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TOPIC ハイデッガー「論理学の形而上学的な始元諸根拠」
 
Subject ライプニッツの理由律とハイデッガーの根拠律
Author イストラン [ 3121 to 慧遠(EON) ]  8/14/Wed/2003   

 ようやっと第26巻を読んだというか見たのですが、私にはこれは『存在と時間』と大して変わるものがなかったです。
 唯一、<超振動>という言葉が違和感がありましたが、これも超越/事実性という受動能動体にからんでいるという気がします。

 印象だけですが、あるタームが飛び石のように言説を引っ張っていく。ライプニッツの見解の解釈でも、モナドロジー自体を一つの受動能動性解釈として扱う。そこで結果としては、この受動能動性がお仕舞いの時間性の解釈の受動能動に呼応というか対応している、そんな感じです。

 第四節まではなんとか筋を追えるような気がしますが、第五節以後は、やはり存在と時間に既にある概念がぽつぽつと引っ張っている。こういう流れは、ハイデガーなら了解の先取として自己弁明してしまうでしょうが、厳密にライプニッツの解釈となるとどんなもんか。

 ライプニッツのモナドロジーを受動性と能動性から解するという見方は池田善昭の『ライプニッツ哲学の新解釈』にもあって、それなりに必然的な見方なんだろうけれども、ハイデガーの場合には、あらゆる言説は能動性と受動性の、あるいは投げることと投げられることに収束する。

 この結論に強引に向かいながら、同一性や主語・述語や根拠に関する分節がやがてどろどろに溶けてしまうんではないか。

 無責任な印象ですが、そんなふうに思いました。残り10頁を読んでからまた印象報告します。

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トピック= 2981 宛先= 3059 同宛先= 3060 3066 返信=
 
Subject 第三節 真理の理念、および認識の諸原則
Author イストラン [ 3087 to イストラン ]  6/12/Wed/2003   


起源的な真理はいかなる根拠も与えられずに、それ自体で根拠である。その他の真理は必然的であろうと偶然的であろうと、証示されるべき根拠の原則、分解に服する。その上で必然的真理には矛盾の原理が配当される。

 必然的真理の基準は同一性との一致であり、同一性への還元可能性は無矛盾性を意味する。しかしながら、根拠の原理の方が矛盾律よりも根源的であり、根拠の原理は同一性を明らかにするために要求されねばならない。

 ライプニッツ自身においてすら、同一律、矛盾律、根拠律の関係は判明ではない。同一律は起源的真理、派生的真理(必然的真理、偶然的真理)すべてに関わるが、同様に根拠律もそれらに関わる。

 また同一性と根拠と真理と存在も連関している。全体として示されているのは、理性真理と事実真理を同等化する傾向、その帰結として、その連関は神の知、絶対的認識の理念の中に位置づけられる。であるから認識の理念を解明することで、同一性として規定される真理の本質が見えるようになるはずである。

 付言。 これらの概念の連関は、各々の概念のどれが根源的であるかということではなく、それらは等根源的である。超越論的なるもののこうした等根源的次元の解体不可能性という本質が重要である。


 要約的反復

 序論では、真理は超越を、根拠は自由を、概念は図式を、コプラは存在を示唆していることが言われた。
 われわれは論理学を形而上学的に根拠づけようとしている。とはいえできあがった形而上学を所有しているのではなくて、形而上学の一部分として、論理学を解体することがある。
 そのために、史学的な道を通って、論理学の形而上学的な始元諸根拠の内へ突入しようとしている。またそのためにライプニッツの判断論をその形而上学的な基礎へ向けて解体しようとしている。その課題は7つの節に分節される。

 これまでのところ明らかになったのは、絶対的真理の理念という前提である。つまり認識は或る特的の理想へ向けて企投されている。

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トピック= 2981 宛先= 3068 同宛先= 返信=
 
Subject 第一節 判断と、真理の理念
Author イストラン [ 3076 to イストラン ]  6/5/Wed/2003   

 「真理の根拠は述語の主語との結合のうちに成り立つ」Ratio autem veritatis consistit in nexu praedicati cum subjecto. とライプニッツは言う。真であることは述語の主語における内在 inesse に等値される。

