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TOPIC カスタネダ的世界観
 
Subject 「カスタネダ的世界観」がどう面白いのか
Author けた [ 2448 to 耳かき ]  4/6/Sun/2003   

>けたさん
>「統合という逆分裂」というのもまた手のこんだパラドクスですね。なかなか面白い言い方です。

ご反応ありがとうございます^^。
うれしいです^^。

キャッチボールしてる二人に
いきなりボールを投げてみたらなにくわぬかおしてうけとったボールを投げ返されたかんじ^^。

次のボールをさがしています^^。

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トピック= 2371 宛先= 2446 同宛先= 返信=
 
Subject 「カスタネダ的世界観」がどう面白いのか
Author 耳かき [ 2447 to イストラン ]  4/4/Thu/2003   

イストランさん
新ツリー「呪術師と私」、なかなかいいと思います。文句のひとつも・・・と言いたいところですが、なにぶん、こちらのアタマは疲れ気味なので、様子見させていただきましょう。

「カスタネダと哲学」というのは、ツリーじゃなくて、このサイトのいわゆるコンテンツだったわけですね。忘れてましたよ。たしかに、私の場合も、最初に目を通しはしたのですが、読めなかった覚えがあります。
そうはいっても、再度目を通してみて、おまえこれ読んでからモノ言ってくれよ、とあなたが言いたい気持ちになるのはわかりましたが。(笑い)

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トピック= 2371 宛先= 2440 同宛先= 返信=
 
Subject 「カスタネダ的世界観」がどう面白いのか
Author 耳かき [ 2446 to けた ]  4/4/Thu/2003   

けたさん
「統合という逆分裂」というのもまた手のこんだパラドクスですね。なかなか面白い言い方です。

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トピック= 2371 宛先= 2437 同宛先= 返信= 2448
 
Subject 「カスタネダ的世界観」がどう面白いのか
Author イストラン [ 2440 to 耳かき ]  4/3/Wed/2003   

 カルロス・カスタネダの受動能動は相当にしつこいのです。グルジェフも相当しつこい方だと思いますが、ただグルジェフにとっては、受動能動性というのは「それ自体として問題になる」というよりも、何か他のことを説明する基本的なカテゴリーだという印象が強い。

 それは女性を受動性、男性を能動性として、子供を受動的半分と能動的半分の産物だとかいう卑近な比喩にまで至る。

 こうした使用は、受動性能動性に「魅せられている」カスタネダからすれば中途半端なものと映っただろうと思う。まあ、あてにならない推測ですが。

 ともあれ、だいたいの線は「カスタネダと哲学」に書いておきました。私のサイトを訪れる人でこれをまともに読んでくれた人はめったにいないでしょう。

 この掲示板ではもっとゆっくり舐めるように見ていこうということなのですが、最近はそっちの方に疎遠になってしまいました。耳かきさんの投稿に触発されてまたもぞもぞ這い出そうという心境になってます。

 スレッドを改めて書きましょう。

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トピック= 2371 宛先= 2436 同宛先= 2437 返信= 2447
 
Subject 「カスタネダ的世界観」がどう面白いのか
Author けた [ 2437 to 耳かき ]  4/3/Wed/2003   

統合できるものと 統合できないもの

単純なものは 統合されやすいし

複雑なものは 統合されにくいですよね^^。

それは すでに 統合という 逆分裂したわけですから^^。

ドンファンおっかけきたら ここにきました^^。

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トピック= 2371 宛先= 2436 同宛先= 2440 返信= 2446
 
Subject 「カスタネダ的世界観」がどう面白いのか
Author 耳かき [ 2436 to イストラン ]  4/1/Tue/2003   


うひゃあ。ひとつやっつけても、そこここでまた復活するぜィというのでは、ゴキブリみたいやおまへんかー。
そりゃ受動と能動という抽象で引っ張り出したら、おっしゃるようなことになります。でも、そこここにあるという受動能動関係は、それぞれ具体的な意味も来歴も違う。良くいえばポリフォニックだが、悪くいえばアマルガム。
そういうものに対して、受動能動があるよ、と言っただけでは、なにも言ったことにはならないでしょう。そんな性質は、なんにだって存在しているからです。しかし例えば、それは統合されないものであるとか、通低する原理を言い得たとき、初めてなにか言ったことになると思うのです。

