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TOPIC カントの故郷はリトアニア
 
Subject 正しくはプロイセン
Author bernstein [ 2841 to 虎の穴塾長 ]  10/5/Fri/2002   

旧ソビエト連邦ロシア共和国に編入された東プロイセンの北半分は
南半分と同じく約800年もの昔からドイツ殖民がなされてきた土地
いわばドイツ文化の色濃い土地にむりやりロシア式に替えてきた。
したがって、旧ケーニヒスベルク市民の精神的中心かつ象徴だった、
ケーニヒスベルク城を爆破し、クナイプホーフも再建されることはなかった。
戦後のケニヒスベルクはドイツ文化の排除に一念されてきたように思う。

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トピック= 679 宛先= 683 同宛先= 返信=
 
Subject ピエティスムス
Author ixtlan [ 715 to ixtlan ]  3/1/Sun/1999  Mysticism&Philosophy www.eleutheria.com

 カントの母親は愛情深く、信心深く、子どもたちを自然にふれさせ、
そこに神の全知全能と慈愛を教えた、とある。

 宗教改革が硬直化し、形骸化したあと、信仰の内面性・純粋性の
回復運動=ピエティスムス(敬虔主義)が自然発生的に起こる。

 宗教的純粋性は個人精神の自発性の尊重と結びつき、偏狭な
党派意識を打破し、敬虔なる生活を求める。

 しかし民衆のピエティスムスが台頭し、政治的力を持つと、
この運動もまた形骸化し、ピエティスムス本来の持つ個人性と
相まって、徐々に廃れていった。

 カントが少年期を過ごしたのはちょうどこのような時であった。

 つまり、彼は母から自然なピエティスムスを受け取り、しかし
フリードリッヒ学院という形骸化したピエティスムスの巣窟のような
ところで勉強したために、心はピエティスムスに対して相反する評価を持った。

 「心底からキリスト教を信じるが、宗教原理を敬虔にのみおくことは
  非難さるべきである。そういう人たちは少しも自分自身を信頼せず、
  たえずおびえながら超自然的援助をさがしまわり、しかもこの
  自己蔑視によって恩寵を得られるかのように思い違いをしている。
  これらの外的表現(ピエティスムスまたは信心ぶり)は
  奴隷的心性を示すものである。」

 このような批判と同時にしかし、彼が母親に投影した
ピエティスムスへの賛美があった。

 「ピエティスムスについてはいろいろ言うことができるであろう。
  だがそれを真面目にうけとった人びとは立派に振る舞った。
  彼らは人がもちうる最高のものをもった。いかなる激情に
  よっても動揺しない平静と明朗と内面の平和をもった。
  どんな窮乏も迫害も彼らを不機嫌にすることなく、どんな争いも
  彼らを怒らせ、敵意を抱かせることができなかった。
  私が今なお思いだすのは、昔、馬の革具職と鞍職との間に
  権利争いがおこって、私の父がかなり深くそれに悩んだときの
  ことである。しかしそれにもかかわらず我が家の会話では
  この紛争は相手方へのいたわりと愛情をもって、摂理への
  堅い信頼をもって、両親によって取り扱われた。当時私は子ども
  だったが、そのときのことを決して忘れることができない。」

**************************************************************

 上の表現だと、敬虔主義はカントの中で両価的に働いていた
ということになるかと思う。

道徳性というのは力に対しても両価的であるだろうか。

 現実の悲惨や悪に対して、道徳をたんに対置するだけならば、
それはいかんともしがたく無力である。また往々にして道徳性は
内面性に関わり、社会的問題に対して目をそむけるような、
臭いものに蓋をするようなことにもなるが、この際も端からみれば
現実に対して無力ということになる。

 しかし、別の状況では道徳性とはそれ自体が力である。
カントの母親にとっては恐らくそうなっていたんじゃないかと思う。
そうなっている人はたくさんいると思う。が私は多分そういう
世界を失っている、か自分ではそう思っている。

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トピック= 679 宛先= 679 同宛先= 683 688 689 返信=
 
Subject カントの道徳
Author イストラン [ 689 to ixtlan ]  2/25/Thu/1999   

すいませ〜ん。ケーニヒスベルクは東プロイセンでした>塾長。
***********************************************************

 東プロイセンは13世紀以来プロイセンの植民地であり、農地開拓のために
農民移住が歓迎された。移住を容易にするため信仰の自由が容認され、宗教上の
亡命者も大量に流れ込んだ。

 カントの父親は馬の革具職人であり、おじいさんも馬の革具職人であり、
カントはこのおじいさんがスコットランドから来ていると信じていた。

 実際には居酒屋の主人だったひいじいさんがスコットランドから来たと
いうのが定説であった。

 グリガのカント伝記によればどちらも正しくなく、ひいじいさんの二人の娘が
スコットランド人と結婚したことから生まれた伝説であろうということだ。

 つまりカントはリトアニア人だった、もしくは東プロイセン人だったというの
だろう(グリガの本は知らない。濱田はグリガのカント伝記を訳したが、
この時点(若きカントの思想形成)ではスコットランド出身ということを
終生変わらぬスコットランドとイギリスへの関心と結びつけている)

