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| T 戦士の精神 |
| U 呪術師と現実 |
| V 知者の世界 |
カスタネダは力の特性のひとつに偶然性をあげている。その偶然性なるものを飼い慣らすこと、これが力の道であり、戦士を超えた知者の道である。
理性はトナールの効果だけを目撃する。意志はナワールの効果だけを目撃する。そしてトナールとは秩序で満たされた表現不能の未知の反映であり、ナワールとはすべてを包含する表現不能の空虚の反映である。これが第四巻までのカスタネダの哲学の中心である。
呪術師の見ることはトナールの裏にまわれないまでも、その効果と一体となっている。反映とは、いつでも一瞬遅れているということだ。効果とはこの根源的な遅れのことである。
「死が訪れると、個々の感覚は深く沈んで、かつてひとつにまとまっていたことなどなかったかのように、それぞれ独自に動くのだ」
自己の全体性を持っている呪術師は、「自分の集合体の各部分をどんなやり方ででも指示して、参加するようにできる。・・・わしはこの集合体を知覚の泡と呼んだのだ」
<知覚の泡を開いてナワールへ出ていく>しかし誰が出てゆくのか。自己ではない。自己とは再び知覚の泡を閉じるという効果でしかない。出ていくのは知覚である。そしてそれは意志的知覚と考えられている。(第六巻のかなり前、第二巻ですでに、意志というのを操作や運動ではなく<知覚上の関係>としていたのは誠に驚くべきことである。こういう記述を見ると、カスタネダは「本当にフィクションを書いたのか」(筆者の立場はこれである)ということが疑わしくなる。)
この集合点を移動すること、これが呪術だ。この移動に2種類あって下方移動は古い記憶の世界。左移動は新しい知覚の可能性。古い呪術師たちは知覚が生ずるとき、外の放射物が中の放射物と整列しなければならないと信じたが、DJたちはどちらも同じ放射物だと言っている。
いわば実存主義が埋め込まれた補助メソッドの他に真の直接メソッドとして、何物にも焦点を合わせずに歩くという行為があった。これはトナールの光景を溢れさせることによって沈黙に導くプロセスだった。薬草体験は同じように<溢れさせる>。第3の注意力などということまで言い出すので、途中で図式を変えたのかと思ってしまうが、この<正しい歩き方>は第6巻でまた登場するのだから相当しつこい。
トナールの<注意>はその創造物に向けられる。トナールは注意という様態で世界を維持する。なぜに第1メソッドがこのような地味なものであるのかというと、そもそもそれはカスタネダの言説の限界なのだが人間の運命というのが知覚にしかないというふうに悟っているふしがある。
光景の多様性は、そしてそれへのいちいちの意味付けは「たいしたことはない」(カルロスが超絶体験で見たことを興奮して語るときのDJのコメントは概して*ふけっている*というものだ)光景とは切れているように見えて実は切れてない。映画のカットは幻影にすぎない。この知覚の泡の連続性をぶち破り、新たな知覚の連続性を確保することは第三巻では「力をためる」と表現され第8巻では<累積的=CUMULATIVE>と表現される。
光景は第一に、何度もそこへ戻らなくてはならない場である。死ぬときには人が何度も見た光景を通して死がぶつかる。光景は第二に累積的な力である。第三に意図とのきづなである。どれほど超越しようと目は光景を捉えるようにできている。カスタネダの世界では、生きるとは光景を持つことだ。 親しむということ、これについて一体どれほどのことをカスタネダは言っただろうか。慣れ親しむとは一体どういうことか。考えるだに、また再び我々は受動能動論に戻っているのだ。
「意図は命令することはできない。にも拘わらず命令することができる。これが呪術の鍵だ」
第3巻において幻想の橋を渡るとき、意識は橋に存在しろと命令する。しかし橋はこの橋を渡るように意識に命令する。(このときシルヴィオ・マヌエルがいたのか)
それが命令ではないのは、自分の命令とは断言できないからだ。それが命令であるのは意志を持たねばならないからだ。ところがこの意志は、欲望なき意志なのだ。それは<待つ>ということの別名でもある。