私は、あなたの元投稿に関して、ずいぶん恣意的な読み方をしたかもしれません。「統合されない」から「緊張的静止」へと連なる文脈として読みました。そして、それを、受動能動という抽象を読み解く鍵にするのではないかと思ったわけです。
そこへ向かってボールを投げていたつもりだったのですが、どうも反応が芳しくないので、やはり私の勘違いだったかと思う次第です。お騒がせしてすみませんといったところですか。もうこのあたりでツリー分岐は終息させます。

私が「コントロールと放棄」を出したのは、それでなら「統合されない」から「緊張的静止」へと連なる命題が説明できると感じたからです。裏返せば、あなたが引用なさった「命じもし、従いもする」という受動と能動は、「力の性質」へと統合されてしまうものですから、私には不適切な引用に見えたということ。「力の性質」ならまだしも、これはのちにイーグルという名称まで与えられるものですね。
確かに、統合されない二者はあるわけですが、統合されるものもある。この違いはなにかと考えるわけです。まず、場が違うわけです。「コントロールと放棄」は内部に留まりますが、イーグルには外部が介在してくる。あと、時間ね。時間の流れで串刺しにみるのか、図的な静止状態でみるのか。流れの中では統合されるものでも、瞬間のなかではそうではない。ちょっと抽象的過ぎて、読めない文章になっていると思いますが、このあたり自分の課題にしたいと思います。

あとは、そうだなあ、4というのは、私には難しいですね。2か、精々3までにしてほしいです。大森荘蔵の、西洋の3はきつすぎるという言い方に、シンパシーを感じるのです。統合されない、三角形なんかいらない、という方向に興味を感じたのは、そんな理由もあるかもしれません。
それと、残念なことですが、12巻のお話しは私にはできません。そう、「夢見の技法」あたりで、この人、もはや日記みたいな書き方じゃなくて、小説の技法もうまくなったんだなあ、という感慨とともに、フォローするのをやめました。カスタネダ・マニアックということでは、私はあなたの足元にも及びません。

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トピック= 2371 宛先= 2433 同宛先= 返信= 2437 2440
 
Subject 「カスタネダ的世界観」がどう面白いのか
Author イストラン [ 2433 to 耳かき ]  3/29/Sat/2003   

 ちょっと突き放して自分の表現欲求を見るならば、あるいはカスタネダという人がそのポリフォニックな、しかし一つの出所を持つ実体としてある、ということに惹きつけられているのかもです。

 なにしろ、受動能動というのも、同じ事柄に即してそう言われるだけなら、こんなに興奮しないでしょうし。

 数字表現についてならば、弁証法の1.2.3の向こうに4を持ってくるというのもあります(デリダ)。

 あるいは受動能動ならば、絶対受動と絶対能動、受動能動、というセットの他に非受動能動というのもあります(ヨハネス・スコトゥス・エリウゲナ)。

 しかし大枠としてそのようなことが指摘されるにしてもそれはみかんの皮のように食べた後に残る物という感じで、みかんそれ自体は錯綜した森のような感じです。

 耳かきさんは実に適切に「コントロールと放棄」を指摘されましたが、コントロールと放棄を原的現象として、これから名称をはぎ取るにしても、受動能動はそこここにまた復活するのです。たとえば、意図の手段のなさの説明として。習慣性の崩壊と構築の原理として。トナールの島とナワールの海の航海日誌として。

 身体性の受動能動、精神性の受動能動、そういうメタバシス(類の侵犯)の豊饒さに、これを無記名とするストイックな立場は私にはとれないです。むしろあらんかぎりの声を多次元で鳴り響かせなくては。

