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TOPIC 『論理学の哲学』(S.Haack) 第四章 量化子
 
Subject RE:師匠! 続きの翻訳を!
Author イストラン [ 3150 to ALRDTP ]  10/28/Mon/2003   

さいわい第四章の残りの部分はほとんど訳してありました。けれども、あいかわらず何言っているんだかわかりません。だもんで訳は適当です。はやく様相論理や多値論理までたどりつきたいんですが、最近は読みたい本がたくさんあってなかなかです。

 注:対象的解釈は客観的解釈にあらためました。

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Subject 3 解釈の選択
Author イストラン [ 3149 to イストラン ]  10/28/Mon/2003   

 3 解釈の選択

 量化子の一つの解釈が「正しい」ものなのか。あるいは目的に従って二つの解釈の間で選択することができるのか。もしそうなら、それぞれの強み、弱点は何だろう。

 代置的量化子と真理

 量化子について、どちらの解釈が採用されるかということは、量化された文の真理の定義に違いをもたらす。ここでは簡単に述べ、第七章第五節、第六節でもっと突っ込んだ議論をする。もしも量化子が代置的に substitutionally 解釈されるならば、量化された論理式の真理は原子式の真理という点から直接に定義され得る(「(∃x)Fx」が真であるのは、「F...」の何らかの代入事例が真であるときに限る)。



51

量化子が客観的に objectually 解釈されるならば、真理の定義はそれほど直接的ではない。さて Tarski は、真理の定義に関する「実質的妥当条件」として、いかなる受容可能な定義も帰結として「(T)図式」の全ての事例を持たなくてはならない、と提起したのであった。すなわち「pである限りSは真である」。そこでは「S」は文「p」を名ざしている name。Wallace 1971 が恐れるのは、もしも代置的解釈が採用されるとなると、真理の定義はこの要求に応えることができないということである。しかし Kripke は Tarski の条件が侵犯されることはないと論じた。ともかくこの要求自体については制限があるだろう。だから代置的解釈は この 点では反駁可能ではないと想定しておこう。


  あまりに少ない名称?

 このことは、代置的解釈と客観的解釈は、どちらも相変わらず適切なのかという問いをそのままにしておく。が、答えがノーなのは明白である。これはもちろん、解釈される理論のテオレームが真になるという受容可能な解釈についての要求である。明らかに、代置的解釈が実在的に量化された論理式を真とするのは、適切な代置するものが入手可能なときに限ってであろう。たとえば、「(∃x)(Fx∨−Fx)」は一階述語計算では定理である。しかし、量化子はあるが単称名辞がない式では、適切な代置−事例がないために、代置的解釈はそうした論理式を真とすることはできないだろう(だから単称名辞の除去は代置的説明を排除するだろう)。代置的解釈が排除されるような別の状況は、「(∃x)Fx」が定理であり、しかもあらゆる代置事例に対して「−Fa」が証明可能である形式システムである。なぜなら少なくとも事例の一つは真であるというふうにしなければ、代置的解釈は量化されたテオレームを真となすことはできないからである(この可能性は Quine 1968 によって議論された。Weston 1974 参照)。


  時制

 しかし代置的解釈の支持者たちは、代置的解釈が客観的解釈に対して優位を持つと論じる。たとえば、Marcus は代置的解釈が時制に関する困難を回避するだろうと言う。Strawson は、どうやって「生存者の中に少なくとも女性が一人いた」を考えたらよいのかと問う(1952 pp.150-1)。「女性である(であった?)ような、そして...であるようなxが少なくとも一人いる(いた?)」? この問題は代置的読解によっては解決されそうにない、と私は思う。



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「少なくとも「...」の一つの代置例は、真である(であった?)」時制というものが非形式的論証の(非)妥当性に関わること、そして通常の論理装置が時制について鈍感であるということは本当であるし、重要なことである。しかし代置的解釈は助けになりそうにない。


  様相

 Marcus はまた、代置的解釈が様相述語論理の解釈についていくつかの問題を解決しうると示唆しているが、これはもっと正しく思える。
 真と想定される文である

   必然的に(宵の明星=宵の明星)

 から、妥当と想定される述語計算の推論によって、

 (∃x)必然的に(x=宵の明星)

 が帰結する。すなわち、客観的解釈によれば

  必然的に x が宵の明星と同一であるような、少なくとも一つの客観 x が存在する。

しかしこれは理解するのが困難である。実際、Quine はそれをベースにして、様相述語論理の試み全体は誤った方向にあると論じる。というのも、必然的に宵の明星と同一視される客観とは何なのか?これは宵の明星ではない。というのも、それは明けの明星だからである。そして明けの明星は必然的に出はなく、偶然的に宵の明星と同一視されるのである。しかし Quine のやっかいな問いはこの面倒な文を代置的に読むことで回避される。

