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TOPIC 論理学入門 タルスキー
 
Subject 38.演繹の法則;演繹的学の形式的な性格
Author イストラン [ 3384 to イストラン ]  9/20/Sun/2004   


38.演繹の法則;演繹的学の形式的性格

 *われわれはどんな演繹理論も原初的タームと公理のシステムの上で考える。われわれの考察を単純にするために、この理論は論理だけを前提にすると仮定する。つまり論理だけが与えられた理論に先立つ唯一の理論なのである(参照第36節)。


126

われわれの理論の全ての言明で、原初的タームが全面的に適切な変項で置き換えられると想定してみよう(第37節でのように。さらに単純化するため、定義されたタームを含む定理を無視する)。考察された理論の言明は、原初的タームがそれによって置き換えられるシンボルを自由変項として含み、論理に属す定項以外の定項は含まない、そうした文関数になる。あるものが与えられるならば、それが、われわれの理論の公理すべてを満足するかどうかを見ることができる。あるいは正確に言えば、たった今説明したやり方でこれらの公理から得られる文関数すべてを満足するかどうかを見ることができる(つまり、これらのものの名前や指示が、自由変項の場所に置かれるとき、文関数を真なる文にするかどうかを見ることができる;第2節参照)。もしもそうであることがわかったならば、考察しているものはわれわれの理論の モデル あるいは 公理システムの具体化 を形成する、と言うだろう。またそれらは 演繹理論のモデル そのものを形成するともいうことがある。まったく類似したやり方で、与えられたものがわれわれの理論の公理システムを満足するだけではなく、われわれの理論のどのような他の言明のシステムをも満足するかどうか、したがって、このシステムのモデルを形成するかどうか、これを見ることができる(システムが単一の言明から成っているということは排除されていない)。
 たとえば、与えられた理論の原初的タームが指示するものによって、公理システムの一つのモデルが形成される。というのはすべての公理が真なる文であるとわれわれは想定しているからである。このモデルは、もちろんわれわれの理論のすべての定理を満足する。しかし、われわれの理論の構築に関する限り、このモデルは他のすべてのモデルの間にあって区別される位置を占めてはいない。公理から、このまたはあの定理を演繹するとき、われわれはこのモデルの特別な性質を考えているのではなく、公理であからさまに述べられる、だから公理システムのあらゆるモデルに属するそれらの性質だけを使用している。したがって、われわれの理論の特定の定理のあらゆる証明は、公理システムのあらゆるモデルに拡張され得るし、もはやわれわれの理論には属さず、論理に属したはるかに一般的な論証へと変換され得る(前の節の法則T'やU'のように)。それらは、問題となる定理がわれわれの公理システムのあらゆるモデルで満足される、という事実を確立する。


127

このようにしてわれわれがたどり着いた最終的な結論は、つぎのような形で言い表すことができる。

  与えられた演繹理論のあらゆる定理はこの理論の公理システムのどんなモデルによっても満足される。さらに、論理の枠内で定式化され証明されることができる一つの一般的な言明が、そして問題になっている定理がいかなるそうしたモデルによっても満足されるという事実を確定するような一つの一般的な言明が、あらゆる定理に対応する。

 われわれはここに演繹的学の方法論の領域から一つの一般的な法則を持つことになった。それはもう少し厳密に定式化すれば、 演繹の法則 LAW OF DEDUCTION (または 演繹定理 DEDUCTION THEOREM )として知れらているものである。2
 この法則のとてつもない実践的重要性は、演繹的学の分野を離れずしてすら、個別理論の公理システムの多くのモデルを我々が普通に展開できるという事実から生じる。そうしたモデルに到達するためには、他の演繹理論(それは論理でも論理を前提とする理論でもありうる)から或る種の定項を選び、原初的タームの代わりにそれらを公理の内に置き、こうして得られた文がその他の理論の確証された文になっているということを示せばよい。この場合われわれは、 他の理論の中での、元の理論の公理システムの解釈 を発見した、と言う。(とくに、選ばれた定項が元々考えられた理論に属し、その場合には原初的タームのいくつかは不変のままであるということが起こるかもしれない。そのとき、与えられた公理システムは考察中の理論の枠内で新しい解釈を発見した、と言われる。)われわれはまた、元の理論の諸定理を類似した変形に委ね、全面的に、原初的タームの代わりに、公理の解釈で使用された定項を置くだろう。演繹の法則を土台にして、こうして到達した文が新しい理論の文であることが確証されたことをさらに確かめることができる。われわれはこのことを次のように定式化する。


2 この法則は著者によって一般方法論的公準として定式化され、後に、さまざまな特殊演繹理論のために厳密に証明された。


128

  与えられた公理システムの土台の上で証明されたすべての定理は、そのシステムのいかなる解釈に対しても妥当であり続ける。

これら変換された定理に対して一つ一つ特別な証明を与えることは冗長である。いずれにせよ、それは純粋に機械的な作業となるだろう。なぜならば元々の理論の領野から対応する論証を取ってきて、それを公理と定理について遂行された同じ変換に委ねればよいからである。演繹理論の内でのあらゆる証明は、いわば潜在的には、他の類似した証明を際限なく含んでいるのである。

 上に述べた事実は人間的思考の経済という観点からして演繹理論の大きな価値を示している。それはまた、演繹理論の方法論の中でのさまざまな探求や調査にとっての基礎を確立するという理由だけからしても、射程の長い理論的重要性である。とくに、演繹の法則はすべてのいわゆる 解釈による証明 にとっての理論的基礎である。これまでの節で、われわれはすでにそうした説明の一例に出会っている。この本の第二部では、他の様々な例を目にするだろう。
 正確さという理由のために加えなくてはならないが、ここで素描された考察は論理が前提されている構成を持つ演繹理論になら何でも当てはまる。それに対して、論理自体への適用はここでは論じないいくつかの困難を産み出す。演繹理論が論理だけではなく、他の理論も前提にしているのであれば、上述の定式化のいくつかはもっと複雑な形を取る。

 ここで論じられる方法論的現象の共通の源泉は先の説で指摘された事実であり、つまり、演繹理論を構築する際、われわれは公理の意味を無視し、その形だけを考慮に入れるということである。そのために、人はこの現象に言及するとき、演繹的学とこの学の中にあるすべての推論の純粋に 形式的な性格 について語るのである。
 ときどき、パラドクシカルな誇張された様子で数学の形式的性格を強調する言明を見かけるが、基本的に正しくとも、このような言明は曖昧さと混乱の元である。


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数学的概念には何もはっきりした内容が属しいないだとか、数学ではわれわれは自分が語っていることを実際には知らないだとか、われわれの主張が真であるかどうかにはわれわれは関心がないだとか、そうしたことをときに聞いたり、さらには読むことすらある。そうした判断にはかなり批判的に近づかなければならない。理論を構築しているときに、まるでその学科のタームの意味を理解していないかのように振る舞っているとしても、それはこれらのタームに意味というものを拒否しているのとは全く違う。周知のように、原初的タームに定まった意味を属させることなしに、それらを変項として扱いながら、われわれが演繹理論を発展させることがあるというのは、そうした例である。この場合、われわれはその理論を 形式システム FORMAL SYSTEM として扱っている、と言う。しかしこれは比較的まれな状況であり(第36節で与えられた演繹理論の一般的説明内で考慮されることすらない)、この理論の公理システムのためにいくつかの解釈を与えることが可能であり、つまり、この理論で現れるタームに具体的意味を持たせるいくつかの可能な方法があり、しかしこれらの方法のどれか一つを進んで選ぼうとは思わないときに限り、そうしたことが起こる。他方、一つも解釈を与えることができない形式システムは、おそらく誰の関心も惹かないだろう。

 結論として、数学的学の解釈で或る面白い事例に注意を向けよう。それは第37節で見たものよりもはるかに重要なものである。
 算術の公理システムは幾何学の中で解釈されることができる。任意の直線が与えられたとせよ。その点とその点に関する操作との間の関係を、算術のすべての公理、だからすべての定理を満足するものとして定義することが可能である。そうした関係は数と数に関する操作に関連する関係である。(これは第33節で言及した状況と密接に結びついている。つまり、一本の線のすべての点とすべての数との間にある一対一対応を確立する可能性である。)逆に、幾何学の公理システムも、算術の中で一つの解釈を持つ。この二つの事実の使用は多種多様である。たとえば、幾何学的形態は算術の分野の様々な事実の視覚的イメージを与えるために使われるかもしれない。これはグラフメソッドとして知られている。


130

他方、算術的あるいは代数的方法の助けを借りて幾何学的事実を調べることが可能である。幾何学の特別な分野、解析幾何学として知られているものがあって、それはこのタイプのすべての探求に関わる。
 先に見たように、算術は論理の一部分として作り上げることができる(参照、第26節)。しかし、算術を、その固有の原初的タームと公理に依拠する独立した演繹理論として扱うならば、論理との関係は次のように記述できる。算術は論理の中で一つの解釈を所有する(無限の公理が論理の中に含まれるという理解のもとに。参照第26節)。換言すれば、そうした概念を、算術のすべての公理、だからまたすべての定理を満足するものとして定義することが論理の内で可能である。幾何学が算術の中で一つの解釈を持つということを想起するならば、幾何学もまた論理の中で解釈されうる。これらすべてのことは、方法論的観点からして極度に意義深い事実である。*

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Subject 37.演繹理論のモデルと解釈
Author イストラン [ 3368 to イストラン ]  9/8/Tue/2004   


37.演繹理論のモデルと解釈

 これまでの節で提示された諸原理を一貫して適用した結果、演繹理論はある種の興味深い重要な特質を獲得した。それをこれから述べることにする。我々が論じることになる問いはとても入り組んだ抽象的な性格のものであるから、具体例を手段にして解明してみよう。
 たとえば線分の合同に関する一般的事実に関心があるとしてみよう。そして幾何の断片を特殊演繹理論として構築せんと意図するとしよう。そして変数「 x 」「 y 」「 z 」がそれらの線分を指示するとする。原初的な項として、われわれは「」と「 」というシンボルを選択する。前者は「すべての線分の集合」という語の短縮であり、後者は合同の関係を示している。




1 演繹的な方法は最近の成果であるとは考えられない。すでに、ギリシャの数学者、Euclid (およそ紀元前300年)の『原論 Elements』の中に、上述の方法的原理の観点から望まれるもの以外のものがあまりない幾何学の提示を見る。2200年の間、数学者たちは Euclid の著作に科学的厳密さの理想と原型を見てきた。この分野での本質的な進歩はこの50年ほどの間に起こった。その間に、幾何学と算術という基本的な数学的学を基礎づけることが、数学の今日の方法論のあらゆる要求に従って行われた。この進歩という点でわれわれが負っているテキストには、少なくとも、すでに歴史的重要性を持つ次の二冊がある。イタリアの数学者、論理学者の G.Peano(1858-1932)が編者であり主たる著者である、『数学の定式集 Formulaire de Mathématiques』(Torino 1895-1908)。そして、現代ドイツの大数学者、D.Hilbert の『幾何学の原理 Grundlagen der Geometrie』(Leipzig and Berlin 1899)である。



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だから、

x y


は、

線分 xy は合同である、


と読まれる。さらにわれわれは二つの公理を採用する。

公理T  集合のどの要素 x に関しても、 x x (換言すれば、 あらゆる線分はそれ自身に合同である )。

公理U  集合Sのどの xyz に関しても、 x zy z ならば、 x y (換言すれば、 同じ線分に合同な二つの線分は互いに合同である )。

 これらの公理から、線分の合同に関する様々な定理が導かれる。たとえば、

定理T  集合Sのどの yz に関しても、 y z ならば、 z y

定理U  集合Sのどの xyz に関しても、 x y かつ  y z ならば、 x z

 これらの定理の証明はとてもやさしい。たとえば、最初の定理の証明を素描してみよう。
 公理Uで、「 x 」の代わりに「 z 」をおけば、

集合Sのどの yz に関しても、 z z  かつ  y z  ならば、  z y


この言明の仮定では、

z z


を使っているが、
これは公理Tのもとで疑いなく妥当であり、だから省略することができる。こうしてわれわれは問題の定理に達する。

 この単純な考察に関連して注意しておきたいことがある。
 われわれのミニチュア演繹理論は、原初的な項と公理の都合よく選択されたシステムに依存している。原初的な項によって示されることがらの知識、つまり線分と合同に関する知識はとても包括的であり、採用された公理によっては決して極め尽くされない。


122

しかしこの知識はいわばわれわれの私的な関心事であって、われわれの理論の構成にはいささかの影響も及ぼさない。とくに、公理から定理を導出する際に、なんらこの知識を使うことはなく、あたかも考察で関わってくる概念の内容を、われわれが理解していないかのごとくであり、公理中に表立って主張されていないこの知識について、われわれは何も知らないかのごとくである。よく言われるように、われわれは自分たちが採用する原初的な項の意味を無視し、これらの項がその中で生起する公理の形にだけ、注意を向けるのである。
 このことが意味しているのはとても意義深く興味深い帰結である。われわれの理論中のすべての公理と定理の原初項を、適当な変項で置き換えよ、たとえば、シンボル「」をクラスを指示する「 K 」で、シンボル「」を関係を指示する変項「 R 」で(考察を単純にするために、ここでは定義された項を含む定理は無視する)。われわれの理論の言明はもはや文ではなくなるだろう。しかしそれは自由変項「 K 」と「 R 」を含む文関数であり、一般に、関係 R はクラス K でしかじかの性質を持つという事実を表明する(あるいはもっと正確に言うと、しかじかの関係が KR の間に成立するという事実を表明する。参照第27節)。 たとえば、容易に見てとれるように、公理TTと定理T、Uは、今やクラス K において関係 R がそれぞれ反射的、対称的、推移的であると言うだろう。公理Uはそれに対して我々が特定の名前を持っていない性質を表現している。これをと呼ぶことにすると、それは次のような性質である。

クラス K のいかなる要素、 xyz に関しても、 xRz かつ  yRz ならば、  xRy


 われわれの理論の証明では、線分のクラスの性質や合同の関係はなんら使用せず、諸公理の中で明示された性質や関係を使用するのみであるから、あらゆる証明はとても一般的なものになるが、それはそうした性質を持つどのようなクラスや関係 R にも適用することができるからである。証明のそうした一般化の結果として、われわれの理論のどんな定理をも、論理学の領域、つまり関係の理論に属する一般的法則に相関させることができる。そしてその一般的法則が述べることは、クラス K で反射的であり、性質を持つあらゆる関係 R はまた、考察された定理で表現された性質を持っている、ということである。


123

だから、たとえば、関係に関する次の二つの法則は、定理Tと定理Uに照応している。

 T′.  クラス K で反射的であり、そのクラスで性質を持つあらゆる関係 R は、また K において対称的である。

 U′.  クラス K で反射的であり、そのクラスで性質を持つあらゆる関係 R は、また K において推移的である。

 或る関係 R が、或るクラス K で反射的であり、性質を持つならば、 KR は一緒になって、われわれの理論の モデル または 公理システムの実現 を形成する、と言う。あるいはもっと簡単に、それらは公理を満足する、と言う。たとえば公理システムの一つのモデルは線分のクラスと合同の関係によって形成される。つまり、原初項 primitive terms によって示されるものによって形成される。もちろん、このモデルはまた公理から演繹されるすべての定理を満足する。(厳密には、理論の言明自体ではなく、原初項を変項で置き換えることで、それらから得られる文関数を一つのモデルが満足する、と言うべきである。) しかしながら、この特定のモデルは理論の構築の際に何ら特権的な役割を演じるわけではない。反対に、T′やU′のような普遍的論理法則を土台にして、公理システムのいかなるモデルもそれら公理から演繹されるすべての定理を満足するという一般的結論にわれわれは達する。この事実からして、われわれの理論の公理システムのモデルは、 理論のモデル 自体として言われもする。
 論理学や数学の領域ですら、われわれの公理システムのために多くの異なったモデルを提示することができる。そうした一つのモデルのために、他のどんな演繹理論の枠内でも我々は、たとえば「」と「」(前者はクラスを、後者は関係を指示する)という二つの定項を選び、そのシステムのすべての箇所で、「」を「」に置き換え、「」を「」に置き換え、最終的に、こうして得られた文が新しい理論の定理であり、また公理でもあり得ることを示す。このことに成功するならば、 他の演繹理論の内で公理システムの解釈 を発見したとわれわれは言い、また同時に、われわれの 演繹理論 全体を発見したと言う。公理の中でばかりではなく、われわれの理論のすべての定理で、原初項「」と「」を「」と「」で置き換えるならば、さらに進んで、こうして得られるすべての文は新しい演繹理論の真なる文となることを確かめることができる。


124

 ここでわれわれのミニチュア理論の具体的な解釈例を二つ挙げることにする。公理Tと公理Uで、シンボル「」を普遍のクラス「」で置き換え、シンボル「」を同一性の記号「=」で置き換えてみよう。即座に見てとれるように、公理は論理法則となるだろう(実際、わずかに変様した形での第17節の法則UとXである)。普遍のクラスと同一性の関係は、したがって、公理システムのモデルを構成し、われわれの理論は論理の中に一つの解釈を発見したのだ。このように、シンボル「」と「」をシンボル「」と「=」で置き換えた定理Tと定理Uにおいて、われわれは真なる論理文に到達したと確信する(実際、またお馴染みのものを目にする−第17節の法則Vと法則Wを参照)。
 次に、すべての数の集合、あるいは数の他の集合を、「」で指示することによって考えてみよう。二つの数 xy を、それらの差 xy が整数であるならば、等しいと呼ぼう、シンボルでは、

xy


となる。そこで、たとえば、

≡ 5


であるが、他方、

3 ≡ 2


となるわけではない。
双方の公理で原初項が「」と「≡」によって置き換えられるならば、結果として生じる文が算術の真なる定理であることは容易に示すことができる。このようにして、われわれの理論は算術の中で一つの解釈を持つことになる。なぜなら、数 と等価関係 ≡ は公理システムのモデルを構成するからである。そしてまた、なんら特別の推論をすることなく、定理Tと定理Uは、それらが公理として同じ変形に服するならば、真なる算術の言明となることをわれわれは確信する。

 上で述べた一般的な事実は方法的探求の中で多くの興味深い応用を持っている。それをここではたった一つの例を使って説明しよう。これらの事実を土台にして、ある種の文がわれわれの公理システムから演繹することができないということを証明する仕方を示すことにする。


125

 次の文 A (われわれの理論内でのみの論理的タームと原初項で定式化されている)を考えてみよう。

 A.集合の二つの要素 xy があり、その集合に関しては x y ではない (他の言葉で言えば、合同ではない二つの線分がある)。

 この文は疑いなく真であるように見える。にも拘わらず、公理TとUを土台にしてそれを証明しようと試みても、いかなる肯定的結果も与えられない。そこで文Aはわれわれの公理からは全く演繹できないという推測が生じる。この推測を確かめるために、われわれは次のように論じる。文Aがわれわれの公理システムを土台にして証明可能であるならば、すでにわかっているように、このシステムのあらゆるモデルがその文を満足するだろう。したがって、文Aを満足しないような公理システムのモデルを示すことに成功するならば、この文は公理Tと公理Uからは演繹できないことを証明することになる。さて、そうしたモデルを作ることはなんら難しくないということがわかる。たとえば、すべての整数の集合 (あるいは他の整数の集合、数0と1だけから成る集合)と上に述べた数の間の合同関係 ≡ を考えよう。先の注意から、われわれにはすでにわかっていることがある。集合 と関係 ≡ はわれわれの公理システムのモデルを構成しているということである。しかし文 A はこのモデルを満足しない。というのも等価でない二つの整数 xy 、つまりその差が整数でない二つの整数 xy は存在しないからである。この目的に適した他のモデルは個体の任意のクラスと任意の個体間に成立する普遍関係 によって作られる。
 今適用した推論のタイプは モデルの提示による、または解釈による証明の方法 として知られている。

 ここで論じた事実と概念は、本質的な変更なしに、他の演繹理論に関係する。次節では、それらの演繹理論を全く一般的なやり方で述べることにしよう。

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Subject Y 演繹的な方法について
Author イストラン [ 3360 to イストラン ]  8/5/Wed/2004   


・Y・



演繹的な方法について



36. 演繹的理論の基礎的構成要素−原始的かつ定義されたターム、公理、定理

 論理学と数学の構築に適用される基礎的原理の説明をしよう。これらの原理を詳しく分析し、批判的に評価することは特別な学の仕事であり、それは 演繹的学の方法論 または 数学の方法論 と呼ばれる。学を探求したり推し進めたりしようとする者なら誰にとっても、その学の構築で仕様される方法を意識することは疑いなく重要なことである。数学の場合には、その方法の知識は特に広範囲な重要性を持つ。というのはそうした知識がないと、数学の本性を理解することが不可能だからである。
 我々が近づこうとする原理は、論理学と数学で得られる知識のために、可能な限り最も高い明晰さと確実性を確かなものとするという目的のために役立つ。この観点からして、手続きの方法は理想的なものとなるだろう。もしもそれによってこの学に現れるあらゆる表現の意味を我々が説明し、その個々の主張を正当化できるならばである。この理想が決して実現できないと理解するのは容易である。実際、或る表現の意味を説明しようとするならば、必然的に人は他の表現を使用し、次にこれらの表現の意味を、悪循環に陥らずに説明するためには、さらなる表現に依拠しなくてはならない、というふうに続く。かくてわれわれは決して終わらないプロセスの始まりを持つが、そのプロセスは比喩的に言うと、 無限後退regressus in infinitum と見なせるだろう。


118

学の主張される言明を正当化することに関する限り、状況はまったく類似している。なぜなら、言明の妥当性を確立するためには、他の言明に言及する必要があり、(悪循環が生じないならば)これは再び無限後退に至るからである。
 到達不能の理想と実現しうる可能性との間で妥協することにより、数学的学の構築に関する或る種の原理が出現した。それは次のように描写できるだろう。
 与えられた学を構築することに着手するにあたって、まずこの学の小さい一群の表現を区別する。それらは直接的に理解可能と見えるものである。この表現の群れをわれわれは 原始的ターム PRIMITIVE TERMS または 定義されていないターム UNDIFINED TERMS と呼ぶ。そしてわれわれはこれらの意味を説明せずに使用する。同時に、次の原理を採用する。考察中の学の他の表現は、その意味が原始的タームの助けを借りて初めて規定されていなければ、使用しない。また前もって説明された意味を持つ表現の助けを借りて規定されていなければ、これら他の表現を使用しない。このようにして或るタームの意味を規定する文は 定義 と呼ばれる。そしてそこからその意味が規定される表現自体は、これに応じて 定義されたターム として知られる。
 われわれは考察中の学の主張された言明についても同様に進める。われわれにとって論拠が明らかであるような言明はいわゆる 原始的言明 PRIMITIVE STATEMENTS または 公理 AXIOMS として選ばれる(これはしばしば 公準 POSTULATE とも呼ばれるが、ここでの術語的意味では公準という語を使わないことにする)。われわれはこれらをその妥当性をなんら確証せずに真と受け入れる。他方、その妥当性を確証することに成功する限り、ほかのどの言明も真として受け入れることにわれわれは同意し、そのようにしながら、公理、定義、その妥当性が前もって確証されている言明以外のものは何も使用しないことにわれわれは同意する。周知のように、こうして確証される文は 証明された言明 または 定理 THEOREMS と呼ばれる。そしてそれらを確証するプロセスは 証明 PROOF と呼ばれる。もっと一般的に言えば、もしも論理学や数学の中で、一つの言明を他の言明を土台にして確証するとき、われわれはこのプロセスを 導出 DERIVATION または 演繹 DEDUCTION と言い、このように確証された言明を他の言明から 導出された または 演繹された 、あるいはその 帰結 CONSEQUENCE と言う。


119

 現代の数学的論理学は、たった今述べた原理にしたがって構築される学の一つである。この重要な事実にしかるべき卓越性を与えることは、この著作の狭い枠組みの中では不可能である。他の学がこれらの原理に従って構築されているならば、それはすでに論理の土台 basis の上にである。論理は、いわばすでに前提されている。このことが意味するのは、論理の表現と法則すべてが、構築中の学の原始的タームと公理と等しい足場の上で扱われるということである。たとえば、論理的タームは公理、定理、定義の形成で、その意味を説明することなく使用され、論理的法則はその妥当性をまず確証することなく証明で適用される。学の構築では、ときに論理を使用することに利便性があるばかりではなく、前もって構築された或る数学的学を同じ意味で前提することが便利でさえある。簡便さのために、これらの理論は論理と一緒になって、 与えられた学に先立つ学 と見なすことができる。論理自体はそれに先立つ学を何も前提にしない。特別な数学的学としての算術を構築する際に、論理はそれに先立つ唯一の学として前提される。他方、幾何学の場合には、論理だけではなく、算術もまた前提することが適当−不可欠というわけではないが−と言える。
 最後の指摘に関連して、上で述べた原理の形成では、修正する必要がある。或る学の構築に着手する前に、与えられた学に先立つ学が列挙されるべきである。表現を定義や言明の証明に関するすべての要求は、しかしながら、構築中の学に特殊なそれら表現や言明に限られている。こうしたものは先立つ学には属さない。