 このインターネットに出てから一番問題となったのは第十二巻の読解ですが、わたしはここにカスタネダの転換をみます。それは結果として読者を引きずり込む受動能動ではなく、彼にとって、これが発生した場面をつきとめようとする対象としての受動能動への彼の視線です。彼自身がみずから受動能動を分析しようとしている(親と子の問題として)。だから共感する。この点については昔書きましたが、昔の意味志向の活性はもう薄まってしまいました。でも私は残り火を感じてます。これが表現されないなら、カスタネダを読んだことにはならないだろうと。

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トピック= 2371 宛先= 2430 同宛先= 返信= 2436
 
Subject 「カスタネダ的世界観」がどう面白いのか
Author 耳かき [ 2430 to イストラン ]  3/28/Fri/2003   


 要約すれば、カントとキルケゴールの抽象のなかに、アナロジーを見つけたということでしょうか。そしてそれは統合への懐疑、ないしは拒否であると。
 そのあたりを利刀としてカスタネダを切ろうとなさっているわけですが、刃物(すなわち思想的な基幹)が見えないと、どう切ろうとしているのか、そしてそのことになんの意味があるのか、読者はわかりづらいかなと思うのです。もしそれが明確なものなら、私自身教えを乞いたいし、私以外の読者にも説明する必要はあるだろうと考えました。斬られ役になってしまった人(ラジニーシ)のファンもいるでしょうから。いや、タオイズムまで引っぱりだされてるわけだから、私も斬られてる側ですね。
 しかし、カスタネダに対する切り口や切り刻まれた断片から、それがどういう刃物によるものなのか、逆照射させてみようというお考えやも知れません。「私は、私の一番知りたいことを書いている」という感じかな。ビジョン・クエストね。
 ともあれ、ご回答いただき、ありがとうございました。

 それはそれとして、私が感じた面白さというのは、次のようなことなんです。「面白いと感じる」というのは、本来不明瞭なことなので、説明するのが難しかったのですが、今ならこういいます。
 神秘主義の秘訣を述べる場合に、ふたつの相反する感覚を統合させるという形を目にします。カスタネダなら、「コントロールと放棄」もそのひとつですね。ご存知のように、闇夜を走るときのコツを述べたものですが、カスタネダお得意の心理描写によって、いわば読書体験とでもいうべきものを読者に与えます。行為のなかでは、相反するふたつの感覚が確かに統合されるのだと、読者は感じることでしょう。
 闇夜を走るなんてのはいかにも特殊で一般性がないですが、もっと卑近に、満杯にしてしまったコーヒーカップをテーブルまで運ぶ時の感覚という場合でも、それは通用するでしょう。集中すると同時に、ある種の投げ出したような感じが必要になります。すりきり一杯のカップを持って、つい小走り気味になったりしますが、しずしずと運んでいたのでは、かえって手が震えてこぼしてしまったりするんですね。ところが、そういう行為の只中では、実はなにも思考してはいないわけです。後付けでその感覚を説明しようとするときに、「コントロールすると同時に放棄したような感じです」ということになるわけで。
 問題は、そのようなシンセシス(統合)の感覚が、そのものをズバリとは言い得ない何かであるというところです。それを表現しようとすると、パラドキシカルな言い方でしか言えない。ひとつの感覚を言い表すために、相反するふたつの感覚が綱引きするような言い方をしなければならない。結局のところ言葉に拠らざるをえない思想とは、レトリック(ものの言い方)でしかないわけですから、その限りでシンセシスは、「二者の緊張的静止」という言い方につながっていくことになります。
 もっといえば、背反する二律で表現する一は、本当は無いのかもしれないということですね。少なくとも、言語の消失点とはいえます。

 あまり噛み合っていないかもしれません。私はちっとも構いませんが。せめてツリーが多声的な形になれば、それでよしとしたいです。それさえ私には難しいな。ちゃんとした声にならないことも多い。