 しかしその真理にしても多様である。まず第一次的な真理とは、同一的なものである。自己同等性において明確に規定される言表である。内在とは同一であるということである。
 すべての命題は同一的であるのだが、特別に同一的であるのは、その同一性が明らかに言われている。それに対しては、同一性が腹蔵されているものと区別される。証明は根底に横たわる同一性を取り出してみせることである。このように包摂理論は同一性の理論である。潜在的な同一性は顕在的な形式的同一性に還元される。

 さて、同一性や直接的な真理は起源的な真理と呼ばれる。それに対するに派生的な真理があり、それは起源的な真理に還元される必然的なものと、無限に前進する偶然的なものに分けられる。

 この真理観の根底にはスコラ哲学がある。永遠的な真理−必然的な真理−非被造的な真理と、制約されて真理−偶然的な真理−被造的な真理との区別である。
永遠的な真理は、非被造的なものが自己自身を思惟することに該当する。偶然的な真理は時間の中で被造的な有るものに関係する。
 永遠的な真理は神の絶対的理性のうちに根源をもっている。ライプニッツはこれを理性の真理と呼ぶ。他方、偶然的な真理は事実の真理と呼ぶ。

 ところでライプニッツのアプリオリな真理観では、たとえ偶然的時間内的真理であろうとも、同一性の真理として、理性の真理にできるだけ近しいものとする傾向がある。事実の真理は必然的な真理ではないが、同一的な真理ではある。

 スコラ哲学における第一次的な真理とは、神の絶対的知性であり、これはそれによって有限な人間の知が計られることになる絶対的な認識の構築である。神の絶対的な認識は、絶対的自己意識という神の本性に属している。それは可能的なものと現実的なものを双方とも包括している必然的な知である。

 必然的な知と自由な知、これを『神学大全』から見てみよう。
 直観とは、一度に時間全体を前後ということなしに包括する認識である。この見る働きは全体へ運ばれる視線である。一切のものを現存的に自己の前に神は持つ。ここには偶然的なものすら包括される。偶然的なものは第一に、一つのことへ決定されたものである。有るのではないこともできたのだが、ともかく有るように決定されたという意味では、すでに決定されたものである。第二に、偶然的なものは、まだ決定されていない未来のものとして考えることができる。神はこの二つの偶然をどちらも現存性において把握する。
 
 神の知はすべての陳述へ拡がる。命題は結合/総合と分離であるが、問題は神の知が、我々の認識と同じように、結合ないし複合と分離という仕方で認識するのかということである。人間の認識は一つのものから別のものへ移動することの内にある。人間とは何かを知っていても、そこから人間に属する他のことは知らないということ、一つの主語を把握してもそこから別の述語を取り出せないというのが人間的認識である。

 ところが神は、主語に属するあらゆる述語が主語の中にあるものとして、その内在において一度に把握するのであって、これが単純知性による認識というものである。われわれにとって述語づけの分離および継起であるものは、神にとっては根源的に統一された同じもの、同一性である。それはいかなる意味でも推論的ではない。

 ということから、ライプニッツがどうして事実の真理を理性の真理へ同等化するのかについてのスコラ的動機があきらかである。神の絶対的な精神に妥当することから、人間的認識を規定している。  

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トピック= 2981 宛先= 3070 同宛先= 3072 返信=
 
Subject 第一節 判断の一般的構造を特徴づけること
Author イストラン [ 3072 to イストラン ]  5/29/Wed/2003   

 ライプニッツは主体 Subjectum ということで二つのものを見ている。

 主体は、第一に、個体的実体、自立的なもの、有るもの的な主体である。

 また第二に、文における主語である。主語は述語を内に含む。これを包摂理論という。

 ライプニッツは有るモノ的な主体を往々にして論理的な主体(主語)から解している。が逆の見方も可能である。どちらの主体が優位を持つのだろうか。

 ところで主語が述語を内に含むということは、どの認識においても、それが真であることの原理的な根拠である。真であるということは主語が述語を内に含むということである。

 ライプニッツは<内在>ということを言う場合に、アリストテレスに依拠する。主語によって名付けられた有るものの内に、述語によって意図されたものが有る。

 他のものと比較してみよう。デカルトにとっては、判断とは認識する主観が表象について採る態度表明のことである。判断するとは同意を与える、与えないというようなことである。この判断論は、第一哲学を基礎づける仕方、つまり懐疑ということと密接に結びついている。この道は形而上学の中心的問題からそれる。

