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[ 3386 to マレーヌ ] 9/21/Tue/2004   イストラン    
RE:きわめてボーとした倫理学

わ〜、どうも有り難うございます。あたってみます。


>お探しのものでは?
>1)CD−ROM版($550 37volumes language;English )
> new customers charge, shipping charge 別
>
> http://www.nlx.com/titles/titldewe.htm
> PAST MASTERS
> The Collected Works of John Dewey (1882-1953)

>2)The Later Works of John Dewey, 1925-1953
> Volume 7: 1932, Ethics
> Cloth, xxxv, 536 pp. ISBN 0-8093-1200-X
> Paper, xxxv, 512 pp. ISBN 0-8093-1575-0


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  トピック= 3181 宛先= 3385

[ 3385 to イストラン ] 9/21/Mon/2004   マレーヌ    
RE:きわめてボーとした倫理学

>デューイ/タフツの倫理学を発見。でも20万円から50万円というのはどうかと思う。どっかにコピーはありませんか。

お探しのものでは?
1)CD−ROM版($550 37volumes language;English )
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http://www.nlx.com/titles/titldewe.htm
PAST MASTERS
The Collected Works of John Dewey (1882-1953)

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Paper, xxxv, 512 pp. ISBN 0-8093-1575-0

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Southern Illinois University Press
P.O. Box 3697
Carbondale, IL 62902-3697
(618) 453-6619

3)いくつかの大学図書館
 倫理学 : 全訳 / ジョン・デュウイー, ジェイムス・H.タフツ [著] ;帆足理一郎訳
東京 : 春秋社, 1962.1 6, v, 451, 13p ; 21cm
別タイトル: Ethics ; 全訳倫理学

社会倫理学 / デュウイ,タフツ[著] ; 久野収訳<シャカイ リンリガク>.
東京 : 河出書房新社, 1972.4
454p ; 20cm. (世界の大思想 / 務台理作[ほか]責任編集 ; 38)
注記: 原著改訂版(1932年刊)の翻訳 ; デュウイ、タフツ年表:p452-454 ;
別タイトル: Ethics




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  トピック= 3181 宛先= 3381

[ 3384 to イストラン ] 9/20/Sun/2004   イストラン    
38.演繹の法則;演繹的学の形式的な性格


38.演繹の法則;演繹的学の形式的性格

 *われわれはどんな演繹理論も原初的タームと公理のシステムの上で考える。われわれの考察を単純にするために、この理論は論理だけを前提にすると仮定する。つまり論理だけが与えられた理論に先立つ唯一の理論なのである(参照第36節)。


126

われわれの理論の全ての言明で、原初的タームが全面的に適切な変項で置き換えられると想定してみよう(第37節でのように。さらに単純化するため、定義されたタームを含む定理を無視する)。考察された理論の言明は、原初的タームがそれによって置き換えられるシンボルを自由変項として含み、論理に属す定項以外の定項は含まない、そうした文関数になる。あるものが与えられるならば、それが、われわれの理論の公理すべてを満足するかどうかを見ることができる。あるいは正確に言えば、たった今説明したやり方でこれらの公理から得られる文関数すべてを満足するかどうかを見ることができる(つまり、これらのものの名前や指示が、自由変項の場所に置かれるとき、文関数を真なる文にするかどうかを見ることができる;第2節参照)。もしもそうであることがわかったならば、考察しているものはわれわれの理論の モデル あるいは 公理システムの具体化 を形成する、と言うだろう。またそれらは 演繹理論のモデル そのものを形成するともいうことがある。まったく類似したやり方で、与えられたものがわれわれの理論の公理システムを満足するだけではなく、われわれの理論のどのような他の言明のシステムをも満足するかどうか、したがって、このシステムのモデルを形成するかどうか、これを見ることができる(システムが単一の言明から成っているということは排除されていない)。
 たとえば、与えられた理論の原初的タームが指示するものによって、公理システムの一つのモデルが形成される。というのはすべての公理が真なる文であるとわれわれは想定しているからである。このモデルは、もちろんわれわれの理論のすべての定理を満足する。しかし、われわれの理論の構築に関する限り、このモデルは他のすべてのモデルの間にあって区別される位置を占めてはいない。公理から、このまたはあの定理を演繹するとき、われわれはこのモデルの特別な性質を考えているのではなく、公理であからさまに述べられる、だから公理システムのあらゆるモデルに属するそれらの性質だけを使用している。したがって、われわれの理論の特定の定理のあらゆる証明は、公理システムのあらゆるモデルに拡張され得るし、もはやわれわれの理論には属さず、論理に属したはるかに一般的な論証へと変換され得る(前の節の法則T'やU'のように)。それらは、問題となる定理がわれわれの公理システムのあらゆるモデルで満足される、という事実を確立する。


