たぶん 陶酔というのは あたってますね。明晰さというのが 陶酔の 後に あるのです。意志と思考の統合は意識であります^^。意識と非意識の統合は で あります^^。
>甘美な誘惑というのは 思考でありながら意志ですね。>>だってもともと それらは 同じ ひとつなんだもの^^。 というのは面白い表現だと思います、>意識という色合いに>>思考が意志に先立っている ここのところとどう統合されるのでしょう。 誘惑というのがすでにして意志的であり、かつそれから意志のまといが始まるとすれば、それに先行する純粋意識だとか純粋思考だとかというのは一体どのように記述されるのか。 たとえばそれはゴッホの椅子を眺めていたときのハックスリーの視覚的意識のように、なぞめいたものを見るときの陶酔というようなものに近いのであろうか。
誘惑ということにおいて意志の発現があるというのは もう1歩すすめば 事実ですね。意志と思考は 溶け合っていますが。思考が先行してます。いつでも わたしたち人間は 人間的な 言語でもって脳みそを 満足させようとします。甘美な誘惑というのは 思考でありながら意志ですね。だってもともと それらは 同じ ひとつなんだもの^^。さて なんのはなしかと ふりかえってみるにこちらからあちらでもあちらからこちらでも意識という色合いに思考が意志に先立っているような 気がするのですよ^^
>あちらがわは 甘美な誘惑にみちています。 それ自体は意志ではないのですか。この「誘惑」という表現によってですが。 この誘惑に身をゆだねるとどうなるんですか。
いつも たのしく 拝見させていただいています。抽象的な はなしですが 体験したことです。純粋意識みたいなものになって あちらへの扉を 開ける時にはあちらがわを 覗いて見たいという こちらがわでの 意志があるわけですね。たとえば カスタネダの本とか 他人の体験談などから知識みたいなもの仕入れておいて あちらに行ってみたいという 願望がうまれたあと 意志が 発動しますね。ところが いざその扉を開けて あちらがわに飛び込んでしまいますと 意志の発現は できなくなります。というのは 純粋意識においては思考能力がなくなって 視覚 聴覚 皮膚感覚 移動感覚(味覚の記憶はありません。たぶん 忘れただけだと思います。)だけになってあたかも ジェットコースターにのっけられて ちからづくで表現不能な世界を さまよわされるんです。あちらがわは 甘美な誘惑にみちています。いまいるこちらがわの世界が うそみたいな ちっぽっけで みじめで・・・・なんであんなところに ぼくいたんだっけ・・・という思考が起こる瞬間。その思考が あちらがわから こちらがわに還るサインです。 意志の発現です。純粋意識が 意志のからだをもつ瞬間でもあるわけです。意志のからだは 今現在のここにあるわたしの姿と すんぶんたがわぬ 人間というすがたを 回復したのです。めでたいのか めでたくないのか^^。わけのわからない おはなしでした^^。
1963年12月31日の記述には確かに意志というものはないのですが、1965年12月29日の日誌を最後にして、第一巻を終えたあとに、1968年4月2日から始まる第二巻の中で、この第一巻に触れた箇所があります。 それは「7 もうひとつの世界の守護者」中にある、やはり煙の体験についてのコメントです。 「彼がすっかり話し終えるころには、わたしのからだは完全にしびれていた。わたしには筋肉をコントロールすることができなくなっていたので、腕を使って起きあがることなど不可能なことを彼に伝えたかった。声に出そうとしてみたができなかった。しかし彼はこのことを予期していたらしく、意志のなかにトリックがあるのだと説明してくれた。そして数年前わたしが初めてキノコを吸ったときのことを思い出してみろと言った。その時わたしは床に倒れたが、当時彼がわたしの『意志』と呼んでいたものの作用でちゃんと立ち上がったのであった。わたしは『自分を起こしたのだ』と思っていた。それが起きあがるただ一つの方法だと彼が言った。」(『呪術の体験』訳151) このときはカルロスは自分の息子のことを考えて、「息子は放っておかねば」といった感慨を持ち、それをドンファンに伝えようとしたときに、起きあがりが発生します。 この会話もまた他にいろいろと感動的なものを含んでいるので、この記述は目立たなくなるかもですが、意志に関してひとつのまとまった観念を提供してくれます。 「長い沈黙のあと、わたしはこう尋ねた。「昨日ぼくは何をしたんだい・」 「起きあがりたいときに起きあがったのさ。」 「どういうぐあいにやったのかわからないんだよ」 「その技術をマスターするには時間がかかる」 「でも知らないんだ。そこなんだよ、本当に知らないんだ」 「いや、知ってるとも」 「ドン・ファン、本当だよ、誓っても・・・」 彼は最後まで話させず、立ち上がって行ってしまった。」(156) 意志というのは<方法がない>。その方法がないというのはしかし知っていないということではなく、方法がないものとして知っている。 そして<方法がない>ということにあれほど<受動能動>をまとわりつかせたのはカスタネダをおいて他にいない。
