| TOPIC |
論理学と哲学 『思考の限界を超えて』 G.プリースト |
| Author |
イストラン
[ 3340 to イストラン ] 7/22/Wed/2004 |
8.7 領域原理
第一章の議論のために、オーディナルの構築、(1)(2)(8.1参照)に関する Cantor の正当化への問いへ立ち戻りたいと思う。それぞれのオーディナルを先立つオーディナルの集合と考えていることを想起されたい。原理(1)はこのようになる。どのような集合(オーディナルの) α にとっても、 α∪{ α }という集合が存在する。これはそれ以上の注釈を要しないほど明白に見える。
状況は(2)では異なる。それが述べていることは、終わりのない進行(オーディナルの)が与えられるならば、それらを含む集合が存在するということである。これは特別に重要な原理である。しかしそれを述べるにあたっては問題がある。この世紀の集合論的還元主義の成功以来、終わりのない進行の概念を理解する自然な仕方は、まさにそれをシリーズ【級数】として、つまりある種の集合として理解することであった。
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この理解の上で先の原理を理解することはトートロジー的である。しかし、これは明らかにその意図ではない。
もしも問題のシーケンスがすでに完成された無限(一つの集合)として理解されるべきではないならば、それは生成、つまり潜在的無限という状態にあるものとして理解されるべきである。そして、進行のメンバーを含む集合について語ることは、まさにかくて生成される(現実的)無限について語ることである。したがって、この原理は、
あらゆる潜在的無限にとって、対応する現実的無限が存在する
ということになるのである。Hallett((1984), p.7)に従って、これを 領域原理 Domain Principle と呼ぼう。私はそれを、全体化は概念的に避けられないというカントの洞察(6.1)として受け取る。とはいえ、Kant がなんとか達成したものよりはるかに満足しうる形で述べられると思う。
しかし、潜在的無限とは厳密に何か?そのアイディアは直観的に明らかである。(それは第二章からずっとつき合ってきたものである。)その上、伝統的に潜在的無限には問題はないと考えられてきた。それは問題になる現実的無限とペアになっている要素である。したがって、現代数学で現実的無限の概念が比較的良く理解されている(どんな無限集合も現実の無限である)ということは皮肉なことである。われわれを待ち受けているのは(Hart(1976)が観察するように)、潜在的無限の本性の正確な分析である。ここでそれを提示することはしない。17 われわれの目的にとっては、直観レヴェルにとどめておくことで十分である。
それが他の何であろうとも、潜在的無限はある種の変化しうる量であり、その変化はあらかじめ割り当てられた境界を越えていくことができる。 Cantor はこのように言っている(Hallett(1984), p.12)。
人が規定されていない、 変化しうる有限の variable finite 量を持つとき、潜在的無限はたいてい目撃されている。それはすべての限界を超えて増大するか...どんな有限の小さい限界の下にも減少するかである...もっと一般的に言えば、数え切れない多くの規定を持つことができる 規定されない undetermined 量が問題となっているときにはいつでも、 潜在的無限 Potential-Infinite について私は語っているのである。
対応する現実的無限は、反対に(同書)、
一方で 変化可能でなく not variable 、むしろそのすべての部分で固定され−真正の定項−、規定された量[として]理解されるべきものであり、しかし同時に、大きさにおいて、同じ種類の あらゆる有限の量 [つまり、あらかじめ割り当てられた境界]を超える。
17 増大する領域の可能世界を使用するという示唆は11.2節で見ることができる。Hart(1975-6)はこの概念の正確な理解を二つ提示している。一つは11.2節のものとよく似ている。もう一つは本来のクラスと単純に同一視するというものである(それもまた11章で見ることになる。私はこの考えには疑いを持っている。というのは、対応する現実的無限を持つ潜在的無限は まったく存在しない と言っているからである。これは伝統的概念の妥当な解釈としては強すぎる。たとえば、潜在的無限 としての qua 自然数というものを概念化することは可能であるに違いない。