カルロス・カスタネダと哲学



T 戦士の精神


1 「ふけること indulging」と実存頽落

 世間話、好奇心、曖昧さの3つの様態で人間は「この世界」に耽っている。(『存在と時間』34節、『呪師に成る』2,3,4参照)。これらは実存頽落 Verfallen とハイデッガーに呼ばれた事態である。またこうしたいわゆる堕落した状態に対して、カスタネダのドン ファンは<完璧さ impeccability>という。従って、カスタネダの完璧さとハイデッガー的実存は同じことである。この完璧さは後にキリスト教的テーマを指示するであろう。
 しかしながら、ふけることは習慣性のひとつであるということがどうしてもカスタネダの方に取り消しがたいものとして残る。この習慣性は<裂け目>を閉じるのに役立つ。したがって、カスタネダには意図的な「戦術としての<すること>」という意味での非実存=頽落があることになる。


2 実存的時間1 死(根源的未来)

 「差しせまった死」は人間の意識を実存に向けかえる。死は決断と行為との間の調和である。時間が<ない>ということは、時間を持っていないということではなくて意識が時間性の湧出そのものだということである。
 ハイデッガーにとって、死とは全体存在可能としてのもっとも己に固有の可能性であった。カスタネダは<全体存在可能>を第四巻で問うている。


3 実存的時間2 反復と良心(根源的過去)

 反復とはカスタネダ的文脈では要約である。過去を要約する修行。それは過去の表象から自由になる機能に注目させることだ。根源的過去とは意識の裂け目を閉じる働きをする機能としてのみ意味を持つ。それが同時に「やってくる時間」に目を向けかえる修行となる。
 対照:フロリンダの「反復の箱」とハイデッガーの「良心の声」。
 それはおのれの内からおのれを越えて聞こえてくる根源的過去である。


4 実存的時間3 瞬間(根源的現在)

 この一瞬を永遠にできるとドン ファンは言う。それをするには個人的な力がいる。
 瞬間が永遠に通じているという言葉はそれだけでは言葉にすぎないが、力を持っていれば言葉以上のもの=知となる。ここにはキルケゴール的テーマがある。瞬間が永遠になるということは、もともと瞬間と永遠とは同じレベルにある観念であるということであろう。
 それ以外のいわゆる時間というのは最高度の存在ではないという確信が存在する。


5 「履歴を消す」ことの実存論的解釈

 時間意識の変容は「時間性の修業」としてまとめられうる。自尊心と責任性の解釈を時間性に沿ってみるとどうなるだろうか。
 自尊心とは過去と未来のひとつの使い方である。責任性とは同様に過去と未来の一つの使い方である。自尊心を捨て去り、また捨てず、責任を持ってまた持たず。こうした矛盾的な言葉がドン ファンにはある。この矛盾は時間性の別の在り方を指示しているとしか考えられない。それは客観性へと頽落した時間を主体的に取り戻す運動である。
 歴史は客観的存在者ではなく現存在の存在様態である、というハイデッガーの言い方を援用すれば、それはカスタネダの「履歴を消す」にも妥当する。履歴を消すとはその都度その都度の実存を生きることである。かくして漠然と時間性の修行、時間の流動化の修行がまとめられる。


6 恐怖と不安

 ハイデッガーは非本来的気分としての恐怖、本来的気分としての不安という設定をする。
一方カスタネダは「守護者」への恐怖、知者の第一の敵として恐怖を設定し、また戦士は恐怖を正しく伴って、行動するという。この場合、適切な感情として不安的なものが設定されているという点で両者は同じである。恐怖は意識を失うことへ向かっているが、不安は意識そのもののある特別な可能性を示す。不安が開示するのは無であるとハイデッガーは言うが、その点ではカスタネダも同じように無というものに何らか言及せざるをえない。
 カスタネダ的文脈における不安とはトナール(意識)がもはや自同性を保てなくなったときに登場する。


7 受動=能動の萌芽(コントロールと放棄)

 「コントロールと放棄」の瞬間的達成は受動=能動の萌芽である。
 なぜ生きるのかという問いに対してドン ファンはこう答える。それは意志が決定するのであると。知者にはもはや第一段階の価値は存在しない。知者の行動は<管理された愚かさ>でしかない。
 しかしこの意志は半能動であり半受動である。コントロールと放棄は限界状況での実存である。コントロールと放棄はたんなる理想像ではない。それは意識の構造へと直進する。


