| SUBJECT [ 2266 ] [ to イストラン ] Re3: ユングの位置付けについて |
| AUTHOR イストラン 10/7/Sun/2002 |
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つけくわえますと、トランスパーソナル的なものが方や全体的な集合的なものに「いかれて」いるとしても、その動向自体が二面的だということがあるのではないかと思うのですよ。 それは社会に対する批判的意識の消滅にいたる道であるとともに、方やそれ自体がもっている批判性というのもあるでしょうね。前のレスで取りこぼしていたのでくわえますが。 アドルノがオルダス・ハックスリーの形而上学に向かっていくときの目線がこの「それ自体何らか批判的であるが、にもかかわらず自らの批判性を意識しない」不十分なもの、でありますが、この目線はよくわかります。自分なりの言い換えですけども。 前のレスで価値よりも存在の方が上だ、という意識に言及しましたが、この運動がその目線を惹起します。価値よりも存在という暗黙のスローガンは、社会的な認知体系(価値システム)では人は幸福にならない、価値を目指しているが、その当の価値が存在を疎外している、というふうになっているのでしょう。 つまり既存のシステムに対する批判というものが契機としてある。そうした批判性はもしかしたら政治経済的な批判よりももっとラディカルかもしれない。とはいえ、そのラディカルさがかえって政治的には何でも受容してしまうということになる可能性がある。 このことを見るサンプルとして、かなり読まれた『夜と霧』を想起してみましょう。ですがこれは一個のスレッドとして独立させてください。 |