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数学とポストモダンの根 ウラジミール・タシック |
| Author |
イストラン
[ 3275 to イストラン ] 5/31/Sun/2004 |
(Mathematics and the Roots of Postmodern Thought,54-55)
ところで、こうしたことはフッサールの現象学にどう関係するのだろう。とりあえず繋がりは初期のフッサールのものに見られる。『数の概念について』(1887)とか、『算術の哲学』(1891)はまだブラウアーが若い頃のものであるが、そこでフッサールは「意識の作用」「心的構成」について語っている。フッサールの師である「構成主義者」クロネッカーは或る意味で直観主義の先駆者だった。それでも、構成作用自体に興味を持つブラウアーとは異なり、そうした作用を通して与えられる意識の所与を記述することに向かうのがフッサールだった。だから直観主義と現象学には重要な隔たりがある。しかし収束点が何であるかを探してみよう。
フッサールの方法は外的世界の経験を体系的に括弧に入れる(還元)ことにある。それは純粋直観に与えられるものの現れを明瞭にするためである。しかしこのプロセスでは、フッサールは超越論的エゴの現前の明証性に到達するという希望を抱く。これは純粋直観の中に自身に現れる「ジェネリックな」自己である。これを彼は「原理の中の原理」と呼び、そこからすべての知が確実性を取ってくるアルキメデスの点であるとした。自己現前の探求はだから「現象の数学」にとっての土台をなす。いかにしてものが意識によって構成されるかということである。
そうした還元は、言語にとっては問題になる。言語が括弧に入れられるならば、どうやって明証性が認識のなかで得られるのだろうか。私が何かを知っているならば、それは正当化されるべきであり、また言語を巻き込む。それでも言語は社会的現象であり、そのため、括弧に入れられなくてはならない(「私的言語」のようなものがないかぎり)。
このコミュニケーション問題をフッサールは「生活世界」を導入することで解消しようとした。これは日常の前科学的経験と心的行為の世界である。それは各人にとって個的な多様性に満ちているが、それでも彼は生活世界の「核」があると主張する。
これは古典的数学が扱う不変の対象世界ではなく、普遍的に形成された感覚経験のカント的世界でもない。それは継続して変化するアスペクトで対象が意識の中で構成される「媒体 medium」である。それはワイルの謂う「自由な生成の媒体」に他ならない。実際、『デカルト的省察』(1929)では、フッサールはまったく明確に対象がいつでもそう である ものとして構成されるのではなく、そうで ありえる ものとして構成されている、と言っている。物理的対象の経験は、「開かれた、無限の、限定されない一般的地平であり、厳密に知覚されないものから成り、可能な経験によって開かれることができる一つの地平」である。しかしブラウアーやワイルとは独立にこの見解に達したらしい。
生活世界の概念はずっと後になって公にしたが、1911年の講義、『厳密な学としての哲学』では、すでに彼は「現象の流れ」について語っている。それは構成要素には分割できないものであり、「本来の意味の分析」は不可能なものである。この媒体がなんであれ、フッサールによれば、それはそれなしにはいかなる知も可能ではない「原初的な土台 original ground」である。ガリレオが幾何学的地平へ宇宙を展開したとき以来、科学的形式化の中で抑圧されてきた核心的要素である。だから、生活世界はハイデガーが「数学的なもの」と呼んだものの性質をいくぶん持っている。その核は時間意識の構成にある。