 上に説明された原理に厳密に合致して一つの学を構築する際の方法は、 演繹的な方法 DEDUCTIVE METHOD として知られている。


120

そしてこのやり方で構築される学は 演繹的な理論 DEDUCTIVE THEORIES と呼ばれる。1 演繹的な方法は、それによって数学的学が他のすべての学から区別される唯一本質的な特質であるということがますます共通の見方となってきた。あらゆる数学的な学が演繹的な理論であるばかりではなく、逆にあらゆる演繹的な理論は数学的学である(この見方によれば、演繹的論理もまた数学的学としてみなされる)。この見方を擁護する根拠についての議論にはここでは立ち入らない。ただ、それを支持する考慮すべき論を進めることが可能だということを指摘しておく。


1 演繹的な方法は最近の成果であるとは考えられない。すでに、ギリシャの数学者、Euclid (およそ紀元前300年)の『原論 Elements』の中に、上述の方法的原理の観点から望まれるもの以外のものがあまりない幾何学の提示を見る。2200年の間、数学者たちは Euclid の著作に科学的厳密さの理想と原型を見てきた。この分野での本質的な進歩はこの50年ほどの間に起こった。その間に、幾何学と算術という基本的な数学的学を基礎づけることが、数学の今日の方法論のあらゆる要求に従って行われた。この進歩という点でわれわれが負っているテキストには、少なくとも、すでに歴史的重要性を持つ次の二冊がある。イタリアの数学者、論理学者の G.Peano(1858-1932)が編者であり主たる著者である、『数学の定式集 Formulaire de Mathématiques』(Torino 1895-1908)。そして、現代ドイツの大数学者、D.Hilbert の『幾何学の原理 Grundlagen der Geometrie』(Leipzig and Berlin 1899)である。

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Subject 35.他の学に対する論理学の重要性
Author イストラン [ 3359 to イストラン ]  8/5/Wed/2004   


35.他の学に対する論理学の重要性

 われわれは現代論理学のもっとも重要な概念を論じてきた。そうすることで、これらの概念に関するいくつかの法則(とても少ない)に親しんだ。しかし科学的論証の中で入手する全ての論理的概念や法則の完全なリストを作ることはわれわれの意図ではなかった。ちなみに、他の学の研究や推進に関する限り、それは必要ではない。とくに論理学と密接な関係にある数学でもそうである。論理学は他の学の基底と考えられる。その理由はもっぱら、あらゆる論証において、われわれは論理学の分野から取られた概念を使用し、あらゆる正しい推論は、その学の法則に合致して進むということである。


109

しかし、このことは論理の完全な知識が正しい思考の必要条件だということを意味しない。一般に推論で誤りを犯さない専門の数学者でさえ、通常は、かれらが意識しないで使う全ての論理法則を意識するという程度にまで論理を知っていることはない。まったく同様に、論理の知識は正しく思考し、推論することを望む者なら誰にとってもかなり実践的な重要性を持っていることは疑いない。論理はこの結実のための内的かつ獲得された能力を高め、とくに批判的な場合には、間違いを犯すことを防ぐ。とくに数学的理論の構成に関する限り、理論的観点からはるかに重要な役割を演じる。この問題は次章で論じられる。

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Subject 38.多−項関係
Author イストラン [ 3347 to イストラン ]  7/26/Sun/2004   


34.多−項関係;いくつかの変項と操作の関数

 これまでのところ、われわれは 二−項 TWO-TERMED (または 二元 BINARY関係 をもっぱら考察してきた。つまり二つの事物の間の関係である。しかし 三−項 THREE-TERMED (または 三元 TERNARY の、また一般的に 多−項関係 MANY-TERMED RELATIONS にいろいろな学で遭遇することはしばしばある。



2 ここで論じられた無限のクラスの性質に初めて注意したのは、ドイツの哲学者かつ数学者である B.Bolzano(1781-1848)である。その著書 Paradoxien des Unendlichen (Leibzig 1851、死後に出版)に、我々は現代集合論の最初の始まりを見る。上述の性質は、有限のクラスと無限のクラスの厳密な定義を形にするため、後に、Peirce(p.14の脚注2を参照)他によって使用された。


106

たとえば幾何学では間の関係が三−項関係の典型例を成している。それは一つの線の三つの点の間に成立し、

ABC


という定式によってシンボリカルに表現され、

B は点 A と点 C の間に位置する


と読まれる。算術もまた三−項関係の多くの例を提供する。三つの数に関する例で十分であろう。最初の数が他の二つの数の和であるという事実の内には、

xyz


という関係があり、同様に、

xyz


xyz


xyz


という定式で表現されるような関係もある。

四−項関係の例としては、最初の二つの点の距離が残りの二つの点の距離と等しいときに限り点 ABCD の間に成立する関係を挙げておこう。別の言い方をすれば、線分 ABCD が合同であるときに成立する関係である。他の例は、数 xyzt の間に、

xyzt


という比率をなすときに成立する関係である。

 多項関係の全体の中で特別に重要なものは多項関数関係であり、それは二項関数関係に対応している。簡素さを考慮して、われわれはこのタイプの三項関係の議論に限ることにしよう。いかなる二つのもの、 yz に対して、多くとも一つのもの xyz に或る関係を持って対応するとき、 R三項関数関係 THREE-TERMED FUNCTIONAL RELATION と呼ばれる。


107

この独自に規定されたものは、それが存在するならば、

Ry , z


あるいは、

y R z


というシンボルで指示される。

(それは二項関係の理論でこれが持ったのとは異なる意味を持つと想定されている。)だから、 x が関数関係 R において yz に対するということを表現する目的で、われわれは二つの定式を自由に使用できる。

xRy , z )  と   xy R z


 この二重のシンボリズムに対応して、二重の表現様式がある。

xRy , z


という記法を使うときには、 R関数 と呼ばれる。二項関数関係と多項関数関係を区別するためには、前者の場合、 一つの変項の関数 または 一つの引数を持つ関数 について語り、後者の場合、 二つの変項を持つ関数 または 二つの引数を持つ関数 について語る。同様に、四項関数関係は 三つの変項を持つ関数 または 三つの引数を持つ関数 と呼ばれる。引数が任意の個数である関数を指示するために、「 f 」、「 g 」を使って、次のように定式化するのが慣習となっている。

xfy , z


これは、

x は関数 f の値であり、それは引数値 yz に相関している


と読まれる。

xy R z


というシンボリズムが使われるときには、関係 R は通常 演算 OPERATION として言及され、もっと特殊には、 二項演算 として言われ、上の定式は次のように読まれる。

xyz になされた演算 R の結果である




108

文字「 R 」の変わりに、この場合は他の文字、とくに「 O 」を使うようになっている。加法、減法、乗法、除法という基本的な算術的演算が例として使えるだろう。そして、またクラスや関係(25節28節を参照)の加法や乗法もそうである。二変数の関数と二元演算という二つの概念の内容は厳密に同じものである。おそらく以下のことは注記しておくべきだろう。一変数の関数はときに演算、とくに 一元演算UNARY OPERATIONS と呼ばれる。たとえば、クラスの計算では、クラスの補を作ることはたいてい関数ではなく、演算と考えられている。

 多項関係はいろいろな学で重要な役割をもっている。これらの関係の一般理論はいまだその始まりの段階にある。関係や関係の理論の話となると、人はたいてい二項関係を頭に思い描いてきた。もっと詳しい研究は三項関係の特殊なカテゴリーについてのみなされてきた。つまり、その原型が通常の算術的加法とわれわれは考える二元演算のカテゴリーである。これらの探求は群論として知られる特殊な数学の分野の枠組みでなされている。この本の第二部で、われわれは群論由来の概念と、二元演算の或る一般的特性に親しむことになる。

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Subject 33.一−一関係あるいは双一的関数、一対一対応
Author イストラン [ 3306 to イストラン ]  7/12/Sun/2004   


33.一−一関係あるいは双一的biunique関数、一対一対応


 関数的関係の中で、いわゆる 一−一関係 あるいは 双一的 BIUNIQUE 関数 には特別の注意が払われるべきである。そうした関数的関係では、あらゆる引数値 y にただ一つの関数値 y が相関しているばかりでなく、反対に、ただ一つの引数値 y があらゆる関数値 x に対応している。それらはまた、その関係自体と同様にその逆 converses(第28節参照)が一−多であるという性質を持つ関係としても定義されるだろう。
  f が双一的関数であり、 K がその引数値の任意のクラスであり、 LK の要素と相関する関数値のクラスであるとすると、関数 f一対一の仕方で クラス K をクラス L へマップする あるいは、それは KL の要素の間に一対一対応を確立する と言う。

 例を少し考察しよう。点 O から発する半直線があり、長さの単位を示す線分を持っているとしよう。さらに Y がこの半直線の任意の点であるとする。すると線分 OY は計られる。つまり線分の長さと呼ばれる非負の数 x を相関させることができる。この数は点 Y の位置にだけ依存しているのだから、われわれはそれをシンボル「 fY)」で指示することができる。したがって、

xfY




104

しかし反対に、あらゆる非負の数 x に対して、唯一の仕方で規定される線分 OY を考察中の半直線の上に構成することができる。その長さは x に等しい。換言すれば、あらゆる x に対して、

xfY


であるような点 Y が厳密に一つ対応する。

したがって関数 f双一的biuniqueである。それは半直線の点と非負の数の間に一対一の対応を確立する(そして線全体の点とすべての実数の間に一対一対応を確立するのも同じく単純であるだろう)。もう一つの例は、

x = −y


によって表現される関係である。これは双一的関数である。なぜならあらゆる数 x に対して、与えられた定式を満足するただ一つの数 y があるからである。この関数が一対一の仕方ですべての負の数の集合上にすべての正の数の集合をマップすることは即座に見てとれる。最後の例として、次の定式が表現する関係を考察しよう。

x = 2y


ここでシンボル「 y 」は自然数だけを指示するものと想定する。再び我々は双一的関数を得る。それはあらゆる自然数に偶数 2y を相関させる。逆に、あらゆる偶数の自然数に対して、2yx であるような、つまり y = 1/2 x というただ一つの数 y が対応する。このように関数は任意の自然数と偶数の自然数の間に一対一対応を確立する。双一的関数と一対一マッピングの数多くの例は幾何学の分野から引くことができる(対称的symmetricマッピング、同一線上のcollinearマッピングなど)。

 *一対一対応の概念を自由にできるという状況により、以前は正確にではなく直観的に説明した或る用語の厳密な定義をすることができる。それは同数のequinumerousクラス(第26節参照)の概念である。 KL の二つのクラスの要素間に一対一対応を確立する関数が存在するときに、われわれは KL が同数であると言おう。


105

この定義の上で、先に考察した事例と連関して、任意の半直線のすべての点の集合がすべての非負の数の集合と同数であるということが帰結する。同様に、正の数の集合集合と負の数の集合は同数であり、同じことはすべての自然数の集合とすべての偶数の自然数の集合にも成立する。最後の例はとりわけ示唆に富んでいる。なぜならそれはクラスというものがそれ自身の本来のサブクラスと同数であるということを示しているからである。多くの読者にとって、この事実は一見して非常にパラドクシカルであるように見えるかもしれない。通常は、有限のクラスがそれらの要素の数に関して比較されるからである。そして実体、有限のクラスはそのどの部分よりも大きな基数を持っている。自然数の集合は無限であり、もっぱら有限のクラスに関して観察した性質を無限のクラスに認めることは決してできないということを意に留めるならば、パラドックスは消える。部分と同数である自然数の集合の性質は、すべての無限のクラスに共有されているということは指摘しておくに値する。この性質は、したがって、無限のクラスに特徴的なものであり、それらを有限のクラスから見分けることを可能にする。そして有限のクラスはその本来のサブクラスのどれとも同数ではないクラスとして定義され得る。(しかし、この定義はある種の論理的困難を含んでいる。それに関する議論にはわれわれはここでは入らない。)2


2 ここで論じられた無限のクラスの性質に初めて注意したのは、ドイツの哲学者かつ数学者である B.Bolzano(1781-1848)である。その著書 Paradoxien des Unendlichen (Leibzig 1851、死後に出版)に、我々は現代集合論の最初の始まりを見る。上述の性質は、有限のクラスと無限のクラスの厳密な定義を形にするため、後に、Peirce(p.14の脚注2を参照)他によって使用された。

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Subject 32.一−多関係あるいは関数
Author イストラン [ 3301 to イストラン ]  7/5/Sun/2004   


32.一−多関係あるいは関数

 われわれは、他の特に重要な関係のカテゴリーを少し詳しく扱うことにする。関係 R は、あらゆる事物 y に対して x R y であるような多くとも一つの事物 x が対応するならば、 一−多関係 あるいは 関数的関係 あるいはたんに 関数 FUNCTION と呼ばれる。この条件は、別の言葉で言えば、

x R y かつ  z R y


という定式が、いつでも

xz



を含意しているということである。関係 R に関する後続者とは、

x R y


のような事物 x が実際に存在するそうした事物 y のことであるが、これは


99

変数値 ARGUMENT VALUES と呼ばれる。先行者は 関数値 FUNCTION VALUES であり、または単純に 関数 R の値 である。 R を人の関数としよう。そして y をその変数値としよう。変数の値 y に対応する関数の値 x は「 Ry )」で表される。したがって、

x R y


という定式を、われわれは

xRy


に置き換える。

とくに数学では、関数的関係を表示するために、「 R 」「 S 」ではなく、「 f 」「 g 」のような文字を使うのが慣習になっている。そこで、

xfy )、    xgy

、...
のような定式を見るわけであるが、たとえば、

xfy


という定式は、以下のように読まれる。

関数 f 変数値 y に対して、値 x を割り当てる(または 相関させる correlate)


または

x は関数 f の値であり、それは変数値 y に対応している(または相関させられている)


(変項「 x 」を変数値を表すために使い、変項「 y 」を関数の値を表すために使う、という別の慣習もある。われわれはこの慣習には従わず、「 x 」と「 y 」を反対の順番で使い続けよう。なぜなら、これが関係の理論で使用される一般的表記に関しては都合が良いからである。)
 多くの代数の基本的教科書では、関数の概念の定義が見られるが、それはここで採用する定義とはまったく異なっている。関数関係はそこでは二つの「変化するvariable」量ないし数の間の関係として説明されている。「独立変数independent variable」とか「従属変数dependent variable」というもので、それは最初のものの変化が二番目のものの変化を生じる限りにおいて、互いに依存している。


100

この種の定義は、今日ではもはや用いられるべきではない。というのは、それらはどんな論理的批判にも耐えることができないからである。それらは「定」量と「変」量の間に区別を設けようとした時代の名残である(第1節参照)。しかし、現代科学の要求に応じようとしつつも、伝統から完全に断絶したくない者は、「引数値argument value」や「関数値function value」の他に、「独立変数の値」とか「従属変数の値」という古い語法と用法を保持している。

 関数的関係の一番単純な例は、同一性の通常の関係が代表している。日常生活からの関数の例として、次の文関数が表す関係を取り上げよう。

xy の父である。



これは関数的関係である。なぜならば、どの人物 y にとっても、 y の父である x というただひとりの人物が存在する。この関係の関数的性格を示すために、上の定式化に「 the 」という語を挿入する。

xy の the 父である。


またこう書くこともできよう。

xy の父と同一である。



元の表現をそのように変化させることは、定冠詞の挿入によって、通常の言語ではまさに次のような移行という目的に役立つ。

x R y


という定式から

xRy


という定式への、われわれのシンボリズムでの移行である。
 関数の概念は、数学的科学ではもっとも重要な役割を持つ。もっぱらある種の関数的関係に専念する高等数学の諸部門がある。しかし、基礎数学でもまた、とくに代数や三角法で、有り余るほどの関数的関係を目にする。


101

例えば、次のような定式で表現される関係、

xy = 5


xy2


x = log10 y


x = sin y



他、多くのものがある。これらの定式の二番目のものをもっと考えてみよう。あらゆる数 y に対して、 xy であるたった一つの数 x が対応している。だからこの定式は、実際に関数的関係を表している。この関数の引数価値は任意の数であるが、関数値は非負の数だけである。もしもこの関数をシンボル「 f 」で表示するならば、

xy


という定式は、

xfy


という定式を想定している。

明らかに、「 x 」と「 y 」はここでは一定の数を指示するシンボルで置き換えることができる。なぜなら、たとえば、

4 = (−2)


では、

4 = f(−2)


が想定され、かくて4は関数 f の値であり、それは引数値の−2と対応しているからである。
 他方、そしてすでに基礎数学では再び、われわれは関数ではない多くの関係に遭遇する。たとえば、より小さいという関係は確かに関数ではない。というのも、あらゆる数 y に対して、

xy


であるような、無限に多くの数 x が存在するからである。

xy = 25


という定式で表現される数 xy の間の関係も関数的関係ではない。


102

なぜならば、一つの同じ数 y に対して、この定式が妥当である二つの異なった数 y が対応するからである。たとえば、数4に対応して、我々は数3と数−3のどちらも持つ。今考察したように、等号で表現され、一つの数 y と二つないしそれ以上の数 x と相関させる数の間の関係は、数学では2値または多値関数と呼ばれることがある(単一価値single-valued関数つまり通常の意味での関数に対して)。しかしながら、少なくとも基礎レヴェルでは、そうした関係を関数と表示するのは適当ではない。これは関数の概念と関係のもっと広い概念との本質的相違を抹消してしまうだけだからである。

 経験的科学への数学の適用に関する限り、関数は特別な意味を持つ。外的世界に現れる二つの量の間の依存性を調べるときにはいつでも、われわれはこの依存性に数学的定式を与えようとしているわけである。それは一方の量を対応する他方の量によって厳密に定めることを可能にしてくれる。そうした定式は、二つの種類の量の間の関数的関係をいつでも表している。例として、物理でよく知られた定式に言及しよう。

s = 16.1 t


これは自由落下する物体が、その落下の時間 t によって踏破する距離 s を表している(その距離はフィートで、その時間は秒で計られたものである)。

 * 関数的関係に関するわれわれの注意の結論として、今考察している関数の概念は第2節から知られている文関数や指示関数の概念とは本質的に異なることを強調しておきたい。厳密に言えば、「文関数」や「指示関数」は論理学や数学の領域には属していない。それらは論理学および数学の言明を構成することに役立つ表現のカテゴリーを表示するが、しかしそれらはそうした言明で扱われる事物を表示しはしないのである(第9節参照)。新しい意味での「関数」という語は、他方、純粋に論理的な性格を持つ表現であって、それは論理学や数学で扱われる事物のある種のタイプを指示する。これらの概念の間には、疑いなく一つのつながりが存在する。


103

それは大ざっぱに言えば次のように説明されるだろう。変項「 x 」がシンボル「=」によって、「 y 」を唯一の変項として含む指示関数、つまり「 y+2y+3 」などに結合されるならば、結果として生じる定式(それは文関数である)は、

xy+2y+3


であるが、これは関数関係を表現している。あるいは換言すれば、この定式を満足するそれらの数 xy だけの間に成立する関係が、新しい意味での関数である。そのために、これらの概念はしばしば混乱している。

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Subject 31.順序づけ関係;他の関係の例
Author イストラン [ 3297 to イストラン ]  7/1/Wed/2004   


31.順序づけ ordering 関係;他の関係の例

 もう一つ他のとてもありふれた関係は、与えられたクラス K において非対称的、推移的、結合された関係となっている種類のものである(それらはまたクラス K において非反射的であるに違いない)。


97

これらの性質を持った関係については、それは クラス K において一つの順序を確立する とわれわれは言う。また、クラス K関係 R によって順序づけられている と言う。たとえば、より小さい smaller という関係(あるいは、時々言われるように、〜より少ない less than という関係)を考えよう。それは数のどんな集合でも非対称的である。なぜなら、 xy がそうした二つの数であり、

xy


ならば、

y x 、 つまり 〜( yx



それは推移的である。というのも、

xy  かつ  yz


という定式は、いつでも

xz


と含意するからである。

最後に、それは結合されている。というのは、どのような二つの区別される数についても、或る数は他の数よりも小さいからである(そしてまた、それは非反射的である。なぜならそれ自身よりも小さい数はないからである)。したがって、数のいかなる集合も、より小さいという関係によって順序づけられている。同様に、より多きいという関係は、数のいかなる集合にとっても、他の関係を表現している。
 さて、より歳取ったという関係を考えてみよう。人間のどの集合においても、この関係が非反射的、非対称的、推移的であることは容易に確かめることができる。しかし、それは必ずしも結合されているというわけではない。もしかすると、その集合はまったく同じ歳の二人の人間を含んでいるかもしれないからである。つまり、同じときに生まれ、だからより年取ったという関係はどの方向にも成立していない。他方、まったく同じ歳の二人の人物がいないような人びとの集合を考えるならば、より歳とったという関係は、その集合で一つの順序を確立している。

 この節や先の節で論じた二つのカテゴリーには属さない関係の多くの事例が知られている。そのような例を少し考えよう。
 差違の関係は事物のいかなる集合においても非反射的である。どのような事物もそれ自体と異なっているということはないからである。それは対称的である。なぜなら、

xy


であるならば、


98

yx


ということになるからである。

しかしそれは推移的ではない。というのは、

xy かつ  y でない z


という定式は、

xz


という定式を含意しないからである。

対して、即座に分かるように、それは結合されている。
 クラスの間の包含の関係は、同一性の法則と三段論法の法則の一つにより(第24節参照)、反射的かつ推移的である。それはさらに、対称的でも非対称的でもない。なぜならば、

KL


という定式は、

LK


という定式を含意も排除もしないからである。(これら二つの定式は、 クラス KL が同一であるとき、かつそのときに限り、同時に満たされる。)最後に、それは結合されてはいないことは容易に見てとれる。かくて、包含の関係はこれまで考察してきた他の関係とはその性質において異なっている。

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Subject 30.反射的、対称的、推移的な関係
Author イストラン [ 3293 to イストラン ]  6/27/Sat/2004   


30.反射的、対称的、推移的な関係


 上述の関係の性質はしばしば群となって現れる。たとえば、反射的、対称的、推移的である関係というのはどこにでもある。このタイプの典型的な例は同一性の関係である。第17節の法則Uはこの関係が反射的であることを表現している。法則Vでは同一性は対称的な関係であり、法則Wによると、推移的である(そしてこのことは第17節でこれらの法則に与えられた名称を説明する)。この種の関係の数ある他の例は幾何学の分野に見られよう。


95

たとえば、合同はすべての線分(あるいは任意の幾何的図形)の集合において反射的な関係である。すべての線分はそれ自身に反射的だからである。それは対称的である。というのは、線分が他の線分に合同であるなら、その他のものは最初のものに対して合同だからである。またそれは推移的である。線分Aが線分Bに、また線分Bが線分Cに合同であるならば、線分Aは線分Cに合同でもある。同じ三つの性質は多角形の間の類似や直線の間の平行(どの線もそれ自身に平行であると仮定して)の関係にある。あるいは、幾何の領域から外へ出ると、人びとの間の等しい年齢や、語の間の同義性の関係にある。
 同時に反射的、対称的、推移的であるあらゆる関係は、なんらかの等性であると考えられる。したがって、そのような関係が二つの事物の間にあると言う代わりに、この意味で、これらの事物はそうした観点において等しいと言うこともできる。あるいはもっと正確に言うならば、これらの事物の或る性質は同一である、と言うことができる。そこで二つの線分が合同であると言う代わりに、または二人の人物は等しく歳をとっているという代わりに、あるいは二つの語は同義であると言う代わりに、線分はその長さにおいて等しく、人びとは同じ歳であり、語の意味は同一である、と言うことができる。

 *例を示すことによって、そうした表現様式の論理的土台をはっきりさせることがいかにして可能かという指示を与えることができる。この目的のために、多角形の類似の関係を考察してみよう。与えられた多角形 P に似たすべての多角形の集合(あるいは少しばかり現代風の用語を使うならば、 p に似ているが、他のものには似ていない全ての多角形に属する共通の性質)を多角形 p の形象 shape としてみよう。そうすると、形象は多角形の或る集合(または多角形の性質;第22節のおしまいの注を参照。)である。類似の関係が反射的、対称的、推移的であるという先に述べた事実を利用して、あらゆる多角形は唯一のそうした集合に属すこと、二つの類似した多角形はいつも同じ集合に属すこと、そして類似していない二つの多角形は異なる集合に属すことを、われわれはたやすく示すことができる。このことから、ただちに二つの言明が出てくる。

