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TOPIC 数学とポストモダンの根 ウラジミール・タシック
 
Subject RE:5.1 自由な生成の媒介
Author イストラン [ 3275 to イストラン ]  5/31/Sun/2004   

(Mathematics and the Roots of Postmodern Thought,54-55)


 ところで、こうしたことはフッサールの現象学にどう関係するのだろう。とりあえず繋がりは初期のフッサールのものに見られる。『数の概念について』(1887)とか、『算術の哲学』(1891)はまだブラウアーが若い頃のものであるが、そこでフッサールは「意識の作用」「心的構成」について語っている。フッサールの師である「構成主義者」クロネッカーは或る意味で直観主義の先駆者だった。それでも、構成作用自体に興味を持つブラウアーとは異なり、そうした作用を通して与えられる意識の所与を記述することに向かうのがフッサールだった。だから直観主義と現象学には重要な隔たりがある。しかし収束点が何であるかを探してみよう。
 フッサールの方法は外的世界の経験を体系的に括弧に入れる(還元)ことにある。それは純粋直観に与えられるものの現れを明瞭にするためである。しかしこのプロセスでは、フッサールは超越論的エゴの現前の明証性に到達するという希望を抱く。これは純粋直観の中に自身に現れる「ジェネリックな」自己である。これを彼は「原理の中の原理」と呼び、そこからすべての知が確実性を取ってくるアルキメデスの点であるとした。自己現前の探求はだから「現象の数学」にとっての土台をなす。いかにしてものが意識によって構成されるかということである。
 そうした還元は、言語にとっては問題になる。言語が括弧に入れられるならば、どうやって明証性が認識のなかで得られるのだろうか。私が何かを知っているならば、それは正当化されるべきであり、また言語を巻き込む。それでも言語は社会的現象であり、そのため、括弧に入れられなくてはならない(「私的言語」のようなものがないかぎり)。

 このコミュニケーション問題をフッサールは「生活世界」を導入することで解消しようとした。これは日常の前科学的経験と心的行為の世界である。それは各人にとって個的な多様性に満ちているが、それでも彼は生活世界の「核」があると主張する。
 これは古典的数学が扱う不変の対象世界ではなく、普遍的に形成された感覚経験のカント的世界でもない。それは継続して変化するアスペクトで対象が意識の中で構成される「媒体 medium」である。それはワイルの謂う「自由な生成の媒体」に他ならない。実際、『デカルト的省察』(1929)では、フッサールはまったく明確に対象がいつでもそう である ものとして構成されるのではなく、そうで ありえる ものとして構成されている、と言っている。物理的対象の経験は、「開かれた、無限の、限定されない一般的地平であり、厳密に知覚されないものから成り、可能な経験によって開かれることができる一つの地平」である。しかしブラウアーやワイルとは独立にこの見解に達したらしい。
 生活世界の概念はずっと後になって公にしたが、1911年の講義、『厳密な学としての哲学』では、すでに彼は「現象の流れ」について語っている。それは構成要素には分割できないものであり、「本来の意味の分析」は不可能なものである。この媒体がなんであれ、フッサールによれば、それはそれなしにはいかなる知も可能ではない「原初的な土台 original ground」である。ガリレオが幾何学的地平へ宇宙を展開したとき以来、科学的形式化の中で抑圧されてきた核心的要素である。だから、生活世界はハイデガーが「数学的なもの」と呼んだものの性質をいくぶん持っている。その核は時間意識の構成にある。

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Subject 5.1 自由な生成の媒介
Author イストラン [ 3260 to イストラン ]  5/29/Fri/2004   

