ELEUTHERIA .
 SUBJECT   [ 2267 ] [ new post ]   『夜と霧』
 AUTHOR   イストラン  10/7/Sun/2002      

 この報告はナチスの収容所というのを一個のミニシステムとして提示し、ここで起こったことが社会の中でも言えるという風に想像させます。たとえばカポーという存在、同じとらわれの身でありながら、管理者にすりよって、むしろ管理者の実質的暴力を同胞に体現する存在。

 著者はこの流れの中にあって、自己を見失わず、偶然と僥倖によりついには解放されるのですが。しかしここで個人の尊厳として、あるいは個人の可能性として表現されたものは何でしょうか。

 それがもっとも直接的に表現されているのは今は亡き妻の幻影との語らいの中でもたらされた精神性でしょう。あるいはもう余命いくばくもない女性が庭の木と話した「私は存在する」という体験でしょう。

 これらは感動的ですし、精神性の実在を見事に表現してます。あまりに見事なので、このような精神性はもしかしたらこうした限界状況の中で初めて達成されるのではないかというような感じさえ受けます。これは収容所生活を一つの機会、一つの挑戦とするような見方につながり、かくて社会全体の中にも意味がずれ込み、収容所(世界)の中で処刑(死)を中心にして<挑戦という生き方>が隠喩的に提示されるということになるでしょう。

 ですが、この見方はひとつ忘れています。システムは不変のものではないということです。社会システムは数多くの抵抗によってここまで来たという歴史を持っていますが、この歴史性に対する洞察もけとばしてしまいます。そうして一種の精神のヒロイズムになるかもしれません。

 さらに不気味なのは、精神のヒロイズムというのはそもそもこの状況を生み出したもの(ナチス)にもあったということです。こうした不気味な事態として精神主義(ハイデガー、ユング)を捉えるという見方が現にあります。文化現象として一歩退いて見るというのは、そういうこともあるわけですが。


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