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TOPIC 『論理学の哲学』(S・Haack)3 文結合子
 
Subject 4 「&」と「かつ」、「∨」と「または」など
Author イストラン [ 3069 to イストラン ]  5/27/Mon/2003   

    「&」と「かつ」、「∨」と「または」など
 
 「でない」(「−」)、「かつ」(「&」)、「または」(「∨」)、「もし〜なら、〜」(「→」)という読みについて、Strawson は「最初の二つがもっとも程度の低い読み間違いである」が、残りは「決定的に間違い」であると注意した(1952 p.79)。確かに不一致がいくつかある。
 命題計算における「−」は命題に関する命題構成演算子であるが、英語の「でない not」は命題全体を否定することもあれば、その述語を否定することもある。この区別(「外的」と「内的」の)はいわゆる無意味な命題の理解にとって重要であると考えられてきた。たとえば、「徳は三角ではない」は「徳は三角である」と同様に、無意味である。それに対して、「徳は三角であるというのではない It is not the case that virtue is triangular」は真である。また次のように言われてきた。口語では二重否定はかならずしも「取り消し」ではなく、強調的な否定として使用されることもある。すでに述べたように、「かつ and」というのはしばしば「それから」という意味で使用され、対して、「&」は時間的順序には無差別である。
 「または」というのは二つの意味を持ち、一つは内含的であり、一つは排他であるということが論じられることがある。しかしこのことは命題計算の「∨」との深刻な分離ではない。というのも、排他的選言は「(A∨B)&−(A&B)」と定義され得るからである。



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「または」と「∨」の間の不一致のための二番目の議論は、次の事実に訴える。通常の発話では、たとえばもしも「ジョンがその本を持っている」ことを認めるならば、「ジョンはその本を持っているかまたはマリーがそれを持っている」という確認はひどくミスリーディングであるだろう。しかし、通常の話の中にある、∨導入(「A」から「A∨B」を推論する)規則の類同物が持つ奇妙さというのは、妥当性というより Grice が 会話の連関 conversational implicature と呼んだことがらである。Grice の説明によれば、もしも話し手の Aと断言すること が聞き手に彼が B と信じる理由を与えるならば、話し手は B ということを会話的に含意するのである。「A」(または「B」)と断定する権利を持っているときに「AまたはB」と断定することが、Grice の会話的誠実 candour の原理に抵触するのだから。つまり強い断定をなす権利があるときに、弱い断定をするべきではないということである。「AまたはB」と断定する話者は会話的にはAが真かBが真かを知らないということを含意している。この説明は断定の真理値には関わらないのだから、「AまたはB」は「A∨B」と同様に、「A」が真であるか「B」が真である場合に真であるということに同意させるものである。そして表面上の不一致は払拭されることになるだろう。
 「→」と「もし〜なら if」との不一致は、最も深刻なものと一般的に考えられてきた。「AならばB」が真であるならば、「A→B」は真であるということには疑問の余地がないように見えるが、「A→B」が真であるなら「もしもAならばB」が真であるかどうかは議論の余地が多いにある。Faris (1962)は次のように言っている。「AならばB」が「A→B」から導出できるならば、「A→B」と「AならばB」は同義でないかぎり相互に導出可能である。「AならばB」の真理の必要十分条件を彼は 条件E と仮定する。真なる命題の集合 S があって、BがSとともにAから導出可能だとする。「A→B」が真であるならば、真なる命題の集合が一つ存在し、それは「A→B」を唯一の元とする。その集合からAとともに、Bが導出可能である。だから条件Eは満たされた。そして「AならばB」は真である。Faris の議論は様々な点で攻撃されてきた。わかりやすく言うと、反対者は結論が誤りであることは確信しているように見えるが、正確にどこに欠陥があるのかについてはそれほど確かであるようには見えない(参照:Baker 1967, Clark 1971, Russell 1970)。 Faris の議論は、自然言語と形式言語双方に、なにか尋常でない仕方でまたがる「導出可能性」という概念に相当依存している、ということは言っておかなくてはならないだろう。他の著者たちは、「→」と「ならば」の目に見える不一致というのが真理条件というより会話的連関に属することがらであると論じてきた。それらの説明は以下のように進む。「A」が偽であるかまたは「B」が真であるときに、「AならばB」が偽になるというのではなく、「A」と「B」の間にいかなる結合もないときに、「−A」または「B」と断定する権利があるなら、「AならばB」と断定することは観点がずれ、かつミスリーディングだろう、ということである(参照:例、Johnson 1921, Moore 1952)。




