なにが ありがたかったかはわすれちゃいましたが^^。なんか うれしくなった^^。
>ドンファンは 怪物と友達になっちゃった地点から 人を語ってるんだもん^^。トナールとナワールのわけ方でいうと「怪物と友達になっちゃった地点」って、ナワール。けたさんの指摘で、思い出した好きなエピソードがあります。何冊目かは、忘れました、カスタネダが、いつものごとくしつこく質問するんだけど、このときはドンファンが、勝手におしかけてくるカスタネダに対して、いつも何の見返りもないのに誠実な態度と振舞で接してくれる事にカスタネダはいつも感銘をうけていて、じつのところ、カスタネダ自身のことをどう思っているのかをきいてみた。案の定、カスタネダが想像していた答えは、ドンファンからはきけなかった。たしか、はっきり言っておまえはうんざりさせる男だ!みたいな事を言われカスタネダが物凄く凹んでしまう。そして、カスタネダは、じゃあ自分に対するドンファンのいままでの振舞は、なんなんだ?と、偽りの態度か?と。そこで、「怪物と友達になっちゃった地点」のドンファンが述べる。たしかこんなかんじ、ドンファンは、カスタネダに対してのトナールからの意味付け、うんざりさせる奴とか愚かだとかにたいして、「非情さ」しかない、それになぜかカスタネダの愚かさも、ドンファンのてにかかるとナワールからの恩恵みたいなかんじで、ユーモアになってしまう?!喜びがうまれてるよねドンファンとってトナールからは人として求められる日常的な動機づけしか生まれない。ドンファンのナワールとしてのモチベーションは、トナールとナワールのナワールから引き出されてくる。まあ、電波系の人も、人として求められるような日常的な動機づけじゃない動機をもつけれど・・・ドンファンみたいにカッコよくないもんねぇでは
おふたりのはなしを見ていて 思ったんだけど受動能動って イマジネーションを中点としたヤジロベエだと思ってしまう。だって ぼくらは ひとという 観点から ひとを論じているという地点から 離れることが できないんじゃないないかなあって 思うてしまううんだ。ドンファンは 怪物と友達になっちゃった地点から 人を語ってるんだもん^^。
> 結論から申しますと、分けられないと思います。意志はおもに第四巻までのまとめのような位置にあり、意図は第八巻でのまとめのような位置にあり、それぞれで、受動能動でしょう。なるほどです。数年前に既刊を一気に読んだきりの甘い読み込み、そんなぶんざいでの書き込み、恐縮してます。>そのコントロールと放棄を受動性と能動性の緊張的統一とすれば、トナールとナワールという包括的存在論に受動能動性がからんでいるなるほど「受動性と能動性の緊張的統一」はトナールで構成されている私という意識が、ナワールを知るための方法で「自分のトナールを訓練し、いわば一瞬それを解き放してから、またつかまえることでナワールの実用性を求め」ること。トランスパーソナルも、こんな感じのこといってますよね。「コントロールと放棄」=「受動性と能動性の緊張的統一」と言葉で書けば簡単だけど、でも実際は、「放棄」して、自己消失するだけでも大変な精神力が必要、またそこから「コントロール」して自己を取り戻すときもしかり、まして、コントロールと放棄を同時に実現する「受動性と能動性の緊張的統一」は!?と考えてしまします。とりあえずは、「マジカルパス」、「夢見」、「忍びより」「しない事をする」を実践して、エネルギーというか心的な力をつけてくしかないかぁ
3%さんから意志と意図を受動能動で分けられないだろうか、という趣旨のお話がGUESTBOOKの方にありました。 結論から申しますと、分けられないと思います。意志はおもに第四巻までのまとめのような位置にあり、意図は第八巻でのまとめのような位置にあり、それぞれで、受動能動でしょう。 私はこの問いかけを受けて第四巻をぱらぱらめくってみて、もう一度、ノートを取りながら読んでみたく思いました。 まず、この主題のとっかかりとして、348頁の次の文に目をとめてみます。 「夢見ることは呪術師の考え出した実用的な補助手段だ」と彼は言った。「呪術師たちは愚かではなかった。彼らは自分が何をしているのか知っていて、自分のトナールを訓練し、いわば一瞬それを解き放してから、またつかまえることでナワールの実用性を求めたのだ。こう言ってもおまえには理解できない。だがおまえがこれまでずっとやってきたことがそれなのだ。正気を失うことなく自分を解き放す修行のことだよ。夢見ることは、もちろん呪術師の努力の極地であり、ナワールの究極の用途なのだ。」 あいかわらずこの巻の訳はしっくりこない。だいいち読んでいて興ざめしてしまいますが、仕方がない。原文参照。 "Dreaming is a practical aid devised by sorcerers," he said. "They were not fools; they knew what they were doing and sought the usefulness of the nagual by training their tonal to let go for a moment, so to speak, and then grab again. This statement doesn't make sense to you. But that's what you've been doing all along: training yourself to let go without losing your marbles. Dreaming, of course, is the crown of the sorcerer's efforts, the ultimate use of the nagual." let go without losing your marbles 実はトナールとナワールについてはここの部分まで相当に話がなされていて、この「正気を失うことなく解き放す」ということは、その線では自然に了解できることです。 ただし、ここで注目するのは二つのことです。ひとつは、とりもなおさず「これまでずっとやってきたこと」というふうにまとめられているということ。それからこのことが<意志>と関係するその関係です。 もしも正気というのを意識と言い換えれば、意識を失うことなく意識を解放するということで、これはコントロールと放棄という言葉にまず自然につながる。そして、そのコントロールと放棄を受動性と能動性の緊張的統一とすれば、トナールとナワールという包括的存在論に受動能動性がからんでいる、ということになる。