  「必然的に(...=宵の明星)」の少なくとも一つの代置事例は真である  

(「必然的に(宵の明星=宵の明星)」は真であるのだから)これは問題なく真であるようにみえる。
 代置的解釈は、二階の量化に向かうときにも優位を持つように思われる。


 二階の量化

 もしも、客観的解釈により、「(∃x)...」ということは、...のような一つの客観があるということを言い、また「(x)...」はすべての客観について...ということを言っているというならば、束縛変項を適切に代置するもの substituend は、その役割が客観を指示する役割を持つ表現、すなわち単称名辞 singular term であるということが予想される。実際、Quine はしばしば単称名辞を束縛変項の位置を取り得る表現と定義する。



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しかし代置的解釈によれば、量化が直接関与するのは客観ではなく、代置するもの substituend である。であるから、単称名辞のカテゴリーの表現のみが量化によって束縛され得ると主張する必要は特にない。代置のクラスは単称名辞のクラスでもあり得るし、述語のクラスないし文のクラスでもあり得る。
 したがって客観的解釈によると、以下のような一階の量化
1 (∃x)Fx
が言っているのは、Fである一つの客観(個体)が存在するということであり、また次のような二階の量化
  2 (∃F)Fx
が言っているのは、xが持つ客観(特性)が存在する、ということであり、
3 (∃p)(p→−p)
が言っているのは、自身の否定を実質的に含意する一つの客観(命題)が存在する、ということである。代置のクラスに関する自然な制限は、束縛された「F」や「p」を構文的に単称名辞のように解釈するように義務づける。このことが読みを無理強いことは観察される。もしも「F」が単称名辞であるならば、「Fx」は文法的文を作るために「xがFを持っていること[xHASF]」と読まれなくてはならないのだから。そして、客観の項の解釈は二階の量化を(抽象的)客観に関わることとしてみなすように義務づける。そうした特性として、命題として仮定された客観を配慮することなく、二階の量化がそれらの現存に関わらせるために客観的解釈に義務づけられて、Quine は 二階の量化にこだわらず、一階の理論にとどまったのである。
 しかし、代置的解釈により、人は代置するものとしての単称名辞に限定されることはない。一階の量化の場合に単称名辞が適当である一方で、2や3の述語や文における二階の量化の場合にも、それぞれ単称名辞は適当なものである。2はある「...x」の或る代置事例が真であることを言うだろうし、3は「...→−...」の或る代置事例が真であることを言うだろう。さて、束縛変項の読みを名称状のものに無理強いする必要性はもはや存在しない。



54

図3 量化子と存在論



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また、客観への関与がないのだから外延的客観への関与がないとする読みの必要もない。(図3参照)
 これらの思考はなんらか形而上学的問題に関するものを持っていると私は思う。唯名論者は個別的なもの実存だけを認める。これに対して実在論者ないしプラトニストは普遍者の実在性も許容する。Ockahm 以来、哲学史上の唯名論の影響はあまりにも永続的であり、唯名論か、普遍は一種の抽象的個別的なものであるという「唯名論的プラトニスム」だけが可能な選択肢であるように見える、とC.S.Peirce は思った。どちらも拒否しながら、彼は実在論を勧めるのだが、それはこれらのものを取り入れるというよりはむしろ個別的なものと普遍的なものとの差違を許容するのである。もしも名称だけが束縛変項にとって代わりえるのだとするならば、一種の唯名論(個別的なものの名によって置き換えられる変項をもった一階の量化しか許容しない。Quine の見解)と、一種の唯名論的プラトニスム(特性、命題という抽象的客体の名によって置き換えられる変項をもった二階の量化を許容する、Church の見解)との間で、いわば選択するよう強いられる。しかし他の構文的カテゴリーからの代置を許容することは、第三の立場を与える。それは形而上学的見地からして訴えるものを持っている。
 いくつかの他の問題が、二階の量化の受容可能な解釈に関する規定に依存している。その一つは真理の冗長性理論の可能性である。この節の考察は、第七章第七節でその問いを詳細に論じるときに、大きく関与してくるだろう。

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Subject 師匠! 続きの翻訳を!
Author ALRDTP [ 3147 to イストラン ]  10/27/Mon/2003   

お願いいたします。量化子の解釈の部分の残りのとこです。

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Subject Re2: 『論理学の哲学』(S.Haack) 第四章 量化子
Author ヒスパーヌス [ 3105 to ぱんどら ]  7/20/Sun/2003   

初めまして
じつはHaackさんの本を持っていないので
見当違いの事を言うかもしれませんが
パンドラさんの投稿にレス致します。

>命題を真偽判定するにあたって
>(1)(x)Fx≡Fa&Fb&Fc&... や
>(2)(∃x)Fx≡Fa∨Fb∨Fc... の
>表現を見ると、述語論理がやはり、実在の集合論の上に成り立っているのだ
>という解釈を禁じえない。

