INDEX   投稿順一覧   最初の投稿   トピック内新規投稿   ツリー表示
TOPIC 論理学の哲学的考察
 
Subject 論理的なるものの三つの契機
Author ヒスパーヌス [ 3128 to ヒスパーヌス ]  8/15/Thu/2003   

前々回の投稿の中で、私は、「論理的なもの」の持つ三つの側面ないし契機として、ヘーゲルの言葉を援用して

a) 悟性的抽象的な側面
b) 弁証法的ないし否定的・理性的な側面
c) 思弁的ないし肯定的・理性的な側面

をあげました。論理学がこの三つの部分に分かれるというのではありません。あるいみでは、凡てをそれぞれの側面に於いて表現することができる。ただし、どれか一つの側面だけでは、論理的なものは尽くされないということです。

ここで注意すべきことがいくつかあります。

一つは、ヘーゲル論理学を「弁証法的論理学」と呼ぶのは正確を欠くということ。弁証法的なるものは論理的なるものののもつ不可分なる三つの側面ないし契機のうちの一つに過ぎないからです。

いわゆる正・反・合の三つ組みで表記される概念の発展を弁証法論理学の根本原則とするような考え方はヘーゲル自身のものではありませんし、また悟性的なる形式論理学とは別に、それよりも高次の論理学として弁証法的論理学なるものを構想したのでもないのです。勿論、抽象的・悟性的→否定的・理性的→肯定的・理性的 という概念の展開はありますが、弁証法という言葉の本来の用法はその二番目の段階を指すものであったということに注意すべきでしょう。

 次に、理性の立場というのは、悟性的なるものを越えていると同時に、悟性的なるものをうちに含んでいなければなりません。空間的アナロジーを使うことが許されるならば、立体幾何学が、平面幾何学や曲面の幾何学を含んでいるように、理性の論理学は悟性の論理学を包摂しています。論理学の「理性的」側面は、その否定的なるものも肯定的なるものも、「悟性的」側面へと射影することができます。

つまり、本来理性に属するものを悟性的な形で表現することは、いつでも可能だということです。ただし、それは、それ本来の真理(全体性)においては表現されないという制約を持ちます。すなわち、理性的なるものを悟性的に表現する場合、それはしばしば、同一性命題、矛盾命題のような形をとります。
このことはクザーヌスのようなキリスト教的神秘主義の文献の中では、

「絶対者は対立規定の一致として言表される」

と述べられました。現代の形式論理の言葉を使うならば、否定的な理性的命題は、悟性の立場では、矛盾ないし二律背反の形をとり、肯定的な理性的命題は、たとえば同一性命題のかたちで表されます。

 ヘーゲルは「矛盾は真理の基準であり、無矛盾は虚偽の基準である」と言い表しましたが、このパラドキシカルな主張は、ヘーゲルが「真理」なるものを、悟性的な「真理値」としてではなく、論理的なるものの「全体性(上記のabcの全体)」としてとらえる事に由来します。

さて、ヘーゲルが否定的・理性的な契機と呼ぶb)の契機の根本的な特徴について、ヘーゲルは、

>  b) 弁証法的契機(das dialektische Moment)は
>  そのような有限な諸規定の自己止揚(Sichaufheben)
>  であり、反対の諸規定への移行である。

といっています。ここで、「反対の諸規定への移行」というヘーゲル弁証法の核心にある事態を現代の記号論理の表記法によって表現してみましょう。

これは言うなれば、b)の弁証法的な側面をa)の悟性的な側面に射影することを意味します。

ここでは、論理式の質料的含意を表す記号⊃と否定を表す記号¬、連言を表す記号∧を使って、

定式1   (p⊃¬p)∧(¬p⊃p)

として、「反対の諸規定への移行」の命題形式とします。

<解説>

否定の弁証法の定式化にあたって、通常の命題論理と同じ記号を用いましたが、ここで論理式と呼んだものを、ただちに、「真理値の確定した命題」と考えるべきではありません。

「凡ての」命題は<我々とは独立に>「真または偽」の値を持ち、しかも「真かつ偽」という値を同時にとることはない、という古典論理学の仮定そのものの普遍的妥当性こそが、哲学的論理学ではまさに問題的なのです。