多角形 PQ は類似している




96

多角形 PQ は同じ形を持つ ( つまり、多角形 PQ の形は同一である



これら二つの言明は等価である。
 これまでの考察の進展の中で、われわれは類似した手続きを以前一度採用したことがあることに読者はすぐ気がつくだろう。すなわち、第26節で、

クラス KL は同数の構成要素である


という表現から、それと等価な

クラス KL は同じ基数を持つ


という表現に変換したときである。

 同じ手続きが反射的、対称的、推移的関係に適用できるということを示すことは困難ではない。 抽象の原理 PRINCIPAL OF ABSTRACTION と呼ばれる論理法則さえ存在する。それはわれわれが考察してきた手続きのための理論的基礎を与える。しかしここではこの原理の厳密な論述は進めないことにする。*

 これまでのところ、同時に反射的、対称的、推移的である関係の総体を表す普遍的に認められた用語は存在しない。それらは一般的に 等しさ EQUALITY とか 等価性 EQUIVALENCE と呼ばれることがある。しかし 等しさ という語は考察中のカテゴリーの特別な関係のために取っておかれることもある。そして、そうした関係が成立するときに二つの事物は等しいと呼ばれる。たとえば、幾何学では、第19節で指摘したように、合同な線分はしばしば等しい線分と言われる。ここでまた強調しておくが、そうした表現をまったく使わないことが好ましい。それらの使用は曖昧さに通じるだけであって、「等しさ」と「同一性」を同義的なものとして考えるための一致した規約を破ることになる。

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Subject 29.関係が持ついくつかの性質
Author イストラン [ 3291 to イストラン ]  6/17/Wed/2004   


29.関係が持ついくつかの性質


 さてわれわれは関係の理論の一部へと目を転じてみる。その仕事は或る特別な関係を選別し、探求するものであるが、それは他の学、とくに数学でしばしば目にするものである。
 クラス K の関係 R のあらゆる要素 x がそれ自身に関係 R を持つとき、そしてそのときに限り、この関係 R をわれわれは クラス K で反省的 REFLEXIVE と呼ぶ。

x R x


他方、このクラスのいかなる要素もそれ自身に関係 R を持たないとき、

〜( x R x


関係 Rクラス K で非反省的 IRREFLEXIVE と言われる。もしも、クラス K のいかなる二つの要素 xy にとっても、次の定式

x R y


が、いつでも定式

y R x


を含意するならば、関係 Rクラス K で対称的 SYMMETRICAL と呼ばれる。


94

しかしながら、定式

x R y


がいつでも

〜( y R x


を含意するならば、関係 Rクラス K で非対称的 ASSYMETRICAL と言われる。クラス K のいかなる三つの要素、 x y z にとっても

x R y そして  y R z


という状況が

x R z


をいつでも含意するならば、関係 Rクラス K で推移的 TRANSITIVE と呼ばれる。

最後に、クラス K の異なるどのような要素、 xy にとっても、

x R y  そして  y R x


という定式のうち少なくとも一つが成立するならば、つまり K の任意の異なる二つの要素の間に関係 R が存在するならば、その関係は クラス K で結合されている CONNECTED と呼ばれる。
 クラス K が普遍のクラス(あるいはとにかく、我々が関心を抱くに至る学の言説の宇宙−第23節参照)である場合には、我々がたいてい語るのは、クラス K における反省的、対称的、などなどの関係ではなく、もっと短く、ただ単純に、反省的関係、対称的関係などなどである。

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Subject 28.関係の計算
Author イストラン [ 3287 to イストラン ]  6/15/Mon/2004   


28.関係の計算

 関係の理論は数学的論理学の中でもっとも遠くまで発展した部門である。その一部である 関係の計算 はクラスの計算に近く、その主たる対象は操作を支配する形式的法則の確立であり、この操作によって他の関係が与えられたものから構成されるのである。

 関係の計算では、まず最初に、クラスの計算の概念に厳密に類似した一群の概念を考察する。通常それらは同一のシンボルと似たような法則によって表示される。(曖昧さを避けるために、もちろん、関係の計算では異なったシンボルセットを使用することができる。たとえば、クラスの計算のシンボルを取り去り、それぞれにドットを置き換える。)
 関係の計算では、二つの特殊な関係がある。それは 普遍的関係 無の関係 であり、前者はどのような二つの個体間にも成立し、後者は無の間に成立する。
 さらに我々は諸関係の間の様々な諸関係を持っているわけで、たとえば 包含の関係 というものがある。関係 R が関係 S包含 されるとき、

RS


と記号で言う。これは R が二つのものの間に成立するときはいつでも S が同様に成立するということである。または言い換えて、どのような xy に対しても、定式

x R y




x S y


を含むならば、成立するということである。


91

算術からの例を我々は知っている。

xy


ならば、

xy


である。したがって、より小さいという関係は相違の関係の中に含まれる。
 同時に、

RS かつ  SR


ならば、すなわち、関係 RS が同じものの間に成立するのであれば、それらは同一的であり、

RS


である。さらに、 二つの関係 RS の和ないし合一 は以下のようなシンボルになる。

RS


そして、 RS の積ないし交差 は以下のようなシンボルになる。

RS


最初の、 RS は、二つのものの間に、 RS の少なくとも一つが成立するときに、またそのときに限り成立する。言い換えれば、

xRSy


という定式は、

x R y または x S y


という条件と等価である。同様に、二つの関係の積は、「または」の代わりに「かつ」を使うだけで定義される。たとえば、 R が父であることという関係であるならば(つまり、二人の人物 xyxy の父であるときに限り成立する関係)、そして S が母性という関係であるならば、 RS は親性の関係であり、対して RS はこの場合、無の関係 null relation である。
 最終的に我々は 関係 R の否定ないし補 COMPLEMENT を持つことになる。それは

R


と表示される。


92

これは、関係 R が二つの事物の間に成立するとき、そしてそのときに限り成立する。言い換えれば、どのような xy にとっても、

x Ry  と 〜( x R y


とが等価である。関係が定項で示されるならば、その補はしばしば垂直線または斜線をその定項に引くことで表示される。たとえば、< という関係の否定は、「<’」ではなく、「」で表示されることが多い。

 関係の計算では、クラスの計算には類似物のない、まったく新しい概念もまた登場する。
 ここで我々はまず、個体の間の 同一性と差異性 という二つの特殊な関係を取り上げる(ちなみに最初の方の考察から、われわれはこれに慣れ親しんでいるのであるが)。関係の計算では、それらは、論理学の他の部分で用いられる「=」や「≠」ではなく、「I」と「D」という特殊記号で表される。そこで、

xy  や  xy


の代わりに、

x I y  や  x D y


と書く。
「=」や「≠」の記号は、関係の計算では関係の間の同一性と差異性を表すためにのみ使用される。
 さらに、ここでとても興味深く重要な新しい操作があって、それにより、二つの関係 RS から、三番目の 相関的積 RELATIVE PRODUCT ないし RS の合成 COMPOSITION と呼ばれる関係を作ることができる(それに対して、通常の積は 絶対的積 ABSOLUTE PRODUCT と呼ばれることがある)。 RS の相関的積は

RS


というシンボルで表示される。これは、

x R z および  z S y


が同時に言える z が存在し、かつ存在するときにのみ、 xy という二つの事物の間に成立する。
たとえば、 R が夫であるという関係であり、 S が娘であるという関係であるならば、 RS は二人の人物 xy の間に成立する。ただし、 xz の夫であり、 zy の娘であるような、そうした z が存在するならばである。


93

したがって、その関係 RS は義理の息子という関係に合致する。加えて、似たような性格を持つもう一つの操作がある。その結果は 二つの関係の相関的和 というものである。この操作は大した役割を持つわけではなく、ここでは定義しない。
 最後に、 R ’の形成と似たような操作がある。つまり、それによって関係 R から、 R の換位[逆] converse と呼ばれる新しい関係を作りだすもので、


と表示される。
関係 は、 Ryx の間に成立し、かつそのときに限り xy の間に成立する。或る関係が定項によって表示されるならば、その逆を表示するために、しばしば逆向きに印刷された同じシンボルを使う。たとえば、< という関係の逆は、> という関係である。なぜなら、どのような xy にとっても、

xy と  yx


という定式は等価だからである。
 関係の計算のかなり特殊な性格を考え、その詳細にこれ以上立ち入ることはしないでおこう。

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Subject X.関係の理論について
Author イストラン [ 3281 to イストラン ]  6/6/Sat/2004   



87

・X・



関係の理論について







27.関係、その領域 domain と対抗領域 counter-domain、関係と二つの自由変項を持つ文関数



 前章ではモノの間の 関係 というものに少しばかり出会った。二つのモノの間の関係として、たとえば、同一性 identity(等性 equality)と相違 diversity(不等性 inequality)を取り上げることができる。

xy


という定式を、

xy に対して同一の関係を持つ


または、

xy との間には同一性の関係がある


と、我々は読むことがある。

そして、シンボル「=」は同一性の関係を表していると言う。同じようなやり方で、

xy



xy に対して相違の関係を持つ


または、

xy の間には相違の関係がある


と読まれる。そして、シンボル「≠」は相違の関係を表していると言う。我々はまた、クラスの間の或る種の関係、つまり包含、重なり、疎などの関係を見た。さてこれから、一般的な 関係の理論 に属するいくつかの概念を論じよう。それは論理学の特殊な、かつ非常に重要な部分をなし、そこで全体的に任意の性質を持つ関係が考察され、またそれらに関する一般的法則が確立される。



88


 我々の考察を容易にするために、関係を表示する特別な変項、「R」「S」...を導入しよう。

モノ x はモノ y に対して関係 R を持つ


モノ x はモノ y に対して関係 R を持たない


という句の代わりに、シンボリックな短縮である、

x R y


と(文計算の否定記号を使って、第13節参照

〜( x R y


をそれぞれ使用する。

 或るモノ y に対して関係 R を持つものならどんなモノでも、我々はそれを 関係 R に関する先行者 PREDECESSOR と呼ぶ。

x R y


であるような x が存在するどのような y でも、 関係 R に関する後続者 SUCCESSOR と呼ばれる。関係 R に関するすべての先行者のクラスは ドメイン DOMAIN [変域、定義域] として知られる。そしてすべての後続者のクラスは、 関係 R のカウンタードメイン COUNTER-DOMAIN ないし コンヴァース ドメイン CONVERSE DOMAIN として知られる。たとえば、どのような個体も、同一性の関係に関しては先行者でありかつ後続者である。だからこの関係のドメインとカウンタードメインは両方とも普遍のクラスである。

 関係の理論においては、クラスの理論においてと同様に、異なったオーダーの関係を区別しうる。



 ド・モルガンとパース(p.52の脚注6P.14の脚注2)は関係の理論、とくに関係の計算(第28節)として知られるものを初めて開拓した。彼らの仕事はドイツの論理学者E.シュレーダー E.Schroeder(1841-1902)によって体系的に拡張され完全なものとなった。シュレーダーの『代数と関係の論理』(Leipzig,1895)は、包括的著作である『論理学の代数についての講義』の第三巻として現れたが、それはいまだ、関係の計算に関する唯一の徹底した説明である。




89


一階の関係 RELATIONS OF THE FIRST ORDER とは個体の間に成立する関係である。 二階の関係 とは、一階のクラスや関係の間に成立する関係である。状況はいやがうえにも複雑になる。というのは、しばしば「混合された」関係について考えなくてはならないからであり、その先行者はたとえば一階のクラスであるが、後続者は二階のクラスであるということもある。この種の関係の最も重要な例は、要素とそれが属するクラスの間にある関係である。第21節を想起するように、この関係はシンボル「」によって表される。クラス間の場合のように、関係に関する我々の考察は、まずは一階の関係に関するものとなるだろう。とはいえ、ここで論じられる概念は、高階の関係にも当てはめることができるし、またいくつの事例では当てはまる。

 二つの自由変項「 x 」「 y 」を持つあらゆる文関数に対して、「 x 」「 y 」が与えられた文関数を満足するならば、そしてそのときに限り、モノ「 x 」と「 y 」の間の或る関係が対応する。このつながりにおいて、自由変項「 x 」と「 y 」を持つ文関数について、それはもの xy の間の関係を表現すると言われる。たとえば、

xy = 0


という文関数は、対立する記号という関係、手短に言えば、対立の関係を表現している。すなわち、数 x と数 y は、 xy = 0 であるときに限り、対立している関係を持っている。この関係をシンボル「」で表すならば、

x y


となる。そしてそれは、

xy = 0


と等価である。同様に、唯一の自由変項としてシンボル「 x 」「 y 」を含むどのような文関数も、次の形を持つ定式 formula に変換できる。

x R y





90


ここでは、「 R 」の代わりに、或る関係を持つ定項 constant を我々は持つ。であるから、

x R y



は、二つの自由変項を持つ文関数の一般的形態と考えられる。それは、

x K



が、ちょうど一つの自由変項を持つ文関数の一般的形態として見られるのと同様である(第22節参照)。

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Subject 26.同数の構成素のクラス、クラスの基数、有限と無限のクラス、論理の部分としての算術
Author イストラン [ 3265 to イストラン ]  5/30/Sat/2004   

26.同数の構成素のクラス、クラスの基数、有限と無限のクラス、論理の部分としての算術


 *クラスの理論の探求主題をなす残された一群の概念がある。それは特別な注意に値するもので、同数の構成素の equinumerous クラス、クラスの基数、有限と無限のクラスである。残念だが、それらの入り組んだ概念は、ここでは表面的に論ずる以上のことはできない。

 同数の構成素の または 等価なクラス の例としては、右手と左手の指の集合を考えることができる。これらの集合は同数の構成素からなる。というのも、(i)すべての指はただ一つの対で現れ、(ii)すべての対は左手のただ一本の指と右手のただ一本の指からなっているからである。同様の意味で、たとえば、次の三つの集合は同数の構成素からなる。すべての頂点の集合、すべての側面の集合、一つの多角形のすべての角の集合。後に第33節で、この同数の構成素の集合の厳密で一般的な定義を与えることにする。
 さて、任意のクラス K を考えよう。疑いなく、 K と構成素が同数のすべてのクラスに属しているが、他のものには属さない属性 property が存在する(つまり K と同数の構成素であるという属性)。


80

この属性は 基数 CARDINAL NUMBER 、あるいは 要素の数 、あるいは クラス K のパワー POWER と呼ばれる。このことは、より抽象的なやり方ではあるが、もっと簡明かつ正確に表現することもできる。すなわち、クラス K の基数とは K と同数の構成要素を持つすべてのクラスのクラスである。このことから、KL という二つのクラスが同じ基数を持つのは、それらが同数の構成要素を持つときに限るということが帰結する。
 要素の数に関して、クラスは有限のクラスと無限のクラスにクラス分けされる。前者の間で、厳密に一つの要素からなるクラスと、二つの要素からなるクラス、三つの要素からなるクラス、...を我々は区別する。これらの語は算術の基礎の上で最も容易に定義されうる。 n を任意の自然数(つまり非負の整数)としよう。 Kn より小さいすべての自然数のクラスと同数の構成素からなっているならば、 クラス Kn 個の要素からなる と言うことができよう。2より小さいすべての自然数のクラス、つまり数0と数1からなるクラスと同数の構成素からなるならば、そのクラスは2個の要素からなる。同様に、数0, 1, 2からなるクラスと同数の構成素からなるならば、そのクラスは3個の要素からなる。一般に、クラス Kn 個の要素を含むというような自然数 n が存在するとき、我々はクラスを 有限 FINITE と呼ぶ。そうでなければ 無限 INFINITE と呼ぶ。
 しかしながら、もう一つ別の可能な手続きが存在するとされたきた。たった今考察した語 terms は、算術の分野に属する表現を全く使用しないで、純粋に論理学の用語 termes で定義されうる。たとえば、二つの条件を満たせば、クラス K は厳密に一つの要素からなると言える。その二つの条件とは、(i) x K であるような x が存在する。(ii)どのような yz に対しても、y K かつ z K ならば、yz である。(これら二つの条件は、一つの条件で置き換えることができる。すなわち、「 x K であるような厳密に一つの x が存在する」第20節参照)「クラス K は二つの要素からなる」や「クラス K は三つの要素からなる」なども、類似したやり方で定義することができる。「有限のクラス」と「無限のクラス」という語を定義する問題になると、はるかに難しくなる。しかしこれらの場合も、問題解決への努力は肯定的に成功してきた(第33節参照)。それによって、考察中のすべての概念は論理学の範囲の中に包含された。


81

 この状況は射程の広い重要性を持つ興味深い帰結を持つ。というのも、数の概念自体が、そして同様に他のすべての算術的概念が論理学の領域で定義可能だからである。実際、「0」「1」「2」などの個体的自然数を意味するシンボルの意味を確立することはたやすい。たとえば、数1は厳密に一つの要素からなるクラスの要素の数として定義することができる。(この種の定義は、定義されるべき「一つ」という語が定義の中に現れるので、正しくなく、また悪循環のように見える。しかし実際には間違いはない。なぜなら、「厳密に一つの要素からなるクラス」という句は全体として as a whole 考えられ、その意味は前もって定義されているからである。)また自然数の一般概念を定義することも困難ではない。自然数は有限のクラスの基数である。さらに、自然数に関するすべての操作を定義し、いかなる場合にも論理学の限界を超えずに、分数、負数、無理数の導入によって、数の概念を拡張するという見解を我々は持っている。なおまた、もっぱら論理学の法則に基づいて、(他のものより直観的に自明ではないが、無限に多くの異なったモノが存在するという、いわゆる 無限の公理 の言明を含むことによって、論理法則のシステムが豊になるべきであるという条件とともに)算術のすべての定理を証明することが可能である。この全体的構成は非常に抽象的であり、容易に平明なものとするわけにもいかず、基礎的説明という枠組みの中にも入らない。この本では、そうした思考に通暁する試みはしないし、数というものをクラスのクラスの性質としてでではなく、個体として扱う。しかし、純粋論理学の部分として、算術の全体や、その上に立つ代数、解析を含めて、それらを展開することが可能となったという端的な事実は、近年の論理学的探求のもっとも偉大な達成の一つである。4*



  この分野での基礎的な考えはフレーゲ Fregeに負うものである。(19頁の脚注2を参照)。彼は『算術の基礎 Grundlagen der Arithmetik』(Breslau 1884)という興味深い著作で、最初にそれらの考えを展開した。フレーゲの考えは、ホワイトヘッドとラッセルの『プリンキピア・マテマティカ』(19頁の脚注1を参照)で、その体系的かつ徹底的な実現を見ることになった。

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Subject 25.クラスに対する操作
Author イストラン [ 3249 to イストラン ]  5/26/Tue/2004   


25.クラスに対する操作


 さて、我々はある種の操作に立ち入ってみよう。それは与えられたクラスに関して遂行されるとき、新しいクラスを生み出すものである。
 どのようなクラス KL が与えられても、クラス KL の少なくとも一つに属するもの things を、そしてそれらだけを要素として含む新しいクラス M を作ることができる。クラス K にクラス L の要素を付加する adjoin ことによってクラス M が出てくる、と言ってもよい。この操作は クラスの加法 ADDITION OF CLASSES と呼ばれる。そしてクラス Mクラス KL の和 SUM あるいは合一 UNION と言われ、次のようなシンボルで示される。

KL (または  KL


 二つのクラス KL に関する別の操作として、クラスの 乗法 MULTIPLICATION と呼ばれるものがあるが、それは KL の双方に属するもの、そしてそれだけが要素である新しいクラス M を作ることである。このクラス M はクラス KL積 PRODUCT あるいは 交差 INTERSECTION と呼ばれ、次のようなシンボルで示される。

KL ( または  KL


 これら二つの操作はしばしば幾何に適用される。その助けによって新しい種類の図形を定義するのが便利なことがある。たとえば、補角の組が意味するものを我々はすでに知っている。そこで、半平面 half-plane −すなわち平角−は二つの補角の合一として定義される(ここで一つの角は角領域 angular region すなわち角の足と呼ばれる二本の半直線に境界づけられた面の部分と考えられている)。あるいは、任意の円と、この円の中心に頂角が位置する角を取るならば、これら二つの図形の交差は扇形 circular sector と呼ばれる。
 算術の分野から二つほど例を加えてみよう。すべての正の数の集合とすべての負の数の集合の和は0とは異なるすべての数の集合である。すべての偶数の集合とすべての素数の集合の交差は唯一の要素として数2を持つ集合である。この数は唯一の偶数の素数である。


78

 クラスの加法と乗法はいろいろな法則に支配されている。これらの内のあるものは、数の加法と乗法に関する対応する算術の定理に完全に類似している。そしてそれが理由で、「加法」や「乗法」という用語が上述の操作のために選ばれているのである。例として、クラスの加法と乗法の 交換法則 COMMUTATIVE LAWS連合法則 ASSOCIATIVE LAWS に触れよう。

いかなるクラス KL に関しても、 KLLK  かつ  KLLK

いかなるクラス KLM に関しても、 K ∪ ( LM )= ( KL ) ∪ M

 シンボル「∪」と「∩」を加法と乗法の通常の記号「+」と「−」で置き換えるならば、対応する算術の定理との類似がはっきりしてくる。
 しかしながら、他の法則は算術法則とはかなり異なっている。 トートロジーの法則 は特徴的な例となっている。

どのようなクラス K に関しても、 KKK  かつ KKK

この法則はシンボル「 KK 」と「 KK 」の意味を反省すると明らかになる。たとえば、もしもクラス K の要素に同じクラスの要素を加えても、実際には何も加えたことにはならず、結果として出来るクラスはまた同じクラス K である。

 二つのクラスではなくて一つのクラスに遂行しうるものとして、我々は加法と乗法とは異なる別の操作に言及したい。与えられたクラス K から クラス K の補 COMPLEMENT と言われるものを作る操作であり、それはつまりクラス K には属さないもの全てのクラスである。
クラス K の補は

K


と表記される。たとえば K が全ての整数の集合であるならば、全ての分数と無理数は K′に属する。
 補の概念に関係し、これまで考察した概念との関わりを確率する例として、次の二つの言明を挙げることができる。

79

全てのクラス K に対して、 KK′ =


全てのクラス K に対して、 KK′ =



この最初のものはクラス理論的 排中の法則 と呼ばれる。二番目のものは 矛盾の法則 と呼ばれる。

 これまで親しんできたクラス間の関係とクラスに関する操作、また普遍のクラスと無のクラスの概念、こうしたものはクラスの理論の特別な部分で扱われる。そうした関係と操作に関する法則は算術の法則を思い出させる単純な定式による性質を持つから、理論のこの部分は クラスの計算 として知られる

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Subject 24.クラス間の基礎的諸関係
Author イストラン [ 3247 to イストラン ]  5/24/Sun/2004   


24.クラス間の基礎的諸関係

 二つのクラス KL の間には様々な関係がある。たとえばクラス K のあらゆる要素が同時にクラス L の要素でもあるということが起こるが、その場合、集合 Kクラス L の下位クラス あるいは クラス L に含まれる と言われる。または クラス L に対して包含 INCLUSION の関係を持つ と言われる。そしてクラス Lクラス K を下位クラスとして包括する COMPREHEND と言われる。この状況は手短に言えば、次のような定式で表現される。

KL   または   LK



KL の下位クラスであると言うことは、 LK の下位クラスでもあるということを妨げない。換言すれば、 KL はお互いの下位クラスであり得るし、その全ての要素を共通に持つこともあり得る。こうした場合、クラスの理論に関する与えられた(以下に示すような)法則にしたがって、 KL は同一である。しかしながら、逆の関係がなく、つまりクラス K のあらゆる要素が L の要素であるが、 L のあらゆる要素が必ずしも K の要素ではないというような場合には、クラス Kクラス L の本来の下位クラス または クラス L の部分 と言われる。そして Lクラス K を本来の下位クラスとして包括する あるいは、 クラス K を部分として包括する と言われる。たとえば、全ての整数の集合は全ての有理数の集合の本来の下位クラスである。また、線はその線分を部分として包括する。
 クラス KL は、それらが少なくとも共通な一つの要素を持ち、同時に他方のものに含まれない要素を含むとき、 重なる OVERLAP 、または 交差する INTERSECT と言われる。


