| SUBJECT [ 2173 ] [ to イストラン ] Re3: 非情について |
| AUTHOR alexios 9/20/Fri/2002 alexios www1.odn.ne.jp/~cac97360 |
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投稿をお読みいただけばわかるとおり、二重知覚はしていません。はっきりそうであったというようなことはありません。 行為が違うのはその意味でしょう・・・というか、行為そのものも変わらざるを得ないでしょう。 クリシュナムルティが、思考によらない行為、あなたのいない行為を説いたときに、多くの人は全く理解できなかったと思います。沈黙の内に巧むことなく思考によることない、しかも怠惰でもない、秩序だった行為なるものがなんなのか、その解決は見出せなかったでしょう。 彼に近づこうとする人は、一体、何からどうはじめたらいいのか、そしてその行き着く先がなになのか、自分で答えを用意する必要に迫られました。ある人は無為に頼ろうとするでしょう。ある人は、慣習的な規律・・・例えば禅の作法のようなもの・・・に頼ろうとするでしょう。しかし、そういうものは得てして形骸化したり、怠惰に陥ったりして、期待する成果をなかなか生み出すことができないのです。私自身の場合も、単なる学生乃至子供であるところから、自分の食い扶持を稼がなければならないという必要にかられました。 カスタネダは非情な点という表現、忍び寄りという表現で、これにたいする芸術的な答えを用意することに成功しました。そしてここでも夢見同様、その入り口までは真理であることが証明されたのです。 だが、ここで面白いのは、そのもたらされ方です。クリシュナムルティのような場合でも、多分禅とかでもそうだろうと思うのですが、一生懸命そうしようとまず頭でしようと思うのです。何かを達成したときは、劇的かもしれませんね。でも、根本的な沈黙にはなかなか至りません。ところが、「非情」はもっとスムーズで活発な沈黙をもたらします。今になって思えばそう思います。考えてみてください、そのときにごしごし便器をこすっている様子を。 |