5.1 自由な生成の媒介 Medium

 20世紀前半の科学界における重要な人物であるワイルは、いかなる基準から見ても桁外れだったが、やはり哲学への興味関心を持ち、何かしらロマン主義に近いところにいたのである。1920年代からの諸論文にはフィヒテへの言及、ニーチェからの引用が見られる。
 ワイルとフッサールの間には、意見の交換があった。哲学に転向する前のフッサールは著名な数学者について数学を研究していたが、彼の現象学は一種の「現象の数学」である。彼らはゲッチンゲンにいたときに知り合い、フッサールがフライブルクへ、ワイルがチューリッヒへ移った後も連絡を取り続けた。
 『連続体 Das Kontinuum』(1918)で、ワイルはすでに連続体の標準理論を批判していたが、一読したフッサールは賞賛した。ワイルにあてて彼はこう書いている。「現象学的思考の必然性を理解し、論理−数学的直観の原初的土台への道を発見しつつある一人の数学者が...」
 1920年代の著作で、ワイルはブラウアーのアイディアをさらに発展させた。ブラウアーの「選択−シークェンス」の代わりに、ワイルは分数の二重−シークゥエンスに目を留めた。たとえば、私は繰り込まれたインターヴァル(1, 2), (1.1, 1.9), (1.11, 1.89)を想像することができる。この繰り込まれたインターヴァルは、それが表現すべき連続体の「所在」や「点」を教える。それぞれのインターヴァルは先立つインターヴァルに含まれていて、だから私が進むほどにこの「下位分割 subdivision」はより正確になる。
 しかしそれは最終結果ではない。ブラウアーの選択−シークゥエンスのように、問題なのはプロセスである。そうしたプロセスにおいて、規則に従うインターヴァルの境界線を引くシークェンスを見つけることができる。加えて、生じたインターヴァルが繰り込まれるようにする限り、私は 自由に 最終点を選ぶことができる。
 このように、ワイルは二重−シークェンスという見地で連続体をモデル化したのだが、これは後に興味深い役割を演じることになる。自由な個体選択に関わる構成としての連続体の所与性というブラウアーのアイディアを、ワイルは当初支持していた。たとえば、1921年の「数学の新しい基礎的な危機」の中でこう述べている。

 「ブラウアーの指摘は単純だが深い。われわれはここで「連続体」の創造を持つのである。それは個体的な実数からなるものの、有限の存在としての実数の集合には解消できない。我々はむしろ 自由な生成の媒介 を手にする。我々は古い問題、連続性、変化、 生成 Becoming の問題のただ中にいる。」

 ワイルの説明によると、連続体の新しい理論は「妥当かつ持続的な仕方で 生成 を正当化する」ための試みである。(のちになって、もっと熱狂的な叫び、たとえば「ブラウアー−それは革命だ」のようなものをひっこめることになる。その主張は或るケンブリッジフェローをして、ブラウアーとワイルを「ボルシェビキ」と呼ばしめた。ウィトゲンシュタインは彼らを弁護して、このフェローを「ブルジョア哲学者」と呼ぶことになる。)

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トピック= 3215 宛先= 3234 同宛先= 返信= 3275
 
Subject X コードを超えて
Author イストラン [ 3234 to イストラン ]  5/11/Mon/2004   

Mathematics and the Roots of Postmodern Thought p.50-

 ブラウアーは前直観主義者として、ヘルマン・ワイルとアンリ・ポアンカレを見ていた。彼らの内の誰一人、原子論の実践的価値を認めていないわけではない。問題は原子論的理論が連続体の客観知であるかどうかだ。
 この批判の一般的戦略は、連続体を言語的デバイスで捉えることが異常な帰結に導かれるということを示すことである。こうして連続体は何か言語−ではない−他のものとして現れるということだ。

 ワイルは1925年の論文「数学における現代認識論的状況」で次のように述べている。

 「ゼノンのパラドックスに従って、全体から「切り刻んで hacked off」、長さ1/2,1/4,1/8の無限に多くの下位線分から長さ1の線分を寄せ集めことが本当にできるならば、これらの無限に多くの線分を有限の時間で機械が走り抜けるとすると、異なる決定行為の無限のシークェンスを有限の時間内で遂行することはできないことになるだろう。たとえば1/2分後に最初の結果を出し、1/4分後で二番目の結果を、1/8分後で三番目の結果を...というように。」