  ラッセルによって導入された論理タイプの概念はクラスの階 order の概念に近いものがあり、後者の概念の一般化として考えることすらできる。それはクラスに関係するばかりではなく、他のもの、たとえば次節で考える諸関係にも関わる。論理タイプの理論は Principia Mathematica で体系的に展開された(P.19の脚注1を参照)。




75

二つのクラスが少なくとも一つの要素を持ち(つまりそれらが空でない)、共通の要素がないとき、 相互に排他的 MUTUALLY EXCLUSIVE または 疎 DISJOINT と呼ばれる。たとえば、円はその中心を通るどんな直線にも交差するが、その中心との距離が半径より大きい直線に対しては素である。すべての正の整数の集合とすべての有理数の集合は重なるが、正の数と負の数は相互に排他的である。

 上述のクラス間の関係に関する法則例をいくつか挙げてみよう。

  いかなるクラス K についても、  K ⊂ K
   K ⊂ L  かつ   L ⊂ K 、 ならば  KL
   K ⊂ L  かつ   L  ⊂ M 、 ならば K ⊂ M
   KL の非空な下位クラスであり、クラス LM が互いに素であるならば、クラス KM は互いに素である

 最初の言明は包含 inclusion にとっての 反射の法則 またはクラス理論的 同一性の法則 と呼ばれる。三番目のものは、包含にとっての 推移性の法則 として知られる。4番目の言明と他の似たような構造をともなって、一群の カテゴリカルな三段論法の法則 と呼ばれるものがある。
 包含の概念に関連する普遍のクラスと無のクラスの特徴的な性質は、次の法則で表現される。

いかなるクラス K についても、  K   かつ  K



この言明は、とくに無のクラスについての二番目のものの見方は、多くの人にとって逆説めいたものである。この二番目の部分を説明するために、次の含意を考えてみよう。

x  、 ならば   x   K



ここで「 x 」(そして「 K 」)の代わりに何を代入しても、含意の前件は偽なる文となり、したがって含意全体は真なる文となる(数学者たちがときに言う、含意は「空虚に」満たされる)。


76

だから、クラス の要素であるものは何であれ、クラス K の要素でもあり、したがって、包含の定義により、K であると我々は言うことができる。似たようなやり方で、この法則の最初の部分も証明され得る。
 どのような二つのクラスの間にもここで考察した関係が当てはまるべきである。次の法則はこのためのものである。

  KL が任意の二つのクラスであるならば、 KL であるかまたは KL の本来の下位クラスであるか、あるいは、 KL を本来の下位クラスとして包括するか、または KL は重なるか、さらには KL は疎 disjoint であるか、である。これらのどの二つの関係も同時に成立し得ない。

 この法則の明瞭な直観的理解のためには、 KL を幾何図形として考え、この二つの図形が互いに持つ可能な全ての位置を想像するのがもっとも良い。

 この節で扱った関係は、 クラスの間の基礎的関係 と呼ばれる。

 古い伝統的論理学(第6節参照)の全体は、ほとんどクラスの基礎的関係に還元することができる。つまり、クラスの理論全体の小さな断片である。外見上これら二つの学が異なるのは、古い論理学ではクラスという概念が明示的に現れないという事実による。たとえば、馬のクラスが哺乳類のクラスに含まれると言う代わりに、古い論理学では哺乳類であるという性質が全ての馬に属すると言い、あるいは全ての馬は哺乳類である、と言う。伝統的論理学の最も重要な法則はカテゴリカルな三段論法の諸法則であって、これは我々が上述のごとく述べ、それにちなんで名づけたところのクラスの理論の諸法則に対応している。たとえば、先に与えた三段論法の法則の最初のものは、古い論理学での次の形を主張している。

すべての MP であり、全ての SM であるならば、すべての SP である。




  これらの諸関係はフランスの数学者 J.D.Gergonne(1771-1859) によって、最初に徹底したやり方で究明された。



77

これは伝統的論理学のもっとも有名な法則であり、三段論法 Barbara の法則として知られる。

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Subject 23.普遍のクラスと無のクラス
Author イストラン [ 3243 to イストラン ]  5/19/Tue/2004   


23.普遍のクラスと無のクラス Universal class and null class

 すでに我々の知るところであるが、一つの自由変項を持ついかなる文関数にも、この関数を満足するすべての客体のクラスが対応している。このことは、次のような二つの特定の関数に適用可能である。

(T)xx ,     xx



73

これらの関数の最初のものは、明らかに全ての個体によって満たされる(第17節参照)。対応するクラスは


 x
xx


となり、したがってすべての個体を要素として含む。我々はこのクラスを 普遍クラス UNIVERSAL CLASS と呼び、シンボル「」(または「1」)であらわす。それに対して二番目の文関数は何ものによっても満たされない。結果として、それに対応するクラスは


 x
xx


となり、 無のクラス NULL CLASS または 空クラス EMPTY CLASS と呼ばれ、「」(または「0」)によって表示される。そこで文関数(T)は次の等価な形態に置き換えることができる。

x  K



つまり、

(U)x  ,     x  


この最初のものは、いかなる個体によっても満たされ、二番目のものはいかなる個体によっても満たされない。
 特定の数学理論の中の個体に関する一般的論理概念を使うのではなくて、この理論の枠組みの中で個体物と考えられるものが何かを厳密に特定するのが良いことがある。すべてのもののクラスは「」で表示され、理論の 言説の宇宙 UNIVERSE OF DISCOURSE と呼ばれるだろう。たとえば算術では、それは言説の宇宙を作るすべての数のクラスである。

 * はすべての個体のクラスではあるが、全ての可能なものを要素として含むクラスではないということ、だから一階、二階などなどの全てのクラスではないということは強調されるべきである。すべての可能なもののクラスが存在するかどうかという問い、もっと一般的に言えば、特定のオーダーに属さず、多様なオーダーのクラスと同様に個体も含む「非同質的 inhomogeneous 」クラスを考えることができるかどうかという問いが生ずる。この問いは、現代論理学のもっとも錯綜した問題に密接に関係している。つまり、いわゆる ラッセルの二律背反論理タイプ理論 である。


74

この問いに関する議論はこの著作が目指す限界を超えている。ここでは、「非同質的クラス」を考える必要は数学全体の中ではまず生じないし(一般集合論は別にして)、まして他の学科ではもっと希であることを指摘するにとどめたい。

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Subject 22.一つの自由変項を持つクラスと文関数
Author イストラン [ 3242 to イストラン ]  5/18/Mon/2004   

22.クラスと一つの自由変項を持つ文関数

 一つの自由変項を持つ文関数を考える。たとえば、

x  > 0



であるが、この前に次のような言葉を置くと、

(T)

〜というような全ての数 x の集合



そうした関数に対しては、次の表現を得る。


70

x  > 0 であるような全ての数 x の集合



この表現はよく規定された well-determined 集合、つまり全ての正の数の集合を意味している。それは与えられた関数を満足する数、しかもそれだけを要素として持つ集合である。この集合をシンボル「」で表すならば、我々の関数は次のものと等価である。

x  



 他の文関数にも類似の手続きを適用できる。算術では、こうして様々な数の集合を得ることができる。たとえば、全ての負の数、あるいは2より大きく5より小さいすべての数(それは関数「 x >2 かつ x <5」を満たす)の集合である。この手続きはまた、幾何でも、とくに新しい幾何図形を定義する際に重要な役割を果たしている。たとえば球の表面は、与えられた点から一定の距離にあるすべての空間点の集合として定義される。幾何では「すべての点の集合」は「点の軌跡 locus」という語で言い換えられる。

 さて上述の注意を一般的な形で述べよう。論理学で想定されているのは、一つの自由変項、たとえば「 x 」から成るあらゆる文関数に対して、厳密に一つの対応するクラスがあり、それは、与えられた関数を満足するものたち x 、そしてそれらだけを要素として持つ、ということである。我々は文関数の前に以下の句を置き、そうしたクラスのための指示 designation を得るが、これはクラスの理論の基礎的表現に属する。

(U)

〜であるようなすべてのもの x のクラス



 単純なシンボル、たとえば「」で問題のクラスをさらに表示すれば、次の定式を得る。

x  



これは−すべての x に関して−もとの文関数と等価である。したがって、「 x 」を唯一の自由変項として含むどんな文関数も、それと等価な次の形をした関数へと変換できる。


71

x  K



ここで我々は「 K 」の位置にクラスを表示する denoting 定項を持つ。したがって、後者の定式を、一つの自由変項を持つ文関数の最も一般的な形と考えることができる。
 句表現(T)と(U)は、シンボリックな表現に置き換えることができる。たとえば、この目的のために、


 x


というシンボルを使うことに同意できる。

 *次の表現を考えてみよう。

1は、 x > 0 であるようなすべての数 x の集合に属している。



それはまたシンボルだけで書くこともできる。


 x
x  > 0)


この表現は明らかに文、それも真なる文である。それはより複雑な形態で、

1>0


という単純な定式と同じ思考を表現している。

したがって、この表現はいかなる自由変項も含まず、そこに現れる変項「 x 」は束縛変項でなければならない。他方、我々は上の表現にいかなる量化子も見いだすことがないのだから、結論として、(T)(U)のような句は量化子のように機能し、すなわち変項を束縛するのであり、したがって、演算子 operator とみなすべきである(第4節参照)。
 付け加えておかねばならないが、 x は別にして、他の自由変項(そうした演算子が幾何学に適用されるような場合にはほとんど現れる)を含む文関数に、我々は(T)(U)のような操作子を頻繁に前置する。このようにして得られる表現には、たとえば、

x  > yであるようなすべての数 x の集合




72

というものがあるが、しかしこれはいかなる規定されたクラスをも指示しない。それらは第2節で確定した意味における指示関数 designatory function である。たとえば、上の例にある「y」を「0」で置き換えるというふうに、自由変項(しかし「 x 」ではない)を適当な定項で置き換えるならば、それらはクラスの指示になってしまうのである。*

 一つの自由変項を持つ文関数については、それはモノ things の性質を表しているのだとしばしば言われている。文関数を満足するモノだけによって所有される性質である(「x は2で割り切れる 」という文関数は、数 x の或る性質、つまり2で割り切れること、あるいは偶数であるという性質を表現している)。この関数に対応するクラスは、その要素として、与えられた性質を持つが他の性質は持たないすべてのモノを含む。このようにして、独自に uniquely 規定されたクラスをそのモノのあらゆる性質に相関させることができる。また逆に、あらゆるクラスには、もっぱらそのクラスの要素によって所有される性質、つまりそのクラスに属するという性質が相関づけられる。したがって、多くの論理学者の意見としては、クラスの概念と性質の概念を区別するのは不必要なことである。言い換えれば、特別な「性質の理論」はなくてもよい。クラスの理論は完全に充足しているからである。
 これらの注意の適用として、我々は新しいライプニッツの法則の定式化を与えることができる。もとのもの(第17節の)は「 性質 」という語を含んでいたが、次のように、まったく等価な定式で、我々は「 クラス 」という用語を使用する。

xyただし、モノ xyのいずれか一方を要素として含むあらゆるクラスがまた、要素として他方のモノを含むときに限る。

 ライプニッツの法則のこの定式化から分かるように、同一性の概念をクラスの理論の用語で定義することが可能である。

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Subject W クラスの理論について
Author イストラン [ 3233 to イストラン ]  5/1/Fri/2004   



68


・W・






クラスの理論について




21.クラスとその要素

 分離している個別的なもの、短く言うと、我々が 個体 INDIVIDUAL と呼ぶものを別にすると、論理学はものの クラス に関わっている。数学と同様、日常生活でもクラスはしばしば 集合 SET として言われる。例えば、算術は数の集合を頻繁に扱う。幾何学では我々の興味は単一の点よりも点の集合(つまり幾何学的な形)に向けられる。個体のクラスは 一階のクラス CLASSES OF FIRST ORDER と呼ばれる。探求上もっと希に、我々は 二階のクラス CLASSES OF SECOND ORDER に遭遇するが、それは個体ではなく、一階のクラスから成るクラスのことである。ときには 三階、四階...のクラス さえ扱われるべきことがある。ここでは我々はもっぱら一階のクラスに関わり、例外的に−第26節でのように−二階のクラスに触れることにしよう。しかし我々の考察は、どの階のクラスにも実際上変わることなく適用できる。
 個体とクラスの間(そして異なった階のクラスの間)に区別を設けるために、我々は異なる形をした文字、そして様々なアルファベットに属する文字を変項として用いる。数のような個別なものやそうしたもののクラスを指示するのに、それぞれ英語のアルファベットの小文字と大文字を使うのが慣例となっている。初等幾何学では対立する表記が受け入れられている。点を大文字が指示し、点の集合を小文字(英語やギリシャ語のアルファベットの)が指示する。
 クラス概念やその一般的性質が調べられる論理学の部分は クラスの理論 と呼ばれる。ときにこの理論は 一般的集合論 という名で独立した数学の学科として扱われることもある。



クラスの理論の始まり、あるいはもっと正確には、クラスの計算として言われる理論の部分の始まりは、G.ブールにおいてすでに発見されている(参照。19ページの脚注1)。独立した数学的学科としての一般的集合論を実際に創始したのは、ドイツの優れた数学者、G.カントールである(1845-1918)。とくに累乗における等性 equality in power、基数、無限と順序などの概念の分析に関して、我々は彼に負っている。これらについてはこの章と次章で論じられる。カントールの集合論は格別力強い発展状態にある数学的学科の一つである。そのアイディアと思考の線はほとんどすべての数学の分枝に突き進み、いたるところでもっとも刺激的かつ豊饒な影響を及ぼしてきている。



69

クラスの理論の基本的な性格については、次のような表現がある。

もの x はクラス K の要素(あるいはメンバー)である


もの x はクラス K に属している


クラス K は要素(あるいはメンバー)として、もの x を含む



我々はこれらの表現を同じ意味を持つものとして考え、短く、次の定式で置き換える。

x K



 であるので、 が全ての整数の集合であるなら、数1.2.3...はその要素であり、対して数 や 2 ...はその集合には属していない。そこで次の定式

1   ,   2   ,   3   , ...


は真であるが、

   ,   2    , ...


は偽である。

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Subject 20.数的量化子
Author イストラン [ 3232 to イストラン ]  4/26/Sun/2004   


20.数的量化子

 同一性の概念の助けを借りて、ある種の表現に正確な意味を与えることが可能となる。その表現は文脈、機能両面で普遍量化子、存在量化子に密接に関係し、演算子の中に数えられるが、それでももっと特殊な性質を持っている。以下にその表現を挙げる。

...であるような、少なくとも一つ、あるいは多くとも一つ、あるいは厳密に一つのもの x が存在する



...であるような、少なくとも二つ、あるいは多くとも二つ、あるいは厳密に二つのもの x が存在する



などなど。これらは 数的量化子 NUMERIACL QUANTIFIER と呼ばれる。明らかに特殊数学的な用語がここに現れているのだが、それらは「一つ」「二つ」などである。しかしもっと厳密な分析が示すところによると、これらの表現(もし全体として考えられるならば)の内容は純粋に論理的な性質のものである。たとえば、

与えられた条件を満たす少なくとも一つのものが存在する



という表現では、「 少なくとも一つ at least one 」という言葉は意味を変えずに「 一つの one 」という冠詞によって単純に置き換えることができる。

与えられた条件を満たす多くとも一つのものが存在する



という表現は

どのような xy にとっても、 x が与えられた条件を満たし、かつ y が与えられた条件を満たすならば、 xy



と同じ意味である。


64

与えられた条件を満たす厳密に一つのものが存在する



という文は、たった今与えられた二つの文の結合と等価である。すなわち、

与えられた条件を満たす少なくとも一つのものが存在し、かつ同時に、与えられた条件を満たす多くとも一つのものが存在する



与えられた条件を満たす少なくとも二つのものが存在する



という表現に対しては、我々は次の意味を与える。

xy の双方が与えられた条件を満たし、かつ xy のような xy が存在する



それはしたがって次の文の否定と等価である。

与えられた条件を満たす多くとも一つのものが存在する



類比的に、我々はこのカテゴリーの他の表現の意味を説明する。

 説明のために、数的量化子が現れる算術の真なる文を少しここで挙げておくことができる。

x +2 = 5であるような厳密に一つの数 x が存在する


y = 4であるような厳密に二つの数 y が存在する


z +2 < 6であるような、少なくとも二つの数 z が存在する



 量化子に関する一般法則が定められる論理学の部分は 明示的変項 APPARENT VARIABLES の理論 あるいは 関数的計算 FUNCTIONAL CALCULUS として知られる。もっともそれは本当は 量化子の計算 と呼ばれるべきだが。これまでこの理論は普遍量化子と存在量化子に専念してきたが、その一方、数的量化子は大幅に無視されてきた。

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Subject 19.算術と幾何における等性とその論理的同一性への関係
Author イストラン [ 3231 to イストラン ]  4/26/Sun/2004   


19.算術と幾何における等性 equality とその論理的同一性への関係

 我々はここで数の間の算術的等性の観念を、論理的同一性の一般概念の特殊事例として一貫的に考える。しかし、ここで採用している観点とは対立して、算術で現れるシンボル「=」を論理的同一性のシンボルであるとはみなさない数学者もいる、ということは付け加えておかねばならない。彼らは等しい数が必然的に同一であるとは考えない。だから数の間の等性という観念を特殊算術的な概念として見るのである。このことに関連して、彼ら数学者たちは一般的形態でのライプニッツの法則を拒絶し、その帰結のいくつかをたんにより一般的でない性質を持つものと認識し、それらを特別に数学的な定理とみなす。これらの帰結の中には、第17節の法則UからXまでがあり、また、xyx が算術的シンボルだけからなるいくつかの式を満たすときにはいつでも y は同じ式を満たす、というような定理もある。たとえば、

xy  かつ  xz  ならば  yz


 我々の意見では、この見方はいかなる特別の理論的利点を主張しえない。対して実践においては、算術の体系の提示で甚大な複雑さを引き起こす。というのは、人はここで或る一般規則を拒否しているのだが、その規則によって、−等式が持つという想定で−等式の左側をどこでも右側で置き換えることができる。しかし、そうした代置が様々な議論で不可欠なのであるから、この代置がそれが適用される特定の例で許容できるという特別の証明を与えることが必要になってくる。


62

 この状況を一つの例で説明するために、二つの変項を持つ等式のシステムを考えよう。たとえば、

xy


x y =2 x −3 y +18


いわゆる代入の方法によってこの等式システムを解決したいならば、新しい等式システムを作り、最初の等式を変化させずに、二番目の等式で全体的に「 x 」を「 y 」で置き換えることが必要だ。するとこの変形が許容可能かどうかという問いが出てくる。つまり、他らしいシステムは古いシステムと等価なのかどうかという問いである。答えは疑いなく肯定的なものであるが、それは数の等性のどのような考えが採用されてもそうである。しかし、もしもシンボル「=」が論理的同一性を指していると解されているのであれば、そしてもしもライプニッツの法則が想定されているならば、答えは明らかである。その想定では、

xy


は「 x 」を至るところで「 y 」に置き換えることを許す。逆もしかりである。他のやり方では、まずもって肯定的答えのための根拠を与えなければならず、この正当化が本質的な困難に遭遇しないとしても、ともあれ長くて冗長なものとなるだろう。

幾何学における等性の概念については、状況は全体的に異なる。二つの幾何学的形態、二つの線分や二つの角や二つの多角形が等しい、ないし合同であるというときには、一般的にそれらの同一性を主張しようとしているのではない。たんに、二つの形態が同じ大きさと形を持っていること、還元すれば、−完全に正しい表現法でないが、比喩的に言うと−、それが述べようとしていることは、二つのものはもし重ねられるならば、正確に他のものを覆うだろうということである。たとえば、三角形は二つの、また三つさえもの等しい辺を持つ。そしてそれでもこれらの辺は確かに同一ではない。他方また、二つの形態の幾何学的等性ではなく、それらの論理的同一性に関する問いがある。二等辺三角形では、底辺に対する高さと中線は幾何学的に等しいばかりではなく、それらは一にして同じ線分である。であるから、混乱を避けるために、論理的同一性が問題となっていないところでは、一貫して「等しさ」という用語を避け、合同な図形についてはもちろん、幾何学的に等しい図形については−しばしばなされるように−「=」の代わりに「」のような異なったシンボルを使うことが好ましい。

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Subject 18.ものの同一性とその指示の同一性
Author イストラン [ 3229 to イストラン ]  4/18/Sat/2004   


18.ものの同一性とその指示の同一性;引用符の使用

 *以下のような表現、

xy  または  xy



は自明であるように見えるが、これらの表現はときに誤解される。たとえば、

3=2+1



という式は真なる主張であるが、その真理性を何かしら疑う人たちがいる。彼らの見解では、この式は「3」というシンボルと「2+1」というシンボルが同一であると述べているが、それは明らかに偽である。というのも、これらのシンボルは完全に異なった形をしているからで、だからこれらのシンボルの一つについて言われる全てのことが他のものについても言われるというのは真ではない、というのである(たとえば、最初のシンボルは単一の記号だが、二番目のものはそうではない)。

 この種の疑いを避けるためには、とても一般的で重要な原理をはっきりさせておくのがよい。この原理にあらゆる言語の有益な使用可能性が依っている。この原理によれば、ある文の中で何事かについて語ろうとするときにはいつでも、我々はその文でもの自体を使用しているのではなく、その名前または指示を使用しているのである。
 語られるものは語、シンボル、またもっと一般的には言語の表現ではない限り、この原理の適用によって疑いの原因が絶たれる。想像してみよう、たとえば、我々の前に小さな青い石があって、次のような文を述べる。

この石は青い



この場合、誰にとってもこの文の中の「この石」という語、つまりものの指示をそれでもって構成する語を、もの自体で置き換え、これらの語にシミをつけたり切ったりするために、それらの代わりに石を置くなどということは、おそらく起こらないだろう。なぜなら、そうすることによって、ある部分では石から、ある部分では語からなる全体に到達しようが、これは言語的表現などというものではないだろうし、まして真なる文でもないだろうから。


59

 しかしこの原理は語られるものが語やシンボルであるときにはしばしば無視された。それでもこの原理の適用はこの場合でも欠かせない。というのは、そうでなければ、我々は全体に到達するだろうが、その全体は言語的表現でありながらも、我々が意図する思想の表現に失敗し、たいていは意味のない言葉の集積でしかないものである。たとえば次の二つの語を考えてみよう。

well 良く、   Mary メアリー



あきらかに最初の語は四文字から成っていて、二番目の語は固有名詞である。しかし次のようにして、まったく正しい思想を表現することを想像してみよう。

(T)

well は四文字から成る


(U)

Mary は固有名詞である


そうすると、我々は語について語ることにおいて、語の名称ではなく、語自体を使っていることになるだろう。そしてもっと詳しくこれら(T)(U)の表現を調べるならば、最初のものが、その主語は副詞ではなく名詞でしかありえないのだから、まったく文ではないのに対して、二番目のものは意味のある文と考えられるが、それでもとにかく女性は固有名詞ではないのだから間違った文であると考えられるだろう。
 これらの困難を避けるためには、(T)(U)の文脈で現れる語「well」や「Mary」が普通のものとは異なった意味であり、それらはここではそれら自身の名称として機能していると想定するだろう。この考え方を一般化し、どんな語も、あるときにはそれ自身の名称として機能することを認めなくてはならない。中世論理学の言葉を使えば、このような場合、語は 実質的想定 SUPPOSITIO MATERIALIS において使用されていると言える。対して、通常の意味での語は、 形式的想定 SUPPOSITIO FORMALIS において使用されていると言える。結論として、共通の、ないし科学的な言語のあらゆる語は、少なくとも二つの意味を持っており、どちらの意味が意図されているのかに関して深刻な困難が起こる状況の例を探し求める必要はないだろう。我々はこの結論に譲歩するつもりはない。だから、あらゆる表現はその【表現の】名称とは異なる(少なくとも書記においては)、ということを規則にしよう。


60

 語や表現の名称をどうやって形成するのかということについては問題がある。このためには様々な工夫がある。一番簡素なものは表現を引用符の中に置くことで、その名称を作ろうという取り決めである。これに同意するならば、(T)(U)で仮に表現された思想は曖昧さなしに、正しくこう述べることができる。

(T´)

「well」は四文字からなる


(U´)

