考える前に決断する。
哲学者の中村雄次郎の唱えたコンセプトに演劇的知というものがありましたが、忍び寄りに重なっているところがあるような気がします。通常の右側の意識下での人間の一覧表からの影響から開放されるために、忍び寄りは高められた意識化で教えられたほうがよいのだとも...ナワーリズム全般にいえることでしょうが、言語による伝播を拒否する性質がある、あるいは、言語によって伝えられないのでしょう.要は、ぐだぐだいってずに、行動だ!と...
全巻しっかり読みましょう。
読んでないものがたくさんあるので「沈黙の力」の中で語られたことだけでの推測ですが、忍び寄りって演技っぽいと思います。ナワール・フリアンは、もと俳優で最高の忍び寄る者なわけですし。非情さのレッスンの中で卒中病みの老人となったときのドンファンは、まず忍び寄りから始めたと言っています。このことから考えると、それに見合った振る舞い(演技)をしているうちに集合点がその場所まで移動して行き、そのものに変わると解釈できるような気がします。もちろん演技と言っても限定条件下(舞台とか)のそれとは違い、突発的に何が起こったとしても本物と区別がつかないくらいの演技力が必要とされるのかもしれないと思います。そのために四つの心構え非情さ 狡猾さ 忍耐強さ やさしさが必要なのではないかと。ナワール・フリアンが若かりしドンファンにさせた女装も忍び寄りのためのようですし、それもかなり演技っぽい。ばれたら怪物の奴隷にされてしまうので迫真の演技が必要だったわけですから修行にはうってつけです。余談ですが女装したドンファンを見てナワール・フリアンが大泣きする場面は何度読んでも笑ってしまいます。もし演技から忍び寄りが始まるのだとしたら、役者でもめざそうかなー?なワケないけど。ごめんなさい・・眠いので頭が働かなくなってきました。おやすみなさい。
しのびより ってめし食ったか?はいじゃあ ちゃわん あらっとっけ^^。みたいな 世界じゃないのかなあ^^。
呪術は大きく2つに分かれる。忍び寄りと夢見だ。呪術師は全員忍び寄るものか、夢見るものかのどちらかとして訓練される。カスタネダは夢見る者だった。夢見については随分紙面を割いて、ドン・ファンの説明を書いているけれど、忍び寄りについては、呪術師仲間が「直接的なデモンストレーションをみせてくれるだけ」であったし、それを「いんちきなごまかしだと思っていた」(「呪術と夢見」p.240-241.)と言うだけあって、説明的記述がとても少ない。けれども、忍び寄りは、呪術の2大技術の一つであり、しかも「日常的なできごとの世界にかかわることは、すべて忍び寄るものをとおして進行する」そうだから、この忍び寄り、というのは実際のところ、われわれの呪術のイメージからして、最も呪術っぽいものじゃないかと思います。私はどちらかというと、夢見より忍び寄りのほうが知りたい。日常生活を変えてくれるとすれば、忍び寄りだと思うのです。 それにしてはカスタネダの著作で忍び寄りについての記述が少なすぎる気がします。カスタネダの著作で分かるのは、忍びよりは一般的に第一の注意力を扱うこと、基礎は管理された愚かさ、トレーニングの基礎は、(多分)マジカルパスと反復、といったことぐらい(読み込みがあますぎるかも)ですが、どうもマジカルパスにしても反復にしても、夢見の説明みたいなインパクトを持ってこない気がするのですが。カスタネダ自身が、もしかしたらあまり忍び寄りについて、われわれの理解しやすい形で説明することが出来なかったのではないでしょうか。マジカルパスも反復も、実践してみれば効果が分かる、みたいな書き方をしていたように思います。それはそうなんだろうけど・・・ 私が特に気になるのは、どうして、忍び寄り、という名前が付いたか、呪術師たちが見せた実践の中には、どうして、何に「忍び寄」ってるの?というものがいっぱいあります。忍び寄りのはっきりした定義とか、訓練の手順とか、技術的な基礎とか、具体例なんかあったら教えてください。忍び寄るもの、であるタイシャ・エイブラーの著作を読みましたが、よく分かりませんでした。あの本は, 面白いけどちょっと尻切れトンボの気がしました。