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さらに他の著者たちはこう論じる。「もしも〜なら」が英語でいくつかの使用を持ち、その中の一つが「→」に対応するが、他のものは異なった表象を要求するのだと(参照 Mackie 1973 ここでは英語の条件法に九つの用法と六つの説明が区別されている)。
 実際、現代論理学は一つ以上の条件法を提示している。これまで論じてきた実質含意は真理関数的である。そして「A→B」は、「A」が偽であるか「B」が真であるときに、真である。だから次のようなテオレームを持つ。

 A→(B→A)
 −A→(A→B)
 (A→B)∨(B→A)

実質含意には「パラドックス」がある。その「パラドックス」はもしも「→」を「もしも〜なら」とか「含意する」と読むときに生じる。上のテオレームの三番目のものは、人が新聞から無作為に二つの文を取ってきたとすると、最初のものが二番目のものを含意しているか、あるいは二番目のものが最初のものを含意している、ということを言っているのだと C.I.Lewis は述べている。これらの「パラドックス」を反省して、Lewis はもっと強い条件法を提示することになった。訳注

訳注 Lewis は Hugh MacColl を剽窃したという説がある。
http://www.hf.uio.no/filosofi/njpl/vol3no1/strictim/strictim.pdf



「AB」の「」は 厳密 含意を表し、「必然的に(A→B)」と定義される。様相論理の標準的意味論によれば、「必然的に(A→B)」は、Aが真である全ての可能世界においてBが真であるときに、真であると考えられている。厳密含意の上にモデル化された他の含意関係は反事実的なものの分析で提示されてきた(Stalnaker 1968, D.K.Lewis 1973 を見よ)。
 しかしながら、厳密含意は固有のパラドックスを持つ。つまり、偽なる命題が実質的にはいかなる命題をも含意するように、不可能な命題はいかなる命題も厳密に含意し、いかなる命題も必然的な命題を厳密に含意する。従って関与の論理学者たちは、前件と後件の間の関与関係を要求する、もっと厳密な条件を提起する(Anderson and Belnap 1975 §1 を見よ)。これらの論理学者たちは「→」を「もし〜ならば〜」と読むことに反対するが、またそれを「実質含意」と呼ぶことにも反対する。 「非実質的否定」の方がまだ適当だろうと彼らは示唆する。 彼らはまた真理関数的論理の批判を選言にも拡張する。標準的なシステムでは「A→B」は「−A∨B」と同値であることを想起しよう。彼らは非形式的な「または」が「もし〜ならば」と同様に内包的であることを論じるのである。
 



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ここで一つの問題はどの条件法がもっとも良く「もし〜ならば」に対応するのかということである。もちろん、異なった形式的条件法は「もし〜ならば」の異なった使用と意味に良く対応する、という答えになるかもしれない。実質含意というものが、真理関数的であり、形式的条件法の中でもっとも単純なものであることを当然のこととして、別の問題がある。厳密な、接続法的な subjunctive、関与的な条件法に訴えることは、単純性の喪失を埋め合わせる利点を持つのか否か。思うに、ここで形式化が取り組まれる目的というものが核心的なものになるだろう。 もしも数学で使用される妥当な推論を形式的に表象することのみに関わるならば、真理関数的な含意が妥当なものとなるだろう。もっともこれですら議論の余地があるのだが(Anderson and Belnap 1975 §3)。他方、経験的科学の推論を表象することに関わるならば、科学というものは表面上は深く性向 dispositons に関わるが故に、だから接続法的条件法に関わるが故に(「xは溶ける」あるいは「もしxが水中におかれれば、それは融解する」)、何かもっと強いものを必要とする傾向になるだろう。しかしこれもまた議論の余地がある(Goodman 1955 また Quine 1973 pp.8-16 を見よ)。従って、「もしも〜ならば」と「→」の間の不一致が持つ意味は、少なくともさらなる二つの問いへの答えに依存するだろう。どんな(諸)目的のために、形式化が意図されるのか?そして、その目的は実質含意よりも強いものを要求しているのか?厳密な条件法と関与の条件法をもっと詳しく第10章で見ることにするが、そこで分かるように、この二つの問いは深くまた難しい問いである。>">