8 受動=能動の同時的成立と「存在の重たさ」

 カスタネダの天才的表現として、この世界のリアルな超越は、実存が可能にする。いかなる意味でかというと、受動性と能動性を組み立てることがトナール(意識)の機能だという意味でである。意識の受動能動はのび広がっている。戦士とはこれを縮める者である。圧縮された受動能動=実存は固定された受動能動性を破壊する。


9 「楯」のメタファー

 カスタネダの超天才的表現として、「この世界への内在も、実存が可能にする。」
例として第四巻の「風のメタファー」を考えてみよう。圧縮された受動能動を経て再び生きるためには、「盾としての実存」が必要だ。というのはナワール(力の海=風)は受動能動の否定であるから。それは意識を吹き飛ばしてしまう。


10 自由への道と完璧さ

 <完璧さ>(IMPECCABILITY)とは「罪のないこと」である。
 <ふけること>(INDULGENCE)とは「執行猶予」である。
 第四巻でヘナロは、狙いをつけられても平然と振り返らずに歩く行為は罪を取り消す、という状況を説明している。それは何故だろうか。第二巻ではボタン鼻の少年への<良心>と<とが>に自由への可能性をドン ファンは見ている。罪の意識は罪へいざなう。同時に罪の意識は自由への根拠となる。これはキルケゴールの信念である。
 キルケゴールにとっては「自由が己を囚人となすこと」ここに存在の秘儀があるのであるが、逆にカスタネダはこの自分を受動とかす能動性からの脱出を、受動能動それ自体に求めている。
 共通していることは、超越への手がかりが受動能動性であること、時間性がその内容であるということである。




U 呪術師と現実


1 二重視と身体図式

「しないこと」(無為)は二重視の感覚を強いる。ここに明確で判断的な述語的知覚から前判断的前述語的知覚への移り行きがある。このような知覚はある程度根源的な世界を開示している。それは気分がすでに世界を開示しているのと同レベルのことであろう。二重視の知覚は奥行きの知覚に変容を与え知覚的世界の拡大を志向するとなっている。


2 共感覚と身体図式

 共通感覚よりもより深いレベルに共感覚がある。視覚と聴覚が混乱し、「音」を「見る」。だが感覚=意味とは同時に<方向>でなくてはならない。方向とは実存論の言う現存在にとっての第一義的空間のことである。方向を失うミショーのメスカリン体験との類似点がある。


3 夢見

 夢見は「夢の中でのしないこと(無為)」である。しかしそれは相変わらず単なる放棄ではない。それは受動能動である。注意力の謎とは受動能動の両義性にしか存在しない。「ただ一度決定的に獲得され、そしてこの獲得のおかげでそれであり続けるような自発性」とメルロ=ポンティは表現するが、これは同時に何かが習慣的に獲得されることに妥当な表現であろう。


4 「見ること」の様相1 弁証法的

 二つの知覚の間に真実があるとドン ファン マトゥスは言う。通常の知覚は「見ること」ではない。「見ること」は決してとどまらないことでもある。弁証法には正、反、合ではないような、とどまることを知らない運動的側面があるのではなかろうか。ドン ファンはしかし最初から見るに慣れるとふけるようになるので、戦士の精神が必要だとも言う。


5 「見ることの様相」2 同一性と差違性のたわむれ

 言い表すことのできない原因は同一性と差異性のたわむれにある。それであってそれでないという事態。いかなるものも前と同じだが同じではないということを実際に見る。この目の前の木が一瞬前の木であると同時に一瞬前の木ではない、ということはいかにして可能か。


6 「見ること」の様相3 メタファーの存在

 表現不能のものをメタファーが指示する。しかしメタファーが類似性をその機能とするにしても、その類似とはトナール(意識)の慰めでしかない。勿論この場合、言葉としてのメタファーが問題になるのではなく、知覚それ自体がメタファーだということである。トナールは己の<島>の上の項目を使うしか知覚しようがない。ということは恣意的なものであるのかというとそうでもない。