 こうした考えには実践的困難があるが、元祖のハッカーは可能性に取り憑かれた。しかし演算速度に物理的限界があるという自然な想定のもとで、ワイルの指摘は連続体と演算の限界の関係を明らかにしている。事実、英国の数学者アラン・チューリングは、連続体の演算不能の「点」を考察することで、1930年、非決定性の定理を証明した。

 これは形式的推論の限界に関する興味深い問題を提示した。しかし連続体の問題は直接的に演算性理論の重要な定理に導くと単純に言っておこう。連続体とは、いわば「プログラミング言語の他者」なのである。

 別の例を見てみよう。エミール・ボレルという有名なフランス人数学者はブラウアーとワイルの陣営に立っていた。『形而上学倫理学書評』に寄せた記事で、連続体のあらゆる点に関する 、原子論者が定義可能のゆえをもって当然とし、言語的に「単称記述」によって切り刻む知が奇妙な帰結に至ることを観察している。

 「人は数を定義することができる。[その小数展開の]契機する数字は、ある質問に対する答えが肯定であるか否定であるかに従って、0または1に等しい、こう言うことで、数を定義することができる。さらには、辞書でなされているように、並び替え sorting によってフランス語で問われうる全ての問いを順序づける order ことが可能だろう。答えが イエスノー かである問いだけが保持されるだろう。このように定義された数の単なる知は、科学、歴史、好奇心の全ての過去、現在、未来の謎に答えることができるだろう。」

 そうした論理的に定義可能な連続体に関する「アトム」の知、分離された実体としてのこの点の知は、少々楽観的に見える。それでもそのような知を持つことは数学の「ロゴセントリック」な見方の帰結なのである。

 これは「数学におけるランダムネス」に関する帰結になりえる。また連続体を「言語の他者」として説明する一般的戦略のイラストレイトであると思う。連続体とは一種の流れであり、それは語によって不変的にカテゴライズされることはできず、原子論的ビットへ切り刻まれることができないものである。この「他者」こそは、あとでデリダの 差違 differance という概念を考察するときになって重要なものとなる。それもまた「言語の他者」として現れる。私は人が「語られることのない差違」について語るのを聞いたことがある。

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Subject ブラウアーとウィトゲンシュタイン
Author イストラン [ 3230 to イストラン ]  4/19/Sun/2004   

Mathematics and the Roots of Postmodern Thought p.49

 「ブラウアーの「自由意志」が持つこの頑固な私秘性が、1928年ウィーンで彼の講演を聞いたウィトゲンシュタインを魅了し、その有名な議論の一つ、規則の非決定性に関する道具立てに導いた可能性がある。たとえば、「いかなる行為の進行も規則によって決定されてはいない」と書き、例として 数学的 規則(もちろん他の多くの例に加えて)を与えるとき、彼はブラウアーの意志を部分的に伝達している。「純粋数学には 確かな言語はない 」とブラウアーは言った。というのは、どんな規則も、言語的であれ論理的であれ、絶対的確実性をもって意志を伝達することはできないからである。言語は魔術的なものではない。
 「私秘的言語」の可能性に抗するウィトゲンシュタインの有名な議論もまた、後で詳しく論じるが、ブラウアー(そしてニーチェの)考え、つまり言語は「全面的に社会的人間の機能である」ということに関連しているように見える。「座れ!」のような叫びをウィトゲンシュタインが論じるとき、「単一の人間的叫び」というブラウアーのエコーのように見えるのである。
 ウィーン、ケンブリッジの友人たちに対して、ウィトゲンシュタインは初期の「論理実証的」考え方を再考しようと思っていた。「本質的に言語レスな行為」という数学に関するブラウアーの度外れな宣言に直面して、彼は重要な(異論があり、わずかに度外れ度の劣るものであるが)哲学的議論を構築した。そしてその一部を驚くべき単純な数学的トリックの上に据えた。
 もちろん、このことは彼が単純にブラウアーに 同意 していたことを言わんとするものではない。それでもブラウアーはウィトゲンシュタインに形成的な formative 影響を与えたように見える。それは「ポストモダン コネクション」の可能性を確立するという私の目的にとっては十分である。
 しかし、ウィトゲンシュタインの発言を解釈することの地雷原に足を踏み入れるのは後に延期しよう。当面は、この章で示唆してきた可能性をまとめることにする。言語(とくに数学的言語)に関するブラウアーの考えと時間連続体 time continuum は、ポストモダンのウルガタ聖書とも言うべき三人の賢者、ハイデガー、ニーチェ、ウィトゲンシュタインの見解に結びついているものして見ることができる−同一ではないが。」