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Subject 3 形式化の諸目的
Author イストラン [ 3055 to イストラン ]  5/15/Thu/2003   

   形式化の諸目的

 しかしながら、形式的論理システムが妥当な推論を直観的に表象することを目指すやり方についてはさらに言うべきことがある。形式的論理システムというものが構想されるということを次のように考えることができる。或る非形式的議論は直観的に妥当であり、別のものはそうではない。そこで、一つの形式的言語を構築し、その中ではそれらの議論に関連する構造的な特性が図式的に表象され、公理/規則は直観的に是認できるものを許容し、そうでないものは許容しない、というふうにする。もちろん、これはせいぜい とても 大ざっぱな「合理的再構成」であって、詳細で生真面目な話を目指したものではない。それでも、形式的論理がしばしば単に数学的好奇心から構想されてきたことに譲歩する一方で、上述したプロセスのようなものが、たとえば、フレーゲが『概念記法』を構想したときに作動していたのではないかと考える。



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もちろん、標準的論理言語は今やよく知られたものになっており、それがどうやって、なぜ構築されたのかについては、もはや人はたいして気に留めてはいない。しかし同様のプロセスは、これまで無視されてきた類の議論のために新しい形式を構想する最近の試みで見られることである。たとえば反事実の分析を構想するD.K.Lewis 1973 によって採用された手続きを見よ。
 それでは、このことが大まかに正しいとするなら、結合子の意味に関する問いに対して、それが持つ意味とは何だろうか。私はこのようなものだと考える。まず、構文論ならびに純粋意味論(レベル(i)とレベル(ii))と、非形式的読解ならびに逸脱した意味論(レベル(iii)とレベル(iv))のどちらもが、結合子の意味に寄与するものと期待される。この構想の対象の一部には、レベル(i)とレベル(ii)が妥当な仕方で(iii)と(iv)を表象 represent させるということがあるからである。
 しかしながら、非形式的議論をその複雑性や曖昧性に関して、形式的論理がすべて忠実に辿ろうとするならば、形式化というものにはほとんど意味がない。形式化することにおいて人が目指すものは、一般化し、単純化し、正確さと厳密さを増大させることである。思うにこれが意味するのは、外システム的に妥当と判断される非形式的な議論のすべてを表象する直接的形式的表象を、人は期待も欲求もするべきではない、ということである。むしろ、妥当性に関する前システム的判断は形式的論理の構築にとってのデータを提供するのであるが、単純性、正確性、厳密性の考察が非形式的議論とその形式的表象との間にある不一致に導くことが期待されるのであって、それはあるときには直観的判断の再評価にまで至るということである。或る議論の直観的判断を、他の議論についての判定、それも全く予期せぬ判定を与える形式的理論を構築するために使用し、原初の判断を単純性と一般性のために犠牲とすることすらある。もちろん、これらの点は、一つの非形式的議論を形式的議論に翻訳するときの正しさの判断と、第二章で指摘された妥当性の外システム的見解との相互依存性に関係している。(一つの例として、「すべてのFはGである」を「(x)(Fx→Gx)」に翻訳するということがある。それは前件が偽であるなら真である。つまりFなるものがないならば真である。人が前システム的に、たとえばすべてのユニコーンは紫であるということを是認することはかなり疑わしい。そしてすべてのユニコーンは紫であり、 かつ すべてのユニコーンはオレンジであるということに同意しないことはかなり確かである。)
 それゆえに、非形式的議論の すべての はみ出したもの knobs and bumps を表象することに形式的システムの側で失敗するということは、かならずしも反対すべきではないということ、これを認めるべきである。



