| SUBJECT [ 2220 ] [ new post ] ドンファン言説:意志性の側面から[編集:9/25] |
| AUTHOR イストラン 9/26/Wed/2002 |
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逆説的なことにドンファンの意志言説は目的性をそぎとったところから始まる。 意志は、一つにはマニピューラ・チャクラという物質的形象のもとにある。意志が発達すると腹のあたりから触手が出てきて、それで世界のものをつまむことができるというような。 しかしなんといっても目立つのは、この意志がいろいろな方面から目的を排除されているということだろう。意志は欲望ではないとされる。孫のルシオのオートバイを買いたいという欲望、これはドンファンによれば意志ではない。 なんのために生きるんだ、死んじまったっていいじゃないか。カルロスの挑発にドンファンは、そうだよと答える。だが、その後に意志言説が続くという仕組みになっている。 総体としてみると、この意志言説はカスタネダ文脈を離れて、私たちの労働の世界観にダイレクトに接続することもありうる。1990年に細川廣次という人は『知者に成る道』というドンファン賛歌を書いたが、その副題は「スーパーエリート」であり、最初にヤッピー、エグゼクティブサラリーマンのドンファン熱を紹介している。この本自体がそういう仕事のできる人間に成りたい人のためのカスタネダ指南書として書かれている。 しかしこのことは、端から文化史状的見方でみれば、私たちのこの労働状況での世界観が目的性を持ったものではない意志性というものに<憑依される>ことがありうる、ということを意味する。そうした文化史状のものさしでみるなら、これにイカレルということはたんに即時的真理だからというわけではなく、もっと歴史的な厚みの中で再解釈される可能性を引き寄せる。 これはニーチェの言説が20世紀になってはじめて日の目を見たということとパラレルに考えることができるだろう。ニーチェもまた目的的世界から逃れて、それにも関わらず意志性に向かったのだが、その意味ではカスタネダ型ニューエイジのゴッドファーザーはニーチェであるとも言える。そのスローガン、その隠語は<目的なき意志>である。意志それ自体が意志するという文脈に人は麻痺した。 |