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Subject 意志の伝達と時間の動きの知覚
Author イストラン [ 3228 to イストラン ]  4/15/Wed/2004   

45-47



 ロマン主義者が自己の知について、これを言語や論理、その不変性とは別のところに、生きて死ぬものとしたように、ブラウアーにとっては数学の在処は創造的主体だった。彼は美と真と善を等値し、学や社会的活動の持つ狡猾さと計算を倫理的に排除しようとする( Life, Art and Mysticism,1905 )。我々の理解の間のギャップを埋めるという情熱的哲学の試みが失敗したときには、賢者は包括/理解するエゴの概念にしがみつくだろう、それ自身は包括/理解を超えているのだが。しかし彼はそうした道を究極の哲学的ガラクタだと言う。これはロマン主義者へのジャブであるが、いつもながらの手厳しい批判的言辞からすれば、そこには愛情の一かけらがある。
 科学と論理学はブラウアーの目からすれば、他の哲学的ガラクタである。論理学はとくに数学の基礎などではない。せいぜいその退化形態である。本質的に言語を超えた数学的アクティヴィティの単なる記録でしかない。いかにして人びとは自らの志向を組織だてるかを勉強しているという意識があれば、論理学と科学を勉強することは悪いことではない、とブラウアーは言う。その場合それらは民俗誌 ethnography の一種である。
 
 これはブラウアーにとっては重要な問題である。数学は意志の行為、創造の行為である。対して言語はせいぜいその意志の伝達の欠陥を持つ手段ということになる。「言語的構築、論理の法則に従って次々に生じる文のシークェンスは、数学とは何の関係もない。数学はこの構築物の外にある。」(On the Foundations of Mathematics,1907)

 「直観主義数学者は数学的言語から、だから理論論理学の言語から完璧に分離されているべきだ。それは直観主義数学が本質的に心の非言語的活動だからであり、その起源が時間の動きの知覚にあるということを理解しているからである。」

 連続的な創造的流れ、「自由意志」、内的活動、そういうものは言語に還元できず、また言語から演繹できない。本質的に非言語的というよりは、言語を 逃れる 。1928年のウィーン講義ではこう言われている。「意志の伝達においてはなんの厳密さも確実性もないのであり、とくに言語による意志の伝達においてはそうである。...したがって、純粋数学者にとっては どんな確実な言語も存在しない

 ここに意志の呪文を唱えるニーチェのこだまを聞くことができるかもしれない。意志の行為 act なしには言語はなにものもつかむことができない。論理と科学が描写する世界は客観的世界ではない。それは先行する解釈に依存する。だから現象界が唯一のものであり、「真の世界」は嘘である。

 ブラウアーにとってはも真の世界は現象であった。世界の知覚された形態は本質的に意志の行為である。この「数学的注意」がすべての論理(学)に先行するのである。

 「特別な場合とは...思考における 客体 の構成である。つまり持続するものの構築である。それは知覚的世界の恒久のもの(単純であれ複合的であれ)である。同時に知覚的世界は安定化したものとなる。これらの数学的注意の相は決して単なる受動的態度ではく、逆に意志の行為である。」

