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孤独について(生きるのが困難な人々へ) |
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Re: 孤独について(生きるのが困難な人々へ) |
| Author |
パンドラ
[ 3367 to 三嶋良治 ] 9/5/Sat/2004 |
不束者でございますが、イストランさま、お出かけのようですので、お目を煩わせること、ご笑覧くださいませ・・・。
>我々のごとく凡人は孤独に耐えるすべはないのでは?
ひとりでいることの孤独が、何故苦痛と感じるか、そのへんから、愚考したこと、おはなししてみます。
意識は、事実世界の時間変化において運動する『存在者』をふたつに、区別しているとおもわれます。
それは『もの』と『ひと』のことです。
三嶋さまの頭を後ろからゴンとたたくものがあって、振り返ってみると、棒が倒れてきた、「あぶないなー」と思いながら、原因を探ってみると、原因が二つ考えられた。
(1)これは突風によって引き起こされたものである。
(2)むこうでニヤニヤしているあいつが棒を倒した。
さて、(1)の思考は因果論的な推測です。ここで主流となるのは『もの』でございますね。
一方(2)と考えるなら、ここには『ひと』が原因ですから、「人をからかう」というような目的論的推測がでてきます。
孤独が、何故苦痛かと言えば、自分の周りの変化に(1)の思考しかできないのでは・・・、という懸念からでございましょう。他者の思考と行動は、予測がつきません。
最近の精巧なアイボなどのおもちゃなら、其れを他者と認めることも、あるのかもしれませんが、所詮機械ですから分析が進めば、そこに一定の動きの法則を見出すことでしょう。
これはすべての意識に共通のことですが、我々がなぜ現実の世界に一喜一憂して、生きることに懸命になっているのか?なぜ、映画などの結末を先に聞いてしまったものは、見る気がしなくなるのか?
これは意識が自己肯定のために、『可能性の変化率』を必要とするからにほかなりません。
たとえば、1の目だけのサイコロを何回振っても、ここに興味を抱くということはないでしょう。
普通のサイコロで、「なんとか1を連続5回だしたい」と目標をもって、此れを行うならこの作業に真剣になる事ができるのです。
こうした意味で『他者』は未知の関数です。自我は他者に認めてもらえるかどうかの賭けをしていると言っていいのかもしれません。
この賭博場に参加するかしないかが『他者』を必要とするわけでございますね。
では『もの』だけの世界で、そうした『可能性の変化率』を生み出すことが不可能かといえば、そうでもありません。上のサイコロの例がそうでございます。
なにも、武蔵や良寛のような高尚な世界にばかり目を向けずとも、よろしいのではと考えます。
ミスターマリックが、30個のサイコロをハンドパワーで、すべて1の目を出していましたから、三嶋さまも、斯様な挑戦をされてはいかが?
念の力を鍛えて、偶然を支配すると言う試みも、けっこう忘我の境地を味わうのによろしいのではないでしょうか・・・?