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他方、 すべての 調整が容認できるという仮定には十分に気をつけなければならない。単純性と一般性における利得が不一致を補っているかどうかを問う必要がある。英語のいくつかのはみ出し物はおそらく重要なものであろう。これらの注意は不快な曖昧さを持つものに見えるかもしれない。いくつかの例を考察することで、それらをもっとはっきりさせることにする。
 なぜ通常の形式論理は、たとえば「かつ and」と読まれるべき「&」を持つが、「なぜなら」「しかし」の形式的類同物を持たないのだろうか。そして「少なくとも一つ」と読まれる「(∃...)」を持つが、「いくつかの several」や「かなりの」の形式的類同物がないのだろうか。好まれている表現の二つの特徴がそれ自体を示唆する。つまり真理関数的ということ、厳密性ということである。
 「&」は真理関数的である。そして真理関数はとくに容易に形式的扱いを受け入れる。それは機械的決定手続きを著しく許容する。形式論理学者が「なぜなら」や「しかし」ではなく「かつ」の類同物を持つ理由は疑いなくこれである。「かつ」は少なくとも広範な使用クラスでは真理関数的である。それに対して「AなぜならB」は「A」や「B」の真理値に依存しているばかりではなく、BがAの理由であるか否かにも依存している。そして「AしかしB」の真理値はAとBの結合が驚くべきであるか否かに依存している。「少なくとも一つ」と「すべての」は真理関数ではない(有限の宇宙では、それらは「Fa∨Fb∨...∨Fn」と「Fa&Fb&...Fn」にそれぞれ等価であるが)。しかしそれれは、「いくつかの several」「かなり多くの」とは異なって、厳密である。「∃...」の一つの共通の読みである「或る some」は「∃...」自体よりも曖昧であること、これは注意すべきである。「少なくとも一つ」はもっと正確な読みである。(他の学科は厳密化と理念化という論理学の傾向を共有する。幾何学の延長なき点や力学の摩擦なき面と比べてみよ)
 ところが、真理関数的ないし正確な表現が非真理関数的ないし曖昧な表現よりも、単純性と厳密性という点で好まれるということは明らかである一方で、それほど明らかでないのは、この好みが最優先されるということである。というのは、非真理関数的操作子であるもの、たとえば「必然性」「可能性」に当たる「L」「M」が、形式論理学者によって使用 されている からである。Von Wright が示唆したシステムでは(1963)、「それから and then」と読まれる「T」という命題結合子は、「かつ and」がしばしば英語で持つ時間的意味を保持する。 そして標準的述語計算が自らを「すべての」と「少なくとも一つ」に制限しているのに対して、Altham(1971)は「多くの many」と「少ない few」に当たる量化子をもつ論理を構想した。

1 標準的論理の機構が時間的考察には無頓着であることを指摘しておく。通常「p」や「q」の無時間性を理解するように言われる。時間的論理に対するいくつかの提案は第九章第三節で論じる。



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 真理関数性の好ましさは議論の余地がない。しかしながら同様に明白なのは、真理関数に己を制限する論理は受け入れ難いほど制限されるということである。形式的論理的構想にとってどれほど本質的な正確さなのか、ということの方が議論の余地がある。認知「論理」を真性の論理と認めることに対する Dummet の反対意見を想起してもらいたいのだが、それは「知っている」や「信じている」が本来曖昧であるということであった。しかしながら、他の論理学者は曖昧な概念を慎重に使用してきた。たとえば、反事実的条件法の分析において(Aという事態であったならば、Bという事態であるだろう)、D.K.Lewis (1973, とくに第四章)は可能な世界の類似性という曖昧な観念を許容して使用するよう提案した(おおざっぱに言えば、「現実の世界にもっとも類似した、だがその中にA、Bがある可能な世界すべてにおいて」)。 分析するもの analysans の曖昧性は、 分析されるもの analysandum がそれ自体曖昧であるから反対すべきではないという観察を通して、彼は曖昧性との妥協を弁護したのである。 Zadeh は「曖昧論理 fuzzy logic」(例えば1975参照)でもって、正確さに対する論理の伝統的関心からよりいっそう根本的な離脱を提起した。そうした離脱がこれまでの成果によって正当化されるかどうか私は疑っている。しかしこの疑いが十分に根拠づけられるかどうかを示すためには、もっと多くの議論が必要だろう。参照;第九章第四節。