127

このようにしてわれわれがたどり着いた最終的な結論は、つぎのような形で言い表すことができる。

  与えられた演繹理論のあらゆる定理はこの理論の公理システムのどんなモデルによっても満足される。さらに、論理の枠内で定式化され証明されることができる一つの一般的な言明が、そして問題になっている定理がいかなるそうしたモデルによっても満足されるという事実を確定するような一つの一般的な言明が、あらゆる定理に対応する。

 われわれはここに演繹的学の方法論の領域から一つの一般的な法則を持つことになった。それはもう少し厳密に定式化すれば、 演繹の法則 LAW OF DEDUCTION (または 演繹定理 DEDUCTION THEOREM )として知れらているものである。2
 この法則のとてつもない実践的重要性は、演繹的学の分野を離れずしてすら、個別理論の公理システムの多くのモデルを我々が普通に展開できるという事実から生じる。そうしたモデルに到達するためには、他の演繹理論(それは論理でも論理を前提とする理論でもありうる)から或る種の定項を選び、原初的タームの代わりにそれらを公理の内に置き、こうして得られた文がその他の理論の確証された文になっているということを示せばよい。この場合われわれは、 他の理論の中での、元の理論の公理システムの解釈 を発見した、と言う。(とくに、選ばれた定項が元々考えられた理論に属し、その場合には原初的タームのいくつかは不変のままであるということが起こるかもしれない。そのとき、与えられた公理システムは考察中の理論の枠内で新しい解釈を発見した、と言われる。)われわれはまた、元の理論の諸定理を類似した変形に委ね、全面的に、原初的タームの代わりに、公理の解釈で使用された定項を置くだろう。演繹の法則を土台にして、こうして到達した文が新しい理論の文であることが確証されたことをさらに確かめることができる。われわれはこのことを次のように定式化する。


2 この法則は著者によって一般方法論的公準として定式化され、後に、さまざまな特殊演繹理論のために厳密に証明された。


128

  与えられた公理システムの土台の上で証明されたすべての定理は、そのシステムのいかなる解釈に対しても妥当であり続ける。

これら変換された定理に対して一つ一つ特別な証明を与えることは冗長である。いずれにせよ、それは純粋に機械的な作業となるだろう。なぜならば元々の理論の領野から対応する論証を取ってきて、それを公理と定理について遂行された同じ変換に委ねればよいからである。演繹理論の内でのあらゆる証明は、いわば潜在的には、他の類似した証明を際限なく含んでいるのである。

 上に述べた事実は人間的思考の経済という観点からして演繹理論の大きな価値を示している。それはまた、演繹理論の方法論の中でのさまざまな探求や調査にとっての基礎を確立するという理由だけからしても、射程の長い理論的重要性である。とくに、演繹の法則はすべてのいわゆる 解釈による証明 にとっての理論的基礎である。これまでの節で、われわれはすでにそうした説明の一例に出会っている。この本の第二部では、他の様々な例を目にするだろう。
 正確さという理由のために加えなくてはならないが、ここで素描された考察は論理が前提されている構成を持つ演繹理論になら何でも当てはまる。それに対して、論理自体への適用はここでは論じないいくつかの困難を産み出す。演繹理論が論理だけではなく、他の理論も前提にしているのであれば、上述の定式化のいくつかはもっと複雑な形を取る。

 ここで論じられる方法論的現象の共通の源泉は先の説で指摘された事実であり、つまり、演繹理論を構築する際、われわれは公理の意味を無視し、その形だけを考慮に入れるということである。そのために、人はこの現象に言及するとき、演繹的学とこの学の中にあるすべての推論の純粋に 形式的な性格 について語るのである。
 ときどき、パラドクシカルな誇張された様子で数学の形式的性格を強調する言明を見かけるが、基本的に正しくとも、このような言明は曖昧さと混乱の元である。


129

数学的概念には何もはっきりした内容が属しいないだとか、数学ではわれわれは自分が語っていることを実際には知らないだとか、われわれの主張が真であるかどうかにはわれわれは関心がないだとか、そうしたことをときに聞いたり、さらには読むことすらある。そうした判断にはかなり批判的に近づかなければならない。理論を構築しているときに、まるでその学科のタームの意味を理解していないかのように振る舞っているとしても、それはこれらのタームに意味というものを拒否しているのとは全く違う。周知のように、原初的タームに定まった意味を属させることなしに、それらを変項として扱いながら、われわれが演繹理論を発展させることがあるというのは、そうした例である。この場合、われわれはその理論を 形式システム FORMAL SYSTEM として扱っている、と言う。しかしこれは比較的まれな状況であり(第36節で与えられた演繹理論の一般的説明内で考慮されることすらない)、この理論の公理システムのためにいくつかの解釈を与えることが可能であり、つまり、この理論で現れるタームに具体的意味を持たせるいくつかの可能な方法があり、しかしこれらの方法のどれか一つを進んで選ぼうとは思わないときに限り、そうしたことが起こる。他方、一つも解釈を与えることができない形式システムは、おそらく誰の関心も惹かないだろう。

