| SUBJECT [ 2175 ] [ to alexios ] Re4: 非情について |
| AUTHOR イストラン 9/21/Fri/2002 |
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>クリシュナムルティが、思考によらない行為、あなたのいない行為を説いたときに、多くの人は全く理解できなかったと思います。沈黙の内に巧むことなく思考によることない、しかも怠惰でもない、秩序だった行為なるものがなんなのか、その解決は見出せなかったでしょう。 カスタネダはいろいろ言ってきました。報償なき行為であるとか、トナールの島の上で項目が背後に退くだとか。が、まずこの行為性の受け取り方は行為の通常の意味がずれたり破壊されたりするというニヒリズム的状況に置かれなくてはならない。通常は行為はその意味を充足する形でなされ、それに従う限り希望を持ったり絶望したりする。そういう形での従属を拒否し、希望も絶望も乗り越えた非情なる点は、超越の代わりに<意味を失う>という代償を払っているように見える、これが第一印象です。だから当然、その次には、意味はどうなるの?意図はどうなるの?ということになるわけです。 いみじくも「秩序だった」という形容をされましたが、どうやらこの言葉が示しているものが、再び見いだされた意味であるようですね。 >ところが、「非情」はもっとスムーズで活発な沈黙をもたらします。今になって思えばそう思います。考えてみてください、そのときにごしごし便器をこすっている様子を。 沈黙に「活発な」という形容がつけられていますが、これもまた上の「秩序だった」という言葉と同様、意味の再生を感じますが。 |