この仮定をそのまま素朴に前提して、すべての命題に真理値を付与できると考えるのは、形式的な「古典論理」の立場を独断的に認めることに他なりません。

命題論理学の結合詞や否定詞の意味を真理表で定義するやり方−−それは命題は真理値を名指すと考えたフレーゲや前期ヴィットゲンシュタインに由来するものですが−−では、真理値概念に関する素朴な実在論的見解が前提されています。このような真理値概念に従うと、

同一律 p⊃p も 無矛盾律 ¬(p∧¬p)も
排中律 p∨¬p

はすべて「恒真式」の異なる表現となり、論理学の三法則のあいだの相違点が消失してしまうでしょう。

幸い、現代論理学では、真理値の概念を前提せずに言語に内在的な使用規則のみによって、推論構造の形式化を行っています。たとえば、ゲンツエン流の自然演繹の形式的体系では、真理値概念に依拠せずに、前件と後件の形式的な帰結関係 → を使って、

「恒真式」は「あらゆる論理式から帰結される論理式」       
「恒偽式」は、「あらゆる論理式を帰結する論理式」
       
として形式的に定義することができます。

しかも、このような「統語論(syntax)的」な方法をつかうと、排中律の絶対的妥当性を認めない直観主義論理や、分配律の絶対的妥当性を認めない量子論理の推論構造を、古典論理学との対比に於いて明瞭に表現することができるという利点があります。

二値論理を素朴に認める古典論理学の制約を超えて、(排中律を認めない)直観主義論理学や(分配律を認めない)量子論理学との共通点や相違点は、このように、真理値を前提しない統語論的手法を駆使することによって解明されます。

もっぱら数学に於ける構成主義を立場とするブラウアーの直観主義や、観測されるシステムの凡ての性質が観測者とは独立に決定されていることを否定するボーア・ハイゼンベルグの相補性(ないし不確定性)の物理学は、「論理的なるもの」にたいする新しい見方を提供しましたが、このような非古典的な論理学の構造分析の先例は、ヘーゲルの思弁的な論理学の構造を分析する際にもおおいに役立つものであると私は考えています。

ヘーゲルが問題としたのは無限なるものが限定され現象する領域に他ならぬ芸術と宗教が表象や象徴によって捉えた世界において活動する生きた具体的思索です。

悟性的論理では捨象され、無視される人間の精神的活動の多くが、その最も具体的・全体的なかたちで捉えられます。とくに、芸術と宗教という領域に於いていかなる論理が具体的に展開されているかを見る場合には、抽象的・悟性的な立場を含みつつもそれを越える論理が要求されるでしょう。

返信(引用有)   返信(引用無)   全スレッド   ツリー表示   最新20   新規投稿   削除   編集
トピック= 3120 宛先= 3120 同宛先= 3123 返信=
 
Subject 参考文献など Re2: 論理学の哲学的考察[編集:8/14]
Author ヒスパーヌス [ 3125 to イストラン ]  8/14/Thu/2003   

イストラン様

返信ありがとう存じます。

> どうも有り難うございます。ヒスパーヌス様のお考えを理解できるほど論理学に親しんでないですが、ぜひお教えください。


お教えできるような知識も持っていませんが、私なりに考えたところを発表させていただきます。

>
> 私が持っているヘーゲル論理学と記号論理学の対比についての書物は速川治郎という人の『反照論理学』です。記号論理学は勉強中で、しかもヘーゲルに疎遠なため、この本も疎遠なのですが、方向性としては、そのような対比なのでしょうか。
>

『反照論理学』という本はまだ読んでいませんので、私が考えていることが速川さんのご主旨と同じかどうか判断できません。8月20日から図書館が利用できるので、その際、もし可能ならば速川さんの本を閲覧して、彼の見解にコメントしてみましょう。

日本の哲学者・ヘーゲル研究者の本で私が特に取り上げたいと思っているのは、以下の著作群です。

1)「ヘーゲル論理學と時間性:場所の現象学へ」 大橋良介著 創文社 1983

これは、大橋氏がビュルツブルグ大学に教授資格論文として提出したものの日本語版。基本的には西洋哲学の存在論の伝統を「破壊(脱構築)」するハイデッガーの哲学的戦略をうけとめたもの。ヘーゲル論理学の「構造」を解体して、この構造の成立する「場所」を究明することが主題です。

