『ヴィジョン クゥエスト』(スティーブン フォスター) 高橋裕子訳、ヴォイス、1980(訳1991)


 共感できるこの著作について、その内容を逐一説明するというよりは、自分の観念をここにそっと寄り添わせてみたいという思いである。

 著者はかつて大学教師であったが、その職を辞して不毛な地帯へ人々を誘う役割を持っている。そこに集ってくる人々は何らかの意味で<自然>に助けをもとめ、内なる自然に耳を傾けようとしているティーンエイジャーから老人までの少々おかしな人々である。

 著者によれば、我々の文化には通過儀礼がない。そのことが人々を不安定と無秩序な欲望へと駆り立て、結果として必然的にこの不自然な社会生活に脱落している自分をなんとか立て直そうという衝動があることになる。

 「まわりを見るがいい。年齢を問わず、青年期の待機パターンにとらわれて、ある日魔法のように大人になるのを待っているアメリカ人がどれほど多いことか。そうするうち、彼らは富と権力の子供じみたアメリカン・ドリームを夢見るようになり、アルコールと薬物におぼれ、物質世界のきらびやかな外面に魅せられ、ままごとのような恋におちて結婚し、マスコミや政治家たちによって巧妙に作り上げられた夢を喜んで見、ロケット搭載艦やレーザーや核爆弾で同類と争い、セルロイド製フィルムと立体音響でできた人格を崇拝し、セックスにとり憑かれ、ナルシスティックな憂鬱の深みにのたうち、自己破壊的な不節制を続け、個人的行動に責任を持つことをきらい、明日の真実に立ち向かう方法として夢想を抱き、永遠に若いままでいようとし、自らの死がいつかはやって来ることを無視し、地球という家の部屋を取り散らかしたまま掃除を先延ばしにし、刺激を求めて世界各地を落ち着き無く歩き回るのだ。文化的危機を示すこれらの、そしてもっと多くの徴候が物語るのは、アメリカ人が自らを成長の拡大段階に導けるような意義ある通過儀礼を、この文化自体が提供し得ないということである。」(116)

 自然と向き合うこと、3,4日間断食し、もしかしたら死ぬかも知れない境遇、文明の音も光もない境遇に身をおいてみると、時は永遠と化し、自己は社会的な繋がりに対して一歩退いた感覚を持つようになる。そこで人々は様々なアイディアを持ってきたノートに書き記すということになる。 とはいえ、このクゥエストは予定調和的ではない。誰もがヴィジョンを発見できるわけではなかった。一瞬立ち直った薬中毒の若者がまた社会に戻って中毒生活に陥る。

 ここに記された多くの日記の中にはいくつか共通した観念がある。その一つは人々となんらかの連帯を、なんらかの配慮を最終的には信じているという段階に到ることであろう。

 「それぞれがそれぞれのやり方で孤独と隔離と欠乏と沈黙とに耐える方法を学んだ。それぞれが秘密の何かを、人生の闇と寒さと飢えに持ちこたえるやり方を学んだのだ。近づいてくる夜に備え、受け入れるための、自分なりの孤独な儀式を各自が執り行った。「ヴィジョン」を体験した者も、しなかった者もいる。がそれとは関わりなく、私たちは道がくっきりと明らかになるのを待ったのだ。  そしてそのあと、私たちはまた一緒になった。ひとりぼっちになり、飢えたからこそ、愛し方について何かを学びはじめたのだということを強調したい。私たちが言おうとしているのは、いったん一人になり、孤立した沈黙の中で自分自身の叫びが耳にこだまする経験を経なければ、愛することは容易ではないということである。」(178)

 そして、死と隣り合わせの境遇といういわば限界状況は、もちろん新たな再生と一体になっている。

 「ヴィジョンクゥエストにおける境界の地では、象徴的な死と再生は、偉大なる母の体内に実際に入り、大地の事物とのある種の再生的近親相姦を通して生まれかわる、という形をとる。過去を切り取られた英雄は、アイデンティティと再生とヴィジョンのひらめきを求めて深みへ、海や奈落や鯨の腹、暗い洞窟の中へと降りていく。」(206)

 「小さな死のすべてに究極の死が反映されている。英雄はこの究極的な死を何よりも重んじ、それゆえに、この死を象徴するドラゴンたちのいる世界を、威厳と不屈の姿勢をもって生きるのだ。耐える者とは、必ずしも最も強い者やよく準備のできた者ではない。耐える者とは、自分の弱さとともに生きることを学んだ者である。だから、英雄は自分自身にただ、存在することを許す。弱くあること、強くあること、死を母に持つドラゴンたちに立ち向かうことを許すのだ。」(224)

 「出会うべきドラゴンが自己への愛の欠如、つまり自己破壊性だということもある。ある種の自己破壊的行為に対して、それも特に中毒的なものの場合、究極の勝利はひと騒動やったくらいで得られるものではない。ドラゴンは繰り返し繰り返し現れては餌食を求め、それに立ち向かうには愛の劇場と自尊心をもってするしかないのである。言葉や高い志だけでは足りない。  英雄は、自己破壊のドラゴンを戦いに引き入れる。探求者はいかに勝つかを学ぶことにより、いかに闘うかを学び、いかに闘うかを学ぶことにより、いかに生きるかを学ぶ。そしていかに生きるかを学ぶことにより、いかに死ぬかを学ぶのだ。」(250)

 しかしながら、このヴィジョンクゥエスト全般に漂う愛と死に向けての危機と再生のテーマには予定調和的なことは極力抑えられている。カスタネダのように死を意識的に「使用する」ということでもない。もちろんそのようなことは常識的に基盤としては存在してはいるのであるが、それとてこの著作が強調したいことではない。ここには死ぬということすら予定してきている人もいたのだ。そして首尾よく死んでいった(ギフトベアラー)。

 いかにして精神を立て直すのか、いかにしてヴィジョンを見るのか、いかにして超越的知覚を持つのか、世の中にはこのように「いかにして」の言説が多く漂っている。しかしここではそのいかにしてができるだけ避けられているように感じる。

 ヴィジョンクゥエストでは、参加者は「目的の輪」を描いて、その中で沈黙のうちにすごすことになっている。
 もし著者がこの文脈で何かを捉えるとするならば、それは「目的喪失から目的の再発見」という道筋が強調されるだろう。しかしながら、この著作が持っている無秩序はそうした一見ありがちな解釈を拒絶しているように見えるのである。

 最後に著者自身のエピソードらしきものが書かれているが、それはぎりぎり絶望した状況での著者の言葉であり、これについてコメントするのは止めておこう。





ixtlan@eleutheria.com 1998



VISION QUEST INDEX