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Subject 2 結合子の意味 tonk
Author イストラン [ 3035 to イストラン ]  4/22/Mon/2003   

   「トンク tonk」

 Prior の議論によると、結合子の意味はそれが現れるシステムの公理/規則から発生するわけではない。あるいは真理値表からも発生するのではなく、それらの英語読解によって与えられるはずだということである。(もし彼が正しければ、先に述べた多値論理の「意味変動」は反駁されるだろう。) Prior(1960,1964)は「分析的に妥当な推論」が存在するという説について帰謬法なるものを提起している。この分析的に妥当な推論とはつまり、その妥当性がもっぱら推論に含まれる論理定項 logical constants の意味から生じるものである。この説によれば、「A&B」から「A」への推論は分析的に妥当であり、それは「&」の意味が完全に&導入と&除去の推論規則から与えられるからである。Prior はこう論じる。「「分析的に妥当」のこの意味ではいかなる命題も他の命題から分析的に妥当な仕方で推論されうる」(1960 p.130)。「tonk」の意味を次の規則によって与えられるものとしよう。

 (T1)「A」から「A tonk B」へ推論する(tonk導入)
 (T2)「A tonk B」から「B」へ推論する(tonk除去)

 これらの規則を使えば、いかなるA, Bについても、A├Bである。

 (1) A   仮定
 (2) A tonk B (1)、(T1)
 (3) B     (2)、(T2)



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であるからもちろん、(T1)(T2)を持つシステムは矛盾するだろう。Prior の推論規則の使用に依るものとしては、次の公理ほど生き生きしたものはない。「A→(A tonk B)」と「(A tonk B)→B」という公理。そしてこれは、A→BとAからBを推論する規則(modus ponens, これ以降はMPPと略記する)を持つが、同様に憂慮すべき帰結に至るだろう。Prior 1964 p.192を見よ。
 Prior はかくて分析的に妥当な推論という考えが一つの混乱であることを示したと信じた。同様に、「われわれが表現に関する推論が妥当か非妥当かを見つける前に、表現は独立的に規定されたなにがしかの意味を持たねばならない」ということを示したと信じた(1960 pp.129-30)。
 規則(T1)と(T2)が「tonk」の意味を与えることができないのだから、一般に結合子はそれが生じる公理/規則によって与えられねばならないと Prior は論じる。しかしながら、(T1)と(T2)が「tonk」の意味を特定できないのは、それらが 欠陥のある 規則であるという十分な理由をもって答える答えることができる。それらによって、どのようなAとBに対してもA├Bということが許容されてしまう。何からでもいかなるものも導出されるシステムは、受容不可能な推論から受容可能な推論を区別するいかなる展望も持っていない(参照 Belnap 1961, Stevenson 1961)。受容可能な推論規則はそれらの内で生じる結合子の意味を与えることができないということを Prior は示していない。
 前に示唆しておいたが、論理の形式的システムの構成に関する主だった反論は、システム外的意味で直観的に妥当だと判断される形式言語で表現される非形式的推論が、そのシステムの中で妥当であるというような、そういう公理/規則を与えることである。LTはそれほど欠陥があるので、この試みの中では成功の見込みがないだろう。

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Subject Re4: 『論理学の哲学』(S・Haack)3 文結合子
Author イストラン [ 3032 to ぱんどら ]  4/20/Sat/2003   

>概念を円で表したとき「犬」の円は「動物」の円に含まれてしまうわけです。これを「繋がっている」と表現しています。

 そういう風に円で表すということは、同時に円のなかにあるものという観念を引きずりこむことになります。それがxと呼ばれるもので、これは当初の概念である犬とかではないのですね。「このこれ」なるものでしょう。


