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『ベルゼバブ』へのとっかかり/意識と良心 |
| Subject |
『ベルゼバブ』へのとっかかり/意識と良心 |
| Author |
イストラン
[ 2442 new post ] 4/3/Wed/2003 |
否定的感情を表現しないということでは、なにか否定的なものが総じて否定されているように思われたのだが、そうではない。意識であることについても微妙なニュアンスがある。こう言ってよければ、意識/consciousness と良心/conscience とは素朴な形で合体している。
通常の意識は寝ている、これが『奇蹟を求めて』では飽きるほど繰り返されるテーゼであった。がしかし『ベルゼバブ』はそういう比喩を特権化することはないだろう。
意識の下に<潜在意識>が想定され、この場は良心の場所となっている。意識−自己意識−客観意識、その系列にこの潜在意識の意識性はどうやって接続するのだろうか。これが大枠の問いである。
「こうした実験による調査のおかげで、この六度目の滞在を始めてまもなく、わしは次のことをはっきりと突き止めた。すなわち、彼らの精神が奇妙である原因の大半は、彼らの通常の意識、つまり彼らがいわゆる目が覚めている状態にある時にはこの意識だけを持つよう自分自身を自動化している、そのような意識にあるのではなく、むしろ彼らの変則的な通常の生存状態のために、しだいに彼らの身体の奥深くに追いやられた意識、つまり本来は彼らの真の意識となるべきであったのにきわめて原始的な状態のまま残っている意識、すなわち彼らの<潜在意識>と呼ばれるものの中にあるのだ。
しかしこの潜在意識というのはほかでもない、彼らの精神全体の中の、わしが以前に話したある部分のことだ。覚えておるかな。・・・これは非常に神聖なるアシアタ・シーマッシュが最初に気づいたのだが、つまり彼は、彼らの精神のその部分には、第四の聖なる衝動、すなわち<客観的良心>と呼ばれる衝動を生み出すデータがまだ衰退せずに残っていることを発見したのだ。」(訳332)
自分自身に対する誠実さと、他者に対する誠実さ、この二つの退化には違った解釈が与えられる。
自分自身に対する誠実さの退化は、<自己批判>の欠如ないし窒息である。そして誠実さとは<良心の呵責>にその意味を負っている。
「彼らの間で六度目の滞在を始めた最初の頃、全般的に彼らの体内では、他の三脳生物すべてと同様、<自責>と呼ばれる衝動、つまり彼ら自身が<良心の呵責>と呼んでいる衝動がいまだに結晶化し続けていた。・・・
その結果彼らの体内には、しだいに頻繁にこの良心の呵責を表現したいという欲求が生じるようになる。すると、それによって引き起こされる感覚は −これはバートクドルグ義務から生じる感覚とよく似ている− 必ずや、三脳生物の身体に生得の<否定的原理>、すなわち<自己鎮静>と呼ばれる原理を抑圧し、奴隷化するに至る。そのため彼らの体内では、その身体が三センター生物の中に当然存在している、別々に独立して霊化された部位の中のどれか一つから自然に生じる刺激によって引き起こされる−そのたびごとに彼らにとっては不快なこの自責の感覚が生じるのだが、しかし最初は彼らの中の沈思黙考する部分の意図によって、後には彼ら自ら作り上げた習慣に従って、しだいにこの<自己批判>は窒息させられるようになり、ついには停止してしまうのだ。」(訳337)