著者の脱構築の手続きは二段階に分かれている。

第一段階は、ヘーゲル論理学を時間性の構造に向けて脱構築すること。その際、「有(Sein)」は現在態へ、「本質(Wesen)」は既在態へ、「概念(Begriff)」は将来態へと関係づけられる。ここでの、著者の論述は、大体に於いてハイデッガーの実存カテゴリーのもつ時間性の構造分析を範例としています。

第二段階は、第一段階で捉えられた時間性構造の成立する「場所」で、それを著者は「瞬間−場」としての「無の場所」と呼ぶ。ヘーゲル論理学は、時間性へ向けて脱構築されるだけでなく、時間性の構造そのものも「無の場所」において解体される。そして、この無の場所に於ける「現象学」こそ、ヘーゲルの「精神の現象学」にかわって、新たに書かれるべき「場所の現象学」の必要性を示すものです。

著者の言う「場所の現象学」は、西洋哲学のロゴス中心主義、存在論と神学との癒着を解体するという意味で、基本的には西田哲学の「絶対無」の弁証法を、現象学的に継承することを志したものです。


2)「ヘーゲル哲学と無の論理」高山守 東京大学出版会 2001

著者は『差異論文』と『信仰と知』というまさにヘーゲル哲学が生成の途上にあった時期の論文から議論を始める。いまから200年前、ドイツ理想主義を成立させたフィヒテ・シェリング・ヘーゲルの三者とも「無の問題」に深く関わりを持っていたという事実に著者は注目します。最終章「ヘーゲルにおける無の思想」で、著者は「ヘーゲルは絶対者を無と捉え、この無、絶対無を露わにしようとしていたのではなかったか」という根本的な問が提示されています。

私は高山氏の所説はヘーゲル解釈としては誤っていると思っています。しかし、誤った解釈の中に、ヘーゲル哲学を新しい形で継承する可能性が潜んでいると思いますので、この観点から、高山氏の近著を取り上げましょう。

前回の投稿で、フレーゲからゲーデルに至る現代論理学の展開を視野に入れると言いました。ここでの議論は、ヘーゲルの言う「抽象的・悟性的」なる論理学、所謂形式論理学の三原則、「同一律」、「無矛盾律」、「排中律」の絶対的な妥当性を巡る問題について、現代論理学がどのような思索を展開してきたかということに論点を絞ります。

ヘーゲルは、「矛盾こそが真理の基準であり、無矛盾は虚偽の基準である」というパラドックスを述べました。これこそへーゲル弁証法の精神を要約したものといえましょうが、それを問題とするために、現代論理学で展開されたパラドックスを巡る様々な議論を反省することを試みたいと思います。

もっとも、私自身は、現代論理そのものに関心があるわけではなく、むしろそれをふまえたうえで哲学的論理の新たなる展開を心がけている次第です。

とくに無矛盾律とヘーゲル弁証法との関係を問うという問題については、多くの文献がありますが、ここでは、この問題について継続的な思索を展開してこられた山口祐弘氏の三つの論文

3)「へーゲルに於ける弁証法論理の成立」『思想』 2001年2月
「へーゲルに於ける弁証法の開示性」『思想』 2001年9月
「ヘーゲル弁証法と場所的論理−西田哲学との対論」『思想』2003年7月

を手引きとしましょう。

返信(引用有)   返信(引用無)   全スレッド   ツリー表示   最新20   新規投稿   削除   編集
トピック= 3120 宛先= 3123 同宛先= 返信=
 
Subject Re: 論理学の哲学的考察
Author イストラン [ 3123 to ヒスパーヌス ]  8/14/Wed/2003   

 どうも有り難うございます。ヒスパーヌス様のお考えを理解できるほど論理学に親しんでないですが、ぜひお教えください。

 私が持っているヘーゲル論理学と記号論理学の対比についての書物は速川治郎という人の『反照論理学』です。記号論理学は勉強中で、しかもヘーゲルに疎遠なため、この本も疎遠なのですが、方向性としては、そのような対比なのでしょうか。



