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イストラン
[ 2378 to けた ] 1/25/Fri/2003 |
についてはまあこんなふうに映っております。
哀れみと憐れみ、この二つは二つ足すと面白いことになる。自己に対しては哀れみ、そしてその哀れみ(自己を不当に扱う)に対して怒る。その運動は、同時に他者への運動でもあり、他者への憐れみ、そしてその憐れみに対する怒りという運動と一体になる。
哀れみのない地点に達するということは、だから他人に対する非道徳な態度にも連結する。
この傾向性をもった言説の一つにカスタネダを入れることができる。しかしカスタネダはこの段階にとどまることはない。
この段階での言説は、こうしたこと全般を力の論理といったものに回収する。なぜこういうことをしなければならないのか、その意味とは何か。それは「不要なエネルギー使用の停止」であるというふうに「理屈づけ」される。この理屈づけはその文脈では威力を発揮する。
しかしカスタネダにしてもグルジェフにしても、最終的にエネルギー論からはずれる倫理性から視線をそらすことはない。この曖昧さ、この視線の運動が逆に倫理それ自体が一個のリアリティのある謎となる有り様を示す。
こう言ってよければ、倫理からはずれて力への意志へというようなニーチェ的カスタネダ的道も、倫理性の極点がなにくわぬ顔をして全体的世界観の中に埋没しているキリスト教的グルジェフ的道も、双方ともただ一つのことを、つまり倫理と力とは根源的な地点でからまりあっているということを、それぞれの仕方で表現しているとも言える。