 結論として、数学的学の解釈で或る面白い事例に注意を向けよう。それは第37節で見たものよりもはるかに重要なものである。
 算術の公理システムは幾何学の中で解釈されることができる。任意の直線が与えられたとせよ。その点とその点に関する操作との間の関係を、算術のすべての公理、だからすべての定理を満足するものとして定義することが可能である。そうした関係は数と数に関する操作に関連する関係である。(これは第33節で言及した状況と密接に結びついている。つまり、一本の線のすべての点とすべての数との間にある一対一対応を確立する可能性である。)逆に、幾何学の公理システムも、算術の中で一つの解釈を持つ。この二つの事実の使用は多種多様である。たとえば、幾何学的形態は算術の分野の様々な事実の視覚的イメージを与えるために使われるかもしれない。これはグラフメソッドとして知られている。


130

他方、算術的あるいは代数的方法の助けを借りて幾何学的事実を調べることが可能である。幾何学の特別な分野、解析幾何学として知られているものがあって、それはこのタイプのすべての探求に関わる。
 先に見たように、算術は論理の一部分として作り上げることができる(参照、第26節)。しかし、算術を、その固有の原初的タームと公理に依拠する独立した演繹理論として扱うならば、論理との関係は次のように記述できる。算術は論理の中で一つの解釈を所有する(無限の公理が論理の中に含まれるという理解のもとに。参照第26節)。換言すれば、そうした概念を、算術のすべての公理、だからまたすべての定理を満足するものとして定義することが論理の内で可能である。幾何学が算術の中で一つの解釈を持つということを想起するならば、幾何学もまた論理の中で解釈されうる。これらすべてのことは、方法論的観点からして極度に意義深い事実である。*


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  トピック= 3176 宛先= 3360

[ 3383 to イストラン ] 9/18/Sat/2004   マレーヌ    
「間」性

> 時や空というものに間性を見て取るということは、時間や空間を最初から存在と無の中間物としているから、それらの存在性や無性について疑いとか意識とかが持てないということもあるように思いますね。

お手間をとらせて恐縮です。
疑いも意識もしていなければ知る必要はありませんね。

> これも知りませんが、多分ハイデガーもメルロポンティも知らなかったと想像します。

はるか遠くの異国のことばは関心外だったでしょうね。

> ところで、「解釈学的現象学」の本と書かれてますが、それは誰の著作でしょうか。もしかしてリクール?

質的研究に応用するため「解釈学的現象学」について概略を示し, 方法論を述べた本です。言葉足らずで申し訳ありませんでした。哲学専門の方からすれば派生のものですし, この場で著者名を書き込むと支障があるかもしれませんので控えさせてくださいませ。

導入部分で質的研究の基盤が現象学であることをおおまかに説明し, フッサール, ディルタイ, ハイデガー, ガダマー, メルロポンティ, 等々, そしてオランダ現象学まで紹介されています。(デュケーヌ派現象学のデュケーヌというのは大学名でしょうか。) リクールは, データ収集と分析の説明部分(解釈学的循環)で名前が出てきます(Hermeneutics and the human sciences 英訳で参照)。
おもしろいと思ったのは, 解釈に関する文献はラビの書くユダヤ教のタルムード原則集に端を発するという記述です。

私は質的研究者ではないのですが, 読んでいるうちに学生時代以来遠くなっていた哲学(専攻は異なります)をもっと知りたくなった次第です。存在, 無, 実存, 現存在, etc. あれこれ考えているうちに, エッシャーの絵のように無限循環に陥りそうになっています。
その一方で, 全く別の目前の雑事の数々をこなしているのも不思議なものです。

私ごときに早々にお答えくださりありがたく, 重ねてお礼を申し上げます。


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  トピック= 3370 宛先= 3382

[ 3382 to マレーヌ ] 9/17/Fri/2004   イストラン    
「間」性

>「彼ら」はその後「間」性を知る言語があることを知ったのでしょうか。

 これも知りませんが、多分ハイデガーもメルロポンティも知らなかったと想像します。

 ところで、「解釈学的現象学」の本と書かれてますが、それは誰の著作でしょうか。もしかしてリクール?