集合論は第一階の述語論理で公理化できますが
述語論理そのものは、集合論を前提しません。

syntax(構文論)とsemantics(意味論)を混同していませんか。

「実在の集合論」という言葉の意味が不明瞭ですが
集合の実在論にコミットするという意味ならば
述語論理は、そういうontological commitment はしていません。

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Subject 2 形而上学的間奏:クワイン、量化と存在論
Author イストラン [ 3104 to イストラン ]  7/8/Mon/2003  神秘主義と哲学 eleutheria.com

Philosophy of Logics, S.Haack,43-50


 2 形而上学的間奏 クワイン、量化と存在論について

 存在論とは、どんなものが存在するのかという問いに関わる形而上学の部分として特徴づけられるだろう。Quine の存在論に関する考えは二つの概念の産物として見ることができる。それらはよく知られた二つのスローガンで表現される。「在るとは、変項の値であることである」および「いかなる実体も同一性なしではない」(図2を見よ)。最初のスローガンは Quine の 存在論的関与 commitment の基準 を導入する。どんなものを理論が在るというのかというテストである。二番目のスローガンは彼の 存在論的許容性 admissibility の標準 を導入する。同一性の妥当な基準が与えられ得る実体だけが許容されるべきだというのである。これらの考えの最初のもの、存在論的関与の基準に議論を集中させてみよう。というのも、客観的量化に対するQuineの支持が第一義的に関わるのはこのことであるから。
 しかしながら、二番目の考えについて一つ二つコメントをしておくのが有益だろう。同一性の基準は与えられた或る種のものに対する条件を与える。たとえば、もしも同じメンバーならば集合は同じである。あるいは、二つの物理的対象はそれらが同じ時空位置を占めているのであれば同じである。ただそのような種類の実体だけが同一性の基準がそれに対して与えられるという要求はかなり強い要求であること、これは注意しなくてはならない(たとえば人々が存在するということはかなり確かであるが、人格的同一性に関する有名な問題がある)。内包的(意味)概念は絶望的に曖昧である、これがQuineの主張するところである。従って、Quineの標準によれば、内包的観点で立てられる同一性条件は妥当ではない。だから意味−たとえば特性とか命題とかに訴えることによってのみ個体化され得るとして想定された実体は、彼の標準から言えば許容できない。


  存在論的関与の基準

 それではQuineの存在論的関与の基準とは何だろうか。そしてそれがどのように量化子の客観的解釈とつながるのだろうか。



44

図2



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 この基準は必ずしも等価ではない様々な形で言われる。

ある種の実体は、理論において確認される言明が真であるために、それらのいくつかが変項の値の範囲内にあるものと見なされねばならない限りにおいてのみ理論によって想定される。

(1953a p.103)
ある存在量化がある種類の対象を前提とすると言うことは、量化子に続く開いた文が、その種の対象について真であり、その種でないものについては真ではないと言うことにほかならない。(1953a p.131)


この考えはおおざっぱに言うと、ある理論が存在すると述べているものは、それを述語計算の記法においてみることによって言うことができるということ、また「(∃x)...」で始まるテオレームが真であるときには、どんな種類のものが変項の値として要求されるかを問いにかけることによって言うことができる、ということである。(したがって、「(∃x)(xは素数であり、かつx>1, 000, 000)」がテオレームである理論は百万より大きい素数の存在に関与し、 ましていわんや 素数の存在や数の存在に関与している。)この基準は 解釈された 理論にのみ当てはまることは明らかである。またこの基準は プリミティブな記法 で理論が表現されるときにのみ当てはまるべきだということも重要である。もしも数を範囲とする量化が、たとえばクラスを範囲とする量化に代わる縮約型にすぎないのであれば、理論はクラスに関与しているのであって数にではない。Quineの基準は理論が存在すると言うものをテストするのであって、存在するものをテストするのではない。 存在するもの は、 真の 理論が存在すると言うものである。内包的実体を認めることの拒否は、いわば最初のフィルターである。内包的実体が存在するという理論はQuineの見方では真に理解可能といえるものではない。だから ましていわんや それらが真であるということはないのである。
 その基準に関するQuineの説明は多くのことを説明されるべきものとした。Cartwright が1954年に主張したように、いくつかの定式−たとえば上に引用した最初のもの−は「ねばならない」「べきである」「要求する」のような言い回しを使用する。それでもこれらは内包的表現であり、Quineはそれらを避けなくてはならないと公に促した。彼は自分の基準が外延的なものであると明確に主張した(1953a pp.15,131)注1