この欲望なき意志だけがカルマの鎖を切ることができる。だがカスタネダはカルマなどということはどこにも言ってない。
意図はイーグルの命令。己の命令をイーグルの命令にすることができるということ。その手順は存在しない。いかにしてかを言えない。しかしそれは単なる否定ではなくて、この世界に住み着く手段が、この身体に住み着く手段が習慣性であり、根源的習慣であるから、手順が存在しないのであり非常に深い所でわれわれは「すべてを知っている」。そのどうやってかを言えないのだが、知っているということ。
我考えない、ゆえに我知るだ。「人間の集合点がまゆの特定部分に現れるのは、それがイーグルの命令だからなんだ。だが、正確な場所は習慣、つまり繰り返しの行為によって決定されるんだよ。まずわしらは、それがその場所に置けるということを学び、それからそこに定着せよと命令する。わしらの命令はイーグルの命令になり、集合点はそこに固定される。このところをよく考えるんだ。わしらの命令がイーグルの命令になるんだぞ」
また内的対話を止めるということが第3巻の絶頂だったのだが、第7巻ではそれに新しい枠組みが付加される。内的対話とは子どものころから聞かされる世界の記述だ。これは第4巻ではトナールの島の上にある盾だとされていた。しかし、内的対話を止めることに関して、それに意志が関与しているというのが第7巻である。
内的対話はそれが始まったようにして終わる。その始まりは意志だ。内的対話をするように<意図している>だから終わらすことができるのも意志であり意図を持つことなのだ、という。
全体性とは、一度焦点が放射物の中を動いたときのことを想起すること。
この点で、ナムカイ・ノルブが紹介するチベット密教のやり方と似ている。薬草体験はいやおうなしの脱焦点化であり、このときの知覚の集合点を再度辿り直すこと、これが自己の全体性に達する知者の道であった。
夢の中でのある行為を反復することによって、その行為が意図を生み出す。その意図は内的な静寂へと導き、つぎにこの静寂が内的な力を生みだし、それが集合点を適当な位置に移動させる。しかしこの記述(第7巻)によっては、わたしの意志=命令がいかにして客観的な意志=命令になるのかわからない。使われているタームは沈黙であり、静寂であり、強さである。
人間の意識の集合点が動くということが呪術の鍵であり、この動きに3種類あるようだ。つまり自然に動いてしまうと狂人になり、強制的に動かすのが薬草体験であり、夢を利用して
意識を持ったまま受動=能動的に動かすのが呪術だ。この受動=能動の別の側面が<信じるということ>(第4巻)であろう。
信じることにおける意志の分裂、あるいは空虚さへの意志、それが呪術的状況においては単なる空虚への志向性ではなくて、すでにそうなっている未来、追い越された未来への最も密やかな志向性でなくてはならない。意志はそこではいかなる手段も剥奪されている。が意志それ自体における連続性、この何も見えない連続性を指して、<平静さ>とドン・ファンは呼んだのだろう。
夢の中で記念すべき一歩を踏み出すために、カルロスは<信じなければならなかった>。しかもいかなる根拠もなしに。完璧さとは第一に時間がないこと。第二に子どもを持っていないこと。第三に信じなければならないこと。時間がないので信じなければならない。信じるだけの時間しかない。
カスタネダはカルマ論者ではない。しかしカルマ論と共通の問題を抱えている。それは一体決定論がどうして自由と両立しえるのかというかなり古くさい問題だ。
第3巻の答えは、循環というものだった。なぜ力の道が存在するのか。それは力そのものが要請するのだ。この力の運動は力の物語と呼ばれる。
過去を要約する、つまりカスタネダ的反復は、分身をつくるということである。宇宙の力は捕獲者の力であり、知覚もまた捕獲者の知覚であり、死はイーグルによって喰われることだ。しかし全体性を獲得した知者は イーグルに反復で得た偽物をつかませることができる。これがドンファンの不老不死の物語であった。
第3巻までのみずみずしい表現をかなぐり捨ててまで、カスタネダは己の哲学を追求する。「参照の基準」?
