| SUBJECT [ 2157 ] [ to イストラン ] 第四の道の動機 |
| AUTHOR イストラン 9/16/Sun/2002 |
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グルジェフ言説では最高存在、あるいは存在の根のようなものは、同時にただ存在しているわけではなくて、意志を持ったものと想定されています。ただこの原初の意志は我々には届かず、どこかで断ち切られているわけで、「身の回りの世界の確認」として、我々には<恒久の自我>がない、というふうになっています。 この恒久の自我なるものは、<自由>とか<永遠>とかにも関わる単語ですが、同時に極めて特徴的なことに、<単一性>にも関わります。一つの自我が問題になるわけで、これは自我だけではなく、思考や意志の一性ということにも繋がります。 このような理屈ないし言説は、宇宙論から見れば意味的にはつながってしまいます。なぜなら、宇宙には絶対者という唯一者が存在することがはじめから前提されていますから。しかしながら、この「真理」は、それに接する者にとって、それだけではそこに向かう動機とはならないでしょう。むしろ、この言説が読む者に対して「ある種の動機づけ」を与えるから、ひとまずはこれが真理であるかどうか棚上げにされたところで、話が進んでいく、つまり接する者を魅了する、という次第になっていると思われます。 その動機面について。そもそも一なる意志の言説は、我々の社会的想念に漂っているある無力感、あるいはニヒリズムに訴える力を持っている、こういうことが言えるのではないでしょうか。 第四の道とは、ファキールの道、修道僧の道、ヨーギの道という三つの、同時に動作センター、感情センター、思考センターの別に関わる道の統合に関わります。しかしながら、第四の道への動機はそれだけではなかった。たんに統合や可能性の増大に関する動機だけではなかっただろうということです。 |