| TOPIC |
Toward Awakening (J.Vaysee) |
| Author |
イストラン
[ 2401 to イストラン ] 2/1/Sat/2003 |
序文
ここで扱ういくつかの考えは、G.I.グルジェフ によってその存命中に伝えられた教えの一側面を表している。それらの考えが真の意味を持つのは、大いなる全体の一要素として見られるときのみであり、この全体の必然性を認知するあらゆる者にとって、内的変容の作業はこの全体の上に築かれている。
これらの考えはまずもって、グルジェフにより、その著作の中で詳しく述べられた。1 確かに示唆という形ではあるが、それはヴィジョンの見事な息吹をもっている。またそれらは特筆すべき忠実さで、P.D.Ouspensky の『奇蹟を求めて』の中に反響している。2
それらの意味と真の重要性は、実際には、まずグルジェフが弟子達に用意した生ける経験の中で、彼の説明、問いに対する直接的な答え、弟子達の成長段階に合わせた訓練によってばかりではなく、とりわけ生自体が与える試練に彼らを参与させることによって、明らかになったのである。
グルジェフの教えを、その書かれた部分ばかりではなく、話され、実践された部分までもオリジナルに即してまともに保存し、伝達したことは、ジャンヌ・ド・ザルツマンの偉業であった。彼女がいなければ失われていたことだろう。私たちのもとにもたらされたもの全てを私たちは彼女に負っている。
1 G.I.Gurdjieff, All and Everything(New York: Harcourt Brace,1950)
2 P.D.Ouspensky, In Search of Miraculous(New York: Harcourt Brace,1949)
P.D.Ouspensky, The Psychology of Man's Possible Evolution(New York: Alfred A.Knoph.1950)
これらは教えの最初の段階程度のものを扱っているが、より深く進もうとする者たちにとって、この両著作を読むことは計り知れないほど貴重なものである。グルジェフ自身の著作はもっと複雑な展開を与えるが、取りつくのは難しい。
今や現代の人間の手中には巨大な物質的力があり、現代人がその力を使用するときに直面することを余儀なくされる時のいわゆる「選択」に際して彼自身を問うときに、この力が引き起こす問題に対して、この時代に西洋世界にもたらされたグルジェフの思想は、おそらくもっとも真なる答えを持つ。
これらの思想は、基本的に<偉大なる知>の伝統的な教えと合致して、それらが表すものと、我々の同時代の生き方考え方との間にある深い亀裂を著しく鮮明にする。誰であれ、最初に偏見を持たずに出会ったものは、否定しえない真理の力によって心に触れられたと感じ、それまでの生活を支えてきた全ての価値を問いに伏すように求められていると感じる。
最初の接触をするということはたいていは難しい。そして彼らがよりよく知ることを手助けすることに資することを著者が望むのはこの点である。
この新しい「覚醒の教義」の主要点を近づきやすい形に再構成する試みは、一人の人間の作業であるから、必然的に限られたものである。この教えの学びに取りかかる欲求を示す、異なった背景を持つ人々に向けた一連の導入的説明を書き留めたものが以下の章である。それゆえ先に言及した著作から借り受けたかなりの量の資料がここに見られることになるだろう。
いくらか冗長になるかもしれないが、それはこのエッセイそれぞれがそれ自体で一つの全体をなしているからで、この点は著者が寛恕を乞う次第である。言葉は相対的な意味をもち、言語の問題は考慮に入れられなくてはならない。グルジェフが使った語彙がとても単純なものである一方、いくつかの語の意味は他の同時代の思想体系で課されることになるものと必ずしも同一ではない。さらにまた、ある種の語の意味は読者の理解の程度に依存し、その「真実の」意味は日常的用法とはとても異なるかも知れない。なにがしかの形で混乱に至る語は引用符の中に入れておく。
この著作に見られる形式は読解にとっては容易ではないが、しかしいろいろな理由からこの形式は有効であるということが分かっている。そうした思想がいかにして登場し発展するのか人はまったく理解しないかもしれないが、その一方で、この種の凝縮は長きに亘る集団作業の結果であり、それに対して人格はただ脇に立って、思想のより深い意味に道をあけておくことができるのみである。彼自身の内に、この態度のテイストを何度も見いだすことにより、読者は普遍の真理への自身の探求において、実践的に助けとなるものを受け取るだろう!