煙、風、川や山の精霊 spirit、藪 chaparralなどなどについて多くのことを語った。あとになって、このようなことを強調したことについて彼に質問したとき、そしてなぜ彼がそれらを使わなくなったのか尋ねたとき、彼は臆面もなく認めた。私の弟子生活の初めの方では、私のためを思って偽インディアンシャーマンのそういうくだらない話をしたのだ、と。 私は面食らってしまった。どうしてそんな明らかに真実ではないことを言えたものか。彼は自分が言ったことを本当に思っていた。そして私は確かに彼の言葉や気分の誠実性を確かめることのできる人間だった。 「そんなに真剣にとるな。」彼は笑って言った。「そういうゴミに入っていくのはわしにとって楽しいんだ。おまえのためにやっているとなったらなおさら気分がよかったわけだ。」
彼の策術にまんまとひっかかったというのはドン ファンの言う通りだった。人類学の情報提供者として完全なシャーマンを見つけたんだと信じていた。そんなとき、ドン ファンの助けで、そして彼の影響のもとで、17世紀後期のジェズイット教徒たちの年代記から始めて、わたしは世紀を通して続いたヤキインディアンの町の位置を示す地図を集めたり、また日記をつけたりしていた。それらの在処を記録し、またもっともわずかな変化を確認した。そして私は考え込んでしまった。なぜ町が他の場所に移動するのか、また居所を変えるごとにわずかに異なったパターンで配置されるのはなぜか。その理由について半端な思弁が、そして理性的な疑いが私を圧倒した。書物や年代記から要約した覚え書きを何千枚と集め、その可能性を探った。私は人類学の完璧な学生だった。ドン ファンはできるだけの仕方で、私の幻想に拍車をかけたのだ。 「戦士の道ではヴォランティアなんてないのさ。」説明を装ってドン ファンは言った。「人は意志に反する戦士の道へと強いられる必要がある。」
彼は確実に正しかった。私はそのノートを使ったことはない。そのかわり、考えられないような可能性について知らずに書いていた。認識の別のシステムが存在するという可能性である。 |