 ライプニッツにとってはそういう判断論は非本質的である。

 またカントの判断論における分析や総合はライプニッツのそれと一致しない。

 しかし他の判断論との比較で言えることは、ライプニッツはアリストテレスやスアレスやカントとともに、判断論を形而上学から基礎づけているということである。だからこの判断論の形而上学的なパースペクティブを可視的にすることで、理論が判明なものとなるだろう。

 内在 inesse、包摂 inclusio を想起しよう。これらは判断の本性的な性格、真理または偽ということとどのように連関しているのだろうか。

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トピック= 2981 宛先= 3070 同宛先= 3076 返信=
 
Subject 第一主要部
Author イストラン [ 3070 to 慧遠(EON) ]  5/28/Wed/2003   

 第一主要部には簡単な導入がついている。

 論理学と存在論(有論というのがあんまりなじめない訳なので)の関わりについて、論理学から存在論へ、と存在論から論理学へ、という二つの道がある、と言っている。(ハイデッガーは論理学という言葉に「思惟の本性」への接近ということを託しているようだ。)

 ライプニッツに対しては双方の関わりを解明するのに、一端「判断」ということ次元を想定してみようというのが、「ライプニッツ判断論の解体の試み」であろう。

 それで、一節からの分節は次のように、判断から出発する。

 1 判断の一般的構造の特徴付け−包摂理論
 2 判断と、真理の理念。真理の諸々の根拠−形式 理性真理と事実真理
 3 真理の理念、および認識の諸原則 同一律、矛盾律、充足根拠律
 4 認識一般の理念 直観
 5 認識の可能な対象としての本来的に有るものの、その有の本質規定−モナド
 6 有一般の根本把握−本質と、現実存在の衝迫
 7 判断論と有の把握−論理学と存在論

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Subject 目次
Author イストラン [ 3068 to 慧遠(EON) ]  5/27/Mon/2003   

 この著作は、というか講義録は、序論に続けて、第一主要部が「ライプニッツの判断論を形而上学的な根本諸問題へ向けて解体すること」と題され、第二主要部が「論理学の根本問題としての根拠律の形而上学」と題されています。

 それぞれ節に分かれてますが、表題だけ見ても、だいたいの傾向がわかると思いますので。

 第一主要部
  第一節 判断の一般的構造を特徴づけること
  第二節 判断と、真理の理念。真理の根本諸形式。マックス・シェーラー追悼
  第三節 真理の理念、および認識の諸原則。 要約的反復
  第四節 認識一般の理念
  第五節 本来的に有るものの有の本質規定
   a)衝迫としてのモナド b)有の解釈を導く糸についての中間考察 c)衝迫の構造
  第六節 有一般の根本的把握(講じられなかった)[原書では省略されている]
  第七節 判断理論と有把握。論理学と有論

第二主要部
 第一編 問題の次元の露開
  第八節 思惟規則としての根拠律
  第九節 真理の本質と、根拠に対する真理の本質関係
   a)言表真理の本質 b)志向性と超越
  第十節 超越問題と、有と時の問題
  補遺 基礎有論の理念と機能を特徴づけること
 第二編 根拠の問題
  第十一節 現有の超越
   a)超越の概念のついて b)世界という現象 c)自由と世界
  第十二節 超越と時性
  第十三節 時性において時熟する超越と、根拠の本質
  第十四節 根拠の本質と論理学の理念
 付録 遠さと近さ

**********************************************************************

 後半から『存在と時間』になってゆくのでしょうかね。EONさんのお話は第八節、九節あたりにその核心部があるような感じです。

 これから一節ずつ簡単に、つまり難しいところは飛ばして、内容を箇条書き程度にまとめますが、それとは別に序論について感想などを書きたいなぁ。これはハイデガー言説に接続するに当たっては避けては通れない断定に満ちているので。


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トピック= 2981 宛先= 2981 同宛先= 3056 3070 返信= 3087
 
