別に新しく起稿するつもりです。貴公にも協力してほしい。これも、何かの縁と思って、いいね?
>そろそろ つかえよ^^。こらこら・・・。
>>「わしの恩人は、自由への呪術師の切符とは死なのだといった」ドン・ファンはつづけた。 −中略−>「ぼくも死んでいるのかい、ドン・ファン」わたしはたずねた。>「死んでいるよ」彼はいった。「しかし呪術師のすばらしいトリックは自分が死んでいることを意識することなんだ。無欠性への切符は意識につつまれていなくてはならない。その中で呪術師たちの切符は、未使用のまま保たれているのさ。六十年間、わしはわしの切符を使わないで持っているんだよ」そろそろ つかえよ^^。
「わしの恩人は、自由への呪術師の切符とは死なのだといった」ドン・ファンはつづけた。 −中略−「ぼくも死んでいるのかい、ドン・ファン」わたしはたずねた。「死んでいるよ」彼はいった。「しかし呪術師のすばらしいトリックは自分が死んでいることを意識することなんだ。無欠性への切符は意識につつまれていなくてはならない。その中で呪術師たちの切符は、未使用のまま保たれているのさ。六十年間、わしはわしの切符を使わないで持っているんだよ」
>もう「死への切符」を手になさいましたね。ちゃんと死ぬんだろうね? 死ぬ死ぬと騒ぎながら20年かそこら生きていたのが身内にいたよ。オドシやイクスキューズに使うんだな。あまりうるせえから、最後にゃ、「おばあさん、あんた、いつ死ぬ予定? 来月くらい?」と皮肉を込めて訊いてやったくらいだ。いつも「もうすぐ」だと言訳していたな。実際、死んでも悲しくなかったね。葬式でも誰一人悲しがっていなかったよ。おそらく、親戚一同全員に死ぬ宣伝をしていたのだろう。今になって考えれば、これも立派な作戦だといえる。「死ぬ死ぬ」とまわりが呆れるほど騒いでおけば、とにかく誰も悲しまないね。
ザンパノに起こった「出来事」を実に見事に解析なさってますね。敬服します。おそらく「無限」があなたにそれを書き込むことを勧めたのだと思います。あなたに起こった「若き日の特異な体験」とあなたの今現在を思うとき、ドン・ファンの次の言葉を思い出します。「今日得た諸洞察を思い出すために、お前は一生をかけることになるだろう。なぜなら、その洞察のほとんどが沈黙の知だからだ。いまからほんの少しすれば、おまえはそれをすべて忘れてしまっているだろう。これが、意識というものの深遠な謎のひとつなのだよ」もう「死への切符」を手になさいましたね。
孤独の鳥は飛んでいるときには同意という空にさえ^^。
貴兄との対話はとても実り多いものだったと思います。実はこの種の書き込みは生まれて初めてで、内心ドキドキしていました。いい人にめぐり会えたと思っています。「市川雷蔵の表情」という表現には、貴兄独特の感性と優しさ、それにデリカシーが感じられます。本当にありがとう。お互いが「孤独の鳥」となることを祈念して。ではでは。
うーん。映画「道」に関して、むつかしい見方をなさっていますね。実のところ私は、むかし、一度見たきりで、部分的なカットの印象しかありません。ビデオを持っているので、見てみてもいいんですが、今、ちょっと忙しいのです。毎日ふらふらになるまで働いています。酒で疲労を飛ばしています。おっしゃる内容は、わかるような気がします。ちょっと考えてみます。ただ、あまりあからさまなのもどうかと思うのです。かといって、第三者にわからないようでもいけません。映画を観ている人たちの視線を考えなければなりませんね。フェラーリも大変だったでしょう。まあ、悔い改めるとかいうのは、嫌いですね。悔いるのは好きですが、なかなか改めないのです。私は、はやくひと仕事終えて、ウソップランドのねえちゃんのケツをなでにいきたいのです。あ、カネがありませんね。おかあちゃんにおこずかいをせびらないと。無理かなあ? 本当のところ、あと10年も生きていたくはないのです。今すぐ、すぐにどうぞ! お待ちしています、死神さん、とかね。無視しますね、やつは。あーあ。ご教授ありがとうございます。