 しかし、身体にまで浸透した文化の力からの超脱を超人が試みるニーチェの世界とは異なり、ブラウアーは超人的努力は必要ないと言う。数学は言語を突き破る「転覆」である。数学者個人の創造的解釈的行為は機械化されない。それは言語的に動機づけられ、規則に従い、事後的に合理化されようとも自由であり続ける。

 ここではニーチェよりもフンボルトに近くなる。だれも魂−対−魂で他者に対してあるわけではなく、誰も他者が意味しているものを曖昧さなく知るわけではない、という考えは、誰も他者が意味するものと同じものを意味することはないというフンボルトの見解に近い。

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Subject ハイデガーとブラウアー
Author イストラン [ 3224 to イストラン ]  4/10/Fri/2004   

 とはいえ、ハイデガーとブラウアーには違いもある。ブラウアーは言語というものに魔術的な力を認めてはいない。彼は数学を「本質的に言語レスな行為」とみなす。対してハイデガーは「数学的なもの」の言語的形式化の必然性とその究極の形式的還元の不可能性の双方ともを指摘する。ブラウアーは「創造的主体」の至高の構成こそが真理であると主張し、ハイデガーは開示や暴露が真理であると主張する。
 さらに直観というものの身分の違いがある。ハイデガーは真理の運動が結果として直観的理解にもたらされ、直観と形式言語性が循環していると言っているように見える。ブラウアーは連続体が意識の構成であると信じてる。対してハイデガーは連続体を意識がそこで生起する場として、歴史を通して解釈されてきたものであるとみているように見える。主体という点からすれば、ブラウアーは自己中心的観念論的であり、ハイデガーにとっては主体は真理の牧者であるが、マスターではない。
 こうした差違は直観主義数学とポストモダン思想の間の差違に通じるものである。とはいえ、もっと具体的なつながりというものあるだろう。時間連続体の理論がスキャンダルとしてハイデガーの思考の形成に預かった可能性がある。たとえば、1912年の「論理学における新しい探求」はフレーゲ、ラッセル、ホワイトヘッドの仕事を評価しているが(『プリンキピア・マテマティカ』は1910年)、最終的には彼はフッサールから影響を受けている。そしてフッサールと直観主義数学との関連はいまだ探求されるべきものとしてある。
**************
 
 以上のようにタシックは第四章の第一節でハイデガーとブラウアーの共通点および差違にふれ、そのつながりの根源にフッサールと直観主義数学の関連があるのではないかと示唆している。しかしその点は後で取り上げるとなっていて、次の主題、意志(言語と意志)というものに向かっていく。

 ****************

 ちょっと脱線。ハイデガーについて論理学という視点から捉えると、L.ゴルドマンが指摘していたことだが、エミール・ラスクという名が浮かんでくる。ハイデガーはラスクを論理学の師と考えていたようだ。

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Subject ハイデガーとブラウアー
Author イストラン [ 3220 to イストラン ]  4/5/Sun/2004   

 ブラウアーの言う内的時間の連続体とハイデガーの時間性には類似点がある、とタシックは言う。

 「この奇妙な世界に投げ込まれて、自己は決して完全には己自身に「現前」しない。それ自体で決して「現在の中に」はいない。それは実存論的可能性の連続体に向かっての絶え間のない明けである。それは連続体の他のオブジェクトと同じく開いたオブジェクトである。こうして連続体の構造の中に私は「投げられ」、それはいつでも私に 関係する ことを強いる。私の存在への慮 care へと「未来−方向づけられて」。これは主体(Dasein)のハイデガーの定義にかなり近い。その存在様態はその存在に関わる。」(Mathematics and the Roots of Postmodern Thought, 42)