Subject ライプニッツの理由律とハイデッガーの根拠律
Author 慧遠(EON) [ 3067 to イストラン ]  5/26/Mon/2003   

イストランさん、ご説明有り難う御座いました。

>  始元を求める問いは、かく哲学史的になりますが、そもそもこのような根拠追求に歴史性がからんでいます。

私は、ハイデガーを『存在と時間』の実存哲学者としてではなく、西洋形而上学(とその歴史)についての哲学史家として読んでいますので、そのようなハイデガーの記述こそ関心があります。

> ライプニッツとハイデガーの関係を扱ったものは四日谷敬子の『個体性の解釈学』しか目にしてないので、上記のことには断片的以外の内容ある返答はできませんが、一ヶ月ぐらいしたら、28年のライプニッツ講義についてなんかご紹介しようかと思ってます。
> 一ヶ月ぐらいしたら、28年のライプニッツ講義についてなんかご紹介しようかと思ってます。

そう言えば、ハイデガーはフンボルトのエネルゲイア的言語論で、それをライプニッツのモナド論の意味で理解している(『ヒューマニズムについて』理想社版選集23の中の「言葉への道」)、と評価していましたね。

ハイデガーの28年のライプニッツ講義について教えていただくならば、これほど嬉しいことはありません。そのハイデガーのライプニッツについての理解の「仕方」が少しでも判れば、私が関心を持つ「根拠律」に於けるハイデッガーのその論理構成の「仕方」が彼の何に起因するかが理解しやすくなります。

ハイデッガーの『根拠律(「根拠の命題」)』については、まだ創文社版全集第10巻が未出版ですので、理想社版選集10『同一性と差異性』しか参考に出来ませんが、そこでハイデッガーはヘーゲルとの思想的対話と言う形でヘーゲル弁証法的に「経験された思考」としてのヘーゲル論理学的な存在論の(ヘーゲル特有の)「思弁的命題」に於いて「存在−神−論」的に把握しようとしています。これが、あの理想社版選集2『ヘーゲルの「経験」概念』でヘーゲルを「再現前化において現成し……絶対的主体の現前化に他ならない……経験は絶対的な再現前化の現前化として、絶対者のパルーシアである。」と批判したあのハイデッガーと同じ人物かと驚く次第です。そして、理想社版選集20『有についてのカントのテーゼ』に於いて、存在の根拠は「最高の有るものとしての有るものは、一切の有るものを有の内へと発現せしめるものと言う意味での根拠」として規定され、「思惟はそれと承知して弁証的となる」と言われます。まさに、ハイデッガーはかかる根拠律とそこから導き出される存在論的差異を、「形而上学の存在−神−論的様態」の次元で神学的に理解していると言わざるをえません。とにかく、それは論理学的命題論のレベルではなく、それから飛躍した言表としての語り(legen)に於いて(現代風に言えば言語行為論のレベルで)の、「存在−神−論」的な「超越」化と思えます。

「エルアイクニス(Ereignis)」の訳語は「性起」、「生起」、「自来」、「出来」等いろいろな訳語があって困ってしまいますが、この概念は極めて重要でと思え、特に語り(legen)に於いてそれがしめされると考えています。H・イェーガーは『ハイデッガーの性起(Ereignis)は、存在の世界に於ける全ての生起の根源的源泉である』(「ハイデッガーと言葉」)と述べています。理想社版選集22『有への問いへ』の中のp.188での「注61」では「贈遺の奥に潜むのは性起であり、それ故、性起は奥義のうちに生起することになり、贈遺はあくまで歴史的生起であるが、性起は超歴史的同時性の次元での生起であろう。」と書かれていました。

> 私の先入見では、ハイデガーが何を言おうと、彼の中には、とても太い線が一本あって、この線上ですべてのことがおこっている、というふうに見えます。
> つまりそれは受動能動以外のものではないでしょう。

この受動能動問題は、勿論ハイデガーの思考の基幹ですが、これはなにもハイデガーに限ったことではなく、メルロ・ポンティやフッサールにも現象学的方法論を取る者の全て、更には反省的認識論者には少なからず見られるところの、受動能動の両義性の問題と私は考えています。どちらかというと、その受動能動の両義性は方法論的な認識の仕方に起因するところの、対象規定性から来るものと私は考えています。