 それにしても、緊張=静止だったわけですか。それは意外でした。イメージはわかります。弓に張られた弦みたいな感じですか。私は、弁証法の2を1にするような「運動」に対しての「静止」なのかと思いました。統合されないというのは、2を2のままに置くこと、とりもなおさず運動しないってことですから。
 くどいようですが、2を1にするようなレトリックがあって、それで伝えられる事項も存在します。私は私なりに老子を読むことができるし、それを面白いとも感じるのです。それに対して、2は2のままにしておくのだというイストランさんの必然性はなんであるのか。そういうことが、私のツリー分岐の出発点だったわけです。そしてまた、リクエストでもあるのです。

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トピック= 2371 宛先= 2429 同宛先= 返信= 2433
 
Subject 「カスタネダ的世界観」がどう面白いのか
Author イストラン [ 2429 to 耳かき ]  3/27/Thu/2003   

 私も現代思想を知っていると言えるわけではありません。ですから聞き捨てて欲しいのですが。

 ドゥルーズがヘーゲル弁証法に感じた違和感とは、一言でいえば、真実の運動がそこにない、ということでしょう。逆に実存主義の創始者たちにはそうしたものがある。ヘーゲルには差異をつねに同一化された差異と受け取る傾向がある。そこから発する矛盾や対立よりも、もっと根源的な差異ないしパラドックスに眼を向けよう。こんなことでしょうか。

 で私はその実存主義の一方の雄たるキルケゴールの言う逆説だとか、運動だとかいうものに受動能動の「緊張的対立」を見取ってしまうのです。だから静止というのは緊張の別名だと思ってください。

 この緊張というのは、物事が思った通り(能動性)にいかない(受動性)というふうにも表現できる。ヘーゲル弁証法の教科書的イメージでは、こんなふうに能動性と受動性が分離している状態はさっさと通りすぎることになっている。それはこう言ってよければ、行為(能動性)の哲学であり、行為は否定であり、ただしこの否定は否定の否定という姿で受動性を自己の中に回収しながら雄々しく前進していく。そんなイメージ。

 これに対するに、カントの弁証論というものがある。それは受動性と能動性の合体を物自体の領域に、人間の手の届かないところに放逐した。

 もっともジジェクのような人はヘーゲル弁証法はカントの先鋭化であって、その否定ではなく、絶対知とは実は絶対知の不可能性のことである、なんていうかもしれませんが。

 ともかくも、受動性と能動性がそんなに簡単に合体するなら、一体信仰なるものはどうしてあるのか、そういうことがキルケゴールの視線にある。だから彼は飛躍というようなことを言う。この視線とカントの物自体への受動能動の合体の放逐が重なってみえるのです。つまり彼らは一言で言えば、有限性というものを受動能動のなんらかの統一が成立しないという形で表現したと見える。

 さて、カスタネダは一体どうなのか。これについては、引用を交えてつっついてみたいと思います。

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トピック= 2371 宛先= 2422 同宛先= 2427 返信= 2430
 
Subject 見逃し
Author イストラン [ 2427 to 耳かき ]  3/25/Tue/2003   

実はこの投稿があったことを今の今まで知りませんでした。どうもすみません。

 この問題はきちんとかんがえなくてはならないし、カスタネダの受動能動性が持つ意味については、まだわからんものがあったりするのですが、総合的に考えてみましょう。とりあえず遅くなってしまって申し訳ございません。

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トピック= 2371 宛先= 2422 同宛先= 2429 返信=
 
Subject 「カスタネダ的世界観」がどう面白いのか
Author 耳かき [ 2422 to イストラン ]  3/18/Tue/2003   

イストランさん
時がたっていますが、ひとつ質問させていただいていいですか。わかったり、わからなくなったりしながら、しつこく考え続けているのです。
あらためて自らを説明しますと、私はタオイズムやら、そこまでにも達しないような感応呪術がけっこう好きで、無論のことカスタネダもそういう読み方をした者です。ふたつのものが統合されないと言われると、ひっくりかえるわけですね。しかし、もちろん、「静止」という言い方に、力を感じもするのです。