つづきです。>本当の引き金になったのは、酒屋を追い出されたからなのか? 人っ子ひとりいない夜の浜辺に来たことか?>押しよせる波の音か? はたまた風と潮の香か?>積年の旅芸人の疲れか? ジェルソミーナの亡霊か?>酒を飲んで無防備になった彼のもう一つの心か?>あるいはそのすべてなのか? なぜいまさらザンパノは?>それは、「不可知」の生のなせるわざなのか?>だとしたら、「反復・反省」に精霊の波動が登場することもありえますね。この一部始終を目撃できたのは誰でしょう? 貴兄かそれともわたしか? ザンパノ以外にありえません。まして、ザンパノの心の内部を覗き込めたのは彼自身を除いて他に誰もいません。反復だろうが反省だろうが、それはよしとしましょう。この出来事の真っ只中にいるのは彼です。彼こそこの出来事の当事者なのです。しかし、しかしですよ、でありながらそこには彼以外の何かが深く介在している。非個人的な何かが。そう思いません?よく見ると、よ〜く見ると、彼はもはや泥酔していません。そこで彼は、「かってない感情とエネルギーのコントロール」を強いられています。「おまえの記憶すべき出来事のアルバムへ入れるがよい」ドン・ファンならそう言うかも知れません。いや〜、これぞ僭越の極みですね。わたしは、彼は「敷居」を跨いだんじゃないかと思います。そこで無限と出会ったと。いや、そうあってほしいと望んでいるのです。「悔い改めよ。天国は近いのだから」イエスの第一声が、この言葉からはじまるのはなんとも象徴的です。
ひとつ大事なことを言い忘れました。「理性的すぎるのはハンディになると、わしは何度もいってきただろう。人間はとても深くて神秘的な感覚をもっている。わしらは神秘の一部なのだ。理性などうわべの飾りにすぎない。表面をひっかけば、その下には呪術師がみつかるんだ。だがわしらのなかには、表層のレヴェルの下まで行くのに、おそろしく苦労する者もいる。何の苦労もなくできる者もいるのにな。この点で、おまえとわしはとてもよく似ているよ。わしらはどちらも血の汗を流す思いで、内省を手放さなければならんのだ」ここで言われている「内省」が「反省」の意味なら貴兄が「反復」の理解が的をえていることになります。
うーん、自分で書いておいてなんですが、ありゃ確かにイモですね。で、イモを食ったらケーキが出てきました。もちろんケーキとは貴兄のご指摘のことです。話をザンパノに戻します。彼は夜の波打ち際でもがき苦しむ。超単純な原因と結果でとらえれば、ジェルソミーナと彼女への仕打ちが原因で、結果としてそれを悔いて自己嫌悪し、もがき苦しむザンパノがいる。でも、それでは何の「反復・反省」にもなっていない。説明にすらなっていない。本当の引き金になったのは、酒屋を追い出されたからなのか? 人っ子ひとりいない夜の浜辺に来たことか?押しよせる波の音か? はたまた風と潮の香か?積年の旅芸人の疲れか? ジェルソミーナの亡霊か?酒を飲んで無防備になった彼のもう一つの心か?あるいはそのすべてなのか? なぜいまさらザンパノは?それは、「不可知」の生のなせるわざなのか?だとしたら、「反復・反省」に精霊の波動が登場することもありえますね。今日はこれくらいにしておきます。どうもありがとう。
あー、ジェルソミーナがねえ・・・なんと言ってよいのやら。なにか、このー、むつかしいお話になってきましたネ。私が反復を考えるとき、それには反省は含まれません。この点、あなたとは、ずいぶん考えが違うようです。「全過程の反省」とは考えません。うまく伝わるかどうかわかりませんが、生きなかった「生」を生き直すというに近いです。人間が全過程を感知(あるいは想起)するのは、不可能だと思います。必ず、それは「現在只今」によって配列されるからです。そしてそれは、人生の時によって、再配列されていきます。ですから、「全過程」には、それまで自分でも思ってもみなかったような「生」が潜んでいるはずです。不可知の「生」さえ潜んでいると思います。つまり、私が考えますところの反復では、「自己」という容器を使わないわけです。ですから、日本語の「反省」のニュアンスは、入りません。引用のヘーゲル系哲学者がどなたか知りませんが、ちょっとイタズラしてやりましょう。えへへ。「現在即構成」であり「細かな出来事の一つ一つが地図を構成する要素」なのだから、「自己の回りに青写真」は構成されるのである。お粗末です。おカネがあれば、ジル・ドゥルーズの遺作を買って読んでみたいと思っています。邦訳が出ているのかどうか知りませんが、今、非常に読んでみたい本のひとつです。おカネがあれば。時間は、まだあるのです。私は、あと10年くらい生きる予定です。