かなり面白いお話です。後半部分は弁証法の運動性というものを惹起させます。 思考はただ肯定したり否定したりという前に、そもそも関与と非関与の体制にある。AにBがレスをするとき非関与から腰をあげて関与の運動に入る。 この関与はもっとも卑近には目的性だとか志向性だとかいう思考の運動がめざすところといってもいい。 しかしこの志向性の先端はふらついている。実はどこへ向かっているのかわからないし、わかっている限りでは思考は運動しない。 こういうことは、ただ目的性の反省で代用できる領域かどうかは不明であるが、しかし目的性という特殊な事態を考えると範型になりそうな感じである。 目的性は、それが見事に表現されるとあたかも実在しているかのように見えるが、目的性には目的自体が生成するということが付着している。いかなる目的性の運動にもこの生成がつきまとい、むしろここでの運動とはそもそも目的性の発生のことである。 しかし目的が発生するなら、それは目的とは言えない。なぜなら目的とは行為の前に存在しているもののことを言うのだから。 つまり、意志は目的に関しては二通りの様態を持つ。一つはあらかじめ決まっている目的に対してあれやこれや思案する意志であり、もう一つは、生成する目的にまきこまれつつある意志である。 AがBにレスをつけるときに起こっているのは、この生成する目的性ないし生成する意志と言ってもいい。
カスタネダ・シリーズはよくできたフィクションだと私は思うのですが、第一巻はその点でレアなものだと考えます。特に引用された部分は、フィクションに昇華されておらず、薬物による幻覚体験がレアなかたちで表出したものと、私には感じられます。それをうんぬんするのは、いわば目撃証言を鵜呑みにして論ずるようなもの。ちょっと危ういですね。また、第一巻では、「意志」という概念は未出でしょう? しかし、「盟友」がそれに近いものとしてあります。その部分に、二巻になれば出てくる「意志」が潜在しているとはいえますね。けれども、第一巻の「盟友」には、「意志」の要件である通路としての性質が、明確に打ち出されているとはいえないと思うのです。カスタネダをノンフィクションとして読むのなら、言葉が追いつかなかったと解釈できますが、そうでないなら、「意志の最初の記述」と評することはできないでしょう。カルロス・カスタネダは、ティーンネイジャーの天才クンではありませんでしたから、すでに原点において、それなりの豊富さと明確さを持っていたと思います。そして、ベストセラー作家として、作品ごとに持てるすべてを投入していった。その限りで、原点は、時間的不可逆性を持った自己展開をした。従って、二巻から一巻を眺めることはできるが、その逆はできない。そういう意味で、私は以前からあなたの「これは、あそこにも出てくる」という言い方には違和感を感じていました。計画があるかのように振る舞うという「戦士の戦略」にやられちまっているのではないかと。これらの反論に関して、いかがお考えになりますか。さて、カスタネダ・シリーズから、具体的にどう受動能動を取り出してくるかという話しは、一旦置きましょう。私が真に興味をそそられるのは、元投稿の上からの二段落です。二元論とか弁証法の大掴みな話しです。イストランさんは、そのことについて、節度ある魅力的な書き方をされていますね。さすがです。それで、できれば、そうした概念的な話しもしてみたいわけです。へんな話し、こうした電脳空間にも、弁証法的な形を感じることがあります。Aが意見を言い、Bが反論する。AとBの議論が拮抗していると感じる未出現の読者Cは、Aの言うことはもっともだがBにも一理ある、といった統合の立場で存在するわけです。いわば「ネットの弁証法」です。私が興味を感じているのは、AとBが緊張圏域に入る刹那の距離です。もう少し言えば、BがAの意見に接して、緊張状態に入るときの心の動きということになります。全く同意見であったり、あるいは逆に興味を感じない場合、反論者Bは場に出現しないでしょう。裏返せば、BはAの意見になんらかの興味を持ち、誘引されるのだが、反発ないしは異見があるわけです。つまりAは最初から、ある程度Bに浸透しているし、Bが出現して議論を形成していくなら、相互浸透が始まるでしょう。そして、AB間で統合に達することもあるでしょうし、第三者Cが登場して統合するかもしれない。勿論、一人三役だろうが三人三役だろうが、間違った統合もあるわけで、統合されるということ自体に別段の価値はありません。私が指摘したいのは、電脳空間のような自由な場で対立関係になろうとするものは、統合されるかどうかは別として、潜在的な統合の要因を持っているのではないかという疑いです。以上はひとつの喩え話です。二元論対立の原初はどうなっているのだろうということですね。受動と能動の関係ではどうなのだろうということでもあります。