それで、ヘーゲル弁証法が教科書的なものでなかったとして、現代思想のコンテクストのなかで統合が排除されるというときに、そのことをイストランさんはどう理解なさっているのですか。これが質問です。
イストランさんが列記された人名はひとつも読んではいませんが、ヘーゲル批判なら私もいくつか読んでいます。大抵はマルキシズムとの絡みになりますが、ドゥルーズのように根源的な価値転倒を目指すものもありました。まあ、線的な無限上昇の運動がいかんとか、問題意識のかわらない精神が絶対的な地位に立ってしまうとか、そんなことです。それでわかったつもりになり、弁証法とは一体なんなのだろうと深く考えたことは、なかったわけです。いったん考え始めると、妄想で止め処もなくなって困りますが。
やっぱり弁証法的というのは、二元論のバリエーションなのではないかと思ってみています。そう考えると、正反合の三段階からシンセシスを排除するというのは、こういうことでしょうか。すなわち、統合されてしまうような二項には、それが対立であれ、あらかじめひとつになりうるようなものが選ばれている。そして、そういうものであるならば、二項を選択するのみで既に充分なのではないか。だから、「緊張的静止」で充分なのであるということなのでしょうか?

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トピック= 2371 宛先= 2403 同宛先= 返信= 2427 2429
 
Subject Re2: カスタネダ的世界観[編集:1/22]
Author 借家人 [ 2416 to イストラン ]  3/4/Tue/2003   

人間のエネルギーの中心ではすべてエネルギーは内向きの円形に流れ込んでいるのに、頭のところのエネルギーだけは唯一例外的に、横に前後の動きを繰り返す。 それはどこにもいかない永遠の堂堂巡り。 イクストランさん、これがあなたの言説だとお気づきにはならないですか?

Pathetic!

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トピック= 2371 宛先= 2376 同宛先= 2402 返信=
 
Subject 「カスタネダ的世界観」がどう面白いのか
Author イストラン [ 2403 to 耳かき ]  2/5/Tue/2003   

 これに実際のドンファンの言葉によって肉付けをしていかなくてはならないのですが、そっちの方はさぼり気味。ほどほどのところは「カスタネダと哲学」に書いてありますが、第十二巻を読んで、事態はもっと複雑で見渡しがたいものとなってしまいました。

 ところで、部分的な話になりますが、弁証法の最近の解釈は<統合>というイメージを排除する傾向にあります。ヘーゲル自体が教科書的ではなかったということです。ジジェクや、やや古いアドルノがそういうイメージで弁証法を見ています。<静止>は<静止のの弁証法>というベンヤミン、アドルノの言葉を言葉だけ拝借して入れ込んだのですが、でもイメージとしてそれほどずれてはいないと思います。

 テンセグリティというのも、このイメージをそのまま踏襲してますでしょう。テンセグリティは<緊張>+<統合>なのですが、安定した統合ではないからこそ緊張と入れ込むわけで、それはそのまま生物としての限界を、このナワールの力の海にようやっと生きているはかないトナールというイメージにもつながる。

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トピック= 2371 宛先= 2402 同宛先= 返信= 2422
 
Subject 「カスタネダ的世界観」がどう面白いのか
Author 耳かき [ 2402 to イストラン ]  2/4/Tue/2003   

イストラン氏の「カスタネダ的世界観」(No.2372,2376)は、これまで見てきた中で最高に面白いものだった。なんとかコメントしたいと思ったが、なかなか切り口が見つからなかったので、軽く書いてみることにした。

まあ、イストラン氏の分類によれば、私はラジニーシ的脳ミソということになるでしょう。ラジニーシは知らないのですが、受動性の中での昇天をエロスとするなど、タオイズムという観点からみて結構面白い表現をする人だなと感じました。しかし、老子を読んでいるなら、受動/能動を弁証法的に統合することは可能だと思うでしょうね。だって、老子の言説が弁証法的であるというのは通説ですから。

