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『純粋理性批判』からどこへ−自発性の謎 |
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3 単なる−より多くの−内容議論[編集:5/7] |
| Author |
イストラン
[ 3033 to イストラン ] 4/20/Sat/2003 |
3 「単なる−より多くの−内容 just-more-content」議論とカント的系譜のディレンマ
A
一つの時間における共−意識 co-consciousness の問題を考えてみよう。意識の統一を規定するのは何だろうか。二つの同時的意識経験、信念、意図の共在生 togetherness あるいは共−意識を規定するのは何だろうか。一つの時間における共−意識が何になるのかという問いは、意識のパースペクティブな相を理解するにあたって基本的なことである。明らかに、異なった人物が持つ二つの同時的な経験は共−意識的ではなく、分離したものである。たとえば、会話の最中に、私はあなたの顔を見て、あなたは私の声を聞く。これらの経験は二人の異なった意識のパースペクティブに属している。しかしさらに何を言いうるだろうか。意識内容の統一性ないし共在性は人物の客観的同一性によって規定されなければならないのか。あるいはそれは何か別の仕方で、何か他の客観的考察によって、あるいは主観的要素によって、意識内容に厳密に内在するパースペクティブから規定され得るのだろうか。
いくつか説明しておく必要がある。第一に、注意として、「規定する」の意味はここでもどこでも構成的なものであって、認識的なものではない。第二に、この問いは時間の極微な点とか意識の時間的微小分割を前提しているわけではない。同時性は時間の短い延長を占めるものとして理解され得る。だから 意識の微小時間化に対する Dennet や Kinsbourne(1992) の反論と衝突するものではない。
第三に、一つの時間における共−意識の問題は、伝統的な懐疑論の問題ではない。ヒューム、ロック、そしてパーフィットのような現代の哲学者が説得する、自己や時を超えた人格的同一性に関する懐疑論の問題ではない(参照:Bird 1962,pp.136ff ; Hurley 1996)。意識の統一性は内容にあふれた状態の形式的特性である。意識内容が結びつくときにそれはそれとなる。たとえば、tにおいてpであるという意識と、tにおいてqであるという意識が、tにおいてpかつqであるという意識の内に結びつくときにである。問いは、何がそうした結合ないし共−意識をもたらすのか、ということである。しかし共−意識自体は、ヒューム的懐疑が認めることのできない自己と等しいものとされてはならない。人格的同一性に関する懐疑から生じる問題と、意識ないし共−意識の形式的統一から生じる問題は区別しなければならず、後者がここでの主題である。
実際、人格的同一性や自己に関する懐疑主義は、しばしば一つの時間における意識の統一を当然のこととみなす。それを問題がないものと想定し、共−意識の問題を認知することさえ失敗する。たとえば、Fogelin の考えに従えば、どうやって二つの質的に同一の知覚を異なった心や束に割り当てるのかということについて、ヒュームは気を遣うようにはみえない。なぜなら「彼は自らの考えに直接的な接続を持つと考え、これらの考えが自分のものだということを当然のこととみなしたからである。」(Fogelin 1985, p.104)このヒューム読解を受け入れるにしても拒否するにしても、われわれは人格的同一性に関する懐疑論が意識の統一を当然のこととしている様を Parfit の『理由と人格』(1984)に見る。そこで Parfit は共−意識が単独の自己や人格への帰属という観点では説明できないばかりでなく、この「統一は深い説明の必要はなく」「たんに事実である」と主張している(p.250)。カント的、新カント派的な意識の統一に関する議論は、人格的同一性に関する懐疑論を切り崩すものとして見ることができる。それはその懐疑論が当然のこととするまさにその統一に焦点を当てる。この議論は人格的同一性に関する懐疑論に対して直接的に、ないしその観点から答える試みであると見られるべきではない(参照:Kant 1929,A363 ; Bennett 1966,pp.104,114,122-23)。