「Mary」は固有名詞である


 これらの点に注意するならば、3=2+1のような式の意味と真理に関するあらゆる可能な疑いは消失する。この式は或る数を指示するシンボルを含んでいるが、それはそうしたシンボルのいかなる名称も含まない。したがってこの式は数について何事かを述べているわけで、数を指示するシンボルについて述べているわけではない。数3と2+1は明らかに等しいので、この式は真なる主張となっている。この式をシンボルについての等価な文で置き換えることは確かにできる。つまり、シンボル「3」とシンボル「2+1」は同じ数を指していると言うことができる。しかし、これはそのシンボル自体が同一であることではまったくない。周知のように、同じものは、とくに同じ数は、多くの異なった指示 designation を持つ可能性がある。シンボル「3」とシンボル「2+1」は、疑いなく異なっている。この事実は新しい式の形態によって表現できる。

「3」 ≠ 「2+1」


これはもちろん先に述べた式と決して矛盾するものではない。2*


2* この本では引用符の使用に関する約束事がかなり一貫して守られてきた。まれな場合に限って伝統的用法に譲歩し、逸脱している。例えば、式や文が特別な行の中で印刷されたり、数学的論理学的定理の定式化の中に現れたりするときに、それらの式や文を引用符なしに述べている。そして、「と呼ばれる」「として知られる」などの句によって先立たれる表現には引用符をつけていない。しかしこれらの場合には、注意として他の手段が取られている。すなわち、問題の表現はしばしばコロンに続き、また異なった活字(小文字や斜体)で印刷されている。日常言語では上の規約でカヴァーできないような場合にも引用符が使われるということを考慮しなくてはならない。このタイプの例はこの本の中にもある。

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Subject 17.同一性の理論の基本法則
Author イストラン [ 3226 to イストラン ]  4/12/Sun/2004   


17.同一性の理論の基本法則


 同一性の概念に関する論理法則の中でも最も基本的なのはつぎの法則である。

T. xy 、 ただし、 y が持っているすべての性質を x が持っている場合、および x が持っているすべての性質を y が持っている場合に限る。

 これをまたもっと単純に言うことができよう。

  xy 、ただし xy があらゆる性質を共通にもっている場合に限る

 他の、しかしもっと明白で、それほど正しくはない、同じ法則の定式化は、たとえば以下のものとして知られている。

  xyただし xy の一方について言えることが他方についてもすべて言える場合に限る

 法則Tはライプニッツによって最初に述べられ(とはいえ、ことなった用語でであるが)、 ライプニッツの法則 と呼ばれる。それは等価の形態を取り、左側の定式、

xy



に代えて、右側の、もはや同一性のシンボルを含んでいない表現で置き換えることができる。したがって、この形態については、この法則はシンボル「=」の定義と考えることができる。そしてそれはライプニッツ自身によって考えられていたことである。(もちろん、ここでライプニッツの法則を定義として見るということは、シンボル「=」の意味が法則の右側の表現の意味、つまり「 xy が持つあらゆる性質を持つ」のような意味よりも明らかでないと思われる限りで意味を持つことである。これについては第11節を参照)

 19頁の脚注を参照のこと。



56

 ライプニッツの法則の帰結として、大きな実践的重要性を持つ規則がある。もしもある文脈で等式の形態を持つ次のような式、

xy


が仮定ないし証明されているならば、この文脈で現れるいかなる式、いかなる文においても、等号の左側を右側で置き換え、たとえば「 x 」を「 y 」で、またその逆に「 y 」を「 x 」で置き換えることができる。一つの式で「 x 」が数カ所に現れるならば、その或る箇所では不変のままにとどまり、別の箇所では「 y 」によって置き換えられるということが理解される。だから目下考察中の規則と第15節で論じられた代入規則は本質的に異なる。後者はこのように或るシンボルを別のシンボルで部分的に置き換えることを許容しない。
 ライプニッツの法則から、同一性の理論に属する数々の別の法則を導出することができる。それらはいろいろな考察、とくに数学的証明でしばしば適用される。それらのものの内でもっとも重要なものを、その証明の素描とともに挙げることにする。それによって論理の分野での推論と数学の分野でのそれとの間に本質的な違いはないということを具体例によって説明できよう。

U. あらゆるものはそれ自身に等しい:  xx

証 明  ライプニッツの法則の中で、「 x 」を「 y 」に代入すると次のようになる。

  xx 、ただし x が持つあらゆる性質を x が持ち、 そしてx が持つあらゆる性質を x が持つ場合に限る

もちろん、この文を簡素にして、最後の部分「そして x が持つ...」を消去することがきる(これは第12節で述べたトートロジーの規則から直接導かれる)。すると文は次の形態を取る。【訳注:トートロジーの法則が出てくるのは第13節の部分。同一性の法則は下記にあるように、第12節の部分で出てくる。】

xx 、ただし x が持つあらゆる性質を x が持つ場合に限る


明らかに、この等価表現 equivalene の右側はつねに満たされている(というのは、第12節の同一性の法則に従えば、 x が或る性質を持つならば、それはこの性質を持つからである。)。したがって、等価表現の左側もまた満たされなくてはならない。換言すれば、つねに、

xx


そしてこれが証明されるべきことであった。


57

V. xy であるならば、 yx である

証明 ライプニッツの法則で、「 y 」を「 x 」に、「 x 」を「 y 」に換えると、次のようになる。

yx 、ただし x が持つあらゆる性質を y が持ち、 かつ y が持つあらゆる性質を x が持つ場合に限る

この文とライプニッツのもとの定式とを比較してみよう。ここには二つの等価表現がある。その右側はメンバーの順番だけが違う連言である。したがって、右側は等価である(参照、第13節の論理的乗法の交換の法則)。そして左側、つまり

xy  と  yx


もまた、だから等価である。我々の法則で述べられるように、これらの定式の二番目のものが一番目のものから生じるということはなおさら肯定できる。

W. xy かつ yz 、ならば xz

証 明  仮定により、二つの式

(1)

xy



(2)

yz



は妥当であると想定されている。ライプニッツの法則に従えば、式(2)から、 y について言い得ることのすべてがまた z についても言えるということが帰結する。したがって、式(1)での変項「 y 」を「 z 」で置き換えることができ、望まれた次の式を得る。

xz



X. xz  かつ  yz 、ならば xy  言い換えれば  同じものに等しいものはお互いに等しい

 この法則は先のものと似たやり方で証明可能である(それはまたライプニッツの法則なしに、法則Vと法則Wから演繹することができる)。


58

法則U、V、Wは、同一性の関係における 反射 REFLEXIVITY の法則対称性 SYMMETRY の法則推移性 TRANSITIVITY の法則 と呼ばれる。

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Subject V 同一性の理論について
Author イストラン [ 3223 to イストラン ]  4/9/Thu/2004   


54

・V・



同一性の理論について



16.文計算の外の論理的概念;同一性の概念

 これまでの章が扱ってきた文計算は、論理の部分でしかない。それは疑いなく最も基礎的な部分を構成している。文計算に属さない項の定義において、そして論理法則の定式化と論証において、人が項や文計算の法則を利用する限り、文計算は疑いなく最も基礎的な部分を構成している。しかし文計算自体は他の科学、とくに数学の基礎づけにとって十分な土台となるものではない。数学的定義、定理、証明のなかでは、論理の他の部分からの様々な概念に、いつも遭遇することになる。そのいくつかをこの章と続く二つの章で論じることにしよう。

 文計算には属さない論理的概念の中で、 同一性 IDENTITY あるいは 等性 EQUALITY は、おそらく最も重要なものの一つである。それは次のような句に現れる。

xy と同一である【identical】


xy と同じである【same】


xy に等しい【equal】


これら三つの表現に同じ意味が帰属している。短くするために、それをシンボリックな表現で置き換えよう。

xy


また、

xy と同一ではない




55

あるいは

xy とはことなる


のかわりに、我々はつぎの式を用いる。

xy




 上の表現に関わる一般的な法則は 同一性の理論 と呼ばれうる論理学の一部分をなしている。

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Subject 15.推論の規則、完全な証明
Author イストラン [ 3221 to イストラン ]  4/7/Tue/2004   


15.推論の規則、完全な証明

 前の節で文(W)が示された際の方法による証明がもつメカニズム自体をもう少し詳しく考察してみよう。すでに語った定義の規則は別にして、我々は類似した性質を持つ規則を持っている。すなわち、推論規則ないし証明規則である。これらの規則は、論理法則と見間違われてはならない。論理法則は、真であるとすでに知られている文がいかにして変形され、新しい真なる文を生ずるのかということに関する命令である。先に遂行された証明では、二つの明示規則 rules of demonstration が使われていた。それは 代入 SUBSTITUTION の規則分離 DETACHMENT の規則(これはまた MODUS PONENS RULE として知られる)である。

 代入の規則の内容は次のようなものである。もしもすでに真であるとみなされている、普遍的な性質を持つ文が文変項を含むならば、そしてそれらの変項が他の文変項や文関数や文によって、全面的にいつでも等しい変項に対して等しい表現が代入され、置き換えられるならば、こうして得られる文はそれもまた真として認知されることができる。この規則自体を適用することにより、我々は文(U)から文(V)を得た。代入の規則はまた他の種類の変項にも適用されることができる。たとえば、「 x 」「 y 」などなど数を指示するものである。これらの変項の代わりに数を指示する表現ないしシンボルを代入することができる。

*ここで与えられる代入の規則の定式化はまったく厳密だというわけではない。この規則が言及しているのは普遍量化子と文関数で作られる文であり、後者は普遍量化子によって束縛されている変項を含んでいる。代入の規則を適用しようとするときには、量化子を無視し、前もって量化子によって束縛されている変項のところに他の変項や表現全体を代入する(たとえば、文関数あるいは文を変項「 p 」「 q 」「 r 」のところに代入し、数を指示する表現を変項「 x 」「 y 」「 z 」のところに代入する)。


48

すなわち文関数に現れる他の束縛変項は不変のままで、代入された表現の中にはそれらと同じ形の変項は何も現れないようにする。必要であれば文にするために普遍量化子がこうして得られた表現の前に置かれる。たとえば、次の文へ代入の規則を適用してみよう。

どのような数 x に対しても、 xy = 5 のような数 y が存在する


これに対して次の文が得られる。

3 + y = 5 であるような数 y が存在する


しかしまた次のような文も得られる。

どのような数 z に対しても、 z y = 5 であるような数 y が存在する


この場合、「 x 」に【 z を】代入しただけで、 y は変わらぬままである。しかしながら、 「 x 」のところに「 y 」を含んだ表現は何であれ代入してはならない。先の元の文は真であるが、このようにして偽の文になるからである。たとえば、「3− y 」を代入して、次のような文を得る。

(3− y )+ y = 5 というような数 y が存在する



 分離の規則が述べているのはどういうことかというと、もしも二つの文が真として受け入れられるならば、そしてその内の一つが含意の形をなし、他の一つが含意の前件をなしているならば、その文はまた含意の帰結をなす真なるものとして認められるだろう、ということである。(いわば我々はこうして含意全体から前件を「分離」するのである。)この規則によって、文(W)【2 x が正の数でないなら、 x は正の数ではない】は文(V)【x が正の数であるなら 2 x は正の数である、からは、2 x が正の数でないなら x は正の数ではない、が帰結する】と文(T)【x が正の数であるならば、2 x は正の数である】から導出されたのである。

 このようにして完成された文(W)の証明においては、それぞれのステップが、すでに真として受け入れられ認知された文へ推論の規則を適用することからなっていることが見て取れる。この種の証明は 完全な COMPLETE と呼ばれる。もう少し詳しく言うと、完全な証明というものを次のように説明できる。それは或る特性を持つ文の連鎖から成るのだが、その特性とは、元のメンバーが文でありそれはすでに真であると受け取られているということ、各々の後続するメンバーは推論規則を適用することによって先立つメンバーから得られるということ、そして、最後のメンバーは証明されるべき文だということ、である。


49

 心理的観点からすると、論理法則と推論規則の知識と適用のおかげで、なんと基本的な形態を全数学的推論が取っているか、ということが見て取れる。複雑な心的過程も、前もって真と受け入れられた文の注意深い観察として、単純な活動へと全面的に還元できる。それは純粋に外的な文の間の構造的結合の知覚、推論規則によって定められた機械的変形の実行である。そうした手続きのゆえに、証明における誤りの可能性が最小限に縮減されることは明らかである。

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Subject 14.推論における文計算の法則の適用
Author イストラン [ 3218 to イストラン ]  4/2/Thu/2004   


14.推論における文計算の法則の適用

 どんな科学的領域でも、そのほとんど全ての推論 reasoning は明示的ないし暗示的に文計算の法則を土台にしている。どのようにしてこのことが起こるかということを、一つの例を手段にして説明してみよう。
 含意の形態を持つ文が与えられたとする。すでに第十節で語ったその換位 converse とは別に、さらに二つの文を作ることができる。それは 換質文 INVERSE SENTENCE(または 与えられた文の換質 )と、換質換位文 CONTRAPOSITIVE SENTENCE である。換質文は与えられた文の前件と後件双方を、その否定で置き換えることで得られる。換質換位は換質文の前件と後件を交換した結果である。だから換質換位文は換質文の換位であり、また換位文の換質である。換位文、換質文、換質換位文は、元の文と合わせて、共役文 CONJUGATE SENTENCE と呼ばれる。例示として我々は次の条件文を考えることができる。

(T)  x が正の数であるならば、2 x は正の数である。


45

さらに三つの共役文を作る。

     x が正の数であるならば、 x は正の数である。

     x が正の数でないならば、2 x は正の数でない。

     x が正の数でないならば、 x は正の数でない。

この特殊例においては、真なる文から得られる全ての共役文は、同様に真であることがわかる。しかし一般的には全くそうではない。元の文が真であっても、(すでに第十節で示されたように)換位文ばかりではなく、換質文もまったく偽でありうる。そのことを見るためには、上の文の「2 x 」を「 x 2」で置き換えれば十分である。
 かくして、含意の妥当性からは、換位ないし換質文の妥当性についてはなんら確固たるものは推論されえないことがわかる。状況は、第四の共役文の場合にはまったく異なる。含意が真であるところでは、対応する換質換位文に同じことが当てはまる。この事実は多くの例によって確証されえる。そしてその表現は文計算の一般則の中に見つかる。すなわち、 反転 TRANSPOSITION または 換質換位 CONTRAPOSITION である。
 この法則を厳密に定式化するために、あらゆる含意に次の図式的な形態を与えることができると我々は認める。

もしも p 、ならば q



そのとき換位、換質、換質換位は次の形態を取るだろう。

もしも q なら p 、  もしも p でないなら q でない、 もしも q でないなら p でない



換質換位の法則に従えば、いかなる条件文も対応する換質換位的な文を含意するが、その法則は次のように定式化されうる。

もしも、 もしも p なら q 、ならば、もしも q でないなら p ではない



「もしも」という語の堆積を避けるためには、少しばかり変えるのが適切である。

(U)もしも p ならば q から、 もしも q でないなら pでない 、が帰結する。


46

 この法則の助けを借りて示そうと思うのだが、それは、含意という形を持った文から、たとえば(T)の文から、その換質換位文が導かれる、ということである。

 (U)は任意の文、「 p 」と「 q 」に当てはまる。したがって、「 p 」と「 q 」の代わりに、次の表現

x は正の数である




x は正の数である


が代入されても、(U)は妥当し続ける。

(V) x が正の数であるなら 2 x は正の数である、からは、2 x が正の数でないなら x は正の数ではない、が帰結する

さて、(T)と(V)を比較してみよう。(V)は含意の形を持っていて、(T)はその仮定【前件】である。その仮定と同様に、含意全体は真であると認知されているのであるから、含意の結論部分は同様に真であると認知されねばならない。しかしそれこそまさに問題となっている換質換位文である。

(W) x が正の数でないなら、 x は正の数ではない

 換質換位の法則を知っている者ならば誰でもこうしたやり方で換質換位文を真として認知することができる。さらに、容易に確かめることができるのだが、換質文は元の文の換位に対しては換質換位である(つまり、換質文は前件と後件を否定で置き換え、それらを交換することによって、換位文から得られる)。このために、与えられた文の換位が証明されるならば、換質文もまた同様に妥当と考えることができる。したがって、元の文とその換位という二つの文を証明することに成功するならば、残りの二つの共役文の証明は不必要である。
 換質換位の法則のいくつかの変形が知られていると言うことができる。その内の一つは(U)の換位である。

q でないなら p でない、からは、 p であるなら q である、が帰結する




47

この法則によって、換質換位から元の文を導くことができる。そして換位文から換質文を導くことができる。

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Subject 13.文計算のシンボリズム
Author イストラン [ 3216 to イストラン ]  3/28/Sat/2004   


13.文計算のシンボリズム;真理関数と真理表

 真理表ないし真理行列の方法と呼ばれる単純かつ一般的な方法がある。これによって、どんな特定の場合にも、文計算の領域から与えられた文が真であるかどうか、そしてだからこの計算の法則の中に入れてよいかどうか知ることができる。


  この方法はパースとともに始まった。(彼についてはすでに早い段階で引用してある。参照:14頁脚注2。)





39

 この方法を述べるにあたっては、特殊なシンボリズムを採用するのが好都合である。我々は下の表現

でない、かつ、あるいは、...ならば...、の場合に限って



に換えて、それぞれ以下のシンボルを使う。

〜; ∧; ∨; → ; 



最初のシンボルは、その否定を得たい表現の前に置かれる。残りのシンボルはいつでも二つの表現の間に置かれる(「→」は「ならば」の代わりに置かれ、「もしも if」は単純に削除される)。このやり方で、一つか二つの単純な表現から、我々はもっと複雑な表現に導かれる。そして、さらにもっと複雑な表現の構築のためにその複雑な表現を使いたいならば、それを括弧に入れる。
 変項、括弧、上の定まったシンボルの助けによって(また、ここでは論じないが同様の性格を持つ付加的な定項もときに使用しながら)、文計算の領域に属する全ての文と文関数を書き留めることができる。個体的文変項は除いて、最も単純な文関数は以下の表現である。

ppqpqpqp q



(そして、たんに使用される変項の形が異なる、別の似たような表現)。複合的な文関数の例として、次の表現を考えよう。

pq )→( pr



共通言語に翻訳して、これを我々は以下のように読む。

p または q ならば、 p かつ r



さらに複雑な表現は先に述べた仮言的三段論法の法則で、これは次の形態を取る。

[( pq )∧( qr )]→( pr



 我々の計算に現れるあらゆる文関数がいわゆる 真理関数 であることは容易に確かめられる。


40

これが何を意味するのかというと、変項に代え文全体を置くことによって、その関数から得られる任意の文の真偽は、その置かれた文の真偽にもっぱら依存する、ということである。もっとも単純な文関数、「〜 p 」「 pq 」などに関しては、このことは§7, 8, 10で指摘された注意から直接的に帰結する。その注意は、「でない」「かつ」などに論理において帰せられる意味に関してのものであった。しかし同じことは複合的な関数にも当てはまる。たとえば、関数「( pq )→( pr )」を考えてみよう。代入によって得られる文は含意である。従って、その真は前件と後件の真にだけ依存している。前件の真はこの場合「 pq 」から得られる選言の真であるが、これは、「 p 」や「 q 」に代入された文の真にもっぱら依存している。そして同様に、後件の真は、「 p 」と「 r 」に代入された文の真にもっぱら依存している。結局、考察中の文関数から得られる文全体の真はもっぱら「 p 」「 q 」「 r 」に代入された文の真に依存している。
 与えられた文関数から代入によって得られる文の真偽が、変項に代入される文の真偽にどのように依存しているのか、ということを正確に見て取るために、我々はこの関数の真理表ないし真理行列と呼ばれるものを構築する。関数「〜 p 」のそうした表を示すことから始めよう。

 p 
 〜 p 
━━━


━━━
 T    F 
 F    T 



そして、他の基礎的関数「 pq 」「 pq 」などについては以下のような組み合わせがある。

 pq









 pq    pq    pq   p q 
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
        
        
        
        



」や「」という文字がそれぞれ「真なる文「偽なる文」の略であると取れば、これらの表の意味は即座に理解される。


41

例えば二番目の表で、「 p 」「 q 」「 pq 」という見出しの下の二番目のものを見てみると、それぞれ「」「」「」となっている。「 p 」のところに偽なる文を、「 q 」のところに真なる文を代入すれば、「 pq 」という含意から得られる文は真であると我々は推測する。これは明らかに§8でなされた注意と完全につじつまがあっている。表に現れる「 p 」と「 q 」はもちろん他の変項によって置き換えることができる。
 基礎真理表 と呼ばれる上の二つの表の助けを借りて、どんな複雑な文関数にも応ずる 派生的真理表 を構築することができる。たとえば、「( pq )→( pr )」という関数の表は次のようになる。


pqr













 pq    pr    (pq )→(qr
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
     
     
     
     
     
     
     
     



この表の構成を説明するために、例として5番目(見出しの下から)の水平ラインに集中してみよう。「 p 」と「 q 」に代えて真の文を置き、「 r 」に代えて偽の文を置く。2番目の基礎表によれば、「 pq 」から真の文が得られ、「 pr 」からは偽の文が得られる。そこで関数全体「( pq )→( pr )」からは、真なる前件と偽なる後件を持つ含意が得られる。従って、また2番目の基礎表の助けを借りて(そこで我々は「 p 」と「 q 」が「 pq 」と「 pr 」に置き換えられるとするが)、この含意は偽なる文であると結論するのである。
 「」と「」からなるこの水平ラインは表の「」と呼ばれ、垂直ラインは「」と呼ばれる。垂直な線の左側のそれぞれの行、あるいはむしろ行の部分は変項に対する真ないし偽の文の代入を表している。


42

与えられた関数の行列を構築するときに、我々が注意するのはシンボル「T」「F」の結合が変項と相関するすべての道を尽くすということである。もちろん、シンボル「T」「F」の数や順番において異なるところのない二つの行は表の中には書かない。そこで、表の中の行の数は関数に現れる異なった変数の数に、単純に依存するということは簡単に見て取れる。関数が異なった1, 2, 3, ..個の変数を含むならば、その行列は21=2、22=4、23=8...個の行から成る。その列の数については、与えられた関数に含まれる異なった形態の部分的文関数の数に等しい(そこでは関数全体もまた部分的関数の中に数えられる)。

 文計算の文が真であるか否かをどう決定するのか、我々は今やこのことを言う位置にいる。文計算においては、文と文関数との間に外的な相違は何もない、これはわかっている。文と考えられる表現はつねに普遍量化子によって心的に mentally 完全なものとなるということに唯一の相違点がある。与えられる文が真であるかどうかを認知するためには、さしあたって、それを文関数として扱い、その真理表を構築することになる。この表の最後の列で、シンボル「F」がまったく現れないならば、問題となっている関数から代入によって得られるあらゆる文は真であるだろう。したがって、我々の元々の普遍的な文(心的に普遍量化子を前置することによって文関数から得られる)もまた真である。しかし最後の列が少なくとも一つのシンボル「F」を含むならば、我々の文は偽である。
 たとえば、「( pq )→( pr )」という関数のために構築された行列では、最後の列に四回シンボル「F」が現れる。だからこの表現を文と考えるならば(つまり、「いかなる p q r に対しても」という言葉をそれに前置するならば)、我々は偽の文を得ることになる。これに対して、真理表の方法という助けを借りて、§12で述べられた文計算のすべての法則が、つまり単純化、同一性などの法則が真の文であることは容易に確かめられる。たとえば単純化の法則とは以下のものであった。

pq )→ p




43

これに対する表は以下のようになる。


 pq









 pq  ( pq )→ p
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  
  
  
  



同じようにしてその真理が確かめられる他の重要な文計算の多くの法則を挙げよう。

〜 [ p ∧(〜 p )]
 
p ∨(〜 p
 
pp p
 
pp p
 
pqqp
 
pqqp
 
[ p ∧ ( qr )] [( pq )∧ r ][ p ∨ ( qr )] [( pq )∨ r ]



最初の行の二つは 矛盾の法則 LAW OF CONTRADICTION排中の法則 LAW OF EXCLUDED MIDDLE と呼ばれる。次の行は トートロジーの法則 LAW OF TAUTOLOGY(論理的乗法と加法にとっての)であり、その次の行は 交換の法則 LAW OF COMMUTATIVE であり、最後の行は 結合の法則 LAW OF ASSOCIATIVE である。もしも通常の言語で表現しようとするなら、この最後の二つの法則の意味がいかに曖昧になるかは容易に見て取れる。このことは、より複雑な思考に対する的確な道具としての論理的シンボリズムの価値を明確に示すものである。