>2チャンネルだったか野矢の授業で「記号論理学はなにの役に立つのか?」「何の役にも立ちません!」といったのがつぼを得た回答だったとか載っていたけれど、そんなものかもしれませんね。

 記号論理学は電卓に応用されています。

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Subject Re3: 『論理学の哲学』(S・Haack)3 文結合子
Author ぱんどら [ 3031 to イストラン ]  4/19/Sat/2003   

真理関数は個別の論理式の真偽にはかかわらないで、分子命題
のあり方にかかわるものだと思います。そこで組み合わせの仕方に
よっては論理式がいかなる値をとっても構成された分子式としては
絶対、真になるというのがトートロジーですね。
ところで個々の論理式が真偽いかなる値を取るか、つまり原始命題
の内部構造の分析がなぜ、いままでなされていないのか不思議に
思ってます。
>「xが犬である」ならば「xは動物である」ですから、犬と動物を結
>んでいるわけではないのでは?
これはイストランさんと私で捕らえ方と言葉の使用が異なるからでし
ょう。概念を円で表したとき「犬」の円は「動物」の円に含まれてしまう
わけです。これを「繋がっている」と表現しています。
「犬は動物である」の「ある」は繋辞といわれているので、これに従う
ようになりました。
ただ述語論理の表記法ではxという要素、実在の何かを前提とした
表記法になっているでしょう。わたしは「存在」を「繋辞」と同じものと
考えているので、この表記の概念構成が不適合なものとして映るの
です。かといってここから何がでてくるのか?
2チャンネルだったか野矢の授業で「記号論理学はなにの役に立つ
のか?」「何の役にも立ちません!」といったのがつぼを得た回答だ
ったとか載っていたけれど、そんなものかもしれませんね。

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Subject Re2: 『論理学の哲学』(S・Haack)3 文結合子
Author イストラン [ 3030 to ぱんどら ]  4/19/Fri/2003   

>「すべての犬は動物である」というのを∀x(Fx⊃Gx)のように記述するけれど、これは「犬」と「動物」を結合子で結んだものではないだろうか?

 「xが犬である」ならば「xは動物である」ですから、犬と動物を結んでいるわけではないのでは?

 述語論理は第四章で対象になるのです。どうもすいません、遅くて。四月に四章を、五月に五章をという予定だったんだけと。

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トピック= 3011 宛先= 3028 同宛先= 返信= 3031
 
Subject Re: 『論理学の哲学』(S・Haack)3 文結合子
Author ぱんどら [ 3028 to イストラン ]  4/16/Wed/2003   

ストーカー失礼致します。
命題計算の結合子として代表的な∧、∨、⊃があるのはわかるのですが
それらによって繋がれるA,B,C・・・の各記号は論理式でございますよね。
つまり、それらは真または偽の値を持つ。
ところで述語論理では各記号に∀または∃の量化記号を用います。
量化記号は述語論理の場合は要素または実在の単位に対して与えられていますよね。
つまり∀xFxとか・・・。でもこれはずばりFやGの述部、というより概念に対して与えられて
いるとしたほうがわかりやすい。
∀F「すべての犬」とか∃G「ある動物」とかです。
御存知のように「すべての犬は動物である」というのを∀x(Fx⊃Gx)のように記述するけれ
ど、これは「犬」と「動物」を結合子で結んだものではないだろうか?
そして論理式同士を結合子で結ぶのは問題がないとしても概念同士を結ぶのに結合子
を持ってくるのは不適切ではないかと考えています。
つまり述語論理の表記法そのものが疑問です。論理式はほんとうとかうそとか言えるけれど
概念は量化は受け入れるが真偽概念は受け付けない。犬が真で動物が偽である、なんて
いい方はしない。論理式と概念は異なるものだ。異なった性質のものに同様の結合子を
適用しようとする述語論理の表記法は間違いではないだろうか?
「犬」と「動物」の間は決して「⊃」で結ばれるものではない。

