S.Haack 『論理学の哲学』 第四章 量化子
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1 量化子とその解釈
「(x)Fx」は通常「すべてのxについて、Fx」と読まれ、「(∃x)Fx」は「あるxについて、Fx」あるいはもっと正確には、「すくなくとも一つのxについてFx」と読まれる。「...」は一般的に 全称 universal 量化子、「(∃...)」は 存在 existential 量化子として知られる。「(∃x)Fx」の「x」のように、量化子の作用域 scope の中にある変項 は、 束縛 変項という。「Fx」の「x」や「(∃x)Rxy」の「y」のように量化子によって束縛されていない変項は 自由 変項という。一つないしそれ以上の自由変項を持った論理式は(1−, 2−, n座の) 開いた 文と呼ばれ、自由変項のない論理式は 閉じた 文(または「0座の文」)と呼ばれる。「Fx」のような開いた文に「(x)」「(∃x)」のような量化子を前置すると、「(x)Fx」や「(∃x)Fx」という閉じた文を生み出す。一般的に、n個の自由変項を持つ開いた文にその自由変項の一つを束縛する量化子を前置すると、n−1個の自由変項を持つ開いた文を生み出す。
述語計算のいくつかの形式化には、変項もあるが、「a」「b」「c」などの 単称項 singular terms がある。個体的な定項があって、各々ある特殊な個体を指示する。量化子とそれが束縛する変項を単称項で置き換えると、量化された論理式の一つの事例を得る。たとえば、「Fa→Ga」というのは、「(x)(Fx→Gx)」の事例である。束縛変項を自然言語で相互指示を引き受ける代名詞の役割と類似したものと考えることができる。また、単称項を、自然言語で個体に言及する固有名と考えることができる(しかし第五章参照)。
現代論理学では、指摘したように量化子と単称項がまったく別の構文論的カテゴリーに属している。量化理論(Frege 1879; 量化子はまたPeirce と Mitchell によって独立に与えられた;参照 Peirce 1885)を作ったフレーゲは主語−述語の区別から関数−代入項の区別へ移行することの重要性を非常に強調した。
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このことの帰結は、数学的論証を表すための形式主義の妥当性にとっては本質的なものであるが、それは 諸関係を考慮に入れるということである。なぜなら一つの論証以上の諸関数を持つことができるからである。現在の我々の目的にとって最も関わりのあるもう一つの帰結は、第二レベルの関数、量化子のカテゴリーを考慮に入れるということである。フレーゲによると、たとえば三本足の犬が存在すると言うことは、 三本足の犬 という概念が空虚なものではないと言うことである。「(∃...)」という量化子は諸概念、第二レベルの関数にあてはまる概念である(Frege 1891,1892 を見よ)。ところが、自然言語の量化子である「或る some」「すべての all」「それぞれの every」などは名前とよく似た振る舞いをすると考える人たちがいる。たとえばラッセルは、これらの「量化子」を「指示句」として扱うことをかつて試みた。「或る少年」は、「曖昧な」個体を指示することを除けば「ジョン」のようなものである。しかし後になると、彼はフレーゲ的スタイルの説明に妥協することになる( Russel 1903; および Geach 1962 の批判を参照)。また続く著者たち、とくに Montague 1973 は、量化子を名前状のものとして追求した(このアプローチに対する1976 年のHintikka の擁護、また Fogelin や Potts によるコメントを参照)。しかしながら、私はこの議論を標準的な「フレーゲ流」量化子に限らなくてはならない。
一階の 述語計算においては、「x」「y」という「個体」変項のみが量化子によって束縛され得る。 二階の 計算では、「F」や「G」などがまた「(x)(F)Fx」のように束縛され得る。「p」や「q」という文記号は述語記号の限界事例として考えられ得る。「Rxy」の「R」は二座の述語である。「Fx」の「F」は一座の述語である。そして「p」における「p」は0座の述語である。ゆえに、「(p)(p∨−p)」のような、「p」「q」などを束縛する量化子を許容する量化された命題計算は、二階の計算の一種である。変項のスタイルが別様な計算、たとえば自然について一つの変項スタイルを持ち、現実物について、また数についてそれぞれ別の変項スタイルを持つ形式主義のように、異なった事柄について多様に変容する計算は、 多階の 理論として知られる。
量化子の助けを借りて、数的な文、たとえば「Fであるn個のxが存在する」が形式化され得る。「Fである少なくとも一つのxが存在する」は、
(∃x)Fx
となり、そして「Fであるxは多くとも一つである」は
(x)(y)(Fx&Fy→x=y)
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となる(もしこれが不分明であるなら、上の式を「もし二つのFであるものがあるなら、それらは同じである」と読めることを考えよ)。だから、「Fであるxは 厳密に一つ 存在する」は
(∃x)(Fx&(y)(Fy→x=y))
となり、「Fであるxが 厳密に二つ 存在する」は
(∃x)(∃y)(Fx&Fy&x≠y&(z)(Fz→z=x∨z=y))
というふうに以下続く。注1 より特殊でない数的量化子、「多くの」や「少ない」もまた、変項nについて「少なくともn」とか「多くともn」という風にして、形式的な扱いを受ける(Altham 1971)。
形式的言語の記号を 非形式的に読解すること(レベルiii)と、その 形式的な解釈 (レベルii)と、形式的意味論について提示される非形式的な説明(レベルiv)の間にある区別は前章でなされたが、それはもちろん命題結合子と同様に、量化子にもあてはまる。結合子の事例においては問いの中心なる多くの論争が、いかにして真理観数的結合子は英語の類同物を表現するかということであった。それに対して、量化子の事例では、中心的問題がその適宜な形式的解釈になる。しばしば普遍量化子は論理積に類似しているものと言われてきた。
(x)Fx≡Fa&Fb&Fc&...