 *行列の方法によって、この方法を適用する前には不分明すぎると思えた文の真理性を受け入れるように導かれることがある。

p →( qp
 
(〜 p )→( pq
 
pq )∨( qp



これらの文が直接的に明らかでないのは、主として、現代論理学に特有の含意の特殊用法が現れているからである。つまり、実質的な意味での含意という用法である。


44

これらの文は普通の言語の語彙で読まれると、特にパラドキシカルな性質を帯びる。つまり含意を「含意する implies」とか「ということに帰結する follows」とかの句で置き換え、たとえば以下の形であらわすとそうなる。

    p が真であるならば、 p はいかなる q からも帰結する(別の言葉で言えば、真なる文はあらゆる文から帰結する)

    p が偽であるならば、 p はいかなる q をも含意する(別の言葉で言えば、偽なる文はあらゆる文を含意する)

    どの pq をとっても、 pq を含意するか、または qp を含意するか、である(別の言葉で言えば、いかなる二つの文でも、その少なくとも一つは他の一つを含意している)

この定式化では、これらの文はしばしば誤解と皮相な議論の原因となってきた。このことは§9の終わりの指摘を全面的に裏付ける。*

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Subject 12.文計算の法則
Author イストラン [ 3212 to イストラン ]  3/13/Fri/2004   

12.文計算の法則

 文計算のもっとも重要な諸表現に関する議論の終わりにやってきた今、この計算の法則の特性を明らかにすることをここで試みよう。
 次の文を考察してみる。

  もしも1が正の数であり、そして 1<2 ならば、1は正の数である。

この文は明らかに真である。それは論理と算術の分野に属する定項だけを含んでいる、がそれでもこの文を数学のテキストで特別なテオレームとして挙げることは、誰にも思い浮かばないことだろう。なぜそうなのかを反省するならば、こういう結論に至る。つまり、この文は算術の観点からはまったくどうでもいいものである。その真理は、算術の中で生じる算術的な項目の概念に全然依存していない。ただたんに「そして」「もしも」「ならば」という言葉の意味にだけ依存するものである。これがそうであると確信するために、考察中の文で構成要素を取り替えてみよう。

1は正の数である




37

と、

1<2



を任意の分野からの他の文で取り替える。結果は一連の文になり、その各々は元の文と同じように、真である。たとえば、

与えられた図形が菱形であり、そして同じ図形が四角形であるならば、その与えられた図形は菱形である。


今日が日曜であり、そして太陽が照っているならば、今日は日曜である。


 もっと一般的な形態でこの事実を表現するために、我々は「 p 」「 q 」という変項を導入する。そしてこれらのシンボルが数や他の何かの指示 designation ではなくて、文全体を表すとしてみる。この種の変項は 文変項 SENTENTIAL VARIABLE と表示される。さらに、考察中の文で次の句を「 p 」に置き換える。

1は正の数である



そして次の式

1<2


を「 q 」に置き換える。このやり方で、次の文関数に到達する。

 p かつ q ならば p


任意の文が pq で置き換えられるならば、真なる文のみが得られるという性質をこの文は持っている。このことは次のような普遍的な陳述から観察されるだろう。

いかなる p および q についても、 p かつ q ならば、 p である。


 ここに我々は文計算の最初の例を得たのであるが、これは論理的乗法にとっての 単純化の法則 LAW OF SIMPLIFICATION と言われる。上で考察中の文はこの普遍的法則のたんなる一特殊例であった。それはちょうど、以下の式が普遍的な算術のテオレームのたんなる一特殊例であるのと同様である。

2・3=3・2




38

その場合の普遍的な算術のテオレームとは、

任意の数 xy について、xyyx


である。

 同じようにして、文計算の他の法則が得られる。そうした法則のいくつかをここで例示してみよう。その定式化においては、我々は「いかなる p , q についても」という普遍的量化子は削除する。これは§3で言及した用法に従ってのことであり、文計算全般に亘る規則ともいうべきものになっている。

    p ならば p である。
    p ならば p かまたは q である。
    pq を含意し、 qp を含意するならば、 q であるときに限って p である。
    pq を含意し、 qr を含意するならば、 pr を含意する。

これら四つの文の最初のものは 同一性の法則 LAW OF IDENTITY と呼ばれる。二番目のものは論理和にとっての 単純化の法則 と呼ばれる。そして四番目のものは 仮言的三段論法 THE HYPOTHETICAL SYLLOGISM と呼ばれる。
 普遍的性質を持つ算術的なテオレームが任意の数の性質に関することを述べるのとまさに同様に、文計算の法則は、こう言ってよければ任意の文の性質に関する何事かを述べるのである。これらの法則では、まったく任意の文の代わりにそうした変項のみが生じるという事実は、文計算にあって特徴的なことであり、その大きな普遍性と応用性の範囲にとって決定的なものである。

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Subject 11.定義の定式化とその規則
Author イストラン [ 3211 to ぱんどら ]  3/11/Thu/2004   

>命題論理の条件法、連言、選言で原子命題も表せるものと、かんがえていました。
>しかし述語論理でも、量化がかかるのは前件だけでしょう。

う〜ん、どうかな。そういう問いに答える土台もないんですが。たとえば、

 A(p,q)=∀(p→q)というふうに表しているものもある。

 上のAはAEIOのA。三段論法については Halmos の Logic as Algebra を勉強してからにしたいのですが。1年後ぐらい。こんなことを言ってると永久に勉強しなくなるかも。


>(1)すべての人間は動物である、は∀x(Fx⊃Gx)であって
>(2)ある動物は人間である、は∃x(Gx∧Fx)、これは、動物には人間がいる、とやってもいいのではないかと思うわけです。
>で、わたしは(1)(2)は同値である、とするわけです。

 ∀x(Fx→Gx)の同値は〜∃x(〜Gx∧Fx)なのでは?図で表すとヴェン図の方がいいのだけれど。〜∃(〜Gx∧Fx)の部分を黒塗りにしてしまえばいいので。


 >述語論理ではこれらは異なるものを表す、とみているわけです。

 そうでしょう。特称判断は∧で結ばれているから、順番はどうでもいい。これは伝統的論理学では限量換位と言って、直接推理の一つの型になってるものですね。


>わたしは存在を概念同士の連結とみるので、基本的に集合論ではないですね。存在を実在的に捉えると、集合論が成り立ちますね。

 そうではないと教科書は言ってるように思います。がしかしパンドラさんの言いたいことの意味がよくわからない。もっと勉強してみましょう。


>空はφではだめですか?

 それじゃ感じが出ません。

>イストランさんは原子命題はやはり、集合で捉えるべきと考えますか?

 だからその集合というのがわからんので、困ってますよ。なぜ集合論と記号論理学が結びつくのかもわからない。おまけに集合と結びつく必要もないというのだ、メレオロジーは。

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Subject 11.定義の定式化とその規則
Author ぱんどら [ 3210 to イストラン ]  3/11/Thu/2004  ところで 

はじめ、わたしも
>2)の(1)(2)はA・Bと書けてしまわないですか?(3)(4)は〜A・Bというふうに。
>こうすれば記号上区別できますが
命題論理の条件法、連言、選言で原子命題も表せるものと、かんがえていました。
しかし述語論理でも、量化がかかるのは前件だけでしょう。

>してみると、この図から全称記号や存在記号をとってみるということもできそうなん
>だが、どうなんだろ?

命題の量化はフレーゲが言及したことがありましたっけ?
わたしは「概念」命題を形成する以前に、他の概念と結ぶには全体でかかるか、個別で
かかるか、その前提を無視できないでいるわけです。

(1)すべての人間は動物である、は∀x(Fx⊃Gx)であって
(2)ある動物は人間である、は∃x(Gx∧Fx)、これは、動物には人間がいる、とやっても
いいのではないかと思うわけです。
で、わたしは(1)(2)は同値である、とするわけです。
述語論理ではこれらは異なるものを表す、とみているわけです。
わたしの場合、これは∀F=∃Gとなる。
述語論理はもともと集合論だから、モデルないし、無前提の議論領域があって、そこに
xという要素の存在者を設定している。その上での記述式の展開になってますね。
わたしは存在を概念同士の連結とみるので、基本的に集合論ではないですね。
存在を実在的に捉えると、集合論が成り立ちますね。

>記号表現に難があって、この掲示板では空集合も、メンバー記号の否定も使えない。どうしよう。
空はφではだめですか?
イストランさんは原子命題はやはり、集合で捉えるべきと考えますか?

返信(引用有)   返信(引用無)   全スレッド   ツリー表示   最新20   新規投稿   削除   編集
トピック= 3176 宛先= 3207 同宛先= 返信= 3211
 
Subject 11.定義の定式化とその規則
Author イストラン [ 3207 to ぱんどら ]  3/9/Mon/2004   

2)の(1)(2)はA・Bと書けてしまわないですか?(3)(4)は〜A・Bというふうに。こうすれば記号上区別できますが。

してみると、この図から全称記号や存在記号をとってみるということもできそうなんだが、どうなんだろ?


>命題を集合でとらえて、箱のうちとそとで振り分けるときに<クラス>とかいうのではないでしょうか。

 クラスは要らないと言ったのがウィトゲンシュタインだったっけか。う〜ん、なんというのか、この本(Set theory, logic and their limitations)の第一章はいろいろな定義と公理を紹介してるんですが、<集合>と<クラス>の追いかけっこのような感じがありますね。どうもその概念分けがはっきりしない。初心者向けのしかしかっちりした本だと期待していたのですが、どうなんでしょうかね。とりあえず訳をのっけてみようかな。しかし困ったことに、記号表現に難があって、この掲示板では空集合も、メンバー記号の否定も使えない。どうしよう。

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トピック= 3176 宛先= 3206 同宛先= 返信= 3210
 
Subject 11.定義の定式化とその規則
Author ぱんどら [ 3206 to イストラン ]  3/9/Mon/2004   

>a.∀A=∃B  (1)−(2)
>b.∀A≠∃B   (1)−(4)
>これの∃Bの対象指示はどうやってやるんでしょうか。

特称って不思議ですよねー。
a、だったら、すべての人間はある動物である、がいえるでしょう。いっぽうbで
すべての人間は、ある動物ではない。
ちょっと矛盾律をみているみたいけれど、aは人間である限りの動物が=∃B
ということで、人間ではない動物は≠∃B、いぬ、ねこなどの動物は人間では
ないですものね。

 <クラス>=<集合>=<議論領域>=<概念>
としてしまったら、どうでしょうねぇ・・・。
以前、三浦先生とお話したとき、議論領域(三浦先生は論議領域というそうです)
意識が、ある概念を思考の中に設定したとき、自然と議論領域が前提とされている
というのが三浦さんの主張のようでしたが・・・。
命題を集合でとらえて、箱のうちとそとで振り分けるときに<クラス>とかいうのでは
ないでしょうか。

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トピック= 3176 宛先= 3205 同宛先= 返信= 3207
 
Subject 11.定義の定式化とその規則
Author イストラン [ 3205 to ぱんどら ]  3/8/Sun/2004   

>わたしのー
>原子命題に関する最近の思考は
>http://members.at.infoseek.co.jp/Halpandora/ron/mei.htm
>にあるようなものかなー。

 ふむふむ、なるほど。疑問なんですが、

a.∀A=∃B  (1)−(2)
b.∀A≠∃B   (1)−(4)

 これの∃Bの対象指示はどうやってやるんでしょうか。


>これは、命題を集合論から捉えようとする際のフレーゲの誤りではないかと考えています。

 集合論というものから論理学へとすんなり話がいくようなテキストを物色中です。一つ見つけてあるのですが、なんだかあんまりわからんのですよ。これがわからなかったらどうしようもないという名著らしいんですが。

 Moshe Machover, Set thory, logic and their limitations

 なにがわからんかというと、<クラス>と<集合>という言葉の使い分けならびに関係というのがどうにも豆腐をいじっているようで、ぶにゅぶにゅしている感じ。

 三段論法については、一年後ぐらいをめどにしたい。

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トピック= 3176 宛先= 3204 同宛先= 返信= 3206
 
Subject 11.定義の定式化とその規則
Author ぱんどら [ 3204 to イストラン ]  3/7/Sat/2004   

わたしのー
原子命題に関する最近の思考は
http://members.at.infoseek.co.jp/Halpandora/ron/mei.htm
にあるようなものかなー。
原子命題は概念が二つからまって、概念自身には特称と全称がある。
述語論理で誤解しやすくできてるのは「特称」と「存在」を同一視している
ことですね。これは、命題を集合論から捉えようとする際のフレーゲの誤
りではないかと考えています。
存在は概念の連結を有無の立場から判定する判断方式です。

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トピック= 3176 宛先= 3203 同宛先= 返信= 3205
 
Subject 11.定義の定式化とその規則
Author イストラン [ 3203 to イストラン ]  3/5/Thu/2004   

11.定義の定式化とその規則

 「...ならば、そしてそのときに限り...」という句は定義を述べるときに頻繁に使われる。定義とはつまり、或る学のなかにこれまで登場しなかった表現や、直接的に理解可能ではないかもしれない表現にどのような意味が帰せされうるかということを規定する規約のことである。たとえば算術で「≦」という記号が使用されてこなかったとして、新たに考察したいとする(それを調べると、たいていは、「より少ないか等しい」という表現の縮約されたものだ)。この目的のためには、この記号をまず定義する必要が、つまりすでに知られていて、意味が疑いようのない表現のもとで、その意味を厳密に説明する必要がある。


34

これを遂行するために、「>」をすでに知られているシンボルに属するものと想定して、我々は次の定義を定める。

xy のときに限り、xy



 こうして定式化された定義は二つの文関数の等価を述べている。それは

xy



xy  というわけではない【it is not the case that...】



ということである。したがって、「 xy 」という定式を、もはや「≦」を含まないが、我々には理解可能な用語で完全に定式化される等価な表現へと変換することを可能にする。同じことは「 xx 」から、「 x 」と「 y 」を、数を表示する任意のシンボルないし表現によって置き換えてできるどんな定式についても言える。

3+2≦5



は、次の文と等価である。

3+2>5 というわけではない



後者が真であるからには、前者も真である。同様に、

4≦2+1



は次の文と等価である。

4>2+1 というわけではない



両者とも偽なる主張である。このことはもっと複雑な文や文関数にも当てはまる。たとえば、

xy であり、 yz であるならば、 xz  である



を変形して、次の文を得られる。

xy というわけではなく、また yz  というわけでもないならば、 xz というわけではない




35

 要するに、上にあげた定義によって、記号「≦」を含むどんな単純ないし複雑な文をもそれを含まない等価なものに変換することになるのであり、いわばそれを「≦」が現れない言語に翻訳するのである。そしてまさにこの事実こそが数学的学の内部で定義が演じる役割を構成する。

 もしも定義がその固有の仕事を首尾良く達成するべきであるならば、ある種の予防措置がその定式化で守られなくてはならない。このことを狙って、特別な規則が定められる。いわば定義の規則である。それはどうやって定義が正しく構築されるべきかを特定する。ここで我々はこの規則の厳密な定式化に立ち入ることはしないので、端に次のことを指摘するだけにとどめよう。その土台にあって、あらゆる定義は等価の形態を取る。等価の最初のメンバー、これは定義されるもの DEFINIENDUMであるが、定項を含んだ短く、文法的に単純な文関数であるべきである。第二のメンバー、これは定義するもの DEFINIENSであり、任意の構造を持つ文関数であるが、その意味がどれも即座に明かな、すでに説明済みの定項を含んだ構造を持つ文関数でなくてはならない。特に、定義されるべき定項、ないしその助けを借りてすでに定義されているいかなる表現も定義するものの中に現れてはならない。別様に言えば、もしも定義における悪循環として知られる誤りを含んでいるならば、定義は正しくないものとなる(ちょうど証明における悪循環について語るように。それは或るテオレームを確立するための論がそのテオレーム自体に基づいていたり、あるいはそのテオレームの助けを借りてすでに証明されていた他のテオレームに基づいていたりする。)。定義の規約的な性格を強調するために、また定義を等価の形態を持つ別の言明と区別するためには、「我々はこう言う We say that 」という前置きをつけるとよい。記号「≦」の上述の定義がすべての条件を満足することを確かめることは容易である。それは定義されるものとして、次のことを持っている。

xy



対する定義するものは、こう読める

xy というわけではない  【it is not the case that】




36

 定義を定めるにあたって、数学者たちは「もしも」とか「の場合には in case that」という言葉を「...ならば、またそのときに限って...」という句よりも好むということは、注意しておいてよい。たとえば、記号「≦」を定式化しなくてはならないときに、彼らはおそらくそれを次のような形式で書くだろう。

xy というわけではないときにxy と我々は言う。



まるで、定義されるものが定義するものから生じると端的に定義が述べているかのようである。その際には帰結の関係が反対方向でも保たれるということは強調されることがない。そして定義されるものと定義するものとの等価性が表現されなくなってしまう。しかし、我々がここで実際に持っているのは、定義されるものと定義するものとを結合するために「もし if 」とか「の場合には in case that」が使われるならば、それらの句は「...ならば、そしてそのときに限り...if, and only if」が通常意味するのと同じことを意味するべきだ、という趣旨での暗黙の規約なのである。ちなみに、等価の形態は定義が定められる唯一の形態ではないことを付け加えておこう。

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Subject 論理学入門 目次
Author イストラン [ 3202 to イストラン ]  3/3/Tue/2004   

目次



序文
初版への序文から

第一部 論理学の諸エレメント、演繹的方法



T.変更の使用について



 1.定項と変項
 2.変項を含む表現−文関数と指示関数
 3.変項による文の形成−普遍量化子と存在量化子
 4.普遍量化子と存在量化子、自由変項と束縛変項
 5.数学における変項の重要性
   エクササイズ


U.文計算について



 6.論理定項;古い論理学と新しい論理学
 7.文計算;文の否定、文の連言と選言
 8.含意あるいは条件文;実質的意味での含意
 9.数学における含意の使用
10.文の等価
11.定義の定式化とその規則
12.文計算の法則
13.文計算のシンボリズム;真理関数と真理表
14.推論における文計算の法則の適用
15.推論の規則、完全な証明
   エクササイズ


V.同一性の理論について



16.文計算の外側の論理的諸概念;同一性の概念
17.同一性の理論の基本的法則
18.ものの同一性とそれらの指示の同一性;引用符の使用
19.算術と幾何における等性 equality 、その論理的同一性への関係
20.数的量化子
   エクササイズ


W.クラスの理論について



21.クラスとその諸エレメント
22.クラスと一つの自由変項を持つ文関数
23.普遍的クラスと空クラス
24.クラスの間の基本的関係
25.クラスへの操作
26.等数的クラス、クラスの基数、有限クラスと無限クラス、論理学の部分としての算術
   エクササイズ


X.関係の理論について



27.関係、それらの領域と対抗−領域、諸関係と二つの自由変項を持つ文関数
28.諸関係の計算
29.諸関係のいくつかの性質
30.反射、対称、推移関係
31.諸関係を秩序づけること;他の関係の例
32.一/多の関係あるいは関数
33.一/一の関係あるいは双一関係、一対一対応
34.多項関係;数個の変数の関数と操作
35.他の学にとっての論理学の重要性
   エクササイズ


Y.演繹的方法について



36.演繹理論の基本的構成要素−原始的かつ限定【定義】された項、公理とテオレーム
37.演繹理論のモデルと解釈
38.演繹の法則;演繹的学の形式的性格
39.公理の選択と原始項;それらの独立性
40.定義と証明の形式化、形式化された演繹の理論
41.演繹理論の一貫性と完全性;決定問題
42.演繹的学の方法論の拡大された概念
   エクササイズ

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Subject Re2: 論理学入門 タルスキー
Author イストラン [ 3201 to ぱんどら ]  3/3/Tue/2004   

 ようこそ、ぱんどらさん。私は仮想大学哲学科の一年生です、今年からですが。今年のテーマは論理学入門、倫理学入門、美学入門で、このそれぞれにふさわしい入門書を吟味するということなのですが、タルスキーのこの本は少し敷居が高かったかな、と思うこの頃。


>ラッセルの階層に関する記述は、まだですね?

 そうです。それは25節あたりにあります。ちょっと目次を作ってみます。

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Subject 10.文の等価
Author ぱんどら [ 3199 to イストラン ]  3/2/Tue/2004  ふと思いつきましたが 

>(T) もしも x が正の数ならば、 2x は正の数である
この命題に対して
(T)‘ もしも x が偶数ならば、 x は素数の和で表現される。
である場合、置換が可能として
(U)‘ もしも x が素数の和であるならば x は偶数である
もいえるのだろうかとおもいました。

そして、まだ証明されていないこの定義に対して(U)‘を証明することも
(T)‘ を証明することになるのだろうかと感じました。

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Subject 10.文の等価
Author イストラン [ 3198 to イストラン ]  3/2/Mon/2004   

10.文の等価 equivalence

 文計算の領野からもう一つの表現を考察しよう。日常言語では比較的出会うことの希なものの一つ、つまり「...ならば、そしてそのときに限り... if, and only if」という句である。二つの文がこの句で結合されるならば、等価と呼ばれる複合文になる。こうして結合される二つの文はこのようにして等価の左側と右側として言及される。二つの文の等価を主張することによって意図されているのは、一つの文が真であり、他の文が偽である可能性を排除するということである。したがって等価は、もしもその左と右が双方とも真であるから、または双方とも偽であるときに真であり、他の場合には偽となる。
 等価の意味はまた別のやり方でも言い表すことができる。もしも条件文の中で、前件と後件を交換するならば、新しい文が得られ、それは元の文との関係において、逆文 CONVERSE SENTENCE(あるいは与えられた文の逆と呼ばれる。たとえば元の文として、次の含意を取り上げてみよう。

(T) もしも x が正の数ならば、 2x は正の数である

この文の逆は以下のようになるだろう。

(U) もしも 2x が正の数ならば、 x は正の数である

この例によって示されるように、真の文の逆は真であるということが生じる。他方、これが一般的規則でないことを見るためには、(T)(U)の「 2x 」を「 x 」に置き換えることで十分である。文(T)は真であり続けるが、文(U)は偽となる。さて、一つの文が他の文の逆である二つの条件文が双方とも真であるということが起こるならば、それらの同時的な真という事実は、「...ならば、そしてそのときに限り...」という語によって二つの文のいずれかの前件と後件を結合することによって表現され得る。そういうわけで、上の二つの含意、元の文(T)とその逆文(U)は一つの文によって置き換えることができる。


33

もしも x が正の数であるならば、そしてそのときに限り、 2x は正の数である



(ここでは等価の二つの側は互いに交換可能である。)
 ところで、同じ観念を表すのに役に立つ可能な定式化はまだ少しある。

   x は正の数である、ということから、 2x は正の数であるということになり、逆もまた言える。

   x が正の数であるという条件と、 2x が正の数であるという条件は互いに等価である。

   x が正の数であるという条件は 2x が正の数であるのに必要かつ十分な条件である。

   x が正の数であるためには、 2x が正の数であるということが必要であり、かつ十分である。

 したがって、「...ならば、そしてそのときに限り...」という句によって二つの文を結合する代わりに、一般的には、帰結の関係がこれらの二つの文の間に双方向に成り立つと言うことも可能であり、また二つの文は等価であると言うことも、二つの文のおのおのが他に対して必要かつ十分な条件であると言うことも可能である。

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Subject 9.数学における含意の使用
Author イストラン [ 3197 to イストラン ]  2/28/Fri/2004   


9.数学における含意の使用

「もしも...ならば...」という句は、その多くが他の科学で使用され、また特に数学で使用される論理の表現に属している。数学的テオレーム、とくには普遍的性格を持つそれは含意の形式を持つ傾向にある。前件は数学では仮定 HYPOTHESISと呼ばれ、後件は結論 CONCLUSIONと呼ばれる。


29

含意の形式を持った算術の定理の簡単な例として、次の文を挙げることができる。

もしも x が正の数であるならば、2x は正の数である。

そこでは「 x は正の数である 」が仮定であり、「 2x は正の数である 」は結論である。
 いわば数学的テオレームの古典形式とは別にして、「もしも...ならば...」とは別の仕方で仮定と結論が結合している異なった形式がときどき存在する。例として、たった今言及したテオレームは次のような形で言い換えられる。

x は正の数である、ということから、 2x は正の数であるという結果になる。

仮定、 x は正の数である、は 2x は正の数であるという結論を含意する。

2x が正の数であるためには、 x が正の数であるということで十分である。

条件、2x が正の数である、は x が正の数であることにとって必要である。

x が正の数であるためには、 2x が正の数であることが必要である。

したがって、条件文を主張する代わりに、仮定は結論を含意するとか、ある帰結をもつとすればとか、それは結論にとっては十分な条件であるとか言ってもたいていはよいのである。またその結論がその仮定から帰結する follow とか、その結論はその仮定にとっては必要条件であると表現することができる。論理学者はこうした定式のあるものにさまざまに反対することがあるけれども、それらは数学では普通に使われている。

