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論理学とは何か?
1.数えるか考えるか
「幾何学」はもともと土地の測量に対して言われた語である、と辞書は言う。しかし今日、ナイル川の洪水によって境界が曖昧になった土地の区画を回復する術を教えてくれるという希望を持って幾何学に近づく学生はいないし、一時しのぎの演繹や労の多い演算に関わる恐れによって、幾何学という主題から反発を食らう数学的純粋主義者もいない。幾何学の内容は純粋数学になり、幾何学の方法は純粋に数学的になった。
「論理学 logic」というのは、言葉と理性に関わる、と辞書は言う。それは今でも明らかにそうだ。多くの学生は思考の法則の神秘を哲学的に洞察するという望みを持って論理学の勉強に接近し、また多くの数学者は、論理学自体はメタ数学と呼ぶ、この衒学的かつ人工的なテクニックと彼らがみなすものの存在を前にして不快感を感じている。論理学の内容は文と演繹であるように見え、論理学の方法は計数的(数えること)かつ組み合わせ的(配合すること)であるように見える。古典的解析学者とホモロジー的代数学者はそうした成り行きを懐疑的に見て、論理学上のたまに見られる壮大な突破を不承不承、困惑しながら賞賛する。
組み合わせ的計数的証明はエレガントなものになりうる。が、まれにである。1025人のテニスプレイヤーという平凡な問題を例に考えよう。数学心を持つ読者は、この有名な問題を聞いたことがなくても、即座にその数に警戒するだろう。何かあるものを、それが何でも2倍しつづけた者は、1024が210であることを知っている。すべて2である10個の約数の積である。だから知っている者は、問題文の中に 1+210 のような数があるということが解の強いヒントであることが分かっている。もしかすると、そしてこれは問題文が全部読まれる前に推測されうるが、この解は何かを10回2倍すること、あるいは半分にすることに依存しているということはありうる。
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もっと知っている者は、数はヒントではなく罠であると認知するかも知れない。想像してみよう。テニスプレイヤーは大きなトーナメントをやろうとしている。彼らは可能な限り組を作るように籤を引く。そして最初のラウンドでは余りの者は参加せず、組になったプレイヤーたちが勝負する。次のラウンドでは最初のラウンドの勝者だけが参加するが、そこに前の余った者が加わる。手続きは一回目のラウンドと同じである。組になりランダムにゲームをする。もしいれば新しい余りの者が参加せずに待つことになる。規則が要求するのは、この手続きが何度も繰り返され、団体のチャンピオンが選ばれるまで続くということである。この意味でチャンピオンは厳密には他のすべての者を負かしたわけではない。しかし彼は仲間のプレイヤーのそれぞれについて、自分はしかじかの者を負かしたし、その者は誰かを負かしたし、...、その誰かは誰かを負かし、その誰かはあのプレイヤーを負かしたのだ、と言うことができる。質問はこうである。トーナメント全体のすべてのラウンドで、どれだけの試合がなされたのだろうか?
この問題にはいくつかの攻略法があるが、もっとも素朴なものでさえうまく行く。それによると、最初のラウンドでは512の試合があり(というのは1025が奇数であり、512は1024の半分であるから)、二番目のラウンドでは256の試合があり(というのは最初のラウンドの512人の勝者と、余った者と合わせると513人になるが、それはまた奇数であり、512の半分は256であるから)、などである。この「など」が、512と256の後、128, 64, 32, 16, 8, 4, 2, 1と1、となる(最後のラウンドは、たった一つの試合から成るが、もはやあまりの者がいない唯一のラウンドである)。そして必要なことはそれらを加え合わせることだけである。これは紙と鉛筆を使って数秒でできる簡単なことである。答えは(だから問題の解は)1024である。
数学的な学生は少し違ったやり方をするかも知れない。先に言っておいたように、この問題は反復される半分ということに関わっていると彼らは素早く認知するだろう。そこで加え合わさなくてはならない数は、9番目から1番目まで−いや、9番目から0番目まで!−続く2のパワー[累乗、羃]であり、それに最後の1が加わる。この最後の1は明らかに悪意のある出題者が1024ではなくて1025を使って解答者を混乱させようとしたことによるものだ。したがって、彼らは(足し算をすることなく)512、256, ...、8、4, 2、そして1が1023になり、あまりの1を加えて総計1024になることを知るだろう。
この学生の解答について問題があるとしたら、それはあまりに特殊だということである。テニスプレイヤーの数が1025ではなく1000だったとしたら、学生は素朴な門外漢と同じ程度にうまくいかない。この解はうまくいく、だがそれは門外漢と同じくインスピレーションによるものではない。それはより短いが、数学者たちの馬鹿にした言葉で言えば、演算的なのだ。
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この問題にはまたインスピレーションを持つ解答がある。それには演算は要らない。定式もなく、数もない、まったくの純粋思考である。このように推論してみよう。どの試合にも勝者があり敗者がある。敗者は後の試合には参加できない。団体の誰もが、たった一人のチャンピオンを除いて、厳密に一つの試合に負ける。だから、まさに敗者と同じだけの試合があることになり、従って、試合の数は団体のメンバーの数より厳密に一つ少ない。メンバーの数が1025ならば答えは1024である。メンバーの数が1000であったなら、答えは999である。そして明らかに、この純粋思考メソッドはどんな演算もなく、プレイヤーのあらゆる数に対して答えを与える。
純粋思考はいつでも思考なしの計算よりは良い。純粋思考による問題の解は数えることによる解よりも構成的ではないように見えるかも知れない。しかしそれには普遍化可能という利点があり、たとえば2のパワーの近似を扱うことで得られる利点は幻想であることを示す。
テニスプレイヤー問題は代数の小宇宙の例であり、数学の美しい断片である。この例は悪い、なぜなら数学者は数えること以外のものにたいてい関心を持つのだが、それは数えることに関わっているからである。またそれが悪いのは、非凡な数学の概念力と知的テクニックをなんら発揮してないからである。また悪いのは、それは応用数学(つまり、「実生活」の問題に適用される数学)を例示しているのであって、純粋数学(つまりテニスプレイヤーやトーナメントや試合ではなく、概念の論理的相互関係に関する問いの蒸留形態)を例示してはいないからである。とはいえ、たとえば、寓話としてならそれはうまくできたものである。水の一滴から大洋を再構成するのに十分な想像力を持つ者なら誰でも、テニスプレイヤーの問題から抽象数学を再構成できる。