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  トピック= 3370 宛先= 3379

[ 3381 to イストラン ] 9/17/Fri/2004   イストラン    
きわめてボーとした倫理学

デューイ/タフツの倫理学を発見。でも20万円から50万円というのはどうかと思う。どっかにコピーはありませんか。


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  トピック= 3181 宛先= 3369

[ 3380 to マレーヌ ] 9/17/Fri/2004   イストラン    
「間」性

>なぜ、日本語は「間」性を知っていたのでしょうか。

 わかりません。間性に似たようなものは西洋語にもあると思います。interesseのinterとか。しかし時や空というものに間性を見て取るということは、時間や空間を最初から存在と無の中間物としているから、それらの存在性や無性について疑いとか意識とかが持てないということもあるように思いますね。


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  トピック= 3370 宛先= 3379

[ 3379 to イストラン ] 9/16/Thu/2004   マレーヌ    
「間」性[編集:9/16]

> そうですよね。ドイツ語でRaumとZeitには「間」という意味がないけれど、日本語感覚では時間空間などは「間」であるのが当たり前になっている、というのも困ったことです。というのは彼らがこれは発見したと言っている「間」性というのも日本語はとうの昔に知っていたからで、だから何だとは言えないけれども、さりとて偶然で済ますこともできない、とか。言葉そのものが意図してしまっているというか。


また参りました。思索のおじゃまでなければ・・・、

なぜ、日本語は「間」性を知っていたのでしょうか。
「彼ら」はその後「間」性を知る言語があることを知ったのでしょうか。


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  トピック= 3370 宛先= 3375

[ 3378 to ぱんどら ] 9/16/Wed/2004   イストラン    
Re2: 現代思想の10冊

>7.『ボノボに見る個体間闘争とセックスの応用について』(パンドラ)
>
>なんていかが・・・まだでてないけど。

 これこれ冗談ではありませぬ。パンドラ氏もたまには現代思想を読んでみられるとよい。泣けてくるから。


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  トピック= 3376 宛先= 3377

[ 3377 to イストラン ] 9/15/Tue/2004   ぱんどら    
Re: 現代思想の10冊

7.『ボノボに見る個体間闘争とセックスの応用について』(パンドラ)

なんていかが・・・まだでてないけど。


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  トピック= 3376 宛先= 3376

[ 3376 new post ] 9/12/Sun/2004   イストラン   神秘主義と哲学   eleutheria.com
現代思想の10冊

 まともに読んだとは言えないが、一番好きな順番から並べると、

 1.『キルケゴール−美的なものの構築』(アドルノ)
 2.『ベルゼバブ』(グルジェフ)
 3.『存在と時間』(ハイデガー)
 4.『全体性と無限』(レヴィナス)
 5.『差違と反復』(ドゥルーズ)
 6.『意志的なものと非意志的なもの』(リクール)

 と挙げてきて、あと4冊足りない。まだまだ知らない好きなものが一杯あるのだろうね。


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  トピック= 宛先=

[ 3375 to マレーヌ ] 9/12/Sat/2004   イストラン    
Re5: I am myself time

>母語が違うと言ってしまえばそれまでなのですが・・・。
>翻訳されたことばと, 意図されたもとのことばのニュアンスのずれの影響はどの程度のものなのかと考えることがあります。

そうですよね。ドイツ語でRaumとZeitには「間」という意味がないけれど、日本語感覚では時間空間などは「間」であるのが当たり前になっている、というのも困ったことです。というのは彼らがこれは発見したと言っている「間」性というのも日本語はとうの昔に知っていたからで、だから何だとは言えないけれども、さりとて偶然で済ますこともできない、とか。言葉そのものが意図してしまっているというか。


>ほんとうにありがとうございました。

 なんのなんの、マレーヌさんのおかげで久しぶりに『知覚の現象学』を繙くことができました。こうして何回か読むと、そうだよなぁ、やっぱりそうかという感想も出てきて楽しいです。


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  トピック= 3370 宛先= 3374

[ 3374 to イストラン ] 9/11/Sat/2004   マレーヌ    
Re4: I am myself time

> これは、客観的なものとしての私は「時間の中にある」ということだが、本来の主観性は「時間そのもの」であるということでしょう。
>
> 一般的にこういうことが言えると思います。ハイデガーやメルロ=ポンティは、空間と時間を世界の容器のようには扱わず、主観性を成立せしめる意味としていると。

