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TOPIC 全体性について
 
Subject 全体性について
Author イストラン [ 2754 new post ]  12/23/Mon/2003   

今新着20の方を見たら2750に対して2751がレスとしてあったので、再度消えた2750の代わりに投稿しておきます。


>でもですね、このことはドン・ファンにかぎらず、たとえば「聖書」でもいたるところに存在しますよ。実際、ドン・ファンは別のところで、カスタネダからある「矛盾」を指摘されて、「あるのは言葉のうえでの矛盾だけだ」と答えていますよね。あるどこかのお馬鹿が鬼の首でも取ったように日付の矛盾を指摘していたことがありますが、この種のことを言ったらキリがないんじゃないでしょうか?フィールド・ワークのメモと考えればですね。

 それは現実に「フィールドワーク」というものが存在したということを前提にしてます。しかし、出せ出せ言われてやっと出てきた30頁ほどのものを見て、『ロシア・きのこ・歴史』を書いたゴードン・ワッソンはそれが信じられなかった。もし仮にまともなフィールドワークを出したならば、文化人類学界でスキャンダルになることなどなかったでしょう。
 つまり私が指摘したいのは、カスタネダをなんとかして救おうとする人たちは、おうおうにして「信じている」ということなのですよ、ほんの小さなことから始まって。そのほんの小さなことは馬鹿にはできんのです。なぜなら、それはまさに貴殿の今述べられたことが示しているように、他のものの補完として役立つからです。そうして断片的な信念が相互に補完し、力をつけあっている。


>mosquitoさんが、「今日の一言」でおっしゃてるように。
>「怒りと悲しみは、無力感への反応だ。」(「意識への回帰」p.65, l.10-11.)
>日々の生活の中で、実感します。返す言葉なし。
>そして、貴方もこれに対して、「異議なし。」とおっしゃってる。

 それ端的に読み違いです。私のレスはこの文に対してはではない。


>あなたの<意志>に対する位置づけは、それはそれとして貴方自身の考えるチャームポイントとして受けたまわります。でも私自身のカスタネダから受ける最大のチャームポイントは、「意識のへの回帰」と「沈黙の力」、とりわけ「沈黙の力」で記述されている「全体性」ですね。これらを読んだときの感想は、「おいおい、こういうことだったらもっと早くにだしてくれよ」でしたね。「全体性」という言葉自体は、「未知の次元」でも言われてますが、ドン・ファンは、「まだその時期ではない」といってます。

 「まだその時期ではない」というのは違うと思います。全体性とはトナールとナワールの全体性のことでしょう。トナールとナワールの話が通しで説明されているのは第四巻だけです。実に第四巻こそトナール/ナワール論だと言える。


>私は、あなたのおっしゃる「非意志」とは、我々がふつうの日常で使っているmindのことじゃないかと思っています。で「意志」というのはreal mind 、正確には「無限」と呼ばれる「力」との相関関係を強めたときの状態が「意志」ではないかという風に理解しております。

 非意志と言わせてもらったのは、第三巻でいえば、<コントロールと放棄>と言われる<放棄>の部分で、第四巻のトナール・ナワール論の邦訳では<解き放しと掴み>の<解き放し>の部分です。全体を通してこの意志/非意志が出てきて、わたしはそれを便宜上、受動能動性と呼んできました。


>嘘だろうがホントだろうが、かれは「力の構想の実現」を阻むことができなかった。

 それはちょっとなぁ。どう言っていいんだろうか。<同意 acquiesce>という観念は確かに始めから重要なものとしてあります。第七巻でも第八巻でも、また第四巻でも。それは受動性の究極の姿の一つかもしれない。しかしですね、カスタネダの<現実の道のり>をドンファンが証示した「力の構想の実現」とみなしてしまうことと、ドンファン思想の中での内的整合性としての力の構想の実現というのをまったく区別しないということですか?そういうのが信じられません。もっと具体的につめてみたい。もしもそういうふうに見てしまったら、その後のカスタネダも含めて、「すべて良い」とする一種の神格化のような印象を持ってしまうのですね、私は。大方の期待を裏切って胃ガンで死んでしまったことも、女弟子たちが自殺したことも、すべて後づけで「力のデザイン」となってしまうではないですか。この点どうなんだろう。まあそれでもいいかもしれんが、力の構想という見方捉え方は、どこの宗教人、宗教団体にもごちゃまんとあるわけです。いわく私がこうなるのは天命だったのだ、とか。あるいは新入会員にこう言ってくるところもありますね。「貴方がここへ来たのは偶然ではない」とか。実際私はさる団体へ行ってそう言われた。しかしながら、「この世の中には、感知できないが超越した意図のようなものがあって、それが摂理的にこの世を動かしているのだ」、そうした思考はカスタネダ思想をカスタネダ思想たらしめているもの<ではない>気がします。同意の問題は先に言及した受動能動ないしコントロールと放棄というテーマにからめて、じっくり解きほぐしていきたいと思う。


