| SUBJECT [ 2223 ] [ to イストラン ] 条件法的意志からの離脱とその根拠への問い |
| AUTHOR イストラン 9/27/Thu/2002 |
|
救済の言語は目的意識の蘇生なしにはありえないと考えるのが普通だろうが、また目的意識の蘇生だけでは宗教的言語の核に至ることはできないと考えるのも普通であろう。 というのも、確たる目的意識は往々にして目的の実現や目的の実体化に伴われるけれども、この実体化が現に存在してしまっているところに宗教性など存在しないということは、常識が見抜いていることではないか。 信仰は、神への祈りは決して満たされることのない意志、決して安定することのない意志がなければ意味を失う。キリストは十字架上で「なんぞ我を見捨てたまえり」と言いながら、「御心のままに」と言うが、この交差することのない意志と放棄、安定することのない受動能動こそ、私たちがいろいろなところに見て取る宗教性の核である。 別様に表現すれば、もはや回収されることのない意志が問題になっているのである。それが目的という意志の向かう先に意志が的中し、その向かう先によって受動化ないし充足化されるならば、そこで信仰の意志は終わったと考えるだろう。 常識人がカルトに染まらないのは、常識人は宗教性など気にもとめないが、知ってないというわけではなく、ただ容易に神の国は訪れないという日々の直観から、神の国が現前するなどという人間たちの言うことを真に受けないからだ。 もしそんなことが可能であるなら、この受苦、受動性の意味がなくなる。こうすればああなる、それでいい、というような条件法的世界観に回収されて意志が安泰するなどということは、はじめからこの人生が嘘だと教えている。 だからそのようなレヴェルでまず、カスタネダ言語は人の精神を捉えた、このように推測する。それは現実的なものとしての能動性と受動性の動揺であり、乖離であり、日常的意志サイクルの断片(こうすればああなる)に還元することのできない意志の姿であり、どういうわけか、これが救済の一つの形象になった。 カスタネダはそれがなぜそうなるのか語っているわけではない。しかしなぜそうなるのかと一生考え続けたところにしか見いだせない言説表現が第十二巻には散在している。おそらくそれまで興奮していた読者からすれば、とても地味な巻であるが、この巻がなければ彼の思考の歴史はそうした問う者としてのカスタネダの存在をかいま見せることはなかったかもしれない。 |