 カントの家は貧乏人の子沢山だった。13歳のときに母をなくすが、その葬式さえ
出せなかったという。

 父は勤勉さと真面目さを、とくに嘘をつくなとカントに教え込んだ。
母は信仰深い子になることを望んだ。

 勤勉と正直とは近代市民生活の中心的徳目である。
カントは幼少期に勤労による自活の精神を植え付けられた。

 その当時のケーニヒスベルクは身分別に住居が定まっていて、カントの家は
市門外の職人町の中の馬具屋街にあった。

 カントは低い階層に生まれたが、その生まれに誇りを持つためには
自分の努力によって闘い勝ち取らねばならなかった。その背景には
近代市民社会の台頭があった。
 
 人が自分に与えられた人生をいかに創造的に生きるかに自覚的人間の
全き自由と責任がある。カントは両親から贈られた人生の方向を自覚的に
担い深める努力を生涯つづけ、73歳にして、次のようなことを言っている。

 「私の家柄について誇りうることは、職人階級出身の両親が正直と礼儀作法の
点で模範的であり、財産こそ(しかしまた借金をも)残してくれませんでしたが、
教育を私に与えてくれたことです。その教育は道徳的に見て、これ以上のものが
ないほど立派なものであって、私はそれを思い出すたびに、いつも深い感謝の
気持ちで一杯になるのです。」

13のときに死別し、その想い出が60年たったままでも保存されるというのは
その内容自体というより、カントが自分の心境をたえずその想い出によって
補強していたということではないだろうか。

 カントは実存主義者であったのだろうか。実存主義とは何だろうか。
少なくとも上の記述を見る限り、彼の持つ気分は実存主義的とは言えない気がする。
これは道徳主義であり、デューイの言うような、教育によって何でも
可能になる、というタイプの啓蒙主義を宿している。

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トピック= 679 宛先= 679 同宛先= 683 688 715 返信=
 
Subject Re: カントの故郷はリトアニア
Author [ 688 to ixtlan ]  2/25/Thu/1999   


> 一日の日課は夜10時に寝て、朝5時に起床。午前中を講義と研究。
> 昼食に長い時間をかけた後、一人で散歩。夕方から夜に読書と思索。
>
> カントの身体は虚弱で毎日薬を飲み、食事に気をつかっていた。

カントは異常に健康に気をつかっていたと言い伝えられていますが、
何かの本に、それは神経症の一種だというようなことが書いてありました。
僕も、カントのものすごい潔癖症にはビビッテしまいます。
ヒトラーも自分がガンではないかと不安になる病気だったそうです。

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トピック= 679 宛先= 679 同宛先= 683 689 715 返信=
 
Subject 正しくはプロイセン
Author 虎の穴塾長 [ 683 to ixtlan ]  2/24/Wed/1999   


>1724/
>4/22:ドイツのケーニヒスベルクに誕生。ケーニヒスベルクは人口6万。
>     (『現代思想:総特集カント』沼野充義「歴史と民族の交差する場所で」
>      によればポーランドとリトアニアの間にはさまれた飛び地。まわりには
>      リトアニア語を話す農民の農地があった。)


正しくはプロイセンです。

ここはもとのドイツ騎士団領で、ブランデンブルク選帝候の
ホーエンツォレルン家が相続したものです。

ちなみに1945年以降、ここはソ連(現ロシア)とポーランドに
分割され、ケーニヒスベルクはカリーニングラードと改名させ
られました。
(ソ連崩壊後、名前をもとに戻したとも聞いているが確認していない)

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トピック= 679 宛先= 679 同宛先= 688 689 715 返信= 2841
 
Subject カントの故郷はリトアニア
Author ixtlan [ 679 new post ]  2/23/Tue/1999   

以下牧野氏の師であった濱田先生の『若きカントの思想形成』より


1724/
4/22:ドイツのケーニヒスベルクに誕生。ケーニヒスベルクは人口6万。
     (『現代思想:総特集カント』沼野充義「歴史と民族の交差する場所で」
      によればポーランドとリトアニアの間にはさまれた飛び地。まわりには
      リトアニア語を話す農民の農地があった。)


1804/
2/12 死去

 一日の日課は夜10時に寝て、朝5時に起床。午前中を講義と研究。
 昼食に長い時間をかけた後、一人で散歩。夕方から夜に読書と思索。

 カントの身体は虚弱で毎日薬を飲み、食事に気をつかっていた。

 彼は多種類の書物を大量に読んだが、なかでも好みだったのは
地理書や旅行記の類。

 カントの楽しみは友人同士の2, 3時間にも及ぶ会食。料理は得意とする
分野で、料理法批判を書いたらよかろうと友人にからかわれた。

 カントは自分の生活を不動の理性原理によって律した。
時間厳守と誠実、はっきりした目的と遂行にこだわった。

 彼は最初に外国の未亡人、つぎに貴族の娘との結婚を考えたが、止めている。

 メンツァーによると人から指摘されるカントの規則正しい生活は
実は努力の産物であり、本当はメランコリーへ強く傾斜していた。

 「完全なる技術はふたたび自然となる」こういう生き方を「作為」
と対立させて「簡素」と名づけた。カントの生涯はこのような生き方を
その到達点においてもつことをめざして形成された。

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