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イストラン
[ 3048 new post ] 4/30/Tue/2003 |
『精神分析の倫理』は読みはしたんだが、全然わからない。そもそも享楽という概念自体がわからない。享楽という訳でいいのか、という疑問すら湧いてくる。しかし「精神分析と倫理」というのは、自分にとっては中心課題である。
人生を過ごすうちに何らかの観念集合体(本や人の意見)にイカレルということを考えてみると、教科書のように整理された順序でイカレルわけではないと思うが、なんらかイカレの構造があるようにも思う。
私はラカンの著作は全然わからないし、フロイトすらまともに読んだのは1冊あるかないかなのであるが、精神分析というもののイメージはあって、それは<慰めの体系>であった。否定したい自分が、その自分というもの成立を自分以外のところで行っている、というこの見やすい慰めの、見ようによっては責任回避の理屈(決定論的であるから)、というのが第一イメージである。
それは第二に生き方に関わる。否定の対象である自分を<処理>することによって、つまりその自分を心理的決定論に置くことによって、新たなる自己が出発する。心理的決定論はその際には<掃除>の、心の洗濯場のようなものである。
一方では倫理というものへの懐疑がある。人生での懐疑主義はデカルト的懐疑などでは表現できそうにない。それよりもショーペンハウアー的ニーチェ的懐疑の方が、つまり理性の懐疑ではなく意志の懐疑の方がはるかに現実的に見える。
倫理というのは人生のある段階、ある場面では非常に力を持つが、それ以外ではことごとく人生とずれる。それで青年期を通して、倫理と現実とのズレが心身に染みこむことになる。善く生きる、はどうでもいい、どうでもよくないのはどうやって生きるか、だ。そのためには多少倫理とずれる生き方を強いられても仕方がない。というわけで、倫理的意識はシニシズムやニヒリズムや、カチンカチンの規約主義や、突発的な義憤という形で、いろいろ変装しながら生きることになるだろう、政治的世界の公式的倫理性に心底愛想を尽かしながら。
精神分析のイメージは、いわゆるニューエイジ的な存在回帰と非常に近いものと感じられる。ほとんどの存在回帰はまず倫理性への懐疑を懐に持っている。当然、ここには倫理の持つ他者との関係性に対するに、自己への沈潜という対立もからんでくる。
ニューエイジというのは普段は馬鹿にしているのだが、これとハイデガーの存在志向は縁がないものではないと思う。そこに共通しているのは、価値性というものを棚上げにすることである。しばしば存在と存在者との差異と言われるが、言われている割には、その差異の指摘が存在者=価値となっていることを十分に取り上げていない。
つまり生活に浸透している価値の仕組み、システム、体系は、なんらか息苦しいものであるということ、価値は人間が追い求めるものだが、その追い求めることにおいて、逆に疎外されてしまうということである。マルクス主義の時間取り戻し運動とハイデガーの時間取り戻し運動には近親性があることになる。もっともこんなことを言うならば、ミヒャエル・エンデからリオタールまで、それこそなんでもということになってしまうだろうが。
ちょっと脱線したようだ。
一方に幼少期から刷り込まれた倫理への素朴な信仰があり、一方に精神分析+存在志向+決定論(ハイデガーで言えば存在に対する受動的な姿勢)があり、その対立を支えている「倫理ではどうしようもない」「現実には無力な倫理」という構図がわたしの心的風景であった。
けれども最近はこう考えるようになっている。心的風景には心的地層があって、その地層は今では見えないが、倫理というものに安らいでいた時代もあったのではないか。だとすれば、打ち捨てられた倫理性なるものは決して対立項として存在しているのではなく、それがそもそもの発端として、その後の観念運動を導いたのではないか。
「精神分析と倫理」の言説に期待するのは、倫理というものの持つ生きた運動の記述である。もしかしたら、倫理のイメージとはまったく異なる倫理がそこに展開されるかもしれない。現実には無力な倫理という、この手あか、耳垢に染まったイメージから解放してくれるだろう、そういうことでもある。