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イストラン
[ 2862 to イストラン ] 3/22/Sun/2004 |
キルケゴールとカスタネダには相当な類似点がある。しかしまた相違点もある。この相違点の方をあらかじめ先に指摘しておくならば、それは<倫理>というものについての考え方の相違である。しかしまた、この相違はただの相違といってしかるべきものではなく、この点をめぐって読者はそれこそ無限の反省に巻き込まれる。
一つ、例として、言われていることの半分は同じだが半分は異なる、という場面を引用してみよう。
カスタネダの第四巻、Tales of Power(邦訳『未知の次元』には、それまでの修行過程がまとめられている「呪術師の戦略」という箇所がある。
その中で、<世界を止める>という大目的の主たるメソッドとして、<正しい歩き方>と<報酬なき行為>というものが言われている。
それが主たるメソッドだというのは、一見するとカルロスにとっては非常に大事であった<見ること>というものが実は弟子の注意をそらす技にすぎず、本当の問題はこの報酬無き行為であった、というふうになっているからである。
「重要な問題から弟子の注意をそらすのが師の技なのだと、彼は説明した。この適切な例は、彼がわたしに術を施しながらある最も重要な点、つまり「報酬なき行為」を学ばせようとしていたということを、わたしが今日までさとらなかったという事実だった。
この原理に従って、お前の関心を「見ること」という考えのまわりに結集させていたのだ、と彼は言った。この「見ること」こそ、正しく理解されれば、直接「ナワール」と交流する行為であり、それは教えの避けることのできない最終結果であるが、課題それ自体としては決して達成できない課題なのである」(『未知の次元』332−)
一方キルケゴールもまた<報酬なき行為>にこだわる。
「真の倫理的感激とは、なによりも全力をかけてある行動にうって出ようとする意志の純粋さにあるが、しかしまた同時に、その行動の結果や効果のいかんを神にゆだねて一切問わない信仰的超越のゆとりに支えられてもいるのだ。意志が結果や効果に気を取られはじめるやいなや、個人は非倫理の領域に足を踏み入れることになる。そのとき意志のエネルギーは衰弱するか、さもなければ異常な方向に発達して、報酬ばかり気にする不健全で非倫理的な欲求となる。そうしたエネルギーは、たとえ偉大なことを成し遂げたとしても、倫理的には全く的はずれと言わざるをえない。主体たる個人は、まさに倫理的次元とは別の領域に意志のエネルギーを振り向けたからである。」(『哲学的断片への結びとしての非学問的後書き』上、242、白水社)
同じ<報酬無き行為>が、カスタネダのドンファンにとっては世界を止めることに直結し、キルケゴールにとっては倫理性に直結する。しかしながら、倫理性をめぐるこの大きな違いにも拘わらず、ここでキルケゴールはたんなる倫理性にとってはあまりでくわすことのない語彙を使っているのである。それは<意志のエネルギー>ということである。そして我々は嫌というほどドンファンが<意志>と<力>について語ったのを読むことができる。
双方の意志性には共通点がある。純粋な意志とは何かという目線である。孫のルシオのオートバイが欲しいという<欲求>に対して、ドンファンが言う意志は、不可能を可能にし、腹の辺りから出てくる光の束のようなものである、という<物質性>につきまとわれている。しかしそれはたんにそのように記述されるならば、こういう<報酬無き行為>という<意味>に接続する必然性がない。人はドンファンがマニピューラチャクラについて語っていると思うかも知れないが、そんな比較では収まりのつかない事態が生じている。
なぜ彼らは報酬無き行為にとりつかれたのか、その理解や説得性の地盤はどこにあるのか。その問いによって、彼ら二人が同じようなことを地盤にしていたということに導かれるのである。つまり、実存の時間性という。
ここでカスタネダオンリーの人には一つ譲歩してもらいたいことがある。それは、たとえドンファン言説がどれほど独自に見え、かつ相当な魅力を湛えているにせよ、ドンファン言説の奥の奥には非常に一般的な語彙が鎮座していて、それに対しては、他の言説とさして変わらない<意味の道>を読者としては辿らざるをえないということである。二、三の例を挙げるならば、<自由>というものがある。戦士はすべてがどうでもいいと悟るまで死にものぐるいの努力をする、そして知者の自由が、古代の力的呪術師たちに対するにドンファンの系統の産物とされる自由が登場する。また<愛>というものがある。地球のブーストとしての愛、ドン・ヘナロが床の上を泳いでいるときのコメントは、大地が彼を「愛している」というものだった。
このような概念を超越概念と名付けるならば、その超越概念の下に、あるいはまわりに、もう少し構造化された概念系がある。ここで追求したいのはそうした概念系の一つである。