| TOPIC |
『論理学の哲学』(S・Haack)3 文結合子 |
| Subject |
4 「&」と「かつ」、「∨」と「または」など |
| Author |
イストラン
[ 3069 to イストラン ] 5/27/Mon/2003 |
「&」と「かつ」、「∨」と「または」など
「でない」(「−」)、「かつ」(「&」)、「または」(「∨」)、「もし〜なら、〜」(「→」)という読みについて、Strawson は「最初の二つがもっとも程度の低い読み間違いである」が、残りは「決定的に間違い」であると注意した(1952 p.79)。確かに不一致がいくつかある。
命題計算における「−」は命題に関する命題構成演算子であるが、英語の「でない not」は命題全体を否定することもあれば、その述語を否定することもある。この区別(「外的」と「内的」の)はいわゆる無意味な命題の理解にとって重要であると考えられてきた。たとえば、「徳は三角ではない」は「徳は三角である」と同様に、無意味である。それに対して、「徳は三角であるというのではない It is not the case that virtue is triangular」は真である。また次のように言われてきた。口語では二重否定はかならずしも「取り消し」ではなく、強調的な否定として使用されることもある。すでに述べたように、「かつ and」というのはしばしば「それから」という意味で使用され、対して、「&」は時間的順序には無差別である。
「または」というのは二つの意味を持ち、一つは内含的であり、一つは排他であるということが論じられることがある。しかしこのことは命題計算の「∨」との深刻な分離ではない。というのも、排他的選言は「(A∨B)&−(A&B)」と定義され得るからである。
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「または」と「∨」の間の不一致のための二番目の議論は、次の事実に訴える。通常の発話では、たとえばもしも「ジョンがその本を持っている」ことを認めるならば、「ジョンはその本を持っているかまたはマリーがそれを持っている」という確認はひどくミスリーディングであるだろう。しかし、通常の話の中にある、∨導入(「A」から「A∨B」を推論する)規則の類同物が持つ奇妙さというのは、妥当性というより Grice が 会話の連関 conversational implicature と呼んだことがらである。Grice の説明によれば、もしも話し手の Aと断言すること が聞き手に彼が B と信じる理由を与えるならば、話し手は B ということを会話的に含意するのである。「A」(または「B」)と断定する権利を持っているときに「AまたはB」と断定することが、Grice の会話的誠実 candour の原理に抵触するのだから。つまり強い断定をなす権利があるときに、弱い断定をするべきではないということである。「AまたはB」と断定する話者は会話的にはAが真かBが真かを知らないということを含意している。この説明は断定の真理値には関わらないのだから、「AまたはB」は「A∨B」と同様に、「A」が真であるか「B」が真である場合に真であるということに同意させるものである。そして表面上の不一致は払拭されることになるだろう。
「→」と「もし〜なら if」との不一致は、最も深刻なものと一般的に考えられてきた。「AならばB」が真であるならば、「A→B」は真であるということには疑問の余地がないように見えるが、「A→B」が真であるなら「もしもAならばB」が真であるかどうかは議論の余地が多いにある。Faris (1962)は次のように言っている。「AならばB」が「A→B」から導出できるならば、「A→B」と「AならばB」は同義でないかぎり相互に導出可能である。「AならばB」の真理の必要十分条件を彼は 条件E と仮定する。真なる命題の集合 S があって、BがSとともにAから導出可能だとする。「A→B」が真であるならば、真なる命題の集合が一つ存在し、それは「A→B」を唯一の元とする。その集合からAとともに、Bが導出可能である。だから条件Eは満たされた。そして「AならばB」は真である。Faris の議論は様々な点で攻撃されてきた。わかりやすく言うと、反対者は結論が誤りであることは確信しているように見えるが、正確にどこに欠陥があるのかについてはそれほど確かであるようには見えない(参照:Baker 1967, Clark 1971, Russell 1970)。 Faris の議論は、自然言語と形式言語双方に、なにか尋常でない仕方でまたがる「導出可能性」という概念に相当依存している、ということは言っておかなくてはならないだろう。他の著者たちは、「→」と「ならば」の目に見える不一致というのが真理条件というより会話的連関に属することがらであると論じてきた。それらの説明は以下のように進む。「A」が偽であるかまたは「B」が真であるときに、「AならばB」が偽になるというのではなく、「A」と「B」の間にいかなる結合もないときに、「−A」または「B」と断定する権利があるなら、「AならばB」と断定することは観点がずれ、かつミスリーディングだろう、ということである(参照:例、Johnson 1921, Moore 1952)。