発言番号2372の中心は、受動/能動という「二つのものが本当は統合などされないのではないか」になるでしょう。この言明は衝撃的でした。
あえて混ぜっ返しをすれば、受動/能動という本来は統合などされないものだからこそ、弁証法という意味の運動でもって止揚するのではないか、ということがいえます。そうでなければ弁証法の存在理由がないでしょう。
しかも、2376になると、受動/能動の対立を外し、「人間一個の記述」として自ら弁証法的に統合してしまいますね。この構成は意図的なのだろうか、もしそうなら何が含意されているのだろうかと、長い間考えてしまいした。わかりませんでしたが。
しかしこれらは、つまらん混ぜっ返しかもしれません。イストランさんは「デカルト的観点別受動能動」という表現をしましたが、早い話が複眼的ということでしょう。視点があらかじめふたつあるということが、「統合されない云々」の言明を支援する格好になっていますが、これは弱いと思います。けれどもそれを置いて、なお論理的道筋を考えると、複眼的ではない、なにか他の見方が、カスタネダ的に存在していなければなりません。
それが2376に、「緊張的静止」としてあらわれます。美しいイメージですね。巻頭語のメモということですが、もちろん今後のイストラン的カスタネダ読解の主軸が構想されているわけでしょう。期待します。

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トピック= 2371 宛先= 2376 同宛先= 2416 返信= 2403
 
Subject Re: カスタネダ的世界観[編集:1/22]
Author イストラン [ 2376 to イストラン ]  1/23/Wed/2003   

 同じ受動性能動性という表現がグルジェフでは、<能動、受動、中和>というふうに、中間物が入ってくる。とはいうものの、ラジニーシとは逆に能動性主義の語りになっている。普通の努力以上の超努力をしたくない人は全てをあきらめて健康にでも注意した方がよい。かく能動性の彼方へ、超能動性へと視線が向かう。

 この対立は、他の言葉の意味にも支えられ、根源的な分割を証している。ラジニーシはサーンキャやタオの極点での<無我>に至上のものを見ているし、誕生、死、愛という記念すべきことは<すること>ではなく<起こること>だという。対してグルジェフはこの世で<我>など持っている人間は極めて希であり、永続する<我>を作ることが目標であり、本当の<行為>も希にしかなく、大部分の人間は人間機械として、ただ<起こっていること>を自分の行為だと錯覚しているにすぎない。

 能動性 我と行為
 受動性 無我と非行為

 彼ら二人の言うことを合わせてしまえば、受動性と能動性は人間一個の記述でもあり、また世界の中での人間の状況でもあり、また修行を形容し記述する文脈の中心にある。

 カルロス・カスタネダを特性づけるものは、やはり受動性と能動性の語りであって、それは目立たない仕方で徐々に読者の思考に浸透してくる。それは明確なテーゼではなく、物語の語りの中に核として埋め込まれている。第十一巻『時の輪』は第八巻までの物語からテーゼをひっぱりだしてまとめたものであるが、その核となるものを<除去した>ものである。このように、彼は自分が埋め込んでおいた武器を意識していた。

 何が異なるのか。ラジニーシのように受動性の中に昇天してしまうのでもなく、グルジェフのように能動性を超えるのでもなく、カスタネダは受動能動それ自体を<解消しきれないもの>として物語るのである。これはラジニーシ的思考が「弁証法」と言いながらその実は受動性と能動性の間を飛び越えて一挙に受動性に向かうのでもなく、グルジェフのように「中和」と言いながらその中和が能動性への架橋としてあるのでもなく、この架橋物それ自体が問題となるということであり、こう言ってよければ受動性と能動性の間で「緊張的に静止する」。