7 「見ること」の様相4 無を見る

 なぜゆえ恣意性から免れるのかというと、引きずられるようにメタファーが生じるからである。無とは何も無いことではなく、「力」を見ることである。力は意識がそれへ向かっていくものであると同時に引きずられるものである。これは受動能動的である。さらにここにはリクールのメタファー論で注目された<誘惑>の層がある。


8 習慣論への視座

 超越と習慣、内在と習慣には関係がある。「力をためて見なければならない」と同時に「見て力をためなければならない」。この<輪>は自律性の別の表現である。そのメカニズムは習慣性とどのように結びつくか。


9 習慣性における反復と受動能動

 習慣の生成と習慣の破壊は同一事の二面性である。ここにキルケゴールを接ぎ木することはできないのか。習慣とは単なる受動性ではなく、<反復>と<瞬間的達成>を持っている。まさしくただ一度決定的に獲得される自発性とは習慣性のメルクマールではないのか。


10 習慣性とメタファー

 メタファーとは習慣の破壊と生成でもある。メタファーとは何も意味がないところでの受動能動による意味の生成である。かようにして習慣は項目がないところでの新たな習慣の生成としてしか可視的にならない。習慣からの脱出は身体的であり、この身体は自律=受動能動である。それが死の場という反習慣的なものの中でひとつの根源的な習慣を打ち立てるというイメージ。これはカスタネダの語りにあって氾通的なものである。要するにカスタネダと実存論との違いはただにこの<習慣化不能=死>を<利用する>ということにつきる。死とはまわりに漂う<力>であり、それを利用するのが戦士である。


11 変形目的論の世界

 超越には方法が「ない」。習慣に方法がないのと同じである。一体何度ドン ファンは「どうやってかは言えん」と言ったことだろうか。習慣とは生体の論理である。それは無の危険性を伴う構造がとる形態である。カントの判断力批判の言い方をすれば「天才には方法が存在しない」。習慣にある方法とは反復のみであるが、それは方法ではなくて世界内存在の様態である。方法=手段が存在しなければ目的も存在しない。それらはトナール(意識)の盾である。習慣からの脱出はそれ自体習慣的であるというのが<輪>の第2のイメージである。


12 まとめ

 呪術的超越は「空間性の修業」でもある。それは別の仕方で知覚することだ。知覚のみが「出ていく」と言われるとき、意識を知覚と同一視することは不必要な還元に思われるが、逆に日常性が真に存在するものの幅を広げすぎてしまっているということが考えられる。物質も観念も知覚にとってはなにか余計なフィクションである。ではわれわれにとって知覚一元論とはいかなる意味を持ち得るのか、それが次の主題である。




V 知者の世界


1 記述の認識論 内的対話と学ばれた意識

  自分のおしゃべりによって世界を燃え立たせていること。そのおしゃべりをやめれば世界も止まる。まっさきに人が言及したのがウィトゲンシュタインだった。しかし内的対話とはひとつのメタファーにすぎない。基底部で共通しているのはこの対話がすでにして世界へと親しむ唯一の方法であり、習慣だということ。方法の方法は存在しない。だからいかにして認識するかという問いはハイデッガーと同様却下される。認識とはそれ自体が世界へ向かう手段であり、カスタネダはもう一つ別の手段を提示する。それは<意志>である。この意志が発動することをもって内的対話が止まると表現する。しかし意志が発動するのは学ばれなければならないことである。しかもこの学びは方法なき学びである。この意志が発動するのは、ちょうど認識が世界への親しみであるのと同様に親しまれなくてはならない。


2 記述の認識論2 感覚と感情の「として見ること」

 感覚と感情とはどうしようもないものだと思われてきたので、受動性というものがこれらに刻印されるが、そうではないんだとカスタネダは言う。つまり、感覚とは学ばれたものであり、感情もそうである。これらは力の翻訳である。ひとたび学ばれるとどんどん固定化してゆくので、「感じとる」ことが戦士であることとともに要求される。それらは脱焦点化の修行として現れるが、この脱焦点化によって、力が近づいてくる。ところがこの力は飼い慣らされていないので、弟子にできることはせいぜい「として見ること」でしかない。あるいは「として感じること」でしかない。怒りも喜びも学ばれたもの、感情の可能性は無限である。その一つが戦士の感情である「超絶さ」=DETACHMENTである。戦士の感情はしないことである。これは感情を抑えることではない。だから奇妙なことがおこる。戦士は通常の感情を真に受動することができないので、通常の感情的生活はすべて演技であり、管理された愚かさとなる。