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Subject 2 結合子の意味
Author イストラン [ 3027 to イストラン ]  4/14/Sun/2003   

 形式的言語と非形式的読解

 命題計算なるものは、いわば四つのレベルから見ることができる。

 (i)公理/推論規則
 (ii)形式的解釈(マトリックス)
 (iii)(i)の日常言語的読解
 (iiii)(ii)の非形式的説明

 (i)は構文のレベルである。(ii)と(iv)はPlantinga 1974 pp.126-8 によって、それぞれ「純粋な」「堕落した」と形容された。レベル(i)と(ii)は形式的であり、それとして扱うことができる。しかしレベル(iii)と(iv)は扱いにくいものの、重要である。第一章では、論理システムとしてのシステムの同定がその(志向された?)解釈へ訴えることを要求するということを見ておいた。一つのシステムを命題計算として同定するためには、公理/規則やマトリックスによるその形式的解釈を知ることだけが必要なのではない。値が真偽を表すこと、「p」「q」などが命題を表し、「−」が否定を、「&」が連言を、「∨」が選言を表すことなどを知るのも必要である。結合子の理解はおそらくはこれらのレベルのいくつか、ないし全てから生じているはずである。
 いかにして結合子はその意味を獲得するのか、これに関する見解は多くの問題に対する態度に影響を与える。たとえば、逸脱した論理の結合子は古典論理の書記上同定しうる結合子とは、その意味において異なる。逸脱した論理の学者が「A∨−A」を否定するとき、彼が否定しているのは外見に反して、古典論理の学者が「A∨−A」を肯定するときに肯定しているものではない。




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この「意味−変動」テーゼに対する議論が一つある(第12章§1参照)。結合子の意味は公理/規則によって、またシステムのマトリックスによって(レベル(i)と(ii)によって)単純に与えられるとするものである。ここからは次の結論が出てくる。多値論理の結合子は2値論理の結合子とはその意味において異なっているはずである。というのも公理/規則とマトリックスが異なるからである。また別の議論がある。それは結合子の英語の読解の適切さに関わるもので、たとえば、どれほど正確に「かつ and」が「&」を表し、「もし〜なら if」が「→」を表しているかということに関わる。ここで問題になっているように見えるのは、読解において使用される英語表現を特性づけるものとして考えられたときに、公理/規則が真/真−保存であるかどうか、そしてマトリックスが正しいかどうかである。「A」がtという値を取り、「B」がtという値を取るときに限り「A&B」はtという値を取るのだから、「A」が真であり、そして「B」が真であるときに限り「AそしてB A and B」が真であるとなるのかどうか、である。このことは別の疑問を提起する。もしも食い違いがあるとしたらどんなことになるのか。

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Subject 形式的考察つづき
Author イストラン [ 3020 to イストラン ]  4/9/Tue/2003   

    特性的マトリックス characteristic matrices: 決定性 decidability

 真理値表の一つのマトリックスあるいは集合をMとする。Mは、システムSの定理がMに関して意味される designated ときに限ってシステムSにとって 特性的 characteristic である。そしてSの妥当な推論がMにおいて意味−保存的で designation-preserving あるときに限ってシステムSに特有のものである。どんな価値も意味されうる。しかし通常、重要なことは「真理状の truth-like」価値を意味することにあって、あるいはおそらく、多値論理の場合には真理状の諸価値を意味することにある。もちろん二値論理の場合には「t」が意味される。どのような割り当てが原子的部分になされようとも、一つの論理形式は、意味された価値を持つ限り、Mについて意味される。一つの規則、A...AnからBを推論する規則は、A...Anがすべて意味された価値を持つときにはいつでも、Bが意味された価値を持つ限り、意味−保存的である。たとえば、二値の真理値表は古典的命題計算に特有のものである。
 有限の真理値表は 決定手続き を与える。すなわち、システムのいかなる論理式についても、それが定理であるかどうかを規定する機械的方法を与える。