もっぱら自己の個人的な体験ばかりに引き寄せて非常に恐縮です。どうかわたしを根っからの「経験主義者」とご理解いただきお許しください。実は、この体験の前段階に「孤立」と「猛省」の時期がありました。当然といえば、当然なのかも知れませんが、、、、それは「自己批判」とか「懺悔」という言葉には収まりきれないような強烈なもので、F.フェッリーニの「道」に出てくる主人公が最後に夜の浜辺でのたうちまわるあの姿と自分を重ね合わせてしまうほど強烈なものでした。ですから、カスタネダが「彼の系統のシャーマンたちは、記憶すべき出来事を収集することこそが、知覚において未知の世界へ歩みいるのに必要な感情とエネルギーの調節を行う手段であると確信していた」というとき、ついつい、ここには日本語でいう「徹底した反省=猛省」という意味も込められているんじゃないかと思っています。あるいは、ドン・ファンが「反復」をいうとき、単にイーグルに食べさせるための「ダミーづくり」じゃないんだと。それは全過程の「反省」なんだと。「言わずもがな」でしょうか。当時傾倒したヘーゲル系の哲学者の言葉に「反省即構成」という命題がありましたが、まさに反省する、「細かな出来事の一つ一つが地図を構成する要素」であり、それによって「われわれの前に青写真」が構成されるのだと思います。もちろん、字義上は「反復」と「反省」は区別しなければならないんでしょうが、ドン・ファンがカスタネダに「左側」で起こったことの想起を促すとき、「単に思い出すんじゃなくて、全感情を投入して想起しろ」というとき、むかし習った「当為的直感」という言葉と併せて、「感情とエネルギー」の統御による「猛省」のことだと思っています。なにか妙に肩に力が入ってしまいましたが、そう自分に言い聞かせています。ひとがドン・ファンのいう「反復」を本気で取り組むとき、その人は「無傷」では済まされません。血の涙をダーダーに流します、ズタズタに切り裂かれます。でも、どういうわけか若い人たちは、立ち直りが早い! 無傷の如くです。カスタネダが、自己の著作を締めくくるに際して、「記憶すべき出来事を収集」に当てたことは実に意義深いことだと思います。なぜならそれこそ普通人が手にできる「泥の影」からの脱出法だからです。釈迦に説法でした。お許しあれ。
まあ、高められた意識状態と言っていいのか、わかりませんが、通常ではない意識状態になったことはあります。動体視力というのではありませんが、私は視力が良くなりました。不思議だったですね、あれは。性的衝動は、どうかなあ。特別に変わったと意識されたことはないです。文面から、あなたは、どうもお若いころに、特異体験をされたものと思われます。どの程度かは、私には想像つきませんが、おそらく、程度の強いもので、年齢と相俟って、生きるのが寂しくなったということではなかったのでしょうか。そうしたことに関する感想というのは、程度と、年齢(人生経験)により変わるのではないかと愚考します。私の場合は、軽い病といった程度です。若い頃のやつは、とにかく、驚きと楽しさしかなかったですね。今のは、寂しい感じです。ただ、それは、透徹しているのです。どういう言葉が、この感じを最もよく表現できるのか、今、考えているところです。まあ、彼女がいて、よかったですね。あるいは辛かったのかもわかりませんが、なにもいないよりゃましだと私は思います。
>過酷かもしれませんが、さわやかさもあるような気がしませんか?実は、正直に申し上げると、わたしは長い間自分の特異体験と呼ぶものには、ほとんどが静寂ともの悲しさばかりで「自由や快感」といったものには全く縁がなかったものと思い込んできました。静謐な晩秋というか、風のない冬枯れの野のような、そんな心象風景ばかりで、、、でも、貴兄の問いかけで、あらためて気づかされたことがあります。そこには周囲の目をほとんど気にしなかった自分が存在したということです。「無頓着」というか「無関心」というか、「無防備」で「超然」とした自分がいました。あの時、彼女にこういわれたのを思い出します。「リッパすぎる」。これで自分の書き込みのワケが飲み込めたというものです。本当にありがとうございました。