3 記述の認識論3 光景とは何か

 カスタネダにとって、光景とは一つの力である。いかなる光景も一つの力である。とはいえ、それは光景を見て感動したり、光景から何か気分的なものを感じとるという意味ではない。光景とは一つの手がかりだということである。例えば一枚の葉を見つめるときにそれが変容していく。この意味で曼陀羅とは知覚的修行の道具であろう。ところが何に変容していくのかという問いには意味がない。意味があるのはその光景が力として利用するだけの価値があるのかということだ。いなずまの夜の体験。別の時間に移動したときの町の様子。それらの光景は「蓄えられる」。だから力なのだ。そしてこの光景が世界が止まるときに利用される。しかしこの光景はそのまま多様性であり、意識の統一のもとに配列されるような代物ではない。逆に光景自体、あるいはその集まりが意識の統一を内側から崩壊させる。


4 記憶の存在論1 トナールの島とナワールの海

 トナールという意識から意志を通して知覚が出ていく、と言われるとき、どこへ、という問いが立てられる。さながら漁師がつりをするように、知覚的意識はナワールの海で知覚を刈り取る。しかしながらトナールはナワールを「覚えていない」。だからここで<想起>の修行が立てられる。その前にトナールは存在の反映、ナワールは無の反映と呼ばれたことに注意する。すなわちナワールを想起するのではない。想起されるのは忘れられた自己の記憶だ。第4巻の知覚の泡の結論。がけの上から飛び降りたカルロスの知覚的意識は崖の下の様子は覚えていたが、崖の上のヘナロとの会話は忘れていた。記憶は知覚を集めることだが、この集めるプロセスで<私>が発生する。私が知覚を集めているのではなくて、集めた結果<私>が発生する。そういうわけで意識は記憶作用であるが、その裏にまわって見ることができない。意識は己にとって可視的では全然ない。その理由は根源的に忘れる作用がナワールとして働いているからだ。


5 記憶の存在論2 純粋過去の作用

 カスタネダの存在論では物質とか観念とかは知覚の変容でしかない。そして知覚というのはどこにでも存在するエネルギーである。ナワールを使えばこことあそこに同時に存在できる、といわれる。というのは存在が記憶だとすれば、自己の統一の中ではこことあそこに同時に存在していたわけではなく、<異なった記憶>を持っているはずだというのである。この記憶=存在は<効果>とされる。だからその裏にまわってみることのできないことと言われる。ナワールは認識することのできない力の世界である。が一方トナールも自らの認識を断念せざるを得ない意識である。それに合わせて自我はバラバラになっている。なぜといえば、自我とはその都度その都度の知覚上の効果でしかないのだから。


1 記憶の存在論3 忘却の海

 カントが受容的直観に与えた存在論的理由とは、多なるものがそれ自体で運動したら、少なくとも私の総合的統一のもとに秩序づけられる感性ではありえない、ということである。わたしが、わたしが、ということによって、わたしは自分とは異質の感性的表象の多様を貫く形で認識するのだが、その際にはその多なる感性はみんな死んでいなくてはならない。わたし一人だけが生きて動いて能動的であらねばならない。このとき感性的なものは私の予視、注意その他ありとある活動の獲物となる。にも拘わらず、この絶対的能動性が自我に最後まで付与されず、自我の中に時間性が入りこみ、この時間の触発が同時に自己であり、また他者であるというふうにカントが言ってしまったのは、存在が究極的には他者からもたらされるという確信があったからだ。思考の持つ能動性は存在からの受動性とは<ずれる>。このずれを解釈するためにドゥルーズはより深い受動的総合を持ち出して、差違というのを入れ込んだ。カントの受動能動はヘルダーリンの意図を通して死の本能へと言説を導くのだが、そうなるとナワール論は唯物論的精神分析の中に取り込まれるのかも知れない。実際ナワールはトナールが生だとすれば死であり、また性であり、別の記憶であるが、しかしそれ以上にナワールとは力である。