B 少なくともある種の仕方で理解されるならば、自己意識は共−意識の問題に対する答えを提供できない。このことには理由がある。まずカント的類縁性を持つ議論が生み出す統一の主観的観点なるものを考えてみよう。それは、意識内容に属することは何であれ、第一人称的な内容を含めて、それらの内容の統一を規定することはできないだろうという論旨になる。むしろ内容の「外側」の何かが、あるいは客観的なものが、それをしなければならない。2なぜならば、客観的な文脈がない場合には、本質的に自己意識ないし第一人称的内容は(それがそもそも可能であるならば)、 単なるより多くの内容 just more content とでも言うべきものだからであって、これに共意識の問題もまた当てはまるのである。そういうわけでこれらの内容は統一のなにがしかの規定を前提にしているのであって、だからその統一を規定することはできない。統一が問題に付される思想なり経験の内容はまさにその問いを問題にすることはできない。たとえ内容が第一人称の内容を含んでいてもである。非第一人称的内容と同様、第一人称的内容は意識の分離した中心においてタイプ−複製されているだろう。(単なる−より多くの−内容議論は第三エッセイでより広範に論じられる)
これまでの節では、主観/客観の対照を信頼してきた。これは主観的なものに関する伝統的概念に由来する。現代的観点では、そうした主観的なるものの概念は、意識内容を広いもの、ないし世界−包含的なもの、あるいは文脈依存的なものとしてよりも、 狭い ものとして理解している。狭い内容はその関係との関わりにおいては 自立的 autonomous なものである。それは必然的に、関係的状態というよりも、皮膚や頭蓋のような、なんらかの境界の内側にある、人物の内在的物理的状態に関する機能である。もしも主観的なものが狭く理解されるならば、主観的な内容は、環境に対する人物の関係によって直接的に規定されるのではなく、人物の内的物理的状態によってのみ規定される。内容に関する狭い観点はまたしばしば外延主義者と対置される内包主義者について言われる。
2 Williams 1978,pp.95-101 を参照。この要求についての私の見解はWilliams のものとは異なる。第三エッセイで、このタイプの議論とそれに対する種々の反応はより広範に評価される。異なった初期の解釈については、Hurley 1994 も参照のこと。議論はいくつかのカントの意見と衝突するが、新カント派的性格を持っている。というのも意識の統一から始めて客観性に至る議論という点においてである。このことはとくに Strawson の探求の文脈においてみることで評価されうる。(1959, 第三章)
こうして狭く理解された意識の内容に接続もしなければそこから導出されもしないものは、対立する客観的な側に配されることになる。したがって、客観的なものは下人称的な過程を含みながら、世界を含む。そして規範的なものが内容を条件づける。広い内容が依存する世界的な文脈は、客観的とみなされる。内容の下人称的伝達手段、それらの特性と機能の多くもそうである。たとえ内容が狭くとも、その下人称的伝達手段の諸特性はそれらの内容や主観的に接続しえるものから導出される必要はない。内容は主観的であり得る。しかし伝達手段は客観的である。さらには、規範が狭い内容を伴った規範依存的態度から導出されるのではなく、人称的レベルの内容に作用する条件として理解されるならば、規範もまた客観的なものとしてみなされる(Hurley 1989)。
単なる−より多くの−内容議論は伝統的に理解された内容に、つまり狭い内容に当てはまるものだということは留意しておくべきである。しかしそれは主観的なものの伝統的概念を裏書きするものではない。むしろこの議論が示していることは、意識の統一がこれらの観点では説明できないということである。伝統的に解された主観的なものは自己充足的なものではなく、それ自身の外へ導く。このエッセイと続くエッセイで、われわれは意識的な内容が狭いものであるという伝統的仮定に従う。他のエッセイではそうではない(6.7.8)。しかし単なる−より多くの−内容議論には、広い内容の観念、また自己意識に関する外延主義の発生的な観念を単純にほしいままにするような簡便な解答はない。この議論が示しているのは意識の統一に関する客観的な見方が必要であるが、それはまた混乱にはまりこむということである。この方向で少しでも進むためには多くの作業が必要である。