過去の中に参照の基準を求めるのはドン ファンだけではない。それはドゥルーズがプルーストやベルクソンを引用して求める、一つの幸福への道であった。過去はその場合、絶対的な過去であり、現在を過ぎ去らせるという意味での過去性、時間の根拠である。
「呪術師が抽象の核と理解しているものは、いまこの瞬間にもおまえの横をすりぬけていく何かなんだ。おまえが取り逃がしているその何かは、呪術師たちには意志の建築物とか、精霊の沈黙の声とか、抽象の秘められた秩序とかいう名前で知られている」
「抽象=ABSTRACT」とは、要約のことである。今現在はいつでも取り逃がされている。実際的であること、それはいつでも未来へと向けられている。精霊の沈黙の声は純粋な現在である。
「意志から意識への結びつきを<関心>といい、意識からの意志への結びつきを<純粋理解>という」
これは完璧に西洋哲学とみなくてはならない。関心というタームのもってきかた、意識から意志への純水理解というのはまだ常識的であるにせよ、意志の項目として「関心 interest」を持ってくるのは、まさにこの語 interesse=間存在にこだわる西洋哲学の圏内にあるのである。
「ただゆるぎない情熱を持ってこの大地を愛するときにだけ人は悲しみから解放される。・・・戦士がいつも嬉々としているのは、その愛が不変で、愛する大地のふところに抱かれ、思いがけない恵みを授かるからだ。悲しみは、自分の存在を保護してくれるものにたいして憎しみを抱く者だけが持つ感情だ。その最後の休息のときまで生きて、あらゆる感情を理解してくれるこのいとしい存在が、わしを慰め、苦痛をいやしてくれたんだ。そしてわしがこの大地を愛していることを完全に理解したとき、はじめてそいつが教えてくれたのさ、自由をな」
愛は学ぶべきことですらない。すでに愛しているということ、すでに愛せるということ、ここから出発しなくてはならない。それはすでに自由であるということを意味する。ではなぜ人は愛さず、自由でないのだろうか。なぜわざわざ不幸になるのだろうか。なぜ生への情熱は枯渇するのだろうか。
7 モナドロジー1 反映
「この術が成功したという証拠は、いろいろと体験してきたにもかかわらず、いまになってもお前が自分のものだと主張できる理性という中核があると思っていることだ。だが、そんなものは幻影だ。お前の大事な理性とやらは、集合体の中心にすぎん。つまり、外のものを映す鏡にすぎないのだ。昨晩、お前は言葉ではあらわすことのできないナワールばかりでなく、言葉ではあらわすことのできないトナールもその目で見たのだ」
8 モナドロジー2 外と内
トナールもナワールも自己の外にありながら自己の外側にない。これが光を発する存在の逆説だとカスタネダのドン・ファンは言う。この逆説は解放を拒否する。空間性というのが感性の形式であり、これを除けば、外や内は意味をなさなくなる、というのはわかる。しかし本当に意味を失うのだったらどうしてそもそも内や外はあるように見えるのか。それはつぎのことと一緒に考えなくてはならないだろう。受動能動がひとつの大いなるくびきであるなら内と外もまた限界状況である。反省概念としての受動能動、内と外、これらは動揺する。そしてドン ファンはその動揺を利用する。が、その前に、なにゆえ我々には外と内が、受動と能動があるのか、こうした問いは決して立てられていない。
9 モナドロジー3 映し出されるもの
映すということは効果であり、集合体であり、感覚の集合である。というより、諸々の感覚は「漂っている」。身体と霊魂とは別のものではない。ヘブライ思想のように生ける身体はそのまま霊魂であり、これの対概念はちりだ。この生ける身体は知覚の多の集まりであり、死ぬと、ちぎれたビーズ玉のようにバラバラに飛び散る。ナワールとはこの散乱した知覚が漂う海であり、トナールはこれらの諸知覚を集める効果である。知とは死であり力であると言われるのも、そもそも知自体は知者にとっては何か手段のようなものだからだ。知者の理念は自由であり、力をも超えた自由こそが最終目標である。さて、生ける身体にとって、自分が扱う知覚はもはやそれを表象とはしないようなものでなくてはならない。それはそのままで実践であり、それ自体運動するものである。
10 エマナチオとエピストロフェー