>  そしてこの『哲学の根本的問い』には面白い表現があって、それは歴史性に関する受動能動性とでも言いたい。
>  「真理の本質への問いが一つの歴史的な問い、否それどころか端的に歴史的な問いそのものになるのは、この問いが、我々の歴史にその根拠を初めて返還してくれるものを問うとき、すなわち、回避不可能なことと決断可能なこととが、衝突し合い相互に凌駕し合う空間をそこから獲得する、その<かのもの>を問うときに、限られるのである」(訳98)

『哲学の根本的問い』からの引用は、私の問題意識についてのヒントになりました。特に《その<かのもの>》がもし言表そのものとしての「語り」のレベルであるならば、それを言語行為論的な「関連性理論」で問われるものとの関連で考えることができます。

なを。
[ 3066 ] [ to 慧遠(EON) ] 5/26/Sun/2003 イストラン
ライプニッツの理由律とハイデッガーの根拠律
の発言はたった今、見たところですので、じっくり味わってから、あらためて返事することにします。

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トピック= 2981 宛先= 3060 同宛先= 返信=
 
Subject ライプニッツの理由律とハイデッガーの根拠律
Author イストラン [ 3066 to 慧遠(EON) ]  5/26/Sun/2003   

 この本は面白いです。ご指摘のことが書いてあります。まだ70頁あたりまでしか読んでないですが。

 根拠ということに関して言えば、はじめから根拠が一つの重大な概念として提示されてます。

 「真なる思惟は、思惟がそれについて思惟するところのものに準拠することにおいて、有るものそのものにおいて、それがその上に立脚し、根拠づけられるところのものを求める。すべての真なる思惟は、自己を根拠づけるのであり、根拠づけの限定された諸可能性を持つ。思惟の真理および思惟そのものが根拠のようなものを持たねばならないし、また持つことができるということは何によるのか、再度問われねばならない。そもそも根拠とは何の謂いであるか。根拠と現有とはたがいにどのように向かい合っているのか。思惟に関係していえば、根拠、真理、法則性、自由はどのように連関しあっているのか。」(28)

 「すなわち真理は超越を、根拠は自由を、概念は図式を、コプラは存在を示唆しているのである。」(77)

 ここまで来るのにライプニッツから取り寄せた構図は、しかし<自由>とかいうものに関しているのかといえば、そうでもなくて、これはハイデッガーの読み込みでしょう。

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トピック= 2981 宛先= 3059 同宛先= 3060 3121 返信=
 
Subject ライプニッツの理由律とハイデッガーの根拠律
Author イストラン [ 3060 to 慧遠(EON) ]  5/22/Wed/2003   

 EONさん、どうもありがとうございました。

 
>ハイデッガー全集第45巻『哲学の根本的問い 「論理学」精選「諸問題」』は、「年譜・用語注解」(茅野良男)で見たところ、副題が「真理の本質について アレーテイアとポイエーシス」となっていましたが、もしかしたら「言葉=語り」の方に重心があるのですか?

 この著作の始まりは、真理概念の検討で、内容は伝統的に与えられたきた真理の同族的表現を、不十分と指摘することです。

 その中に、

 的確さ rectitudo
 相等  adequatio
 相似  assimilatio
 一致  convenientia
 相等  homoiosis

 があります。アリストテレスへの反省はこの的確さとして真理の出所としてのものであり、これは、<言表の的確さ>としての真理観の根拠を問うという方向でのものです。それはさしあたっては、<空け開き>として指示されます。そしてこの開け開きの源泉を求めてギリシャ的真理観へ、という筋道になります。しかしそれは近代的真理観の根拠ではあるが、アレーテイアとしての真理のさらなる根拠は求めない、というふうに進んでいるようです。

 始元を求める問いは、かく哲学史的になりますが、そもそもこのような根拠追求に歴史性がからんでいます。

 後半は気分の分析になります。


>とにかく、私にはハイデッガーの理由律、同一律と根拠律との関係の捉え方がどうもよく理解できませんし、ハイデッガーに於けるその根拠律そして更にはそれから導かれた「エルアイクニス(Ereignis)=根拠づけの律動・現象[注;(ハイデッガーに於いては)『生こそ存在である。』(茅野良男)と言われるところで、このエルアイクニスがまさに「語りの開示性と等根源的な情態性及び了解」(H・イェーガー)での『気分』の重要性に繋がるのかもしれない。]」が何を意味するのかも理解しがたいです。それで、全集第26巻『論理学の形而上学的な始元諸根拠』がその理解の一助にでも成りうるものならばと考え、この本を一度読みたいと思ったわけです。