丁寧にお答えいただき, ありがとうございます。
確証が得られ, とても助かりました。

どの著名な哲学者にしても, その人が書いた原文そのもので理解できればどんなによいかと思います。
母語が違うと言ってしまえばそれまでなのですが・・・。
翻訳されたことばと, 意図されたもとのことばのニュアンスのずれの影響はどの程度のものなのかと考えることがあります。

なにやら場違いな者がまぎれこんでしまったようで, 大変失礼いたしました。未熟ものながら学んでいきたいと思います。
ほんとうにありがとうございました。


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  トピック= 3370 宛先= 3373

[ 3373 to マレーヌ ] 9/11/Fri/2004   イストラン    
Re3: I am myself time

>1962年のC.Smith訳で, p421とp422とあります。
>この訳本全体を読む時間的余裕がなく, 突然こちらに質問をいたしました。

 日本語訳はないのでしょうか。手持ちの日本語訳で、当該箇所を発見しましたので、そのまわりの部分も含めて引用しておきます。

 「これらさまざまな時熟単位(tempora)を外から結び合わせてただひとつの時間たらしめるような綜合は必要ではない。なぜなら、これら時熟単位のそれぞれが、すでに己れ自身を超えて、他のさまざまな時熟単位の開放的な全系列を含んでおり、それらと内的に交流しあっているからであり、その脱自とともに<生の連関>があたえられているからである。現在から他の現在への移行を、私は思惟したり傍観したりするのではなく、遂行するのであり、私はちょうど私の所作がすでにその目標に行き着いているように、来たらんとする現在にすでに行きついているのであり、私自身が時間−カントがあちこちで語っているような、「流れる」ことも「変化する」こともなく、「とどまっている」時間−なのである。」(みすず)

 「われわれは、究極の意識は、内時間的ではないという意味で「無時間的」だと言うことができる。もし私が現在をなお生き生きとした姿で、それが含蓄するすべてと共に捉えなおすなら、その現在の<なか>には、未来と過去とへ向かう脱自があり、これが時間の諸次元を、敵対的なものとしてではなく、不可分なものとして出現せしめるのだ。つまり、現在にあるということは、つねにあり永遠にあるということなのである。主観性は時間を引き受け、あるいはそれを生き、生の連関とひとつであるからこそ、時間のなかに存在しないのだ。」(みすず)

 これは、客観的なものとしての私は「時間の中にある」ということだが、本来の主観性は「時間そのもの」であるということでしょう。

 一般的にこういうことが言えると思います。ハイデガーやメルロ=ポンティは、空間と時間を世界の容器のようには扱わず、主観性を成立せしめる意味としていると。


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  トピック= 3370 宛先= 3372

[ 3372 to イストラン ] 9/10/Fri/2004   マレーヌ    
Re2: I am myself time

>>"I am myself time." 
>>"Subjectivity [experience] is not in time because it takes up or lives time and merges with the cohesion of a life.
>
> どのページの文章ですか。

解釈学的現象学についての本の中で, 参考文献として引用されている文章です。
1962年のC.Smith訳で, p421とp422とあります。
この訳本全体を読む時間的余裕がなく, 突然こちらに質問をいたしました。
申し訳ありませんが, ご教授いただきたくお願いします。


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  トピック= 3370 宛先= 3371

[ 3371 to マレーヌ ] 9/10/Thu/2004   イストラン    
Re: I am myself time

>"I am myself time." 
>"Subjectivity [experience] is not in time because it takes up or lives time and merges with the cohesion of a life.

 どのページの文章ですか。


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  トピック= 3370 宛先= 3370

[ 3370 new post ] 9/9/Thu/2004   マレーヌ    
I am myself time

メルロ=ポンティの『知覚の現象学』(英訳)からの引用です。

"I am myself time." 
"Subjectivity [experience] is not in time because it takes up or lives time and merges with the cohesion of a life.

どういうことを意味しているのでしょうか。
よろしくお願いします。


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  トピック= 宛先=

[ 3369 to イストラン ] 9/8/Tue/2004   イストラン    
きわめてボーとした倫理学

の一つとして、デューイとタフツが1932年に出した『倫理学』がある。邦訳には、河村望訳の『デューイ=ミード著作集10、倫理学』がある。ところが、これは部分訳で、部分訳のままにしておくのは惜しい。しかしアマゾン・コムを見ても容易に出てこないし、アリブリスを見ても出てこない。どなたかこれを入手する方法をご存じありませんか。