注1 量化形態ではない理論に自分の基準が適用されると、その理論の正しい翻訳への訴えという形で述語計算に内包的要素が導入されるということを彼は認めた。(1953a p.131)この譲歩は、翻訳の非決定性というQuineのテーゼ(1960a 第二章)とともに、存在論的相対性(1968)へと導くものである。しかし現在の関心事はこの基準自体が外延的な道におかれるのかどうかということである。




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そして或る定式−たとえば上の二番目の引用−は純粋に外延的用語で与えられる。問題は、外延的定式が妥当かどうかということである。かなり説得力をもって Sheffer と Chomsky (1958)はそうではないと論じた。問題は、外延的定式化において、どうやって「量化子に続く開いた文がある種の対象には真であり、その種以外のものについてはそうではない」ということを理解するか、である。もしもそれが「kという種類の対象が存在して[∃]、開いた文はそれらについて真であり、その種類のものでないものについては真でない」と読めるならば、以下の帰結になる。kという種類の対象が存在するということを理論が言うためには、kという種類の対象が存在していることを 自ら 言いながらでしか不可能である、なぜなら「kという種類の対象が存在して[∃]」というのは自ら存在論的関与を含んでいるのだから。しかし「開いた文がいかなる対象についても真であるならば、kという種類の対象について真であり、その種類のものではないいかなるものについても真でない」という風に読むならば、存在しない何かに関与しているどんな理論も、存在しないあらゆるものに関わる。というのは前件が偽ならば条件法は真になるからである。」という帰結になる。しかしながら、もしもこの基準が外延的に妥当な仕方で定立され得ないならば、それはQuine自身の標準によって失敗するのである。もちろんQuineの疑念を共有しない者ならばその内包的性格にも関わらずこの基準を受容可能とみなすかもしれない。しかしQuineがこの基準のために述べる根拠についてはさらに問われるべきものがある。
 どうして存在論的関与を変項に定位させるのか。Quineの提示する重要な根拠は、単称名辞の除去可能性は、理論の存在論的関与が名称の中に存在できないことを示す、と彼が考えるところにある。このことは二つの問いを惹起する。単称名辞は除去可能であるというQuineの主張は正しいのだろうか。そして単称名辞は除去可能であると彼が考えているならば、存在論的関与は束縛変項によって生じるのだろうか。今度はこれらの問いを取り上げてみよう。
 単称名辞の除去に対する Quine の提案は二つの段階を持つ。まず、単称名辞は確定記述に取って代わられる。それから確定記述は量化子と変項によって除去される。
 (i)少なくともいくつかの代名詞の場合、同じことを指示する確定記述を与えることができる。「ソクラテス」に対して「プラトンの先生」というように。名称によって指示される個体に関して真であるとみなしてよい通常の述語を見つける場合に出くわす困難を避けるために、Quineは人工的な述語を作り、(「ソクラテス」のような)「a」を、(「ソクラテスするx」のような)「(ιx)Ax」と定義する。Quineの教えるところによると、「A」のような新しい述語を「=aに等しい」という意味として考えることができる(だから「...ソクラテスする」は「ソクラテスと同定できる」を意味する)。しかしながらこの非公式のコメントは新しい述語を 定義する ものと考えられてはならない。



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というのはそれを導入する全体的な視点は、およそ名称なるものをすっかり取り除くことだからであり、プリミティブなものと考えられるべき述語の直感的説明である。
 (ii)第二段階はラッセルの記述の理論を、今や単称名辞に取って代わる確定記述を排除するために使うということである。これは量化子、変項、そして同一性(詳しくは第五章第三節)を選択して、そのかわり確定記述を排除する。

 FであるxはGである =df. 厳密に一つのFが存在し、Fであるものが何であれGである。

 記号を使って書けば、

 G(ιx) =df. (∃x)((y)(Fy≡x=y)&Gx)