 なるほど。その本は持ってないですし、ライプニッツとハイデガーの関係を扱ったものは四日谷敬子の『個体性の解釈学』しか目にしてないので、上記のことには断片的以外の内容ある返答はできませんが、一ヶ月ぐらいしたら、28年のライプニッツ講義についてなんかご紹介しようかと思ってます。

 私の先入見では、ハイデガーが何を言おうと、彼の中には、とても太い線が一本あって、この線上ですべてのことがおこっている、というふうに見えます。

 つまりそれは受動能動以外のものではないでしょう。これは『存在と時間』における<事実性と超越>ないし<気分と了解>ないし<被投性と企投>からの印象です。

 『形而上学入門』では精神性の表現として<気分づけられた決意>となります。

 『カントと形而上学の問題』では構想力の受容的自発性となります。

 <生起>は『ヒューマニズムについて』の訳者解説によれば、<呼び求める促し>ということですから、私の印象ではこれも受動能動の表現です。ただしニュアンスは存在と時間の能動性優位から現存在の存在に対する受動性というふうになりますが。

 そしてこの『哲学の根本的問い』には面白い表現があって、それは歴史性に関する受動能動性とでも言いたい。

 「真理の本質への問いが一つの歴史的な問い、否それどころか端的に歴史的な問いそのものになるのは、この問いが、我々の歴史にその根拠を初めて返還してくれるものを問うとき、すなわち、回避不可能なことと決断可能なこととが、衝突し合い相互に凌駕し合う空間をそこから獲得する、その<かのもの>を問うときに、限られるのである」(訳98)

 「回避不可能なこと」これを私はとりあえず受動性の表現と受け取り、「決断可能なこと」を能動性と受け取るわけですが、こうした場がハイデガーにとっての哲学場だと思うのですよ。

 この受動能動性が一体、同一性や差異、根拠などとどういうふうに関わるのかはいまだ何も見えてないんですが、そもそもこのことを抜きに、一体ハイデガー言説はいかにして可能なのだろう。論理学とは何か、ということは、現今の論理学の状態を見聞する限り、ハイデガーの語りが強いて関与することはないと思うのですが、彼にとってはいざしらず、その言説は論理学というより、生そのものの論理、つまり受動性と能動性に抱かれた生というイメージにあまりに浸食されている、と私は思っています。

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トピック= 2981 宛先= 3059 同宛先= 3066 3121 返信= 3067
 
Subject ライプニッツの理由律とハイデッガーの根拠律
Author 慧遠(EON) [ 3059 to イストラン ]  5/21/Tue/2003   

イストランさんへ

ハイデッガー全集第45巻『哲学の根本的問い 「論理学」精選「諸問題」』は、「年譜・用語注解」(茅野良男)で見たところ、副題が「真理の本質について アレーテイアとポイエーシス」となっていましたが、もしかしたら「言葉=語り」の方に重心があるのですか?

