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イストラン
[ 2379 to イストラン ] 1/27/Sun/2003 |
第二十七章と第二十八章とは第一の書の結末にある。この二つの章は、およそグルジェフを読むことの意味を読者に再確認させるという効果を持つだろう。
グルジェフ的なもの、あるいはカスタネダ的なもの、あるいは何であれ神秘主義的なものへ、という視点の中には、「どこか面白い話はありませんか」とか、「なんとかしてください」とか、そんな表現がぴったりな漠たる気分があると同時に、既存の宗教的言説には接続しない脳味噌のフラストレーションというものがあるはずである。聖書を読んでいれば、あるいは般若心経を唱えていればそれで済む話だとすると、一体これらへの視線の動機というものは何なのだろうか。
このフラストレーションは「力というものに直結している知の話をしてもらいたい」という風に表現できる。そしてそれがなぜ既存の宗教にないと思いこまれたのかといえば、宗教というものの第一表象は倫理道徳の源泉ということだからであろう。倫理道徳は力ではない。まして知ではない。それはたんに現世に向かっての抗議、反抗、文句であり、つまるところは理想である。そうして現代的世界観においては、価値があるのはなんでも実際の効果を生み出す、テクニカルなものだということになっているので、このような理想はえてして、なくても良い物だということになる。
ところが禅も含めて、神秘主義的なものは宗教のように力なき理想やイデオロギーに染まっただけのものとは違う、と思い込んだ脳味噌が、通常はこの手のものに行くのである。心身ともにリラックスし、明日の仕事に具えようとTMが言う。脳の潜在力を利用するのだと桐山密教が言う。こうした脳味噌にとっては、生きている意味とか、目的とか、かくあるべき状態というのは「すでに分かられている」。だから一切は手段であり、どれほどその手段が効果的なのか、これだけが問題なのだ。それはたいていは苦からの脱出だとか、欲望の達成だとかいうふうになるのだが。
対してグルジェフの世界に行くと、上に述べたような現代人の世界観はそれ自体「間違っている」として処理される。「欲望自体が間違っている」ということはなんだかへんてこりんな事態なのだが、グルジェフ言説に接近しようとした人間は、そもそもその接近の根拠を為していた事柄を否定されるという結構になっている。