 
 過去もまた純然たる過去ではなく、未来への関わりにおいて、そうでありえたものとして未来−方向づけられてある。

 「かくて、我々の「失われた時」の連続性が経験的想起と解釈的行為の絡まりによって構成される(それは文字通りに想起することによって完全に決定されているわけではない)。
 この「ハイデガーコネクション」をもう少し追求してみよう。古典的数学に対するブラウアーの批判は、それがまるで無限というものをいつでも我々の手の届くところにある無限の対象の集まりであるかのように扱う、ということにあった。この批判は、ハイデガー側の用語では、己の限界(死への存在)を許容しない思想すべての批判といえる。この思想は何らか非真正な、匿名の「彼ら−【ダス・マン】」の観点で限界のない不死の私のように事をなすが、それは、標準的抽象的意味での時間線という無限の未来へと己を延ばすものと想定されている。「彼ら」は2の平方根を知ることができる人間である。というのも彼らは数学的言語でそれを記述し、望む精度で近似できるからである。
 さらにそのうえ、論理の完全な統握から逃れる基本的人間活動として「数学的注意」を語るブラウアーのように、ハイデガーは似たような言い方で「数学的」について語っている。まず、「数学的」と「数学的形式化」の間に区別を設けたように見える。「現代科学、形而上学、数学」というエッセイの中で、ハイデガーはこう書いている。「数学的なものとは、我々がいつでもその中で動いている、ものの明々白々たる相である。...したがって、数学的なものはものの知識の基礎的な前提である。」
 この「深層構造」は、いわば意味が生起する文脈を用意する。それはいつでも世界の了解の中で媒介する。それにもかかわらず、この文脈、「数学的なもの」は或る意味で完全な形式化を逃れる。「これらの「諸関係 Relations」や「被関係者 Relata」の現象的文脈は、「数学的形式化に抗するようなものである。」と『存在と時間』で言われている。
 ブラウアーとハイデガーは科学とテクノロジー、抽象論理に対して激しい言葉を持っている。ハイデガーはテクノロジーに関する悪夢をもっていたことで有名だ。「論理的なものへと訴えつづけながら、人は自分が直接的に思考の中に入り込んでいるという幻想を抱くのであるが、実際にはそのことを承認していない」とハイデガーは書いている。以下に、私はどれほどこのことがブラウアーの見方にぴったりするかということを論じる。」(43)

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Subject 直観主義
Author イストラン [ 3219 to イストラン ]  4/3/Fri/2004   

 この著作は最初にデカルトに抗するヴィーコの話、構成する想像力に関するカントの話、そしてロマン主義哲学者たちの話(著者はドイツ観念論をほぼこの線で捉えているようだ)をしていた。

 そこでぼやっと描かれた二項分割は、直観の連続性と言語の分断性であり、また統一項は、行為/創造/自由/流れであった。その線で第四章「言語の傷」は、ブラウアーとベルクソンを比較するところから始まっている。ブラウアーはベルクソンより徹底している、と著者は言う。そしてまたハイデガーとも比較される。

 これらの哲学者の名前の拡がりからすると、ポストモダンと普通に言われるフランス現代思想家たちを超えて、ほとんど近現代哲学全般に亘っているのが著者のポストモダン像だ。しかも全体的にデリダに親近感をもっているようだ。


 どうしてブラウアーとデリダが比較されるのだろうか。

 「ここで少し注意してみよう。まず将来の参照点として for future reference ブラウアーは何か或るものを、 であるでない かという点からではなく、「分解すること falling apart」であると見る。それは意識の「原初的」な姿として、たえず過ぎ去ること passing away と成り行くこと becoming とに分解することである。後で、私はこの観念をフランスの哲学者ジャック・デリダの「原初的かつ純粋な 差違 の意識」と比較しよう。それもまた取り消しようのない分解に関わっている。さしあたって留意したいのは、生−瞬間のこの分解であり、とくにこの「生の二−一性」はブラウアーによれば全ての数学の基礎概念である。」(38)

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Subject 創造的行為の連続性?
Author イストラン [ 3217 to イストラン ]  4/1/Wed/2004   