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さらに他の著者たちはこう論じる。「もしも〜なら」が英語でいくつかの使用を持ち、その中の一つが「→」に対応するが、他のものは異なった表象を要求するのだと(参照 Mackie 1973 ここでは英語の条件法に九つの用法と六つの説明が区別されている)。
実際、現代論理学は一つ以上の条件法を提示している。これまで論じてきた実質含意は真理関数的である。そして「A→B」は、「A」が偽であるか「B」が真であるときに、真である。だから次のようなテオレームを持つ。
A→(B→A)
−A→(A→B)
(A→B)∨(B→A)
実質含意には「パラドックス」がある。その「パラドックス」はもしも「→」を「もしも〜なら」とか「含意する」と読むときに生じる。上のテオレームの三番目のものは、人が新聞から無作為に二つの文を取ってきたとすると、最初のものが二番目のものを含意しているか、あるいは二番目のものが最初のものを含意している、ということを言っているのだと C.I.Lewis は述べている。これらの「パラドックス」を反省して、Lewis はもっと強い条件法を提示することになった。訳注
訳注 Lewis は Hugh MacColl を剽窃したという説がある。
http://www.hf.uio.no/filosofi/njpl/vol3no1/strictim/strictim.pdf
「A
B」の「
」は 厳密 含意を表し、「必然的に(A→B)」と定義される。様相論理の標準的意味論によれば、「必然的に(A→B)」は、Aが真である全ての可能世界においてBが真であるときに、真であると考えられている。厳密含意の上にモデル化された他の含意関係は反事実的なものの分析で提示されてきた(Stalnaker 1968, D.K.Lewis 1973 を見よ)。
しかしながら、厳密含意は固有のパラドックスを持つ。つまり、偽なる命題が実質的にはいかなる命題をも含意するように、不可能な命題はいかなる命題も厳密に含意し、いかなる命題も必然的な命題を厳密に含意する。従って関与の論理学者たちは、前件と後件の間の関与関係を要求する、もっと厳密な条件を提起する(Anderson and Belnap 1975 §1 を見よ)。これらの論理学者たちは「→」を「もし〜ならば〜」と読むことに反対するが、またそれを「実質含意」と呼ぶことにも反対する。 「非実質的否定」の方がまだ適当だろうと彼らは示唆する。 彼らはまた真理関数的論理の批判を選言にも拡張する。標準的なシステムでは「A→B」は「−A∨B」と同値であることを想起しよう。彼らは非形式的な「または」が「もし〜ならば」と同様に内包的であることを論じるのである。
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ここで一つの問題はどの条件法がもっとも良く「もし〜ならば」に対応するのかということである。もちろん、異なった形式的条件法は「もし〜ならば」の異なった使用と意味に良く対応する、という答えになるかもしれない。実質含意というものが、真理関数的であり、形式的条件法の中でもっとも単純なものであることを当然のこととして、別の問題がある。厳密な、接続法的な subjunctive、関与的な条件法に訴えることは、単純性の喪失を埋め合わせる利点を持つのか否か。思うに、ここで形式化が取り組まれる目的というものが核心的なものになるだろう。 もしも数学で使用される妥当な推論を形式的に表象することのみに関わるならば、真理関数的な含意が妥当なものとなるだろう。もっともこれですら議論の余地があるのだが(Anderson and Belnap 1975 §3)。他方、経験的科学の推論を表象することに関わるならば、科学というものは表面上は深く性向 dispositons に関わるが故に、だから接続法的条件法に関わるが故に(「xは溶ける」あるいは「もしxが水中におかれれば、それは融解する」)、何かもっと強いものを必要とする傾向になるだろう。しかしこれもまた議論の余地がある(Goodman 1955 また Quine 1973 pp.8-16 を見よ)。従って、「もしも〜ならば」と「→」の間の不一致が持つ意味は、少なくともさらなる二つの問いへの答えに依存するだろう。どんな(諸)目的のために、形式化が意図されるのか?そして、その目的は実質含意よりも強いものを要求しているのか?厳密な条件法と関与の条件法をもっと詳しく第10章で見ることにするが、そこで分かるように、この二つの問いは深くまた難しい問いである。>">