そして存在量化子は論理和に類似しているものと言われてきた。
(∃x)Fx≡Fa∨Fb∨Fc...
実際のところ、領域が有限な理論にとっては(たとえば、変項が英国政府のメンバーを範囲とする場合)、普遍的に量化される論理式は有限の論理積に等しく、存在的に量化される論理式は有限の論理和に等しい。しかしながら、無限の領域を伴う理論にとっては(たとえば、変項が自然数を範囲とする場合)、量化された論理式は無限に長い論理積や論理和によってのみ表現されるわけで、「...」は削除できない。従って受容し得る解釈は要求される一般性を与えなくてはならない。
注1 論理学者のプログラムの一部分は何らかの集合としての自然数の定義の内に成立する。たとえば、0メンバーの集合としての0、1メンバーの集合としての1、nメンバーの集合としてのnというふうに。留意すべきは、これがどのようにして 形容詞的 用法(「9個の惑星がある」のような)によって、 名詞的 用法(「9>7」のような)を定義するのかということである。説明したように、このことは量化子と同一性という観点で表現され得る。
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そして実際二つの異なった解釈スタイルが量化子について与えられてきた。 対象的解釈 objectual interpretation は変項の値 values 、つまりそれを変項が範囲とする対象 objects に訴える。
「(x)Fx」は「すべての対象xについて、領域Dにおいて、Fxである」と解釈され
「(∃x)Fx」は「少なくとも一つの対象xについて、領域Dにおいて、Fxである」と解釈される。
領域は制限され得る。つまり、Dは変項の範囲として科される対象の集合として特定される。それは自然数、人物、虚構のキャラクター、などのようなものである。あるいは領域は制限されないかもしれない。つまりDは「宇宙」として要求され、その場合、そこにあるすべての対象となる。もっともモデル理論的アプローチに科される制限された領域は、必ずしも「宇宙」の下位集合である必要はない。たとえば虚構のキャラクターの集合はそうではないであろう(第五章第四節参照)。 代置的解釈 substitutional interpretation は、変項の値ではなくて、変項に対する代置体 substituends に訴える。これはつまり変項に代置される表現である。
「(x)Fx」は「「F...」のすべての代置事例は真である」と解釈され、
「(∃x)Fx」は「「F...」の少なくとも一つの代置事例は真である」と解釈される。
対象的解釈はとりわけ Quine と Davidson によって、また代置的解釈は Mates と Marcus によって擁護された。双方の解釈ともかなり長い歴史を持っている。たとえば Russell の量化子の説明は、あるときは対象的であり、あるときは代置的である。しかしながら公平を期したいのであるが、思うに対象的解釈は標準と考えられ、代置的解釈は挑戦者のようなもので、その信任には詳しい探求が求められる。以上が示唆するように、二つの解釈スタイルの地位については二つの可能な見方があって、それらは競合しており、どちらか一つが「正しい」か、あるいは双方ともその用法を持つということである。私はたとえば Belnap,Dunn 1968 や Linsky 1972 や Kripke 1976 と同じように、後者の見方をより耐性のあるものだと考える。
けれどもこう言ったからといって、どちらの解釈が選ばれるかはどうでもよいというわけではない。反対に、この選択は重大な哲学的帰結を持つだろう。私はそのすべての支流を考察することはできないが、Quine の存在論的見方における対象的解釈によってもたらされる中心的な役割の説明を素描しよう。
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これは二つのことにとって価値がある。一つは形式言語の解釈についての問いにからまることが多い形而上学的問題をイラストレイトするということである。またのちに示すように(第十章)、 Quine の量化と存在論に関するアイデアが、様相論理の可知性に対する彼の態度にどのように影響しているかということにも関わってくる。