 *ここで生じるかも知れない反対は、「 仮定 」「 結論 」「 帰結 」「 帰結する 」「 含意する 」のどれか一つでも生じるような上記定式に関わる。


30

 これらの反対の本質的な点を理解するためには、そうした定式化 formulations が内容において当初に与えられたものと異なることをまず見なくてはならない。当初の定式化では、我々はもっぱら数について、数の性質、数に対する操作など、数学が関わるものについて語っている。しかし問題となっている定式化では、仮定、結論、条件、という数学において現れる文や文関数について語っている。この機会に指摘しておかねばならないが、一般的に、人びとが十分に判明に区別していないことは、与えられた学の中で扱われるものを指示する語と、その中に現れる様々な表現を指示する語の間にある違いである。とくに、数学、それも基礎的レヴェルでこのことが認められる。「方程式」「不等式」「多項式」「代数分数 algebraic fraction」のような語は基礎的代数の教科書で頻繁に見る語であるが、厳密に言えば、これらは数学や論理学の領域に属してはいない、ということに気づいている人は少ない。というのは、この領域で考察されることを指示していないからである。方程式や不等式は或る特別な文関数であり、対して多項式や代数分数は、とくに基礎的教科書で扱われるそれらは、指示関数(第2節を参照)の特殊な事例である。この点の混同は、この種の語が数学的テオレームの定式で頻繁に使われているという事実から生じる。これはとてもありふれた用法であり、危険は何もないのだから、それに抵抗するだけの価値はおそらくはない。しかし理解してしかるべきなのは、そうした語の助けを借りて定式化されるテオレームすべてに対して、別のテオレームがあること、それは論理的にもっと正しく、そこではこれらの語はまったく現れない。たとえば、次のテオレームを見よう。

方程式: x axb = 0 は少なくとも二つの根を持つ。



というのはもっと正しいやり方で次のように表現されうる。

x axb = 0 であるような少なくとも二つの数 x が存在する




 含意の問題となる定式化に戻ると、もう一つもっと重要な点を強調しなくてはならない。


31

これらの定式化で我々は一つの文つまり含意の前件が、別のものつまり含意の後件を持つと主張し、あるいは2番目のものが最初のものから生じる follow というふうに主張する。しかし通常こうして表現するときには、最初の文が真であるという想定が、いわば、二番目の文に関する同じ想定へと必然的に導くということを我々は考えている(そして二番目の文を一番目の文から派生させることが可能であるとさえ思うかもしれない)。しかしながら、第8節ですでに分かるように、含意の意味は、現代論理学において確立されたものとしては、後件が前件と何らかの結合を持つかどうかには依存しない。誰でも下のような表現、

もしも2・2=4ならば、ニューヨークは大都市である



が論理学では意味のあるものと見なされる事実に仰天し、真なる文でさえ彼を和解させることは難しい。たとえば、以下のように句を変形しても。

2・2=4という仮定は、ニューヨークが大都市であるということを、帰結として持つ



条件文を定式化し変形することに関してここで論じられるやり方はパラドックス的な響きを持つ語りへと導き、通常言語と数学的論理との間にある亀裂をいやましに深くする。このために、多くの誤解を繰り返し引き起こし、先に言及した情熱的かつしばしば不毛な議論の原因となってきた。

純粋に論理的な観点から見ると、問題の定式化を使用する際に、我々は普通の意味を無視し、それらの反対意見に対しては通常の条件文に対して帰すのとまったく同一の内容をそれらに帰すことにする、と明確に述べることによって、そうした反対意見すべてをこれを最後にはっきりと退けることができる。しかしこのようにすると他の点で不都合なことになる。なぜかと言えば、論理学自身においてではなく、それに近い分野において、すなわち演繹的学(第六章参照)の方法論において、我々は文について語り、またそれらの間の帰結関係について語り、「含意する」「生じる」というような語を、通常の語にもっと近い異なった意味で使用する、という事情があるからである。


32

従って、これらの反対意見にはさらされることのないいくつかの定式化を我々は所有する以上、[反対意見を呼ぶような]そうした定式化はすべて避けるということが好ましいのかもしれない。*

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Subject 8.含意あるいは条件文
Author イストラン [ 3196 to イストラン ]  2/16/Sun/2004   

8.含意あるいは条件文;実質的な意味での含意


 二つの文を「もし...ならば...」で結合するとき、我々は複合された文を得るが、それは含意 IMPLICATIONあるいは条件文 CONDITIONAL SENTENCEと言われる。「もしも if」が前置される従属節は前件 ANTECEDANT、「ならば then」に続く主節は後件 CONSEQUENTと呼ばれる。含意を述べることによって人が述べているのは、前件が真であり、かつ後件が偽であることは生じない、ということである。含意は次の三つの場合にいずれも真となる。(i)前件も後件も真である、(ii)前件が偽であり、後件が真である、(iii)前件も後件も偽である。そして、前件が真であり、後件が偽であるという第四の場合にのみ、含意全体は偽となる。含意を真として認め、同時に前件を真として認める者は誰でも、その後件を認めざるをえないということになる。そして含意を真として認め、後件を偽として認める者は誰でも、その前件を拒否しなくてはならない。


24

 *選言の場合のように、論理学と日常的言語での使用に多大な差違のあることは自明である。さらに、日常的言語では、二つの文の間に形式および内容において何らかのつながりがあるときにのみ、「 もしも...ならば... 」によってそれらを結合しようとする。この結合を一般的に特性化することは難しい。ただその本性が相対的に明らかになることがあるのみである。この結合に対して、我々は次のような確信を加える。後件は必然的に前件に続いて起こるということ、すなわち、前件が真であることを認めるなら、我々は後件もまた真であるように想定するよう強いられる(そしておそらく我々は必ずしも明示的に引用することができるとは限らない何か一般的な法則をもとにして、前件から後件を演繹することさえできる)。ここでまた、付加される心理的要素が自ずから見えてくる。我々が含意を形式化し、確定するのは、たいていは前件と後件が真であるかどうかに関して正確な知識を持ってないときだけである。他の場合には、含意の使用は不自然に見え、その意味と真理は何らかの疑いを惹起する可能性がある。
 次のものは実例として役立つ。物理法則を考えてみよう。

あらゆる金属は可鍛的である[叩いて延ばすことができる]



そしてそれを変数を含んだ含意の形態においてみよう。

もしも x が金属ならば、 x は可鍛的である



この普遍的な法則の真を我々が信じるならば、その特殊な場合の真をも信じている。すなわち、鉄や粘土や木のような任意の物質の名称で「 x 」を置き換えることによって得られるすべての含意の場合に、その真であることを信じている。そして実際、こうして得られるすべての文が真なる含意として与えられる上記の条件を満足するのである。それはつまり、後件が偽であるときに前件が真であるということは起こらないということである。さらに我々は気づくのであるが、これらの含意のいずれにおいても、前件と後件の間には緊密な結合が存在し、それはその形式的な表現をそれらの主語の一致のうちに見つける。また我々の確信するところでは、これらの含意のいずれにおいても、その前件を、たとえば「鉄は金属である」を真として想定しつつ、我々はそこからその後件「鉄は可鍛的である」を演繹することができるが、それというのもすべての金属は可鍛的であるという一般法則を参照することができるからである。


25

 にもかかわらず、共通言語の観点からは、今しがた論じた文の中には人工的で疑わしいものがあるように見える。上の普遍的含意によってはいかなる疑いも生じない。あるいは金属であるか可鍛的であるかを知らない物質の名称で「 x 」を置き換えることによって得られるどんな特殊な場合によってもなんら疑いは生じない。しかし、我々が「 x 」を「鉄」によって置き換えるならば、前件と後件が疑いなく真であるような場合に遭遇していることになり、だから含意ではなくて、次のような表現の使用を好むことになる。

鉄は金属なのであるから、それは可鍛的である



同様に、「 x 」の代わりに「粘土」を置けば、偽の前件と真の後件を持った含意を得るが、これを次のような表現によって置き換えようとするだろう。

粘土は金属ではないが、それは可鍛的である



そしてついに「 x 」を「木」によって置き換えれば、その結果、偽なる前件と偽なる後件を持つことになる。この場合、もしも含意の形態を保持したいのであれば、動詞の文法形態を変化させる必要がある。

もしも木が金属であるならば、それは可鍛的ではないだろう



 科学的言語という観点に責務を持つ論理学者は、「または」という語の場合にするように、「もしも...ならば...」という句に関して同じ手続きを採用した。彼らはこの句の意味を単純化し、明確にしようと決め、心理的要素からそれを自由にした。この目的のため、彼らはこの句の使用を拡大するにあたって、二つのメンバーの間にいかなる結合が存在しなくとも、含意を意味のある文と考え、もっぱら前件と後件の真偽に依存する含意の真偽を作り出した。この状況を簡単に説明するために、我々はこう言う。現代論理学は実質的 MATERIAL 意味における含意、あるいはもっと簡単に、実質含意 MATERIAL IMPLICATIONを使用する。これは形式的意味における含意、あるいは形式含意 FORMAL IMPLICATIONという用法に対立する。後者では、前件と後件の間のなんらかの形式的な繋がりが含意の意味や真にとって不可欠の条件となっている。


26

おそらく、形式的含意の概念は、まったく明瞭だというわけではない。しかしともあれ、それは実質含意の概念よりももっと狭いのである。あらゆる意味のある、また真なる形式的含意は同時に意味のある真なる実質含意であるが、逆はしからずである。
 上述の注意を例証するために、四つの文を検討しよう。

もしも 2・2=4 ならば ニューヨークは大都市である


もしも 2・2=5 ならば ニューヨークは大都市である


もしも 2・2=4 ならば ニューヨークは小都市である


もしも 2・2=5 ならば ニューヨークは小都市である



日常言語では、これらの文が意味を持つとは考えにくいし、まして真であるとも考えにくいだろう。数学的論理の観点では、それに対して、これらはみな意味を持っており、三番目の文は偽であるが、残りの三つは真である。もちろん、それによって、これらの文が何らかの観点からして特に何かに関与してるとか、我々の議論においての前提として適用できるということが主張されているのではない。

 日常言語と論理学の言語の間の、ここで光を当てられた差違は絶対的な特質を持っており、共通言語の in common language 「もし...ならば...」という言葉の使用に関する上に概略された規則は、例外を許容しない。実際には、これらの言葉の使用は多かれ少なかれ動揺し、調べてみるならこの使用が我々の規則には従っていないことを発見することができる。友人が一人とても難しい問題に直面していて、それを解決するだろうとは信じていないと想像してみよう。それで我々の不信を冗談めかしてこう表現することができる。

もしも君がこの問題を解消するなら、私は帽子を食べる。



この発言の趣旨はまったく明らかである。後件が疑いなく偽である含意をここで断言している。したがって、含意全体の真を断言しているのであるから、同時に前件の偽を断言しているのである。


27

つまり、友人が関心のある問題を解決するのに失敗するだろうという確信を表現している。しかし、同じようにまったく明かであるのは、我々の含意の前件や後件は決して結びついているのではなく、だから形式含意ではなく実質含意の典型的な事例だということである。

 通常の言語の「もし...ならば...」と数学的論理のその句の使用における分岐は、長く、ときに情熱的な議論の元になってきたのだが、ちなみにプロフェッショナルの論理学者たちは少数派でしかなかった。 (奇妙なことに、「または」という語の場合の類比的な分岐についてははるかに注意が向けられなかった。)実質含意の使用のために、論理学者はパラドックスやたんなるナンセンスに行き当たるということで反論されてきた。これは論理学の改革のための激しい抗議となり、含意の使用における論理と通常の言語の間の広範囲な関連を生み出した。
 これらの批判が良くできたものであるとみなすことはできそうにない。通常の言語には、厳密に規定された意味を持つ句がない。まったく同じ意味であらゆる語を使用する二人の人間を見つけることはほとんど不可能であり、一人の人間の言語使用においてさえも、同一の語の意味は生涯の一つの時期から別の時期へかけて変化するのである。そのうえ、日常言語の語の意味はたいていはとても込み入ったものである。それは語の外形に依存するばかりではなく、発話される状況や、ときに主観的な心理要素にすら依存している。




  この議論の始まりは古代にまで遡る。論理学史上、おそらく初めて実質含意の使用を広めたのは、メガラ派のフィロ(紀元前4世紀)である。これは彼の師であるディオドロス・クロノスの考えに反対するもので、ディオドロスはより狭い意味の含意の使用、ここで形式含意と呼ばれるものに近いものを提案した。少し後で(紀元前3世紀)、そしておそらくフィロの影響のもとに、含意について様々の可能な考えがギリシャの哲学者やストア派によって論じられた(彼らの著作の中で、文計算の最初の起源が発見されることになる)。



28

もしも科学者が日常生活からの概念を科学の中に導入し、この概念に関する一般的な法則を確立しようとするならば、絶えずその内容をより明瞭にし、より正確で単純なものにし、非本質的な属性から解放しなくてはならない。それは「もし...ならば...」という句に関わる論理学者であるか、それとも「金属」という語の正確な意味を確立せんとする物理学者かに関わることではない。どんな道にせよ、科学者は己の仕事を理解し、確立しようとする語の用法が多かれ少なかれ日常言語の実践から逸脱するだろうということを理解している。しかしもしもどんな意味でその語を使おうと決断するかをはっきりと述べるならば、そしてもしもこの決定に一貫して従いながら行動するならば、それがナンセンスな結果に導くとして批判する見解には誰も陥らないだろう。
 それにもかかわらず、起こった議論に関連して、含意の理論を改革しようとする試みに着手してきた論理学者たちがいる。彼らは一般的に、実質含意を論理学の中に位置づけることを拒否する。がしかし含意の別の概念のための位置を見いだそうとしている。たとえば、前件から後件を演繹する可能性が含意の真の必然的条件を構成するというように。彼らはまた、そう見えるのだが、新しい概念を前景に位置づけようと願っている。これらの試みは、比較的最近のものであるが、その価値について最終的な判断をするには早すぎる。しかし今日ほとんど確かに見えるのは、実質含意の理論は他の全ての理論を単純性において凌駕しているということである。ともあれ、この単純な概念に基礎づけられた論理学が、もっとも複雑かつ微妙な数学的推論にとって満足すべき基礎であることが判明したということは忘れてはならない。

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Subject 7.文計算;文の否定 negation、連言 conjunction、選言 disjunction
Author イストラン [ 3193 to イストラン ]  2/1/Sat/2004   


7.文計算;文の否定 negation、連言 conjunction、選言 disjunction


 論理的性質を持つ語の中には細かく分けられるグループがある。それらは「でない」「かつ」「または」「〜ならば〜」という言葉から成る。すべてこれらの言葉は日常言語によってよく知られ、より単純な命題から複雑な命題を構築するのに役立っている。文法ではそれらは文の接続詞 conjunction に含められている。ただこれだけの理由だけでは、それらの語の現前はいかなる固有の学の特殊な性質を表すことはない。これらの語の意味と用法を確立することは、論理学のもっとも基本的基礎的な部分の仕事である。それは文計算 SENTENTIAL CALCULUSと呼ばれる。あるいはときに命題計算 PROPOSITIONAL CALCULUS、または(より不適切だが)演繹の理論 THEORY OF DEDUCTIONと呼ばれる。



  論理学は前4世紀(384-322)の偉大なギリシャの思想家アリストテレスによって創始された。彼の論理学的著作は『オルガノン』に集められている。数学的論理学の創始者として、我々は17世紀の偉大なドイツ哲学者にして数学者であるG.W.ライプニッツ(1646-1716)を見なくてはならない。しかしライプニッツの論理学的著作は後の数学的探求の発展にとって大きな影響を持たなかった。それらが忘却に沈んでしまった時期すらあった。数学的論理学の持続的な発展は19世紀中頃にかけてようやっと始まった。すなわちその時期、イギリスの数学者G.ブールの論理学体系が公刊される(1815-1864;主著:『思考法則の探求』、ロンドン、1854)。これまでに新しい論理学はそのもっとも完全なる表現を、現代イギリスの偉大な論理学者A.N.ホワイトヘッドとB.ラッセルの時代を画する著作である『プリンキピア マテマティカ』(ケンブリッジ、1910-1913)に見ている。

  文計算の歴史的に最初の体系はドイツの論理学者G.フレーゲの『概念記法』(ハレ、1879)という著作にある。彼は疑いなく19世紀の最も偉大な論理学者であった。現代の傑出したポーランドの論理学者にして論理学史家のJ.ルカシェヴィッツは、文計算に特別の単純かつ厳密な形態を与え、この計算に関する拡張された探求を引き起こした。



20

 文計算のもっとも重要な項目の意味についてこれから論じることにする。
 「でない not」という語の助けを借りて、どんな文の否定 NEGATIONも作ることができる。一番目の文が二番目の文の否定になっている二つの文を矛盾した文 CONTRADICTORY SENTENCESと呼ぶ。文計算では、「でない」という語は文全体の前に置かれる。それに対して日常言語【英語】では、動詞のそばに置かれるのが習慣になっている。あるいは、「というわけではない it is not the case that 」という句によって代置される。たとえば、

1は正の整数である



という文の否定は

1は正の整数ではない



というふうに読まれるか、

1は正の整数であるというわけではない



となる。

文の否定を発話するときにはいつでも、その文が偽であるという考えを表現しようとしている。もしも文が実際に偽であるならば、その否定は真であり、対して他の場合にはその否定は偽である。


 「かつ and」という語による二つの(もしくはそれ以上の)文の結合は連言 CONJUNCTIONあるいは論理積 LOGICAL PRODUCTと言われる。そのようにして結合された文は連言のメンバーあるいは論理和の要素と呼ばれる。たとえば、以下の文、

2は正の整数である



とか、

2<3



は、次のようにして、連言となる。

は正の整数であり、かつ、2<3



二つの文の連言を述べることは、連言を作る二つの文がどちらも真であると述べことに等しい。もしも実際にそうならば、連言は真である。しかし少なくともそのメンバーの一つが偽であるならば、連言全体は偽である。

21

 「または or」という語で文を結合することによって、文の選言 DISJUNCTIONを得るが、これは論理和とも呼ばれる。選言を作る文は選言のメンバーあるいは論理和の被加数 SUMMANDS OF LOGICAL SUMと呼ばれる。日常言語では「または」という語は少なくとも二つの異なった意味を持っている。いわゆる非排他的意味では、二つの文の選言はたんに、これらの文の少なくとも一つが真であるということを意味する。その際には二つの文の双方が真であるかそうでないかはどうでもいい。他の意味、いわゆる排他的な意味では、二つの文の選言はそれらの文の一つが真であるが、他の文は真でないということを主張する。たとえば書店で次のような注意書きを見たとしよう。

教職または学生の方は特別割引にてお買い求め頂けます。



ここで「または」という語は明らかに最初の意味で使われている。というのは教師であって同時に学生である者への割引は拒否されていないからである。他方、もしも子供が朝ハイキングに連れて行ってくれと頼み、また午後には映画に連れて行ってくれと頼んだときには、我々はこう答える。

いいや、ハイキングにいくか、【または】映画に行くんだ



そういうわけで「または」の使い方は明らかに二番目のものとなっている。というのは二つの要求の内の一つだけに応じるつもりだからである。論理学や数学では、「または」という語は通常は最初の非排他的な意味で使われる。二つの文の選言は、その要素の双方か、少なくとも一つが真であるならば、真であると考えられ、そうでないならば偽であると考えられている。たとえば次のように言われることがある。

あらゆる数は正であるかまたは3より小さい every number is positive or less than 3



正でありかつ3より小さい数が存在するとしても、そういう風に言われる。誤解を避けるために、科学的言語と同様に日常言語でも、「または」という語を最初の意味でだけ使うこと、二番目の意味が意図されるときにはいつでも、「または」に変えて「〜か、〜か either...or...」という複合的表現と使うことが適切であろう。

22

 *「または」という語が第一の意味で生じる場合に限定したとしても、その日常言語での使用と論理学における使用の間には注目すべき差違がある。通常の言語では、形式と内容において結合されるときにのみ、「または」によって二つの文が結合される。(同じことはおそらく程度は低いが、「かつ」にも妥当する。)この結合の本性はまったく明瞭だというわけではない。そしてその詳細な分析と記述は相当の困難に遭遇する。ともあれ、現代論理学の言語に不慣れな人は誰でも次のような文、

2・2=5 または ニューヨークは大都会である。



を意味のある表現だとはほとんど考えないだろう。ましてそれを真なる文とは受け取らないだろう。その上、日常英語の「または or」という語の用法は心理的性質を持つ要素に影響されている。二つの文の内のどちらかが真であると信じているが、どちらかわからないときにのみ、我々はそれらの文の選言を主張するというのが普通である。たとえば、通常の光のもとで芝生を見ているときに、それが緑か青かを言うことなど眼中にはないのであって、それはより簡単に、より強く、芝生は緑だと主張できるからである。選言のメンバーのどれが真であるのか知らないことを話者が認めたものとして選言の発話をとらえることすらある。そして後になって、話者がそのときには或るものが、とくにどれが偽であるか知っていたと確信したならば、我々はその選言全体を偽の文として見ることになる。これは明らかに他のメンバーが真であるとしてもである。想像してみよう。たとえばいつ町を離れるのかと問われた友人が、今日か明日かあさってかに出発すると答えたとする。そして後になって、その時には彼はすでに同じ日に出発することを決断していたことを確かめたとしよう。我々はおそらく、故意に惑わされ、彼は嘘をついたのだという印象を持つだろう。



現代論理学の創始者たちは、彼らの考察にこの「または」という語を導入するとき、おそらくは無意識に、その意味を単純化することを、そしてその意味をより明瞭にし、すべての心理的要素から、とくに知の現前と欠如から独立させることを望んだ。結果として、彼らは「または」の用法を拡張し、いかなる二つの文の選言をも意味のある全体として考えるよう決断した。たとえその内容や形式の結合が存在しないとしてもである。そして選言の真を、否定や連言の真のように、もっぱらただそのメンバーの真に依存させようと決断した。従って、現代論理学の意味での「または」を使う人は、先に挙げた文、

2・2=5 または ニューヨークは大都会である。



を意味のある、真ですらある文として考えるだろう。というのは、その二番目の部分は確かに真だからである。同様に、出発の日を尋ねられた友人はその厳密な論理的意味での語「または」を使ったと我々が想定するならば、彼の答えを真であり、彼の意図に関する我々の見解からは独立しているものとして考えるよう強いられることになる。

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Subject U 文計算について
Author イストラン [ 3192 to イストラン ]  1/30/Thu/2004   


18

6.論理定項 Logical constants;古い論理と新しい論理


 あらゆる科学理論で我々が取り扱う定項 constants は二つの大きなグループに分けられよう。最初のグループは与えられた理論に特有の項 terms から成っている。たとえば算術では個々の数、あるいは数のクラス全体、数の間の関係、数に関する操作などを表すものである。第一節で例として使用した定項は、ここでは他のものに属する。他方、算術の言明の大部分に現れる、はるかに一般的な性格を持つ項があって、それらは日常生活の考慮においても、科学のあらゆる可能な領野においても絶えず遭遇するものであり、人間的思考を伝達し、いかなる領野でも推論を遂行するにあたって不可欠の意味を表象するものである。それは「でない」「かつ」「または」「である」「あらゆる」「いくつかの」であり、また多くの他のものがこれに属する。他の科学すべての土台と考えられる特殊な学科、つまり論理学というものが存在する。その関心事はこうした項の正確な意味を確立し、これらの項が関与するもっとも一般的な法則を規定することである。

 論理学ははるか昔に独立した学へと発展した。それは算術や幾何にすら先立つ。しかしそれでもこの学科が強固な発展を遂げたのは、ほとんど完全な停滞の長い時期の後、つい最近のことにすぎない。その発展中に、論理学はまったく変容し、数学的学の特性に類似した特性を想定する結果となった。この新しい形態ではそれは数学的論理学あるいは演繹的論理学あるいは記号論理学と呼ばれることもある。新しい論理学は多くの点で古い論理学を超出しているが、その基礎の堅牢さや展開で使用される方法の完全さによってばかりそうなのではなく、主に確立された概念や定理の豊富さによってそうなのである。


19

基本的に、古い伝統的論理学は新しい論理学の断片だけを成している。さらにその断片は他の学科の諸条件、とくに数学の諸条件という点では完全に無意味である。かくて、我々がここに持つ目的に鑑みると、この本全体を通して、考察のための材料を引き出す機会は伝統的論理学からはほんの少ししかない。

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Subject 1−5 数学での変項の重要性
Author イストラン [ 3190 to イストラン ]  12/30/Mon/2003   


5.数学での変項の重要性



 第3節で見たように、数学的定理の定式化では、変項は主導的な役割を演じている。しかしながら、これまで言われたことからは、数学的定理を変項使用なしに定式化することは原理的に不可能だということにはならない。しかし実際には変項なしではほとんど実行不能である。というのは、比較的単純な命題ですら複雑かつ不分明な形態を帯びるからである。実例として次のような算術の定理を考えてみよう。

いかなる数 xy に対しても、 x3y3 = ( xy )・( x 2xyy2



変項の使用なしでは、この定理は次のようなものになるだろう。

いかなる二つの数をとっても、その3乗の差は、これらの数の差と次のような二つの項の積に等しい。つまり、最初の項は最初の数の2乗であり、二番目の項は二つの数の積であり、三番目の項は二番目の数の2乗である。



 思考経済という観点からは、数学的証明に関するかぎり、さらに本質的な意義が変項に結びつく。この事実は、我々の考察の進行中に出会うだろう証明の中から変項を除去しようと試みてみれば、読者は容易に確信するだろう。そして、これらの証明はより高等な数学の種々の分野で見られる通常の考察よりもはるかに単純なものであることを指摘しておかねばならない。後者を変項なしに遂行するはかなり甚大な諸困難に遭遇するだろう。付け加えて、方程式の方法としての数学的問題解決の豊饒な方法の発展に関して我々が負っているのは変項の導入だということである。変項の創出は数学の歴史におけるターニングポイントだと誇張なしに言うことができる。これらのシンボルとともに、人間は数学的科学の巨大な発展とその論理的基礎固めにいたる道を用意する道具を手に入れたのである。


 変項はすでに古代、ギリシャの数学者、論理学者たちによって使用されている。とはいえ、特殊な状況と希な場合にであるが。17世紀の始まりに、おもにフランスの数学者 F.Vieta(1540-1603)の研究の影響下で、人びとは変項を用いて体系的に研究し、数学的考察において絶えず使用することをし始めた。しかしながら、量化子の概念の導入によって、科学的言語、とくに数学的定理の形式化での変項の役割が完全に認識されたのは、やっと19世紀の終わりだった。これはおもにアメリカのすぐれた論理学者にして哲学者、Ch.S.Peirce(1839-1914)の功績である。

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Subject RE:1−4.普遍量化子/存在量化子  自由変項/束縛変項
Author イストラン [ 3189 to 木神 ]  12/30/Mon/2003   

どうも有り難うございます。つまり自由変項がある限り、命題にはならないということでいいのでしょうね。

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Subject RE:1−4.普遍量化子/存在量化子  自由変項/束縛変項
Author 木神 [ 3188 to 木神 ]  12/29/Sun/2003   

「関数」ですよね。「間数」って何語だ!wordのバカ垂れちゃん!