最高存在者はイーグルである。それはタオの形、黒と白のまだら模様。知者たちのもくろみは死の瞬間、イーグルの翼の下を駆け抜けることだ。というのは死ぬとイーグルに放射物=魂を食われてしまうから。世界は放射物の層であり、呪術師、戦士、知者はその放射の流れに逆らって「顔を向けかえる」この話は第六巻から登場する。別の気分の話である。だがいろいろな精神的話がこの物質的話に還元される。例えば<愛>は<地球からのブースト(応援)>に。人間とは<輝く卵>=発光体である。この鋳型を人は神というが神は全く力無くたんなる鋳型にすぎない。人間のパターンを刻印する形にすぎない。この卵に放射物が絶えずぶちあたる。ころがる力とも呼ばれる。卵は全面に盾のようなものを持っていて、これで外圧、とくに太陽神経叢への攻撃を防いでいる。知覚は放射物との連合と呼ばれ、通常の集合点は肩胛骨の後ろから数センチ離れたところにある。
11 呪術師の戦略
第4巻までの体系は次のようなものである。
世界を止める
正メソッド
1 正しい歩き方
2 期待なき行為
補助メソッド
1 履歴を消す
死を助言者にする
自尊心をなくす
責任を負う
2 夢見ること
日常性を壊す
力の足どり
しないこと
12 光景論のまとめ
なぜゆえ光景にこだわるのかというもう一つの理由は、目というのが比喩以上の意味を持ってくるから。目というのは感覚器官ではなくて(勿論感覚器官であるのはあたり前だが)存在器官である。当然のごとく、放射物を見るといっても目でみるわけではない。それは感じるということだろうが、それにしても見るということが人間存在の在り方だ。カスタネダは、ドイツ観念論のタームを少なくとも二つは持ち出す。シェリングの神の<収縮>とフィヒテの<目>。目は<意図をおびき寄せる>(この目にしても最初の第1巻からゆるやかに伏線がはられていて単純にフィクションを書いたとは信じられない厚みを持っている)
W トルテックの意図
1 意図の奴隷
人間も動物も意図の奴隷だ、ラ・ゴルダの口を借りて今は亡きドン・ファンは語る。第5巻ですでに、上から落ちてくる岩の下敷きになる運命を避けることはできないと言われている。力の必然性に操られている人間の運命。ラ・ゴルダの拙い「意図の友人」という呼び方はそれでも事の真相に触れている。つまりここでも習慣性がテーマなのだ。
2 意図を学ぶ方法
そんなものがあるとしたら、それは受動=能動でしかない。あるいは受動性と能動性の裂け目だ。ナワール・ファン・マトゥスは言う。
3 沈黙の知 手順を踏まないこと
動くために「非常に深いレベルで意図する」夢見の体をリアライズすることは、さながら跳躍の連続である。この動きは総括的意図の言説のコアとなる。つまり意図の正体は沈黙である。「暗闇の瞬間、内的対話を止めたとき以上に静かな瞬間だそうよ。その暗闇、その静寂が第二の注意力に命令を下して、なにかをさせる意図を生み出すの。だからそれは意志と呼ばれているのよ。その意図と効果が意志なの。」沈黙の知はすでに第6巻でラ・ゴルダの口から言われている。
4 全体性と意志
当初の枠組み(第4巻)では、
意識 第1の注意力 島 トナール
意志 第2の注意力 海 ナワール
であった。それが第5巻で第3の注意力などということが言われて話が混乱する。
5 夢見と意図
夢の中では自然に集合点が左に動く。この移動に意識的に干渉すると夢見は起こらない。しかし命令せずして命令するという微妙なあり方でこの移動による<新しい放射物>へ焦点を合わせることができる。
6 カルマと知者の旅
ワイスの前世療法を見ると、実に心が慰められる。この物語はカルマというのを何らか肯定すべきものとしている。カルマからの脱出、サンスカーラに対するニルヴァーナという構図では見ていない。因果応報ではなく、純粋過去の反復強迫である。
7 時間と自由と反復/要約
過去を要約することが自己の全体性にいたり、この全体性が自由への道とされている。それで、力は力の物語の中に置かれることになる。
8 純粋過去の物語
「ふつうの人間は過去に照らして自分を測ろうとする。・・・ただ呪術師だけが過去の中に参照の基準を求めるのさ」
9 純粋現在の物語
10 意志と意識
11 情熱と愛
12 未知と愛
「欲で未知へ冒険に出かけるか?そんなことはありえないことさ。欲深さというのは、日常的な世界でだけ起こることなんだ。恐ろしいほどの孤独へ冒険に旅立つためには、欲深さよりもはるかに大きな何かをもっていなければならないんだ。愛だよ。生への、陰謀への、謎への愛だ。消えることのない好奇心とありあまるガッツが必要なのさ。」