ELEUTHERIA .
 SUBJECT   [ 2158 ] [ to イストラン ]   RE:第四の道の動機
 AUTHOR   イストラン  9/16/Mon/2002      

 そもそもの事実として、三脳生物という生物的限界が、状況があるのであって、ここには動機などということは考えられず、むしろ逆にこの限界に動機が動機づけられなくてはならない、こう考えるのが普通でしょう。

 しかし、たとえそうであったとしても、グルジェフ言説はそれが言うこと以上のことを言ってしまう。これが語っているのは、すでに神を失った精神であり、その精神に接続するときに、それが言うこと以上のことを、つまり目的性や意図性に関わる絶望状況にある人間に、「自分は何の目標ももっていない」ことを再確認させる。

 グルジェフたちは、「君たちは自我を持っている、意識を持っている、意志をもっていると思いこんでいるが、実は持っていない」と「言う」か「言っているつもり」であったのが、実は言われた側はすでに「確かに目的などは、おまけに一つの目的などは持っていない」ということは十分に意識しているだろう。

 だからこの言説は一つの過剰な意味を伴って、接する者に接続する。この過剰は誘惑と名付けてもよいのだが、他の項目、自我や意識についてとは少し異なる相を持っている。

 なぜならば、「お前は意識を持っていない」とか「自我を持っていない」とか言われても、言われた側はそんなことなどとりあえずは信じないかレトリックだと思うであろうし、あるいは特別な修行のために設定された、今のところは真偽不明な真理として括弧に入れるだろうが、「お前には究極の目的はない、恒久的な一つの意図はない」と言われれば、なるほどそうだということになるからである。「私は何のために生きているのか」ということはごく自然に受け入れられる問いであろう。

 かくて、第四の道は、たんに動作、感情、思考センターを統御する道、馬車の主人となる道という意味ではないような、それと同時に、ある状況にいる人間にとっての道という意味を帯びる。彼はそれらが象徴する道(修行)のどれにも絶望している。人間にも世界にも絶望し、もはやどこにも行き場のない人間という設定で意味を帯びてくることになる。

 これは、一方にある自由と囚人の弁証法とパラレルにある。囚人という位置の意識が自由への願望、意志を生じさせる。同様に、眠っていると意識する人間が起きようという願望、意志を生じさせる。同様に、自分には目的がないという意識が目的を持とうという願望、意志を生じさせる。

 それによって、意志は己を意志する、という奇妙な事態が生じることになるが、これは、実にある種の人間、ある種の想念にとっての必然的運動だということになる。奇妙なのは、私は意志しているのだが、何を意志しているのか、意志の内容が、つまりは<意図>がわからない、ということになるからである。ただ、形式的に、この意志の運動は、一なるものへという風にしか表現できないものとなる。意図への運動、一なる意図への運動、これはまた実存主義にとってはもっとも近しい動向であった。

 以上のことはグルジェフが直接には語っていないことである。グルジェフは「意図がなんだかわからない」とは決して言わなかった。ただ意図がなんだかわからない人間だけが第四の道への出発点にいる、と言ったのみである。

 では彼は意図がなんだかわかっていたのだろうか。私にはそうは思えない。

 

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