>過酷かもしれませんが、さわやかさもあるような気がしませんか?とにかく体が軽いと感じました。動体視力もそれ以前より向上したと気づいたのを憶えています。当時、ロープシンの「蒼ざめた馬」がストレートに入ってきたのを今思い出しました。それから性的衝動みたいなものが嘘のように消えてなくなりましたね。「さようなら」をいつも心に思いながら、一人の女を愛していました。彼女と友人宅に泊まりに行った冬の翌朝、山の裾野の草原がキラキラ輝いていたのが印象的でした。なぜか断片的な記憶ばかりです。>なんだか、私は市川雷蔵の表情を思い出します。さわやかな哀しみ、ね。こんな言われ方をしたのは始めてですが。「市川雷蔵の表情」とは言いえて妙ですね。>イエス・キリストの映画では、「最後の誘惑」が好きです。当然ですが、ジージャスは、最高の呪術師のひとりだったと私は考えています。フロリンダ・ドナーの「魔女の夢」の中で、メルセデスがこういってますね。「カトリックと心霊主義が補い合うということがわからないようでは一人前の治療師とはいえない」と。
過酷かもしれませんが、さわやかさもあるような気がしませんか?なんだか、私は市川雷蔵の表情を思い出します。さわやかな哀しみ、ね。私は酔っ払ってそこらの掲示板にものを書くのが好きで、これはやめたほうがいいことのひとつですが、なかなかやめられない趣味です。まあ、今も焼酎飲んでるんですね。ごめんなさいよ。イエス・キリストの映画では、「最後の誘惑」が好きです。当然ですが、ジージャスは、最高の呪術師のひとりだったと私は考えています。連想ゲームみたいですが、最後の誘惑というと、ボブ・ディランの「シューティング・スター」という曲を思い出します。ああ、ちょっとアンプラグドが聴いてみたくなりました。じゃ。
自身の若き日の特異な体験の説明を、ドン・ファンの言葉に求めて早30年。奇しくも最後の著作でめぐり合えたとは、なんとも皮肉なことです。その言葉とは、「じつに悲しむべき日だ! なぜって、おまえが自分自身の装置に頼らざるをえなくなる日なのに、その装置は無に等しいときてるんだからな。どうすればいいのか教えてくれる人はだれもいない。お前が慣れ親しんでいる無能な精神に指図してくれる外部起源の心は、もうどこにも残っていない。 わしの師であるナワール・フリアンは、弟子たち全員によくこんな警告をしたものだ━━━その日は呪術師の人生においてもっとも過酷な日になる。なぜならば、われわれに属する本物の心は、それはまたわれわれの経験の総体でもあるんだが、長い長い期間を支配されつづけた結果、臆病になってすっかり自身を喪失し、あてにならないものになってしまっているからだ。わしの個人的見解を言わせてもらうなら、呪術師たちの本当の戦いはその瞬間から始まるのだ。それ以外はすべてそのための準備にすぎん」たしかにこの時の自分は、周囲のあらゆるものと絶妙に調和していましたが、突きつけられるものは絶対的な孤独とも言うべきもので恐怖感すら感じました。まして望んで得た境地でもなく、達成感などというものは微塵もなく、ただただ空虚であてどがなく、放置された状態でした。今にして思えばせっかくの「イーグルの贈り物」を自ら投げ出してしまったのです。以後悔恨の思いはつのるばかり、、、、そしてアッというまの30年。再びあの時に戻れる保障はありません。 わたしが体験したのは、ほんのわずかばかりの集合点の移動だったにすぎないのかも知れません。でもそれは、カルロス・カスタネダが繰り返し述べている「高められた意識状態」と呼ばれるものに酷似しているように思えてなりません。「高められた意識状態へ入るたびに、両側のちがいに「驚かされつづけた。いつも、まるで目の前のヴェールが取り除かれたような、弱視だった目が正常に戻ったような、そんな感じを抱いた。そういうときに味わう自由や快感は、これまで経験したどんなことともくらべようがない。しかも、同時に、自由や快感と背中合わせにおそろしいほどの寂しさや恋しさがあるのだ。ドン・ファンは、寂しさや恋しさがなければ平静ややさしさもないのだから、それらなしには完璧さもない、と言っていた。やさしさのない知恵や平静さのない知は、使い物にならないのだという」われわれは、カスタネダと同様に、ドン・ファンの言い回しに慣れ過ぎてしまって、その結果人や物事をドン・ファンの言葉からの偏差としてなで斬りにしてしまっている傾向があるように思われます。わたしもそのさいたる一人でした。そんな方たちには笑止千万と思われるかもしれませんが、現在、イエス・キリストを呪術師と捉え直すとどうなるか、という視点で聖書を手にし始めました。なかなか面白いです。「裁きの日は近い」だとしたら、一日も早く「反復」を成し遂げねば、、、、、そんな毎日です。