 追伸 自分で作ってなんなのですが、背景画面が見にくく、趣味が悪いようでしたら、「ノート」か「なし」にしてください。サンプルに「ノート」で投稿しますね。もっとも新着20画面では関係ありませんが。

返信(引用有)   返信(引用無)   全スレッド   ツリー表示   最新20   新規投稿   削除   編集
トピック= 3120 宛先= 3120 同宛先= 3128 返信= 3125
 
Subject 論理学の哲学的考察
Author ヒスパーヌス [ 3120 new post ]  8/13/Wed/2003   

イストラン様

たまたま、貴兄の掲示板を拝見し、インターネットという新しいメディアをつかった哲学的思索の交流の試みに興味を覚えました。もし、ご迷惑でなければ、「論理学の哲学」という表題のこのスレッド上で、小生の考えたところを投稿させていただきたいのですが、如何でしょうか。


 ========================
     論理學の哲学的考察        

ヘーゲルはエンチクロペディーの「論理学」の「予備概念(Vorbegriff)」において、「論理的なもの」のもつ三つの側面ないし三つの契機(Moment)というものを考察している。

  a) 抽象的側面あるいは悟性的側面
  die abstrakte oder verständige
  b) 弁証法的側面あるいは否定的理性的側面
  die dialektische oder negativ-vernünftige
  c) 思弁的側面あるいは肯定的理性的側面
  die spekulative oder positiv-vernünftige

  a) 悟性としての思惟(das Denken als Verstand)は
  固定した規定性とこの規定性の他の規定性に対する区別と
  に立ち止まっており、このように制限された抽象的なもの
  だけが、それだけで成立し存在すると考えている。

  b) 弁証法的契機(das dialektische Moment)は
  そのような有限な諸規定の自己止揚(Sichaufheben)
  であり、反対の諸規定への移行である。

  c) 思弁的なものあるいは肯定的理性的なものは、
  対立した二つの規定の統一を、すなわち対立した二つの
  規定の解消(Auflösung)と移行(Übergehen)とのうちに
  含まれている肯定的なものを把握する


 ヘーゲルがこの「予備的考察」を書いたのは一九世紀の初めであり、爾来、二世紀の経過がある。その間に、へーゲルが「悟性的抽象的」と呼んだ論理学の側面は、数学的な形式論理学として著しい発達を見た。

カントやヘーゲルは、アリストテレス論理学(範疇論、命題論、分析論、弁証論)のみを前提として哲学的論理学を展開したが、現代の我々は、フレーゲ以降ゲーデルやタルスキーに至る現代論理学の豊かな展開を知っている。

そこで、現代に於いて「哲学的」な論理学を志向するものがまずもって行うべきは、論理的なるものの他の二つの契機、すなわち、「弁証法的・否定的」契機と「思弁的・肯定的」契機なるものを、ヘーゲル没後二世紀の間の論理思想の発展をふまえた上で再考するということである。

このような試みは、私の知る限り、いまだ本格的に為されたことはない。一般に、フレーゲからゲーデルに至るまでの論理思想の発展は、その大部分が、論理実証主義やプラグマティズムというような、非思弁的な感覚主義的経験論の哲学の枠組みで論じられることが多かった。

また、ヘーゲルの論理学に関心を持つもののすくなからぬ部分がマルクス主義者であり、彼等は、「形式論理学と弁証法」というエンゲルスに由来する非ヘーゲル的・俗流マルクス主義的な「弁証法」の枠組みで議論することが多かった。

アカデミズムの場では、分析哲学の陣営とヘーゲル研究者との間での創造的な対話というものがあまり見られないのも残念である。そこで、以下に於いて、試行錯誤を繰り返すというおそれがないとも言えないが、ヘーゲル論理学の精神を生かしつつ、現代論理の歴史をふまえた上で、論理学の哲学を考えるという(内的)対話を試みよう。

返信(引用有)   返信(引用無)   全スレッド   ツリー表示   最新20   新規投稿   削除   編集
トピック= new post 宛先= 同宛先= 返信= 3123 3128


Complete


Eleutheria ver.1.6 / 2004.12 by www.eleutheria.com