 カスタネダは力の特性のひとつに偶然性をあげている。その偶然性なるものを飼い慣らすこと、これが力の道であり、戦士を超えた知者の道である。


7 モナドロジー1 反映

 「この術が成功したという証拠は、いろいろと体験してきたにもかかわらず、いまになってもお前が自分のものだと主張できる理性という中核があると思っていることだ。だが、そんなものは幻影だ。お前の大事な理性とやらは、集合体の中心にすぎん。つまり、外のものを映す鏡にすぎないのだ。昨晩、お前は言葉ではあらわすことのできないナワールばかりでなく、言葉ではあらわすことのできないトナールもその目で見たのだ」

 理性はトナールの効果だけを目撃する。意志はナワールの効果だけを目撃する。そしてトナールとは秩序で満たされた表現不能の未知の反映であり、ナワールとはすべてを包含する表現不能の空虚の反映である。これが第四巻までのカスタネダの哲学の中心である。

 呪術師の見ることはトナールの裏にまわれないまでも、その効果と一体となっている。反映とは、いつでも一瞬遅れているということだ。効果とはこの根源的な遅れのことである。


8 モナドロジー2 外と内

 トナールもナワールも自己の外にありながら自己の外側にない。これが光を発する存在の逆説だとカスタネダのドン・ファンは言う。この逆説は解放を拒否する。空間性というのが感性の形式であり、これを除けば、外や内は意味をなさなくなる、というのはわかる。しかし本当に意味を失うのだったらどうしてそもそも内や外はあるように見えるのか。それはつぎのことと一緒に考えなくてはならないだろう。受動能動がひとつの大いなるくびきであるなら内と外もまた限界状況である。反省概念としての受動能動、内と外、これらは動揺する。そしてドン ファンはその動揺を利用する。が、その前に、なにゆえ我々には外と内が、受動と能動があるのか、こうした問いは決して立てられていない。


9 モナドロジー3 映し出されるもの

 映すということは効果であり、集合体であり、感覚の集合である。というより、諸々の感覚は「漂っている」。身体と霊魂とは別のものではない。ヘブライ思想のように生ける身体はそのまま霊魂であり、これの対概念はちりだ。この生ける身体は知覚の多の集まりであり、死ぬと、ちぎれたビーズ玉のようにバラバラに飛び散る。ナワールとはこの散乱した知覚が漂う海であり、トナールはこれらの諸知覚を集める効果である。知とは死であり力であると言われるのも、そもそも知自体は知者にとっては何か手段のようなものだからだ。知者の理念は自由であり、力をも超えた自由こそが最終目標である。さて、生ける身体にとって、自分が扱う知覚はもはやそれを表象とはしないようなものでなくてはならない。それはそのままで実践であり、それ自体運動するものである。

 「死が訪れると、個々の感覚は深く沈んで、かつてひとつにまとまっていたことなどなかったかのように、それぞれ独自に動くのだ」

 自己の全体性を持っている呪術師は、「自分の集合体の各部分をどんなやり方ででも指示して、参加するようにできる。・・・わしはこの集合体を知覚の泡と呼んだのだ」

 <知覚の泡を開いてナワールへ出ていく>しかし誰が出てゆくのか。自己ではない。自己とは再び知覚の泡を閉じるという効果でしかない。出ていくのは知覚である。そしてそれは意志的知覚と考えられている。(第六巻のかなり前、第二巻ですでに、意志というのを操作や運動ではなく<知覚上の関係>としていたのは誠に驚くべきことである。こういう記述を見ると、カスタネダは「本当にフィクションを書いたのか」(筆者の立場はこれである)ということが疑わしくなる。)


10 エマナチオとエピストロフェー

 最高存在者はイーグルである。それはタオの形、黒と白のまだら模様。知者たちのもくろみは死の瞬間、イーグルの翼の下を駆け抜けることだ。というのは死ぬとイーグルに放射物=魂を食われてしまうから。世界は放射物の層であり、呪術師、戦士、知者はその放射の流れに逆らって「顔を向けかえる」この話は第六巻から登場する。別の気分の話である。だがいろいろな精神的話がこの物質的話に還元される。例えば<愛>は<地球からのブースト(応援)>に。人間とは<輝く卵>=発光体である。この鋳型を人は神というが神は全く力無くたんなる鋳型にすぎない。人間のパターンを刻印する形にすぎない。この卵に放射物が絶えずぶちあたる。ころがる力とも呼ばれる。卵は全面に盾のようなものを持っていて、これで外圧、とくに太陽神経叢への攻撃を防いでいる。知覚は放射物との連合と呼ばれ、通常の集合点は肩胛骨の後ろから数センチ離れたところにある。