>もしかしたらイストランさんの疑問を誤解して的外れなレスをしてしまっているかもしれませんが、
>例えば命題間数f(x、y)には自由変更x、yがあるわけですよね。
>これは例えば「xはyを愛している」という命題間数だったりするわけです。この命題間数を命題とするためには、方法は二つあります。
>
>第一に、変項x、yに定項である 太郎 と 花子 を代入する場合などがそれです。そうすると命題間数「xはyを愛する」は命題「太郎は花子を愛する」になります。
>
>第二の方法は、それまで自由変項だったx、yを演算子で束縛してやる方法です。たとえば∀x∃yf(x、y)とする。すると「どんな人にも愛する人がいる」という命題になります。
>
>しかし演算子による束縛が中途半端にしかされない場合もあります。例えば、xのみを束縛して、yは自由変項のまま残す場合です。例えば
>∃xf(x、y)といった場合です。f(x、y)というのは2変項の命題関数ですが、xのみを束縛したことで、∃xf(x、y)は1変項の命題間数になります。したがって、この命題間数は、今までと違って、1つの変項(つまりy)に定項を代入するか、演算子で束縛するかすれば、命題になります。
>例えば、yに 良子 を代入して「ある人は良子を愛している」とするとか、
>yを全称量化して、∀y∃xf(x、y)すなわち「どんな人にも、その人を愛してくれる人がいる」とすることができるわけです。
> つまり、変項がn個ある命題間数を、命題にするにはそのn個総てに関して、定項を代入するか演算子で束縛するかしなければならないわけです。それが不十分で、m項しかそれをしなかったならば、今までn項だった命題間数がn−m項の命題間数になるだけだというわけです。逆に言えば、命題とは0項の命題間数ということになるのでしょうか。

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Subject RE:1−4.普遍量化子/存在量化子  自由変項/束縛変項
Author 木神 [ 3187 to イストラン ]  12/29/Sun/2003   

もしかしたらイストランさんの疑問を誤解して的外れなレスをしてしまっているかもしれませんが、
例えば命題間数f(x、y)には自由変更x、yがあるわけですよね。
これは例えば「xはyを愛している」という命題間数だったりするわけです。この命題間数を命題とするためには、方法は二つあります。

第一に、変項x、yに定項である 太郎 と 花子 を代入する場合などがそれです。そうすると命題間数「xはyを愛する」は命題「太郎は花子を愛する」になります。

第二の方法は、それまで自由変項だったx、yを演算子で束縛してやる方法です。たとえば∀x∃yf(x、y)とする。すると「どんな人にも愛する人がいる」という命題になります。

しかし演算子による束縛が中途半端にしかされない場合もあります。例えば、xのみを束縛して、yは自由変項のまま残す場合です。例えば
∃xf(x、y)といった場合です。f(x、y)というのは2変項の命題関数ですが、xのみを束縛したことで、∃xf(x、y)は1変項の命題間数になります。したがって、この命題間数は、今までと違って、1つの変項(つまりy)に定項を代入するか、演算子で束縛するかすれば、命題になります。
例えば、yに 良子 を代入して「ある人は良子を愛している」とするとか、
yを全称量化して、∀y∃xf(x、y)すなわち「どんな人にも、その人を愛してくれる人がいる」とすることができるわけです。
 つまり、変項がn個ある命題間数を、命題にするにはそのn個総てに関して、定項を代入するか演算子で束縛するかしなければならないわけです。それが不十分で、m項しかそれをしなかったならば、今までn項だった命題間数がn−m項の命題間数になるだけだというわけです。逆に言えば、命題とは0項の命題間数ということになるのでしょうか。

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Subject RE:1−4.普遍量化子/存在量化子  自由変項/束縛変項
Author イストラン [ 3185 to イストラン ]  12/26/Thu/2003   

>ここから、命題関数の中に現れる変項の間で、二つの種類が区別されえるということがわかる。自由 FREE ないし リアルな REAL 変項 と呼ばれるだろう種類の変項の出現は、考察中の表現が命題関数か命題かということを決める点で決定的なものである。命題関数から命題への変化を実際的なものにするためには、これらの変項を定項によって置き換えるか、あるいは自由変項を含む命題関数の前に演算子を置くことが必要である。しかし残りの種類、束縛 BOUND ないし 外見上の APPARENT 変項 はそうした変容で変化するわけではない。

 この部分はよくわからない。

 先にはこう言われていた。

 「変項「 x 」「 y 」「 z 」がその中で自動的に生じる命題関数は、それら変項すべてを含む一つないし数個の演算子を前置するやいなや、命題となる。しかしもしも、いくつかの変項が演算子の中に現れないならば、当該の表現は命題関数にとどまり、命題にはならない。」

 「それら変項すべてを含む...演算子」とは変項が束縛されるということだろう。しかしそうなると、演算子の中に変項があらわれないならば命題関数にとどまるということは、自由変項があれば命題関数にとどまって命題にはならないということだろう。

 しかるに、上の部分では、自由変項を含む命題関数の前に演算子を置くことによって命題関数が命題になる、と言っているように見える。

 一体命題関数は自由変項があっても命題になるのか、それともならないのかどっちなんだろう。

 原文は以下の通り。

 ...in order to effect the change from a sentential function to a sentence it is necessary to replace these variables by constants or else to put operators in front of the sentential function that contain those free variables.

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トピック= 3176 宛先= 3184 同宛先= 返信= 3187
 
Subject 1−4.普遍量化子/存在量化子  自由変項/束縛変項
Author イストラン [ 3184 to イストラン ]  12/26/Thu/2003   


4.普遍量化子・存在量化子 自由変項・束縛変項




いかなる x , y に対しても



x , y が存在して、それらは〜である


とは 量化子 と呼ばれ、前者は普遍量化子、後者は存在量化子と呼ばれる。量化子はまた 演算子 operator としても知られる。しかし量化子とは異なる演算子の中に似たものとみなされる表現がある。先の節の中で、二つの量化子の意味を説明してみた。それらの意味を強調するために、演算子の暗黙的ないし明示的使用によってのみ、変項を含む表現は命題として、つまりうまく規定された断言の言明として現れることができる、と指摘しておこう。


10

演算子の助けなしでは、数学的定理の定式化の中で変項を使うことは排除されるだろう。

 日常言語では、変項を使うことが習慣となってはいない(とはいえ可能であるが)。そしてこの理由のため、量化子も使われていない。しかし一般的に使用されるある種の言葉には量化子に近い関連を示すものがある。たとえば「あらゆる every」「すべての all」「ある種の certain」「或る some」である。この関連は次のような表現を観察すると、はっきりしてくる。

すべての人間は死に至る


あるいは

或る人間は賢い



は量化子の助けを借りて形式化された次の命題と、それぞれ、ほとんど同じ意味を持っている。

いかなる x にたいしても、 x が人間ならば、 x は死に至る


x が存在し、その x は人間であり、かつ賢い



 短さを考慮して、量化子は記号表現で置き換えられることがある。たとえば、

あらゆるもの(あるいは数) xy に対して



xy というもの(あるいは数)が存在して、それらは...である



のかわりに、それぞれ次のような記号表現で書くことに同意することができる。

x , y ,... x , y ,...


(これは量化子に続く命題関数が括弧内におかれるという了解のもとにである)この同意に従って、たとえば先の節の最後に、条件的存在命題の例として与えられた命題は次の形態をとる。
 
(T)
 [xyz )]
x , y   z


11

 変項「 x 」「 y 」「 z 」がその中で自動的に生じる命題関数は、それら変項すべてを含む一つないし数個の演算子を前置するやいなや、命題となる。しかしもしも、いくつかの変項が演算子の中に現れないならば、当該の表現は命題関数にとどまり、命題にはならない。たとえば、

xyz



という式は、もしも次のような句の一つに先立たれるならば命題へ変わる。

いかなる数 xz に対しても


xyz という数が存在して、それは...である


いかなる数 xy に対しても、数 z が存在して、それは...である



など。しかし、たんに量化子を置いただけならば、

z が存在して、それは〜である または 
  z


となって、われわれはいまだ命題に達するわけではない。次の表現、

(U)

  z
xyz

は、しかしながら疑いなく命題関数である。「 x 」「 y 」の位置にしかじかの定項を代置し、「 z 」を変化させずにおくときには、それは即座に命題となるからである。あるいはまた、別の適当な量化子、たとえば以下のようにするときにも、即座に命題となる。


どのような数 xy に対しても、または
x , y



 ここから、命題関数の中に現れる変項の間で、二つの種類が区別されえるということがわかる。自由 FREE ないし リアルな REAL 変項 と呼ばれるだろう種類の変項の出現は、考察中の表現が命題関数か命題かということを決める点で決定的なものである。命題関数から命題への変化を実際的なものにするためには、これらの変項を定項によって置き換えるか、あるいは自由変項を含む命題関数の前に演算子を置くことが必要である。しかし残りの種類、束縛 BOUND ないし 外見上の APPARENT 変項 はそうした変容で変化するわけではない。


12

たとえば、上の命題関数(U)の中では、「 x 」と「 y 」は自由変項であり、記号「 z 」は束縛変項として2度現れている。他方、表現(T)は命題であり、かくて束縛変項しか含まない。

 *何か特別の変項が自由であるか束縛されているかということは、命題関数の構造、つまり演算子の現前と位置に全面的に依存する。このことは具体例によってよく分かるだろう。たとえば次のような命題関数を考察してみよう。

(V) いかなる数 x に対しても、 x =0 または  y ≠ 0 ならば、 数 z が存在し、 xyz である。

この関数は変項「 x 」を含む普遍量化子で始まり、だからこの関数で三度現れるそれらはいずれも束縛変項としてそれらの位置に現れる。最初の位置では量化子の部分となっている。それに対して他の二カ所では、いわば量化子によって束縛されている。変項「 z 」に関しては状況は似たようなものである。(V)の最初の量化子はこの変項を含まないが、それにもかかわらず、我々はある種の命題関数を認知するからである。それは(V)の部分を形成し、変項「 z 」を含む存在量化子で始まる部分である。以下はその関数である。

(W) z が存在し、 xyz である。

(V)で変項「 z 」が現れる二つの位置はいずれも上の部分的関数(W)に属する。この理由のため、「 z 」は(V)のどこでも束縛変項として現れると我々は言うのである。すなわち、最初の位置ではそれは存在量化子の部分を成し、二番目の位置ではその量化子によって束縛されている。(V)に現れる変項「 y 」については、この変項を含む(V)ではいかなる量化子もなく、従ってそれは(V)では自由変項として二度現れているということが分かる。
量化子が変項を束縛するということ、すなわち、続く命題関数の自由変項を束縛変項へ変化させるという事実は、量化子の非常に本質的な性質を成している。他のいくつかの表現が類似の性質を持つことで知られている。そのようなものは後で(第20節、第22節)親しむことになるだろう。


13
また他のもの、たとえば積分記号のようなものは高等数学で重要な役割を持つ。「演算子」という用語はこの性質を持つ全ての表現を指し示すために使われる一般的な用語である。*

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Subject RE:3.変項による命題の形式化
Author イストラン [ 3180 to イストラン ]  12/20/Fri/2003   

<単称命題 SINGULAR SENTENCES>がある。

      3+2=2+3

こういうところで単称命題っていうのか、ふ〜ん。

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Subject 3.変項による命題の形式化
Author イストラン [ 3179 to イストラン ]  12/20/Fri/2003   

3.変項による命題の形式化−普遍命題と存在命題




 定項による変項の置き換えとは別にして、命題関数から命題が得られるもう一つのやり方がある。次の式を考えてみよう。

      xyyx

これは二つの変項「x」と「y」を含む命題関数であり、いかなる任意の数の組によっても満たされる。「x」や「y」の代わりにどのような数の定項を置いても、つねに真なる式が得られる。この事実を短く次のように表現する。

  いかなる xy についても、    xyyx

たった今得られた表現はすでにして純正な命題であり、さらには真なる命題である。我々はそこに算術の基本的法則の一つ、いわば加法の交換法則を認める。数学の最も重要な定理は同様にして定式化できるが、それはいわゆる<普遍命題>あるいは<普遍的特質を持つ命題>であって、ある種のカテゴリーに属する任意のもの(たとえば算術の場合には任意の数)がかくかくしかじかの性質を持つということを断定するものである。注意すべきであるが、普遍命題の定式化では、「 いかなるもの(ないし数) xy、...についても 」ということがしばしば言われず、だからこちら側で mentally 挿入してやらねばならない。たとえば、加法の交換法則は次のような形で単純に与えられるかもしれない。

      xyyx



8

これはよく受け入れられる用法であり、我々のさらなる考察の進展において一般的に支持することにする。

 それでは次の命題関数を考察しよう。

      xy+1

この式はあらゆる数の組によって満たされることには失敗する。たとえば、「3」が「x」の代わりに、「4」が「y」の代わりに置かれるならば、偽なる命題、

      3>4+1

が得られる。従って、もしも次のように言うならば、

       いかなる数 xy についても    xy+1

疑いなく意味のある、しかしあきらかに偽である命題を述べることになる。それに対して、考察中の命題関数を満足する数の組がある。たとえば、「x」と「y」がそれぞれ「4」と「2」によって置き換えられるならば、結果は次の真なる式になる。

      4>2+1

この状況は、短く次の文によって表現される。

       ある数 xy について    xy+1

あるいは、もっとよく用いられる形では

       xy という数が存在して、それは次のようである   xy+1

たった今得られた表現は真なる命題である。それらは<存在命題>あるいは<存在的特質をもつ命題>であり、もの(たとえば数)の存在を或る種の性質とともに述べている。

 ここで記述された方法の助けを借りて、我々はいかなる与えられた命題関数からも命題を得ることができる。しかし真なる命題や偽なる命題に到達できるかどうかは、命題関数の内容に依存している。つぎの例はさらなる説明として役立つだろう。

     xx+1



9

という式はいかなる数によっても満たされない。だから「いかなる数 x についても」とか「数 x が存在して、それはかくかくしかじかである」とかいうことを前置しても、結果する命題は偽であろう。

普遍的あるいは存在的特質を持つ命題と対比して、我々はいかなる変項も含まない命題を表示することがある。次のような<単称命題 SINGULAR SENTENCES>がある。

      3+2=2+3

このクラス分けですべて尽くされるわけではない。というのも、挙げられた三つのカテゴリーのどれにも数え入れることのできない多くの命題が存在するからである。一つの例は、次のような命題によって代表されるものである。

       いかなる数 xy についても、ある数 z が存在し、以下のようになっている    xyz

このタイプの命題はときに<条件的存在命題>と言われる(先に考察した存在命題に対するものとしてであり、それは<絶対的存在命題>と言われることがある)。それらはある種の性質を持つ数の存在を述べる。しかし他の数が存在することを条件としてである。


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Subject 2.変項を含む表現−命題関数と指示関数 [編集:12/14]
Author イストラン [ 3178 to イストラン ]  12/15/Sun/2003   

2.変項を含む表現−命題関数と指示関数 designatory fuctions

 変項はそれ自身で意味を持つことはないという事実から考えると、

xは整数である

という言い方は命題という文法形態を持っているにせよ命題ではない。それらは確定した断定を表現せず、確証されも反駁されもしない。



5

       xは整数である

という表現からは、その「x」を規定された数を指す定項で置き換えるときにひとつの命題を得るだけである。たとえば、もしも「x」が「1」というシンボルで置き換えられるならば、結果は真なる命題である。対して偽なる命題は「x」を「1/2」で置き換えるときに生ずる。変項と変項の定項による置き換えを含み、命題となるこの種の表現は、<命題関数>と呼ばれる。しかし数学者たちはこの言い方を好まない。なぜなら彼らは関数を別の意味で使っているからである。「条件」という語がもっと頻繁にこの意味で使われる。そして、

       x+y=5

のような、全部数学的(日常言語ではない)シンボルから成る命題関数や命題は、数学者たちによれば<式 FORMULAS>とされる。「命題関数」の代わりに、ときに我々はたんに「命題」と呼ぶだろう。しかしそれは誤解の危険性がないときだけである。
 命題関数の中での変項の役割は、適切にも質問表の中の空白と比較されることがある。ちょうど空白が満たされた後で質問表が規定された定項を得るのと同様に、命題関数は定項が変項の位置に置かれた後でのみ、命題となる。等しい変項には等しい定項を置くという、命題関数中の変項の定項による置き換えの結果は真なる命題へと導く。その場合、そうした定項によって指示されたものは、与えられた命題関数を<満足する>と言われる。たとえば、数1, 2, 2+1/2は次の命題関数を満足する。

       x<3

しかし数3, 4や4+1/2はそうではない。



6

 命題関数の他に、変項を含むさらなる表現があって、注意に値する。すなわち、いわゆる<指示関数>あるいは<記述関数 DESCRIPTIVE FUNCTIONS>である。それらは定項によって変項を置き換え、ものの指示(「記述」)に変わる。たとえば、

       2x+1

というのは指示関数である。なぜなら我々はある種の数の指示を得るからである(たとえば5)。その場合には恣意的な数の定項、つまり数を指示する定項(例えば2)によって「x」という変項を置き換えていることになる。
 算術で生ずる指示関数の中に、変項、数的定項、四つの基本的算術演算からなるいわゆる代数的表現すべてがある。たとえば以下のようなものである。

       x−y、 x+1/y+2、 2.(x+y−z)  

代数方程式は、それに対して二つの代数的表現を「=」というシンボルで結んだものであるが、命題関数である。方程式が関与するかぎり、特殊な用語法が数学では慣習となっている。たとえば、方程式中に現れる変項は未知 unknown と呼ばれ、方程式を満たす数は方程式の根 root と呼ばれる。次の方程式、

      x2+6=5x

では、変項「x」は未知であり、数2と数3は方程式の根である。

 もちろん、算術で使用される「x」「y」という変項については、それらは<数の指示の代わりである>とか<数はそれらの変項の値である>とか言われる。それによって近似的には次のことが意味されている。「x」や「y」というシンボルを含む命題関数は、もしもこれらのシンボルが指示する数としての定項によって置き換えられるならば(数の間の関係や、さらには幾何学的形態、動物、植物などという算術以外の領野のものの間の関係に関する操作を指示する表現によってではなくて)、命題となる。



7

同様に、幾何学で現れる変項は点や幾何学的形態の指示の代わりになる。算術で我々が出会う指示関数は、数の指示の代わりであると言うことができる。ときに、「x」「y」というシンボルは、それらから作られる指示関数同様に、数を指示し、数の指示であるとも単純に言われるが、しかしこれはたんに短縮した用語法である。

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Subject Re: 論理学入門 タルスキー
Author イストラン [ 3177 to イストラン ]  12/14/Sat/2003   



              ・T・


変項 variables の使用について

1 定項 constants と変項 variables

 あらゆる科学理論は命題 sentences の体系であり、その体系は真であるものと受け入れられ、法則あるいは確証された命題あるいは短く陳述 statements と呼ばれる。数学においては、これらの陳述はある種の原理に従って、決められた順序のもとに次々と続く。この原理は第W章で詳しく論じられる。それらは規則としてその妥当性を確立せんとする考察に伴われている。この種の考察は<証明>と言われ、それらによって確立された陳述は<定理>と呼ばれる。
 数学的定理や証明に現れる術語やシンボルの中で、我々は定項 constants と変項 variables を区別する。
 たとえば算術で、「数」「ゼロ」「一つ」(「1」)「計」(「+」)など多くの定項に我々は出会う。注1 これらの術語は上手に決められた well-determined 意味を持つが、考察の流れを通して不変のものである。
 規則として、たとえば算術での英語の小文字「a」「b」「c」...、「x」「y」「z」などの単一の文字は変項として我々は使用する。

 注1 「算術」ということで、数の一般的性質、数と数に関する操作の関係を調べることに関わる数学の一部分とここでは理解するだろう。「算術」の代わりに、とくに高校数学では「代数」がよく用いられる。我々は「算術」という術語を好む。高等数学では「代数」という術語は代数方程式の特殊理論のために取っておかれるからである。(近年では「代数」という術語はより広い意味を獲得しているが、それは「算術」の意味とは異なっている。)ここでは「数」という術語は数学で「実数」という術語に通常付された意味をもって使用される。すなわち、それは整数と分数、有理数と無理数、負数と正数を範囲とするが、虚数や複素数は含まない。



4

 そこで問題であるが、

       ゼロはなにがしかの性質を持つか?

たとえば ゼロは整数か?

というのは、肯定的にあるいは否定的に答えられる。答えは真でも偽でもある。しかしともあれそれは意味を持っている。他方、xに関する問い、たとえば

       xは整数であるか?

というのは意味があるようには答えられない。

 基礎数学のテキストの中には、とくに時代が経ったものの中には、変項に独立した意味を与えることが可能であるという印象を与える定式に出会うものがある。たとえば、「x」「y」...もまた、ある種の数や量を指示しているが、「定数」(「0」「1」...のような定項によって指示される)ではなく、いわゆる「変数」あるいはむしろ「変量」である、と言われる。この種の陳述は粗野な理解に端を発している。「変数」xはいかなる特殊な性質も持たない。たとえば、それは正でも負でもなく、ゼロに等しくもない。むしろそうした数の性質は場合によって変わるのであり、つまりその数はあるときは正、あるときは負、あるときはゼロに等しい。しかしその種の実体は我々の世界にはまったく見あたらない。それらの現存は思考の基本法則と矛盾している。定項、変項へとシンボルをクラス分けすることは従って、数の似たようなクラス分けの形式の中ではいかなる類似物も持たない。

************

以上、Introduction to Logic and to the methodology of deductive sciences (Dover,1995)から。これは原本が1941年、46年に第二版改訂版が出て、その1961年第9刷の再出版とのことである。

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Subject 論理学入門 タルスキー
Author イストラン [ 3176 new post ]  12/14/Sat/2003   

タルスキーと言うのかタルスキというのか知りませんが、とりあえずタルスキーとしておきます。

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