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  トピック= 3181 宛先= 3181

[ 3368 to イストラン ] 9/8/Tue/2004   イストラン    
37.演繹理論のモデルと解釈


37.演繹理論のモデルと解釈

 これまでの節で提示された諸原理を一貫して適用した結果、演繹理論はある種の興味深い重要な特質を獲得した。それをこれから述べることにする。我々が論じることになる問いはとても入り組んだ抽象的な性格のものであるから、具体例を手段にして解明してみよう。
 たとえば線分の合同に関する一般的事実に関心があるとしてみよう。そして幾何の断片を特殊演繹理論として構築せんと意図するとしよう。そして変数「 x 」「 y 」「 z 」がそれらの線分を指示するとする。原初的な項として、われわれは「」と「 」というシンボルを選択する。前者は「すべての線分の集合」という語の短縮であり、後者は合同の関係を示している。




1 演繹的な方法は最近の成果であるとは考えられない。すでに、ギリシャの数学者、Euclid (およそ紀元前300年)の『原論 Elements』の中に、上述の方法的原理の観点から望まれるもの以外のものがあまりない幾何学の提示を見る。2200年の間、数学者たちは Euclid の著作に科学的厳密さの理想と原型を見てきた。この分野での本質的な進歩はこの50年ほどの間に起こった。その間に、幾何学と算術という基本的な数学的学を基礎づけることが、数学の今日の方法論のあらゆる要求に従って行われた。この進歩という点でわれわれが負っているテキストには、少なくとも、すでに歴史的重要性を持つ次の二冊がある。イタリアの数学者、論理学者の G.Peano(1858-1932)が編者であり主たる著者である、『数学の定式集 Formulaire de Mathématiques』(Torino 1895-1908)。そして、現代ドイツの大数学者、D.Hilbert の『幾何学の原理 Grundlagen der Geometrie』(Leipzig and Berlin 1899)である。



121

だから、

x y


は、

線分 xy は合同である、


と読まれる。さらにわれわれは二つの公理を採用する。

公理T  集合のどの要素 x に関しても、 x x (換言すれば、 あらゆる線分はそれ自身に合同である )。

公理U  集合Sのどの xyz に関しても、 x zy z ならば、 x y (換言すれば、 同じ線分に合同な二つの線分は互いに合同である )。

 これらの公理から、線分の合同に関する様々な定理が導かれる。たとえば、

定理T  集合Sのどの yz に関しても、 y z ならば、 z y

定理U  集合Sのどの xyz に関しても、 x y かつ  y z ならば、 x z

 これらの定理の証明はとてもやさしい。たとえば、最初の定理の証明を素描してみよう。
 公理Uで、「 x 」の代わりに「 z 」をおけば、

集合Sのどの yz に関しても、 z z  かつ  y z  ならば、  z y


この言明の仮定では、

z z


を使っているが、
これは公理Tのもとで疑いなく妥当であり、だから省略することができる。こうしてわれわれは問題の定理に達する。

 この単純な考察に関連して注意しておきたいことがある。
 われわれのミニチュア演繹理論は、原初的な項と公理の都合よく選択されたシステムに依存している。原初的な項によって示されることがらの知識、つまり線分と合同に関する知識はとても包括的であり、採用された公理によっては決して極め尽くされない。


122

しかしこの知識はいわばわれわれの私的な関心事であって、われわれの理論の構成にはいささかの影響も及ぼさない。とくに、公理から定理を導出する際に、なんらこの知識を使うことはなく、あたかも考察で関わってくる概念の内容を、われわれが理解していないかのごとくであり、公理中に表立って主張されていないこの知識について、われわれは何も知らないかのごとくである。よく言われるように、われわれは自分たちが採用する原初的な項の意味を無視し、これらの項がその中で生起する公理の形にだけ、注意を向けるのである。
 このことが意味しているのはとても意義深く興味深い帰結である。われわれの理論中のすべての公理と定理の原初項を、適当な変項で置き換えよ、たとえば、シンボル「」をクラスを指示する「 K 」で、シンボル「」を関係を指示する変項「 R 」で(考察を単純にするために、ここでは定義された項を含む定理は無視する)。われわれの理論の言明はもはや文ではなくなるだろう。しかしそれは自由変項「 K 」と「 R 」を含む文関数であり、一般に、関係 R はクラス K でしかじかの性質を持つという事実を表明する(あるいはもっと正確に言うと、しかじかの関係が KR の間に成立するという事実を表明する。参照第27節)。 たとえば、容易に見てとれるように、公理TTと定理T、Uは、今やクラス K において関係 R がそれぞれ反射的、対称的、推移的であると言うだろう。公理Uはそれに対して我々が特定の名前を持っていない性質を表現している。これをと呼ぶことにすると、それは次のような性質である。