 こうして名称を含む(「ソクラテスは毒を飲んだ」のように)文は、記述を含む(「ソクラテスするxは毒を飲んだ」のように)文に、そして量化子と変項だけを含む文に取り代えることができる(「ソクラテスするただ一つのxが存在し、何であれソクラテスするものは毒を飲んだ」)。
 Quineは次のような結論を導く(1953a p.13)。「名称の助けを借りて我々が言うことは何でも、名称をまったく遠ざける言語で言うことができる」のだから、存在論的関与を担うのは名称ではありえず、量化された変項である。
 単称名辞の除去可能性というテーゼは批判を受けた(Strawson 1961 を見よ)。しかし本当の疑いはQuineの提案の形式的可能性というよりは、その哲学的意義に関わる。名称に取って代えるに適切な確定記述をQuineが与えることができるのは、公式には説明不能だが、名称の助けを借りて非公式に説明される述語(「A」は「=a」を意味するという)を使ってだけである。この事実は単称名辞の除去可能性が実際にそれらを存在論的に非関与なものとして示すことを保証するとは到底言えない。
 同様に不安定な要素は、単称名辞ばかりでなく、量化子や変項もまた除去可能であるという発見である。Schonfinkel と Curry による 結合論理 combinatory logic では、−まったく皮肉なことだが、Quine 1960b 自身によって説明された−変項は「コンビネーター combinator」と呼ばれる述語演算子に取って代わられる。述語演算子「Der」は「脱相関化 derelativisation」のためのもので、n座の述語を(n−1)座の述語に変える。もしも「F」が1座の述語であり、たとえば「...は犬である」というものならば、「Der F」は0座の述語−閉じた文−「あるものは犬である」となる。もしも「...R...」が2座の述語、たとえば「...は−−を噛む」ならば、「Der R」は1座の述語、「...は何かを噛む」となる。そして「Der Der R」は0座の述語、「何かが何かを噛む」となる。



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 「Inv」は「反転 inversion」のためのもので、2座の述語の順序を逆転させる。「(Inv R)..., −−」は「−−R...」を意味する。「Ref」は「反射 reflexiive」を意味し、2座の述語を1座の反射的述語に変える。「Ref R」は「...はそれ自身に対してRという関係を持つ」。手続きは述語を多元化する polyadic し、合成するために一般化される。そして量化理論の定式の量化子を必要とせずに翻訳することになり、そこでは反転は変項の順序の置換を、反射は変項の反復を、脱相関化は量化を受け持つ。
 Quineは自分の基準が結合論理に直接当てはまるものではないと譲歩している。しかしコンビネーターを量化された式に翻訳することによって、間接的には適用可能だと言う。このことは事柄を不分明にするだけである。もしも存在論的関与を単称名辞が担うことを否定するために単称名辞を除去するというのであれば、量化子の除去可能性もおそらく それらに[量化子に] 存在論的意義を拒む根拠となるだろう。
 思うに、 量化子の客観的解釈 へのQuineのこだわりが存在論的基準のために持つ相当の重要性は、このことによっていっそう明らかになる。同じ理論が量化子やそれに代わるコンビネーター演算子と同様に単称名辞を用いて表現されるが、その量化形態が存在論的関与をもっとも透明にするとQuineは考える。というのは、「(∃x)...」という形式の文は...である何かが存在すると言っている からである。 

実のところ、基準の正しさにこだわることは、「普遍が存在する」「ユニコーンが存在する」「河馬が存在する」の「存在する」と、「(∃x)」「...というxが存在する」の「存在する」との間にいかなる区別もない、と単純に言うことなのである。

客観的解釈から逸脱することはこの基準を脅かすだろう。
この基準に意義を唱えることは...単に次のように言うことである。お馴染みの量化記法は或る新しい意味で使われているか(その場合、我々は自ら関わる必要がない)、または「普遍が存在する」の「存在する」その他は或る新しい意味で使われている(その場合もまた、我々は自ら関わる必要がない)のだと。(1953a p.105)



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 客観的解釈によると、「(∃x)Fx」が意味することは、領域Dにおいて対象xが存在し、それはFであるということである。さて、もしもDを「宇宙」−存在するもの全て−だとすると、これはQuineが想定することであるが、「(∃x)Fx」の意味することは、(現存する、実在の)Fである対象が存在するということであるように見える。先に引用した段落中の「実体」という語の使用を参照。
 「(∃x)Fx」が「Fである(現存する)対象が存在する」を意味するならば、そしてそれが(∃x)Fxという理論のテオレームであるならば、その理論が言っていることは、Fである対象が存在するということである。そしてもしもFたちが存在すると言うならば、Fたちが存在することに関与している。実際、量化子の客観的読解は、或る理論の束縛変項への存在論的関与を置く。おそらく、Quineのスローガンを書き直すことができる。在ると言われることは、客観的量化子によって束縛された変項の値であると。それは覚えにくいが、より真である!とはいえ、Quineの基準は今や奇妙にもまわりくどく傾いて見える。あたかも次のことを発見したかのように。かくかくしかじかのものが存在すると言う理論は、まずそれを述語計算記法へ翻訳することによって、かくかくしかじかのものに存在論的に関与し、次にその現存的テオレームがかくかくしかじかのものは存在すると言うことを示すために、量化子の客観的解釈に訴えることによって、かくかくしかじかのものに存在論的に関与するのである。
 ある理論のどの 直示的な 現存的断言がプリミティブな記法にとどまる必要があるのか、そしてどれが適当な言い換えによって除去されるのか、これを決定するためには真面目な作業がなされなくてはならない。一つの例は Morton White の提案(1956)である。それは可能性の現存を断言するように見える「ジェームズが来る可能性がある」を、そうであるようには見えない「ジェームズが来ることは確かに偽であるとは言えない」に還元する。(ここに拘るつもりはないが、ここでの言い換えの意義についてはトリッキーな哲学的問いがある。言い換えが存在論的関与を除去するかもしれないという考えの批判については Alston 1958を見よ。またLewis 1973 ch.4を参照。そこでは言い換えは存在論的関与を 保存する と想定されている。)