 この集合点を移動すること、これが呪術だ。この移動に2種類あって下方移動は古い記憶の世界。左移動は新しい知覚の可能性。古い呪術師たちは知覚が生ずるとき、外の放射物が中の放射物と整列しなければならないと信じたが、DJたちはどちらも同じ放射物だと言っている。


11 呪術師の戦略

 第4巻までの体系は次のようなものである。
  世界を止める
   正メソッド
     1 正しい歩き方
     2 期待なき行為

   補助メソッド
     1 履歴を消す
         死を助言者にする
         自尊心をなくす
         責任を負う

     2 夢見ること
         日常性を壊す
         力の足どり
         しないこと

 いわば実存主義が埋め込まれた補助メソッドの他に真の直接メソッドとして、何物にも焦点を合わせずに歩くという行為があった。これはトナールの光景を溢れさせることによって沈黙に導くプロセスだった。薬草体験は同じように<溢れさせる>。第3の注意力などということまで言い出すので、途中で図式を変えたのかと思ってしまうが、この<正しい歩き方>は第6巻でまた登場するのだから相当しつこい。

 トナールの<注意>はその創造物に向けられる。トナールは注意という様態で世界を維持する。なぜに第1メソッドがこのような地味なものであるのかというと、そもそもそれはカスタネダの言説の限界なのだが人間の運命というのが知覚にしかないというふうに悟っているふしがある。

 光景の多様性は、そしてそれへのいちいちの意味付けは「たいしたことはない」(カルロスが超絶体験で見たことを興奮して語るときのDJのコメントは概して*ふけっている*というものだ)光景とは切れているように見えて実は切れてない。映画のカットは幻影にすぎない。この知覚の泡の連続性をぶち破り、新たな知覚の連続性を確保することは第三巻では「力をためる」と表現され第8巻では<累積的=CUMULATIVE>と表現される。


12 光景論のまとめ

 なぜゆえ光景にこだわるのかというもう一つの理由は、目というのが比喩以上の意味を持ってくるから。目というのは感覚器官ではなくて(勿論感覚器官であるのはあたり前だが)存在器官である。当然のごとく、放射物を見るといっても目でみるわけではない。それは感じるということだろうが、それにしても見るということが人間存在の在り方だ。カスタネダは、ドイツ観念論のタームを少なくとも二つは持ち出す。シェリングの神の<収縮>とフィヒテの<目>。目は<意図をおびき寄せる>(この目にしても最初の第1巻からゆるやかに伏線がはられていて単純にフィクションを書いたとは信じられない厚みを持っている)

 光景は第一に、何度もそこへ戻らなくてはならない場である。死ぬときには人が何度も見た光景を通して死がぶつかる。光景は第二に累積的な力である。第三に意図とのきづなである。どれほど超越しようと目は光景を捉えるようにできている。カスタネダの世界では、生きるとは光景を持つことだ。




W トルテックの意図




1 意図の奴隷


 人間も動物も意図の奴隷だ、ラ・ゴルダの口を借りて今は亡きドン・ファンは語る。第5巻ですでに、上から落ちてくる岩の下敷きになる運命を避けることはできないと言われている。力の必然性に操られている人間の運命。ラ・ゴルダの拙い「意図の友人」という呼び方はそれでも事の真相に触れている。つまりここでも習慣性がテーマなのだ。

 親しむということ、これについて一体どれほどのことをカスタネダは言っただろうか。慣れ親しむとは一体どういうことか。考えるだに、また再び我々は受動能動論に戻っているのだ。



2 意図を学ぶ方法


 そんなものがあるとしたら、それは受動=能動でしかない。あるいは受動性と能動性の裂け目だ。ナワール・ファン・マトゥスは言う。

 「意図は命令することはできない。にも拘わらず命令することができる。これが呪術の鍵だ」

 第3巻において幻想の橋を渡るとき、意識は橋に存在しろと命令する。しかし橋はこの橋を渡るように意識に命令する。(このときシルヴィオ・マヌエルがいたのか)

