| SUBJECT [ 2322 ] [ to 古賀 ] 平等意識における相同性1 |
| AUTHOR イストラン 11/11/Sun/2002 |
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う〜ん、よくわからんのですが、一つの線として、<悟り>はやはり<認識>に、定位されていると思います。たとえば「苦痛に実体がないことを洞察した」という表現から。 一方<解脱>の方は<実践>に定位されているように感じます。たとえば「有為転変からさえ自我を消滅させる」というふうに。 これらを合体するとどうなるか。 あえて否定される問いをだしてみましょう。もともと苦しんでいる自我は存在しないのにどうして消滅させる必要がある? これの変形ヴァージョンとして、もともと自性清浄であるのにどうして修行の必要がある? さらには、もともと「そのもの」である筈なのに、どうして「そのもの」になる必要がある? あるいは、もともと無我なのにどうして無我を主張する必要があるんだ? こんな感じになるでしょうか。以上の問いは古賀さんに向けてというより、ごく一般的に見られる問いですが、古賀さんはこれに見ることとすることの区別をもって何らか応じておられるように見える、ということで。 >私の頭の中では、 >解脱と悟りは違うんですがね。 >悟りはこの世の無常を洞察すること。 >だから、原始仏教の経典では、 >「彼の寡婦はその瞬間悟った」やら >「そのものはその一言で悟った」やら >一般人の悟りがわんさか出てくる。 >苦痛に実体がないことを洞察しただけで >苦痛を客観視できるようになる、と >私なりに認識しています。 > >しかし、解脱は、無常の中で自我が存在することに >苦を観じ、有為転変からさえ自我を消滅させる >事であると・・・・ >仮初の秩序さえ否定しきることとなる、恐ろしい >事と思っています。 |