   代置的量化と存在論

 代置的解釈は存在論的な問いに否定的な答えを与えるわけではない。むしろそれを 先送りする 。代置的説明によれば、「(∃x)Fx」が意味するのは、「「F...」の或る代置事例は真である」ということである。現存の問題は今や代置事例の真理条件に依存することになる。たとえば、「Fa」が真であるのは「a」が(現存する)客観を指示する単称名辞であるときに限るならば、「(∃x)Fx」が真であることがわかるならば、Fである客観が存在しなくてはならない。しかし適切な代置事例の真理条件が存在論的関与をもたらすことは 避けがたい 。下のようなテオレームの述語計算における存在 presence を例として考える。

 (∃x)Fx∨−Fx

これは客観的解釈によれば、少なくとも一つの客観が存在し、それはFかFでないということを述べている。つまり少なくとも一つの客観が存在すると述べているわけであるが、 何かが 実在することは 論理 の問題である必要はないと考えるならば、困惑させることである。この困惑させるテオレームの実在的関与を、果たして代置的解釈は回避するだろうか。代置的解釈によれば、このテオレームは次のことを意味する。
 少なくとも「F...∨−F...」の一つの代置事例は真である。或る客観を指示する名称が代置するもの substituend と許容されさえすれば、この解釈によってもまた、述語計算は少なくとも一つの客観を要求するだろう。しかしもしも、「ペガサス」のような非指示的な名辞が代置するものと許容されるならば、存在論的関与は回避されるかもしれない。このことは、量化子から名辞へと移りながら、どのようにして代置的量化が存在論的な問いを 延期する かを説明する。Quineはこの実在の問いの再配置が形而上学的責任からの非難すべき逃避であると言う傾向を持っていた!しかし私はこれには利点があると後で言わなくてはならない。
 代置的読解によれば、「(∃x)Fx」は少なくとも「F...」の一つの代置事例が真であるということなのだから、この超言語的な量化子がもしも客観的に解釈されるならば、それは適切な表現の現存、代置事例に関与するだろう。しかしそれもまた代置的に解釈されるならば、そうではないだろう。

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Subject Re: 『論理学の哲学』(S.Haack) 第四章 量化子
Author ぱんどら [ 3085 to イストラン ]  6/10/Tue/2003   

命題を真偽判定するにあたって
(1)(x)Fx≡Fa&Fb&Fc&... や
(2)(∃x)Fx≡Fa∨Fb∨Fc... の
表現を見ると、述語論理がやはり、実在の集合論の上に成り立っているのだ
という解釈を禁じえない。しかし与えられているa, b, c・・・の真偽性の基礎は
どこで保障されているのだろうか?
議論領域Dを特定しないことにはそれらの真偽判定はできないのであるが
「人間がある」に具体的Dを与えてみよう。
(3)「『今、部屋の端』に人間がいる」
(4)「『動物』に人間がいる」
(3)のDは時空概念であるから、現在過去未来と空間位置を指定して、いずれか
に人間という概念が結ばれるということであるなら(2)の表現でもいいのかもしれない。
しかし(4)の場合のa, b, c・・・は、いったいなんであるのか?
(4)の真偽性を語るのに、述語論理は確定した集合論的前提を無条件で設定して
それは妥当なものでもあるのだが、それを保障するということになると、a, b, c・・・
がすべて知覚されていなければ、それはできないのではないか?
これは、無限集合であるのでこの作業は、不可能である。
よって、Dを「人間」に対峙する単なる概念として∃−∃、∃−∀、∀−∃、∀−∀
のいずれかの資格で対応する概念と結ばれるとしたほうが無理がないと思う。
(3)は∃−∃、(4)は∃−∀である。
(5)「『日本人』に人間がいる」はどうであろうか?慣習として命題の存在辞表現で
このように記述することはないのであるが、結びつきの資格ととしては同じことでは
ないのか?これを述語論理の記述式にすると(x)∃Fxのような奇妙なものになって
しまう。
よって、実在集合論を前提とする述語論理は誤謬ではないかと考えるに至った。

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Subject 『論理学の哲学』(S.Haack) 第四章 量化子
Author イストラン [ 3077 new post ]  6/7/Fri/2003   