 それが命令ではないのは、自分の命令とは断言できないからだ。それが命令であるのは意志を持たねばならないからだ。ところがこの意志は、欲望なき意志なのだ。それは<待つ>ということの別名でもある。

 この欲望なき意志だけがカルマの鎖を切ることができる。だがカスタネダはカルマなどということはどこにも言ってない。



3 沈黙の知 手順を踏まないこと


 動くために「非常に深いレベルで意図する」夢見の体をリアライズすることは、さながら跳躍の連続である。この動きは総括的意図の言説のコアとなる。つまり意図の正体は沈黙である。「暗闇の瞬間、内的対話を止めたとき以上に静かな瞬間だそうよ。その暗闇、その静寂が第二の注意力に命令を下して、なにかをさせる意図を生み出すの。だからそれは意志と呼ばれているのよ。その意図と効果が意志なの。」沈黙の知はすでに第6巻でラ・ゴルダの口から言われている。

 意図はイーグルの命令。己の命令をイーグルの命令にすることができるということ。その手順は存在しない。いかにしてかを言えない。しかしそれは単なる否定ではなくて、この世界に住み着く手段が、この身体に住み着く手段が習慣性であり、根源的習慣であるから、手順が存在しないのであり非常に深い所でわれわれは「すべてを知っている」。そのどうやってかを言えないのだが、知っているということ。

我考えない、ゆえに我知るだ。「人間の集合点がまゆの特定部分に現れるのは、それがイーグルの命令だからなんだ。だが、正確な場所は習慣、つまり繰り返しの行為によって決定されるんだよ。まずわしらは、それがその場所に置けるということを学び、それからそこに定着せよと命令する。わしらの命令はイーグルの命令になり、集合点はそこに固定される。このところをよく考えるんだ。わしらの命令がイーグルの命令になるんだぞ」



4 全体性と意志


 当初の枠組み(第4巻)では、
 意識  第1の注意力 島 トナール
 意志  第2の注意力 海 ナワール
であった。それが第5巻で第3の注意力などということが言われて話が混乱する。

 また内的対話を止めるということが第3巻の絶頂だったのだが、第7巻ではそれに新しい枠組みが付加される。内的対話とは子どものころから聞かされる世界の記述だ。これは第4巻ではトナールの島の上にある盾だとされていた。しかし、内的対話を止めることに関して、それに意志が関与しているというのが第7巻である。

内的対話はそれが始まったようにして終わる。その始まりは意志だ。内的対話をするように<意図している>だから終わらすことができるのも意志であり意図を持つことなのだ、という。

 全体性とは、一度焦点が放射物の中を動いたときのことを想起すること。

 この点で、ナムカイ・ノルブが紹介するチベット密教のやり方と似ている。薬草体験はいやおうなしの脱焦点化であり、このときの知覚の集合点を再度辿り直すこと、これが自己の全体性に達する知者の道であった。



5 夢見と意図


 夢の中では自然に集合点が左に動く。この移動に意識的に干渉すると夢見は起こらない。しかし命令せずして命令するという微妙なあり方でこの移動による<新しい放射物>へ焦点を合わせることができる。

 夢の中でのある行為を反復することによって、その行為が意図を生み出す。その意図は内的な静寂へと導き、つぎにこの静寂が内的な力を生みだし、それが集合点を適当な位置に移動させる。しかしこの記述(第7巻)によっては、わたしの意志=命令がいかにして客観的な意志=命令になるのかわからない。使われているタームは沈黙であり、静寂であり、強さである。

 人間の意識の集合点が動くということが呪術の鍵であり、この動きに3種類あるようだ。つまり自然に動いてしまうと狂人になり、強制的に動かすのが薬草体験であり、夢を利用して 意識を持ったまま受動=能動的に動かすのが呪術だ。この受動=能動の別の側面が<信じるということ>(第4巻)であろう。

 信じることにおける意志の分裂、あるいは空虚さへの意志、それが呪術的状況においては単なる空虚への志向性ではなくて、すでにそうなっている未来、追い越された未来への最も密やかな志向性でなくてはならない。意志はそこではいかなる手段も剥奪されている。が意志それ自体における連続性、この何も見えない連続性を指して、<平静さ>とドン・ファンは呼んだのだろう。