    多値論理

 もちろん、二値命題計算に特有の多値マトリックスを用意することは可能であろう。二値命題計算というふうに、私は「多値」というより「二値」と言うが、それは特性的マトリックスを供給しえる最小の価値数だからである。「n値論理」ということによって、n個の価値を持つ特性的マトリックスと私は理解するが、それは、m<nであるm個の価値を持つのではない。「逸脱した」と私が呼ぶところのシステムのいくつかは、有限の特性的マトリックスを持つ。これは予想外というわけではなく、そうしたシステムを用意することには動機があって、それは、論理の範囲内のいくつかの命題は真でも偽でもなく、真理価値を欠き truth-valueless、おそらく中間的真理−価値を持つという信念である。この信念については第十一章でもっと接近しよう。他の逸脱したシステムは、直観主義的なもの、量子論理があるが、有限ではなく、無限の特有のマトリックスのみを持つ。以下においては「多値論理」でもって「2<n<∞のn値論理」を意味することにしよう。ただし、無限に多値なシステムは除くことにする。




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 n値論理においては、真理値表で与えられる位置はn値のどの値によっても占められる。k個の位置を持つ結合子はnk個のエントリーを持ち、n値論理のk個の変数[引数]を持つ真理関数の数はnnk であり、その数はnが少しでも増大すると著しく増加する。ルカシェヴィッツの三値論理は「−」、「&」、「∨」、「→」と「≡」を持つが、関数的に不完全である。Slupecki は、I個の位置を持つ結合子T(「三番目の tertium」から)を付加すれば関数的に完全になることを示した。「TA」は「A」の価値がなんであれ、中間値を持つ。予期されるように、慣れ親しんだ相互定義可能関係は多値論理において崩壊する傾向にある。たとえばルカシェヴィッツの三値論理では、「A∨B」は二値論理における「−A→B」という真理値表を持っていない。その代わりに「(A→B)→B」というふうに定義されえる。

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Subject 『論理学の哲学』(S・Haack)3 文結合子
Author イストラン [ 3011 new post ]  4/5/Fri/2003   



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3 命題結合子 sentence connectives

1 形式的考察

 命題結合子の重要な形式的特性についていくつか素描することから始め、それから結合子の意味について、若干の哲学的問いに関する考察に進む。

 結合子の適切なセット:関数的完全性 functional completeness

 古典的命題計算の結合子−「―」「&」「∨」「→」「≡」−は真理関数的である。それらによって形成された複合命題の真理価値はもっぱらその構成部分の真理価値に依存する。結合子の集合はすべての真理関数を表現するときに 十全で adequate ある。二つの変数からなる二値の真理関数は16(2)ある。 {―, →}{―, ∨}{―, &}{|}{↓}(「A|B」は「AとBの両方ともということではない」を意味し、「A↓B」は「AでもBでもない」を意味する)はそれぞれ、それらの関数をすべて表現するのに十全である。形式システムは、もしもそれが結合性の十全な集合を持つならば、関数的に完全で ある。たとえば、原始的なものとして「―」と「∨」を持つ『プリンキピア』は関数的に完全であり、対して「→」のみを持つ命題計算の含意的断片 implicational fragment は完全ではない。多くの形式化 ―例えば Lemmon 1965― は、関数的完全性にとって必要なもの以上の結合子を持っている。異なった原始的な結合子の集合を持つ命題計算の形式化があるのは、結合子の別の十全な集合があるからである。ひとたび十全な集合が与えられると、他の結合子が定義されることが可能となる。

 









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たとえば、「―」と「→」を原始的なものとすれば、「A∨B」は「―A→B」として定義されうるし、「A&B」は「―(―A∨―B)」として定義され、「|」あるいは「↓」によって、「―A」は「A|A」あるいは「A↓A」として定義される。いくつかの形式化は定数Fを使用する。それはいつでも価値 f を持つものとされ、「―A」を「A→F」と定義する。どの場合でも、定義の正しさは 定義するもの definiens 定義されるもの definiendum の真理値表を比較し、それらが同じ真理関数に一致するかどうかを見ることによってチェック可能である。

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