受動性と能動性が統一されずに、緊張した分裂の中にある、というのはいろいろな場面で漠然とこういう風に表現するのが最低限の共通項ではないか、ということがある。それが緊張した分裂というイメージを帯びるのは、根底には破壊と創成が一緒になるということと接続させなくては十全な意味が捉えられそうにない。 通常の弁証法のイメージにないのは破壊性ということで、一歩間違えば統合はされないかもしれない。統合というのはカスタネダにおいては必ず習慣性と結びつく。ある習慣の生成ということがトナール/ナワールの論理であるが、それには先立つ習慣の破壊ということがなければならない。そして統合は、<反復>と<突発的達成>という兆候を帯びる。こういう弁証法はヘーゲルのではなくキルケゴールの弁証法であろう。 最初に取り上げたいのは、第一巻というあんまり人気のない最初の巻のあんまり人目につかない箇所で、すでにこのイメージが登場し、カスタネダはそれに「魅せられている」ということを自分で表現している。 1963年、12月31日火曜日と題された日誌の中で、「煙」を体験したときに、彼は自分の体が「溶けていった」ことを記述している。まるで透明になったかのように、そこらにある物体を通りぬける。彼は眼の前の柱をつかもうとするが、手は通り抜けてしまった。その体験でなんとか合理的な説明を見つけようとじたばたするのだが、なかなか成功せずに、床に倒れ込んでしまう。 「わたしの奥行き判断によれば、柱はまちがいなくわたしの前、90センチほど先にあった。頭を守るために両手をのばして、力いっぱい飛びかかった。感じは同じであった−私は柱を通り抜けてしまった。今度は床へぶっ倒れた。もう一度立ち上がった。ところが、この立ち上がるということがその晩わたしがしたことで一番普通ではなかった。わたしが勝手に起きあがるように感じたのだ!起きあがるために、わたしはいつもしなれているように筋肉や骨格を使いはしなかった。というのはもはやそれらをコントロールできなかったからである。わたしは床をたたいた瞬間はそれに気づいていたが、柱への好奇心がひどく強かったので『自分が勝手に起きあがる』のは反射的な動作だろうと思った。そしてわたしは、動けないことにちゃんと気づく前に立ち上がっていた。」(『呪術師と私』訳163) このあとのカルロスのドンファンへの怒り、そしてドンファンのレディセントアナの歌によって平安が訪れること、さらに水中、空中への飛翔、そういうイメージが強すぎて、ドンファンのコメントもまた「壁に入り込む」「からだをなくす」などに集中しているから、上の箇所はそうした問いと答えに埋もれてしまう。しかしこれがドンファンの言う「意志」の最初の体験記述でした。 しかし、たとえそういう体験の注釈や解釈になんらかの意味があろうとも、本質的なことは上に述べたことであろうと、私は敢えて思うわけです。 これと似たような記述は他の巻にもあります。さて、われわれはこの短い記述から、この型の受動能動をどういうふうに解釈することができるでしょうか。 まず一つは、「反射的な動作だろうと思った」とありますが、もちろんカルロスはそういう風に見ているわけではないでしょう。随意システムが麻痺している中で、別のシステムが作動している、そんな感じです。 普通の随意システムと比較できるように概念を構図化してみれば、意志という能動性がしかるべき効果−結果をもたらすとき、その効果を認知するわけですが、意志を原因とみなせば、ここにあるのは一つの因果性でしょう。 ここでは通常の意志を発動させたにもかかわらずその効果が出ないのにパニックになっているわけで、起きあがるという動作がさながら自己の意志行為ではないかのように達成されてしまう。 しかし依然として、結果は最初の意志の意志したとおりの「起きあがる」ということなわけで、だからこの事態を「意志は意志のないところで原初の意図を達成する」と、「最低限」の記述をしてもよいでしょう。 実はここからすぐに精神論に飛び込むこともできる。なぜならば、この公式はストア派のめざす意志性と形だけ見れば非常によく似ていて、いわゆる放棄系の言説につながるからです。 しかし、もっとずっとゆっくりカスタネダにつき合いたい。とりあえずここに、最初の受動能動の型が現れ、われわれはそれを<能動性と受動性の通常でないからまり>の中に標本化してもよいと思う。 だいたい通常の意志行為に関して能動性と受動性をどういう風に概念組織するかということは全部放っておいてのことで、ただ直感的非形式的にみれば、ここでは通常の「能動性のなさ」に受動性の影を見るという程度でいいのではないかと思う次第です。