 ちょうど都合の良い象徴的な話が第三巻『呪師に成る』の次の記述に見られる。

 「夕べ、もしわしがお前の腕をつかんでいなかったら、好むと好まざるにかかわらず、あの橋の上を歩いとったろうよ。その前にもおまえを探し回る風から守ってやらにゃならなかった。それが力の性質だ。前にも言ったように、そいつはおまえに命じると同時におまえに従うものだ。たとえば夕べ、力がおまえに橋を渡れと命じ、と同時に、歩いているあいだ体を支えていろというおまえの命令に従ったかも知れん。わしがおまえを止めたのは、まだ力を使う方法がないのを知っとったからだ。それに力がなけりゃ橋はくずれちまうからな。」

 幻想の橋を渡ることは、受動性と能動性の橋を渡ることである。この思想はカスタネダの心の中に、その底の底にまで浸透し、第十二巻『無限の能動面』では、これを武器として自己精神分析に着手することになる。

 まず呪術的事実の単純な<事実/認識>として、この緊張的受動能動性は語られるが、徐々に<生き方/倫理>として変容し、ついには<謎/問題>となる。カスタネダ的世界観とはこのような受動能動性を核としての思考の運動だった。

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Subject Re3: カスタネダ的世界観
Author けた [ 2375 to エアジャム ]  1/19/Sat/2003  無題 

しょうこうとかけていさむととくこころはおえりゃあせんのう^^

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Subject Re2: カスタネダ的世界観
Author エアジャム [ 2374 to イストラン ]  1/18/Fri/2003   

答えの出無い重層構造に永遠の問いが生まれるのか?
フーコーの4と3
言語は分断されることによってのみ
互いを説明することになるなんて話を読んでます
対立構造で説明してしまうのは聖域の確保と言え、
正邪をつくる聖者を生むのかな?
生き生きとした動物になれるのはいつなのか
私の場合ですが

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トピック= 2371 宛先= 2372 同宛先= 返信= 2375
 
Subject Re: カスタネダ的世界観
Author イストラン [ 2372 to イストラン ]  1/17/Thu/2003   

 「この世には宗教は二つしかない」とバグワン・シュリ・ラジニーシは言った。意志の宗教であるヨーガと、無為の宗教であるサーンキャである。さらに彼は「これらは弁証法的に統合が可能である」と言った。この対比はしかと覚えておこう。なぜならこれこそ広範に見いだされる受動性と能動性にまつわるひとつの説明の型であるから。

 ヨーガとサーンキャが実際にこういう表現でくくれるかどうかはどうでもよい。むしろなぜ対立するんだというのが一般的解釈だろう。問題は、世の中を見る見方がこういう表現に凝縮されて表れているということだ。そして、さらに面白いことには、ラジニーシは「無為を通しての行為」とは言わなかった。彼の言説は受動性の昇天をエロスとしている。だから弁証法的に統合が可能であるというのは、このエロスの暴力の前にひっそり雲散霧消していくことになる。

 「弁証法的に」、というヘーゲルの弁証法は、言葉としてカントの弁証論と同じであり、その弁証論は自由と決定性の二律背反を一つのテーマにしていた。人は、あるいは意志は自由であるのか、それとも自然因果関係におかれて徹底的に決定された世界の住人であるのか。カントは、この問いにデカルト的観点別受動能動性と、ルター的用語をもって応えた。人は<同時に>自由であり、決定されているのだと。物自体としては自由であるが、現象としては決定されている。それはルター的表現によれば、君主であり奴隷である、そういうことだ。

 受動性の中への昇天、これはラジニーシにすれば奴隷になることではなかったに違いないだろうが、<弁証法>という言葉の中に込められた<弁証論>的意味、つまり二つのものが本当は統合などされないのではないか、という視点を持つことはできなかった。そして実際統合されないままで受動性の中に昇天するのである。事実そうであるかどうかはわからないが、それもまたどうでもいいことである。言葉が、世界観がそういう運動をしている、これがどうカスタネダと異なるのかをよく説明するだろう。

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Subject カスタネダ的世界観
Author イストラン [ 2371 new post ]  1/17/Thu/2003   

 このサイトのVquestセクションの巻頭言を構想しているのですが、これはそのためのメモです。

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