クラス K のいかなる要素、 xyz に関しても、 xRz かつ  yRz ならば、  xRy


 われわれの理論の証明では、線分のクラスの性質や合同の関係はなんら使用せず、諸公理の中で明示された性質や関係を使用するのみであるから、あらゆる証明はとても一般的なものになるが、それはそうした性質を持つどのようなクラスや関係 R にも適用することができるからである。証明のそうした一般化の結果として、われわれの理論のどんな定理をも、論理学の領域、つまり関係の理論に属する一般的法則に相関させることができる。そしてその一般的法則が述べることは、クラス K で反射的であり、性質を持つあらゆる関係 R はまた、考察された定理で表現された性質を持っている、ということである。


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だから、たとえば、関係に関する次の二つの法則は、定理Tと定理Uに照応している。

 T′.  クラス K で反射的であり、そのクラスで性質を持つあらゆる関係 R は、また K において対称的である。

 U′.  クラス K で反射的であり、そのクラスで性質を持つあらゆる関係 R は、また K において推移的である。

 或る関係 R が、或るクラス K で反射的であり、性質を持つならば、 KR は一緒になって、われわれの理論の モデル または 公理システムの実現 を形成する、と言う。あるいはもっと簡単に、それらは公理を満足する、と言う。たとえば公理システムの一つのモデルは線分のクラスと合同の関係によって形成される。つまり、原初項 primitive terms によって示されるものによって形成される。もちろん、このモデルはまた公理から演繹されるすべての定理を満足する。(厳密には、理論の言明自体ではなく、原初項を変項で置き換えることで、それらから得られる文関数を一つのモデルが満足する、と言うべきである。) しかしながら、この特定のモデルは理論の構築の際に何ら特権的な役割を演じるわけではない。反対に、T′やU′のような普遍的論理法則を土台にして、公理システムのいかなるモデルもそれら公理から演繹されるすべての定理を満足するという一般的結論にわれわれは達する。この事実からして、われわれの理論の公理システムのモデルは、 理論のモデル 自体として言われもする。
 論理学や数学の領域ですら、われわれの公理システムのために多くの異なったモデルを提示することができる。そうした一つのモデルのために、他のどんな演繹理論の枠内でも我々は、たとえば「」と「」(前者はクラスを、後者は関係を指示する)という二つの定項を選び、そのシステムのすべての箇所で、「」を「」に置き換え、「」を「」に置き換え、最終的に、こうして得られた文が新しい理論の定理であり、また公理でもあり得ることを示す。このことに成功するならば、 他の演繹理論の内で公理システムの解釈 を発見したとわれわれは言い、また同時に、われわれの 演繹理論 全体を発見したと言う。公理の中でばかりではなく、われわれの理論のすべての定理で、原初項「」と「」を「」と「」で置き換えるならば、さらに進んで、こうして得られるすべての文は新しい演繹理論の真なる文となることを確かめることができる。


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 ここでわれわれのミニチュア理論の具体的な解釈例を二つ挙げることにする。公理Tと公理Uで、シンボル「」を普遍のクラス「」で置き換え、シンボル「」を同一性の記号「=」で置き換えてみよう。即座に見てとれるように、公理は論理法則となるだろう(実際、わずかに変様した形での第17節の法則UとXである)。普遍のクラスと同一性の関係は、したがって、公理システムのモデルを構成し、われわれの理論は論理の中に一つの解釈を発見したのだ。このように、シンボル「」と「」をシンボル「」と「=」で置き換えた定理Tと定理Uにおいて、われわれは真なる論理文に到達したと確信する(実際、またお馴染みのものを目にする−第17節の法則Vと法則Wを参照)。
 次に、すべての数の集合、あるいは数の他の集合を、「」で指示することによって考えてみよう。二つの数 xy を、それらの差 xy が整数であるならば、等しいと呼ぼう、シンボルでは、

xy


となる。そこで、たとえば、

≡ 5


であるが、他方、

3 ≡ 2


となるわけではない。
双方の公理で原初項が「」と「≡」によって置き換えられるならば、結果として生じる文が算術の真なる定理であることは容易に示すことができる。このようにして、われわれの理論は算術の中で一つの解釈を持つことになる。なぜなら、数 と等価関係 ≡ は公理システムのモデルを構成するからである。そしてまた、なんら特別の推論をすることなく、定理Tと定理Uは、それらが公理として同じ変形に服するならば、真なる算術の言明となることをわれわれは確信する。

 上で述べた一般的な事実は方法的探求の中で多くの興味深い応用を持っている。それをここではたった一つの例を使って説明しよう。これらの事実を土台にして、ある種の文がわれわれの公理システムから演繹することができないということを証明する仕方を示すことにする。