 夢の中で記念すべき一歩を踏み出すために、カルロスは<信じなければならなかった>。しかもいかなる根拠もなしに。完璧さとは第一に時間がないこと。第二に子どもを持っていないこと。第三に信じなければならないこと。時間がないので信じなければならない。信じるだけの時間しかない。



6 カルマと知者の旅


 ワイスの前世療法を見ると、実に心が慰められる。この物語はカルマというのを何らか肯定すべきものとしている。カルマからの脱出、サンスカーラに対するニルヴァーナという構図では見ていない。因果応報ではなく、純粋過去の反復強迫である。

カスタネダはカルマ論者ではない。しかしカルマ論と共通の問題を抱えている。それは一体決定論がどうして自由と両立しえるのかというかなり古くさい問題だ。

 第3巻の答えは、循環というものだった。なぜ力の道が存在するのか。それは力そのものが要請するのだ。この力の運動は力の物語と呼ばれる。



7 時間と自由と反復/要約


 過去を要約することが自己の全体性にいたり、この全体性が自由への道とされている。それで、力は力の物語の中に置かれることになる。

 過去を要約する、つまりカスタネダ的反復は、分身をつくるということである。宇宙の力は捕獲者の力であり、知覚もまた捕獲者の知覚であり、死はイーグルによって喰われることだ。しかし全体性を獲得した知者は イーグルに反復で得た偽物をつかませることができる。これがドンファンの不老不死の物語であった。



8 純粋過去の物語


 「ふつうの人間は過去に照らして自分を測ろうとする。・・・ただ呪術師だけが過去の中に参照の基準を求めるのさ」

 第3巻までのみずみずしい表現をかなぐり捨ててまで、カスタネダは己の哲学を追求する。「参照の基準」?

 過去の中に参照の基準を求めるのはドン ファンだけではない。それはドゥルーズがプルーストやベルクソンを引用して求める、一つの幸福への道であった。過去はその場合、絶対的な過去であり、現在を過ぎ去らせるという意味での過去性、時間の根拠である。



9 純粋現在の物語


 「呪術師が抽象の核と理解しているものは、いまこの瞬間にもおまえの横をすりぬけていく何かなんだ。おまえが取り逃がしているその何かは、呪術師たちには意志の建築物とか、精霊の沈黙の声とか、抽象の秘められた秩序とかいう名前で知られている」

「抽象=ABSTRACT」とは、要約のことである。今現在はいつでも取り逃がされている。実際的であること、それはいつでも未来へと向けられている。精霊の沈黙の声は純粋な現在である。



10 意志と意識


 「意志から意識への結びつきを<関心>といい、意識からの意志への結びつきを<純粋理解>という」

 これは完璧に西洋哲学とみなくてはならない。関心というタームのもってきかた、意識から意志への純水理解というのはまだ常識的であるにせよ、意志の項目として「関心 interest」を持ってくるのは、まさにこの語 interesse=間存在にこだわる西洋哲学の圏内にあるのである。



11 情熱と愛


 「ただゆるぎない情熱を持ってこの大地を愛するときにだけ人は悲しみから解放される。・・・戦士がいつも嬉々としているのは、その愛が不変で、愛する大地のふところに抱かれ、思いがけない恵みを授かるからだ。悲しみは、自分の存在を保護してくれるものにたいして憎しみを抱く者だけが持つ感情だ。その最後の休息のときまで生きて、あらゆる感情を理解してくれるこのいとしい存在が、わしを慰め、苦痛をいやしてくれたんだ。そしてわしがこの大地を愛していることを完全に理解したとき、はじめてそいつが教えてくれたのさ、自由をな」

 愛は学ぶべきことですらない。すでに愛しているということ、すでに愛せるということ、ここから出発しなくてはならない。それはすでに自由であるということを意味する。ではなぜ人は愛さず、自由でないのだろうか。なぜわざわざ不幸になるのだろうか。なぜ生への情熱は枯渇するのだろうか。



12 未知と愛


 「欲で未知へ冒険に出かけるか?そんなことはありえないことさ。欲深さというのは、日常的な世界でだけ起こることなんだ。恐ろしいほどの孤独へ冒険に旅立つためには、欲深さよりもはるかに大きな何かをもっていなければならないんだ。愛だよ。生への、陰謀への、謎への愛だ。消えることのない好奇心とありあまるガッツが必要なのさ。」



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