私が、ハイデッガー全集第26巻『論理学の形而上学的な始元諸根拠 ライプニッツから出発して』に関心をもつのは、その本がライプニッツから出発して論理学の形而上学的な根拠を考察したものと言うことです。そして、そこに於いてライプニッツの(充足)理由律をどの様に解釈し、そこからハイデッガー自身の根拠律への構想をどの様な仕方で行ったかを知りたいと思いました。このハイデッガーに於ける理由律から根拠律への転換は、それが「存在論的差異」論に繋がるものであるが故に重要な問題だと考えており、したがってかかる転換をなしたハイデッガーのその根拠律がこの本のなかでライプニッツの理由律から出発していかなる考え方でもって論理学の形而上学的な始元諸根拠として説明されているのかがとても気になったからです。
特に、ハイデッガーに於いては{【理由律】⊂【同一律】⊆【根拠律】}と言う関係として捉えられており、そこでの同一律が認識の必要・十分条件であると同時に存在の必要条件でありながら、ハイデッガーではこの同一律が根拠律に包摂されると言うこと、そして「事実」についての存在の十分条件として構成される理由律によってその事実の偶然的真理として「初めて主語が述語に内在する」ところの自同的命題となりうるとされるそのライプニッツの(充足)理由律についての理解とは別に根拠律をを立てて、かかる理由律をも根拠律に包摂されるとするところの、ハイデッガーの考え方としてのその説明の構成がこの本に少しでも書かれていないかと思ったからです。
とにかく、私にはハイデッガーの理由律、同一律と根拠律との関係の捉え方がどうもよく理解できませんし、ハイデッガーに於けるその根拠律そして更にはそれから導かれた「エルアイクニス(Ereignis)=根拠づけの律動・現象[注;(ハイデッガーに於いては)『生こそ存在である。』(茅野良男)と言われるところで、このエルアイクニスがまさに「語りの開示性と等根源的な情態性及び了解」(H・イェーガー)での『気分』の重要性に繋がるのかもしれない。]」が何を意味するのかも理解しがたいです。それで、全集第26巻『論理学の形而上学的な始元諸根拠』がその理解の一助にでも成りうるものならばと考え、この本を一度読みたいと思ったわけです。しかし、この本を書店に行くことが無くて目にすることが出来ませんから、具体的にどの様な内容の本かよく分かりませんでしたので、簡単な紹介でもして下されるならばと、この掲示板に書き込みました。

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トピック= 2981 宛先= 3056 同宛先= 返信= 3060 3066 3121
 
Subject 『哲学の根本的問い 論理学精選諸問題』
Author イストラン [ 3056 to 慧遠(EON) ]  5/16/Thu/2003   

ご指摘の論理学の本を取り寄せようかどうか迷ったのですが、それから約10年後の講義ということで、こちらを注文したのです。それで中を見てみると...

 ぱらぱらページをめくっただけですが、それにしてもやはり気分存在の意味は大きいですね、ハイデガーにおいて。これはたいていの人が取り付けないところでしょう。

 「なおいっそう本質的にはこう言われなければならない。すなわち人間についての従来の見解つまり生物学的で心理学的な見解が、今述べられたことをさらに誤解して、気分を、従来おそらく十分に評価されていない非常に重要な人間の能力とするかもしれないが、そうではなく、適切に理解された気分は、人間についての従来の見解の克服に通じるのである。」

 「我々は通常「我々はこれこれの気分になる[我々はこれこれの気分へと置き移される]」という。真実には、すなわち有の根源的な本質から把握するならば、そえは逆であって、気分が、そのつどしかじかの仕方で我々を有るものそのものへの、あれこれの根本連繋へと置き移すのである。より正確に言うならば、気分とはこうした<置き・移すもの>であり、これは置き移しそれ自身の時空間をともに根拠づけるという具合に置き移すのである。」(訳159−160)

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Subject ハイデッガー「論理学の形而上学的な始元諸根拠」
Author 慧遠(EON) [ 2981 new post ]  3/7/Fri/2003   

ハイデッガー「論理学の形而上学的な始元諸根拠」(全集第26巻)の簡単な紹介のお願い

ハイデッガー全集第26巻「論理学の形而上学的な始元諸根拠」創文社について、出来うれば簡単な紹介をお願いします。というのも、私は大型書店に行くことが出来ず、この本を直接手にとって見ることが出来ないので、この本がどの様な内容のものかが全くわかりません。それでこの本を注文したくても、それがどの程度の内容のものかが見当がつかないので、注文するかどうか迷っています。それに、以前ハイデッガー全集第21巻「論理学 −真性への問い-」創文社を購入しましたが、正直言ってその内容に落胆させられました。というのも、ハイデッガーの論理学の知識がロッツェの段階に止まっていて、「伝統的な学校論理学」と言う言葉で論理的思考に於けるそこでの「合理」について、それが「実体の探究」に果たす役割をハイデッガーがほとんど見て取っていなかったことです。(ただ、私はハイデッガーのアリストテレスに関する著作をまだ読んでいませんので、ハイデッガーに於ける「実体の探究」がどの様な位置づけになっているかは知りません。)

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