S.Haack 『論理学の哲学』 第四章 量化子



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 1 量化子とその解釈

 「(x)Fx」は通常「すべてのxについて、Fx」と読まれ、「(∃x)Fx」は「あるxについて、Fx」あるいはもっと正確には、「すくなくとも一つのxについてFx」と読まれる。「...」は一般的に 全称 universal 量化子、「(∃...)」は 存在 existential 量化子として知られる。「(∃x)Fx」の「x」のように、量化子の作用域 scope の中にある変項 は、 束縛 変項という。「Fx」の「x」や「(∃x)Rxy」の「y」のように量化子によって束縛されていない変項は 自由 変項という。一つないしそれ以上の自由変項を持った論理式は(1−, 2−, n座の) 開いた 文と呼ばれ、自由変項のない論理式は 閉じた 文(または「0座の文」)と呼ばれる。「Fx」のような開いた文に「(x)」「(∃x)」のような量化子を前置すると、「(x)Fx」や「(∃x)Fx」という閉じた文を生み出す。一般的に、n個の自由変項を持つ開いた文にその自由変項の一つを束縛する量化子を前置すると、n−1個の自由変項を持つ開いた文を生み出す。
 述語計算のいくつかの形式化には、変項もあるが、「a」「b」「c」などの 単称項 singular terms がある。個体的な定項があって、各々ある特殊な個体を指示する。量化子とそれが束縛する変項を単称項で置き換えると、量化された論理式の一つの事例を得る。たとえば、「Fa→Ga」というのは、「(x)(Fx→Gx)」の事例である。束縛変項を自然言語で相互指示を引き受ける代名詞の役割と類似したものと考えることができる。また、単称項を、自然言語で個体に言及する固有名と考えることができる(しかし第五章参照)。
 現代論理学では、指摘したように量化子と単称項がまったく別の構文論的カテゴリーに属している。量化理論(Frege 1879; 量化子はまたPeirce と Mitchell によって独立に与えられた;参照 Peirce 1885)を作ったフレーゲは主語−述語の区別から関数−代入項の区別へ移行することの重要性を非常に強調した。



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このことの帰結は、数学的論証を表すための形式主義の妥当性にとっては本質的なものであるが、それは 諸関係を考慮に入れるということである。なぜなら一つの論証以上の諸関数を持つことができるからである。現在の我々の目的にとって最も関わりのあるもう一つの帰結は、第二レベルの関数、量化子のカテゴリーを考慮に入れるということである。フレーゲによると、たとえば三本足の犬が存在すると言うことは、 三本足の犬 という概念が空虚なものではないと言うことである。「(∃...)」という量化子は諸概念、第二レベルの関数にあてはまる概念である(Frege 1891,1892 を見よ)。ところが、自然言語の量化子である「或る some」「すべての all」「それぞれの every」などは名前とよく似た振る舞いをすると考える人たちがいる。たとえばラッセルは、これらの「量化子」を「指示句」として扱うことをかつて試みた。「或る少年」は、「曖昧な」個体を指示することを除けば「ジョン」のようなものである。しかし後になると、彼はフレーゲ的スタイルの説明に妥協することになる( Russel 1903; および Geach 1962 の批判を参照)。また続く著者たち、とくに Montague 1973 は、量化子を名前状のものとして追求した(このアプローチに対する1976 年のHintikka の擁護、また Fogelin や Potts によるコメントを参照)。しかしながら、私はこの議論を標準的な「フレーゲ流」量化子に限らなくてはならない。
  一階の 述語計算においては、「x」「y」という「個体」変項のみが量化子によって束縛され得る。 二階の 計算では、「F」や「G」などがまた「(x)(F)Fx」のように束縛され得る。「p」や「q」という文記号は述語記号の限界事例として考えられ得る。「Rxy」の「R」は二座の述語である。「Fx」の「F」は一座の述語である。そして「p」における「p」は0座の述語である。ゆえに、「(p)(p∨−p)」のような、「p」「q」などを束縛する量化子を許容する量化された命題計算は、二階の計算の一種である。変項のスタイルが別様な計算、たとえば自然について一つの変項スタイルを持ち、現実物について、また数についてそれぞれ別の変項スタイルを持つ形式主義のように、異なった事柄について多様に変容する計算は、 多階の 理論として知られる。
 量化子の助けを借りて、数的な文、たとえば「Fであるn個のxが存在する」が形式化され得る。「Fである少なくとも一つのxが存在する」は、

 (∃x)Fx

となり、そして「Fであるxは多くとも一つである」は

 (x)(y)(Fx&Fy→x=y)



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となる(もしこれが不分明であるなら、上の式を「もし二つのFであるものがあるなら、それらは同じである」と読めることを考えよ)。だから、「Fであるxは 厳密に一つ 存在する」は

 (∃x)(Fx&(y)(Fy→x=y))