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 次の文 A (われわれの理論内でのみの論理的タームと原初項で定式化されている)を考えてみよう。

 A.集合の二つの要素 xy があり、その集合に関しては x y ではない (他の言葉で言えば、合同ではない二つの線分がある)。

 この文は疑いなく真であるように見える。にも拘わらず、公理TとUを土台にしてそれを証明しようと試みても、いかなる肯定的結果も与えられない。そこで文Aはわれわれの公理からは全く演繹できないという推測が生じる。この推測を確かめるために、われわれは次のように論じる。文Aがわれわれの公理システムを土台にして証明可能であるならば、すでにわかっているように、このシステムのあらゆるモデルがその文を満足するだろう。したがって、文Aを満足しないような公理システムのモデルを示すことに成功するならば、この文は公理Tと公理Uからは演繹できないことを証明することになる。さて、そうしたモデルを作ることはなんら難しくないということがわかる。たとえば、すべての整数の集合 (あるいは他の整数の集合、数0と1だけから成る集合)と上に述べた数の間の合同関係 ≡ を考えよう。先の注意から、われわれにはすでにわかっていることがある。集合 と関係 ≡ はわれわれの公理システムのモデルを構成しているということである。しかし文 A はこのモデルを満足しない。というのも等価でない二つの整数 xy 、つまりその差が整数でない二つの整数 xy は存在しないからである。この目的に適した他のモデルは個体の任意のクラスと任意の個体間に成立する普遍関係 によって作られる。
 今適用した推論のタイプは モデルの提示による、または解釈による証明の方法 として知られている。

 ここで論じた事実と概念は、本質的な変更なしに、他の演繹理論に関係する。次節では、それらの演繹理論を全く一般的なやり方で述べることにしよう。


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[ 3367 to 三嶋良治 ] 9/5/Sat/2004   パンドラ    
Re: 孤独について(生きるのが困難な人々へ)


不束者でございますが、イストランさま、お出かけのようですので、お目を煩わせること、ご笑覧くださいませ・・・。

>我々のごとく凡人は孤独に耐えるすべはないのでは?

ひとりでいることの孤独が、何故苦痛と感じるか、そのへんから、愚考したこと、おはなししてみます。
意識は、事実世界の時間変化において運動する『存在者』をふたつに、区別しているとおもわれます。
それは『もの』と『ひと』のことです。
三嶋さまの頭を後ろからゴンとたたくものがあって、振り返ってみると、棒が倒れてきた、「あぶないなー」と思いながら、原因を探ってみると、原因が二つ考えられた。
(1)これは突風によって引き起こされたものである。
(2)むこうでニヤニヤしているあいつが棒を倒した。

さて、(1)の思考は因果論的な推測です。ここで主流となるのは『もの』でございますね。
一方(2)と考えるなら、ここには『ひと』が原因ですから、「人をからかう」というような目的論的推測がでてきます。
孤独が、何故苦痛かと言えば、自分の周りの変化に(1)の思考しかできないのでは・・・、という懸念からでございましょう。他者の思考と行動は、予測がつきません。
最近の精巧なアイボなどのおもちゃなら、其れを他者と認めることも、あるのかもしれませんが、所詮機械ですから分析が進めば、そこに一定の動きの法則を見出すことでしょう。

これはすべての意識に共通のことですが、我々がなぜ現実の世界に一喜一憂して、生きることに懸命になっているのか?なぜ、映画などの結末を先に聞いてしまったものは、見る気がしなくなるのか?
これは意識が自己肯定のために、『可能性の変化率』を必要とするからにほかなりません。
たとえば、1の目だけのサイコロを何回振っても、ここに興味を抱くということはないでしょう。
普通のサイコロで、「なんとか1を連続5回だしたい」と目標をもって、此れを行うならこの作業に真剣になる事ができるのです。

こうした意味で『他者』は未知の関数です。自我は他者に認めてもらえるかどうかの賭けをしていると言っていいのかもしれません。
この賭博場に参加するかしないかが『他者』を必要とするわけでございますね。

では『もの』だけの世界で、そうした『可能性の変化率』を生み出すことが不可能かといえば、そうでもありません。上のサイコロの例がそうでございます。
なにも、武蔵や良寛のような高尚な世界にばかり目を向けずとも、よろしいのではと考えます。
ミスターマリックが、30個のサイコロをハンドパワーで、すべて1の目を出していましたから、三嶋さまも、斯様な挑戦をされてはいかが?
念の力を鍛えて、偶然を支配すると言う試みも、けっこう忘我の境地を味わうのによろしいのではないでしょうか・・・?


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