 この伝統に広範に結びつく可能性のある多くの哲学者たちの中で一人だけ名前を挙げるとすれば、フィヒテがいる。意識自体が持つ前言語的な近さに、アプリオリに規定された「科学的」記述を与えようとしたとして、フィヒテはカントを批判した。ロマン主義的観点からすれば、私は私自身を知ることはできない。少なくとも「知る」という言葉のどんな標準的な意味においてもできない。私は私の「私」を連続的な創造行為として 考える ことができるだけであり、それはアプリオリに固定された言語の中では捉えることができないものである。そこで、よしんば私が私自身の「知」を持つとしても、その「知」は最終的な言語的定式化を超えるだろうし、そうしたものとして何らかのアプリオリな正当化、とりわけある種の幾何学などを基礎づけるためには用いられない。
 このことに留意すれば、非ユークリッド幾何の発見はロマン主義的伝統の哲学を破壊するというよりも、彼ら思想家たちが幾何学というものに配慮する限りでは、むしろ支持したとさえ言える。ともあれ、多くのロマン主義的観念は1800年代を通して生き残り、20世紀への曲がり角でいくらかの数学者、哲学者、作家に影響を及ぼした。ある決定的にロマン主義的な観念の数学的表現において、つまり、いかなる言語もその意味の保証者ではなく、論理と言語には連続性の感覚を捉えることができないということ、とりわけ内的時間の連続性という感覚を捉えることができないということにおいて、我々は数学とポストモダン思想の間の繋がりの一部分を見ようとするのである。
 当を得た数学的な話をする前に、これまで「確立」してきたことをまとめてみよう。科学と初期のロマン主義の文化の間にある美学的感性の衝突にもかかわらず、ロマン主義思想家たちは二つの重要問題を科学の論題として比較的高い位置に置くことになった。それはまず 言語 であり、そして 連続性 の問題である。これは取り消しようのない内的流れであり、連続する創造行為の感覚である。そしてその言語との関係がある。
 カントの幾何学的論争は、数学的厳密さを再考し、数学の全てを形式化し公理化し、自明の真理という観念を問いに付すという、これらのことの緊急性に寄与したように見える。『数学−理性の音楽』(1992)の中でフランスの数学者、ジャン・デュドネはこう書いている。「この時代[1800-1930]に諸アイディアが展開した様式を一つの文でまとめるならば、その本質は「自明の真理」という概念の前進的放棄だと言える。それは第一に幾何学で起こり、それから数学の残りで起こった。」
 数学はそれ自身の「言語的転回」を作った。豪勢な大洋航路船の惰性でもって、離散的、形式−演算的アプローチへ舵を切った。それは言語への増大する関心を映し出していた。

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Subject 数学とポストモダンの根 ウラジミール・タシック
Author イストラン [ 3215 new post ]  3/27/Fri/2004   


Mathematics and the Roots of Postmodern Thought
(Vradimir Tasic,2001)

この魅惑的かつ論争的な著作で、ウラジミール・タシック Vradimir Tasic はポストモダン理論の根を辿り、20世紀初頭の数学の基礎付けに関して論じている。タシックの議論によれば、ポストモダン思想は観念の歴史からの決定的な断絶を表しているというより、数学の基礎付けに関する論争の継続と見られることができる。「サイエンスウォーズ」の熱い論争に新テーゼをもって効果的に入り込み、多くの議論が、科学側であれ、ポストモダン思想側であれ、数学に関する誤解から生じていることを提示している。『数学とポストモダン思想の根』は、構造主義とポスト構造主義の勃興、人工知能問題、言語的決定論の問いなど、歴史的/数学的な文脈で、多くの問題を提起している。このプリズムを通して、デリダの議論が同一性の論理に対するポアンカレの批判といかに比較されうるか、方やフーコーの考古学がいかにしてヒルベルトの形式主義の所産であるかを我々は見ることになる。
 芸術と人間性で生じる事柄と数学の発展を比較することで、『数学とポストモダン思想の根』は、科学とポストモダンの批判的読解であり、また現代の「サイエンスウォーズ」へ導いたものへのヒューモラスな観察ともなっている。(折り返し)

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