>「全体性」が謎を秘めた言葉として、カスタネダにチラつかされるのは、4冊目の「未知の次元」に至ってからです。ですから、あの言葉を当時理解しようとしてもチンプンカンプンなかなか理解できなかった人が多いと思います。でも7冊目、8冊目の「意識のへの回帰」と「沈黙の力」の「全体性」を理解した読書ならばそんなに難しくない。さらに「未知の次元」の「分身」について交わされている個所(文庫版P87-L11〜)P88-L4)を援用すればスルリと理解できる。ここは、「全体性」が「個人」に関わる場合の大切な個所なので再度引用します(但し、この中のエキスだけですけどね)。

 実は第四巻のトナール・ナワール論はその後第五巻で修正され、もともとの意味を失っているかまたは不分明になっています。第四巻というのはまともに読めば読むほどそれほどドンファン言説の内的整合性にとっては決定的な世界観であるのですが、その世界観はもろくも第五巻で変質させられてしまいました。私はその点について、alt.dreams.castaneda でどう思うかと聞いたのですが、第六巻スペイン語訳に付された追記を見よという指摘以外にまともな返答はなかったです。しかしそれを読んでもらちがあかなかった。スペイン語訳追加分はこのサイトに訳してあります。


>さて、本題はここからです。意識のへの回帰」とか「沈黙の力」とかで述べられている「全体性」、とりわけその中の「抽象」とか「意志」とか「ナワール」だけを取り出せば、キリスト教の「聖書」における「神」と大差はない。神が意志であり、キリストがドン・ファンであり、聖霊は精霊というわけです。当然、サタンは泥の影ということになります。これは、イストランさんが熱弁を奮わずとも誰しも感じてることだと思います。それほどバカじゃないですよ、みんな。

 私はそのようなことはどうでもいいです。どうでもよくないのはまさに貴殿が今回こだわっておられた<全体性>なるもので、これこそカスタネダが実存論からその内奥の動機によって引っ張ってきたものだと見当をつけているものです。実に巧妙だ。そのことを第十一巻では完璧に隠しているし、様々なインタヴューでは馬鹿のフリをしているし。

 <死に至る全体性>などという理屈はハイデガーの『存在と時間』ぬきにして語れるものではない。自尊心を無くし、責任を持ち、死をアドヴァイザーにするなどということ、修行が時間性のメルクマールに沿っていること、死が追い越すことのできない未来であり、反復(フロリンダの反復の小箱)が良心の在ったところへ引き戻す<前進的過去>からの声であり、この物言わぬ実存的時間性が<決断>の現在を支えるのだということ、こういうことは構造的に見れば、キルケゴールの死と反復とを時間性によってつなげてしまう、極めて特異な解釈、しかもそこにコントロールと放棄の、意志と非意志の合致(ハイデガー用語で言えば投企と被投性の合体)を見るというようなこと、これはたとえ一人のインディアンがどれほど人の思索に敏感であったにせよ、偶然に起こったこととは考えにくい。懐疑者は誰でも言っていた、こんなことを素朴なインディアン、ブラックエルクやローリングサンダーみたいなのが言うかね、と。それほどソフィスティケートされ、重層化されすぎている。

 「おまえはいつだってうそのつき方ってものを知っとった。ただなぜうそをつくのかを知らなかっただけさ。だが今は知っとる。」 わたしは反論した。...
 「履歴をもっていなければ、そいつの話すことは嘘とはいえんのだ。おまえのかかえてる問題は、誰にでもすべてを説明せにゃいかんと思っとることだ、しかも義務的にな。それと同時に、自分ですることの新鮮さや、新しさを保ちたがってるってことだな。それでだ、自分でしたことを全部説明してからじゃ興奮できないもんだから、続けるためにうそをつくのさ」

 まずたいていこうした文句は、スピリチュアルグランドファーザー・ドンファンからの厳かな託宣だとみなされる。こうした言葉に自分の体験との合致を感知する人もいるかもしれない。しかし、この文が書かれた50年前に、マルティン・ハイデガーは『存在と時間』で、人の実存が頽落する様態として、<好奇心−おしゃべり−曖昧さ>の相互補完的合体現象を指摘していた。両方読んでみたものは、どうしてこんなに似ているんだろうとなる。

 こうしたことをたんに剽窃として指摘するのは行き過ぎでもあるし、行き足りなくもある。カスタネダをハイデガーが説明するということ、逆にカスタネダがハイデガーを説明するということ、そうした相互性を指摘しなくては端なる受け売りの指摘で終わる。第一私が受け売りだとしたものは本当に受け売りだったのかどうか定かでない。

 しかし、カスタネダを実存論と比べてみれば、些細な断片を通して一つの全体構造が見えてくるのは私にとっては確実なことだ。意味のあるのはこの地盤を獲得してから先の話で、それは往々にして無視され、わずかに意識の片隅に残る物語の破片、たとえばホアキンの腕を折ってしまったときの回想に対するドンファンのコメントの意味を位置づけるなどのことが可能になる。あのときドンファンは「ただ待つこと」と言っていた。これはカスタネダが罪責性と時間性というテーマに関して何かを独自に理解したということなのだろうか。それともたんに時間内存在としての実存の在り方を、時間性における失墜として受け売ったものだったのか、そういう微妙な話になるわけである。

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