となり、「Fであるxが 厳密に二つ 存在する」は

 (∃x)(∃y)(Fx&Fy&x≠y&(z)(Fz→z=x∨z=y))

というふうに以下続く。注1 より特殊でない数的量化子、「多くの」や「少ない」もまた、変項nについて「少なくともn」とか「多くともn」という風にして、形式的な扱いを受ける(Altham 1971)。 
 形式的言語の記号を 非形式的に読解すること(レベルiii)と、その 形式的な解釈 (レベルii)と、形式的意味論について提示される非形式的な説明(レベルiv)の間にある区別は前章でなされたが、それはもちろん命題結合子と同様に、量化子にもあてはまる。結合子の事例においては問いの中心なる多くの論争が、いかにして真理観数的結合子は英語の類同物を表現するかということであった。それに対して、量化子の事例では、中心的問題がその適宜な形式的解釈になる。しばしば普遍量化子は論理積に類似しているものと言われてきた。

 (x)Fx≡Fa&Fb&Fc&...

そして存在量化子は論理和に類似しているものと言われてきた。

 (∃x)Fx≡Fa∨Fb∨Fc... 

実際のところ、領域が有限な理論にとっては(たとえば、変項が英国政府のメンバーを範囲とする場合)、普遍的に量化される論理式は有限の論理積に等しく、存在的に量化される論理式は有限の論理和に等しい。しかしながら、無限の領域を伴う理論にとっては(たとえば、変項が自然数を範囲とする場合)、量化された論理式は無限に長い論理積や論理和によってのみ表現されるわけで、「...」は削除できない。従って受容し得る解釈は要求される一般性を与えなくてはならない。


注1 論理学者のプログラムの一部分は何らかの集合としての自然数の定義の内に成立する。たとえば、0メンバーの集合としての0、1メンバーの集合としての1、nメンバーの集合としてのnというふうに。留意すべきは、これがどのようにして 形容詞的 用法(「9個の惑星がある」のような)によって、 名詞的 用法(「9>7」のような)を定義するのかということである。説明したように、このことは量化子と同一性という観点で表現され得る。 



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そして実際二つの異なった解釈スタイルが量化子について与えられてきた。 対象的解釈 objectual interpretation は変項の値 values 、つまりそれを変項が範囲とする対象 objects に訴える。

 「(x)Fx」は「すべての対象xについて、領域Dにおいて、Fxである」と解釈され

 「(∃x)Fx」は「少なくとも一つの対象xについて、領域Dにおいて、Fxである」と解釈される。

領域は制限され得る。つまり、Dは変項の範囲として科される対象の集合として特定される。それは自然数、人物、虚構のキャラクター、などのようなものである。あるいは領域は制限されないかもしれない。つまりDは「宇宙」として要求され、その場合、そこにあるすべての対象となる。もっともモデル理論的アプローチに科される制限された領域は、必ずしも「宇宙」の下位集合である必要はない。たとえば虚構のキャラクターの集合はそうではないであろう(第五章第四節参照)。 代置的解釈 substitutional interpretation は、変項の値ではなくて、変項に対する代置体 substituends に訴える。これはつまり変項に代置される表現である。

 「(x)Fx」は「「F...」のすべての代置事例は真である」と解釈され、

 「(∃x)Fx」は「「F...」の少なくとも一つの代置事例は真である」と解釈される。

 対象的解釈はとりわけ Quine と Davidson によって、また代置的解釈は Mates と Marcus によって擁護された。双方の解釈ともかなり長い歴史を持っている。たとえば Russell の量化子の説明は、あるときは対象的であり、あるときは代置的である。しかしながら公平を期したいのであるが、思うに対象的解釈は標準と考えられ、代置的解釈は挑戦者のようなもので、その信任には詳しい探求が求められる。以上が示唆するように、二つの解釈スタイルの地位については二つの可能な見方があって、それらは競合しており、どちらか一つが「正しい」か、あるいは双方ともその用法を持つということである。私はたとえば Belnap,Dunn 1968 や Linsky 1972 や Kripke 1976 と同じように、後者の見方をより耐性のあるものだと考える。
 けれどもこう言ったからといって、どちらの解釈が選ばれるかはどうでもよいというわけではない。反対に、この選択は重大な哲学的帰結を持つだろう。私はそのすべての支流を考察することはできないが、Quine の存在論的見方における対象的解釈によってもたらされる中心的な役割の説明を素描しよう。



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これは二つのことにとって価値がある。一つは形式言語の解釈についての問いにからまることが多い形而上学的問題をイラストレイトするということである。またのちに示すように(第十章)、 Quine の量化と存在論に関するアイデアが、様相論理の可知性に対する彼の態度にどのように影響しているかということにも関わってくる。

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