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TOPIC 『存在と時間』の意味
 
Subject 世界とは何か、心とは何か
Author イストラン [ 3051 to KK ]  5/4/Sun/2003   

 お話を伺っておりますと、ふむふむというふうになってきてしまうではありませんか。

 しかしどうもこの「モデル」という言い方には違和感を覚えます。だいたいこれはハイデガーの語彙ではない。それから「心」とか「意識」というものもそうです。この語彙を使わないというのは、それなりの文脈がある。つまり心と言った途端に心に対置するような形で「外」というものが設定される。そうして心はどうやって外の世界に達するのかという認識論的図式が始まる。ハイデガーはその設定を拒絶する。外というならすでに外に出ているのだと。それが世界内存在の「超越」であると。

 KKさんはそこのところを「心の中にあるモデルとしての世界」というふうに再表現されたのですが、これがもし世界内存在の言い換えだとして、それが「存在には達しない」と評価されるのであれば、それはハイデガーのは観念論であり、実在論に戻れということなんでしょうか。 

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トピック= 2960 宛先= 3034 同宛先= 返信=
 
Subject Re4: 『存在と時間』の意味
Author 慧遠(EON)=招かざる客 [ 3038 to KK ]  4/25/Thu/2003   

KKさんへ
掲示板を見るのが遅れましたので、返事が遅れたのをお詫びします。

> アリストテレスの存在概念とは目指す方向が違う。
>
> 全く別の場所から話をしているにもかかわらず、自分は同じ戦いの場所にいるように述べている。

ハイデッガーについての私の解釈が正しいかどうかは判りませんが、私の考えとしては次のようです。

ハイデッガーはアリストテレスの「有るものとはなにか」と言う問いを「存在の意味とはなにか」と言う問いに変形することに於いて、ハイデッガーは「真性の存在とはなにか」を彼の「解釈学的現象学」に於いて問うているのであり、そこではかかる「存在の意味」と言う「地平」に於いて存在するものが存在するものとして現象するその「存在性」を課題とするものです。そして、この「存在の地平」としての「存在の意味」は、述語「ある(be動詞)」の一切の使用(の文脈と用法)から切断されたところの、(恒存的な)意義(注:=理念[イデア])の様態についての、対象を可能にする形式的規定性として存在するものの対象性一般である(参照:ペゲラー「ハイデッガーの根本問題」、茅野良男)、現象学的なアブリオリな純粋文法の枠内での理念の妥当性(参照:ペゲラー)に於いてあるものと言われるものです。そして、そこでの(現象学的な)認識問題に於ける主体にとっての対象及び対象性としての意味を持つところの範疇問題は、主体の判断問題としてその「現象学的な論理的意味」の連関についての、『「形而上学的−目的論的」解釈が、意味というものをもともと意識に固有のものとして、意識にあてがうものである。このようにして意識は「生ける精神」として把握され、精神は、自らの「形而上学的根源」へと関係づけられる。そして、その根源からのみ「有」は「真−有」たりうるのである。』(ペゲラー「ハイデッガーの根本問題」)と言われるところで、思惟されるものです。
そして、ハイデッガーの『存在の思惟は「経験的アプリオリズム」である。なぜなら存在の思惟に於いては本来的で唯一の「超越論的なアプリオリ」としての存在の経験が肝要だからである。』(マックス・ミュラー「実存哲学と新形而上学」)と言われるところでの、この存在は「既に直接性(非媒介性)を前提とし、この直接性のお陰で初めて、そもそも媒介されることが可能なのである。」(マックス・ミュラー)ところで「必然的に自己を媒介する」(マックス・ミュラー)もの(注:=自己現前的再現前化するもの)とされる『「超越論的」な思惟』(ペゲラー)です。このハイデッガーの『解釈学的現象学が現有の有の意味への問いから有の意味への問いに進もうと試みる以上、解釈学の「第一次的意味」は「実存の実存性の分析」である。フッサールが超越論的自我として捉えたものの有の意味が、ハイデッガーによって事実的実存として規定されるため、かつこの実存はそれ自身に於いて解釈学的であるため、フッサールの超越論的現象学は、ハイデッガーに於いては解釈学的現象学となる。解釈学的に理解された「超越論的認識」は、同時に現有の有の意味への問いであり、したがって「有論的」であり、「有の開示」である。』(ペゲラー「ハイデッガーの根本問題」)とされるところの、「超越論的自我の、つまり実存の実存性の分析論」(ペゲラー)と言えます。まさに「超越論的自我に代わって、ハイデッガーでは現有が登場する。」(ペゲラー)のです。
ハイデッガーに於いては「ト・オンとはなんであるか=存在者の存在とはなんであるか」は
「ヘー・ウーシアとはなんであるか=存在者の"本質"とはなんであるか」と言う本質への問いとして立てられており、そこでの「本質」はウーシアと言う意義を保持するものであるが、ハイデッガーに於けるそのウーシアの必然態は自己自身へ回帰する運動の『前もって規定されている「終末」という意味での「テロス」であり、これと同時に、その運動の「始元」なのである。』(茅野良男「初期ハイデッガーの哲学形成」)ところの「存在者のテロスとしてのウーシア」と言われるものである。それゆえ、ハイデッガーはひところ「原存在(Seyn)」と「存在(Seim)」とを使い分け、「原存在(Seyn)」として「存在の真相」を「存在そのもの」として語った(参照:茅野良男)こともある。
そうしたウーシアとして理解された「存在の意味」=「本質」を問うハイデッガーの「事実態の解釈学」としての「存在論」は、『「ただ先験的還元の立場に立って一切の対象界を志向的意識に内在的なものとし、自他対立以前の我意識に世界も内在するという徹底的内在主義の立場」に於いて、現実存在の理解をなすのが現象学である」。そして「この[現実存在の]理解をなす意識も亦現実意識の外のものでありえないから、現象学は現実意識の自己理解、自己解釈に他ならない」。ハイデッガーは「斯かる意識の自己解釈としての現象学」を、フッサールの「構成的現象学」と区別して「解釈学的現象学」と解している。これは「具体的なる意識の自覚」に他ならないと田辺元は言う』(茅野良男「初期ハイデッガーの哲学形成」)ものに於いてあると言える。それ故、『意味を完遂する主観、現実意識、現実意識を担う「事実的な生」「現存在」そのものの「自己解釈」という』(茅野良男)ハイデッガーの歴史的精神の形而上学は『意味形成の主体を価値をはらむ精神なすし生に求めること、かかる生ける精神をもって主観の主観態と解すること、これが若きハイデッガーのまず到達した形而上学の中核であった。』(茅野良男)と言えるのであり、

最後に蛇足ながら。
ハイデッガーの現象学的に見ることによってアリストテレスを了解するところの、ハイデッガーの「アリストテレスの存在概念」についての理解は、アレーテイアの見顕わしと共にウーシアを了解するものであり、そのようなハイデッガーの理解の性格ゆえに、その存在概念への理解に於いてほとんどプラトン及びパルメニデスの存在概念と区別せずに同一的に理解している。したがって、アリストテレスによる「プラトン及びパルメニデスの存在概念」への論駁について、ハイデッガーは何も語ろうとしていない。むしろ、ハイデッガーによるギリシャ的な古典形而上学の存在概念は、ブラトン主義的に解釈されたアリストテレスのそれとして、(アリストテレスが批判した非感性的非経験的なイデアのロゴスとしての)プラトン及びパルメニデスの存在概念そのものに近いと言える。

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トピック= 2960 宛先= 3029 同宛先= 返信=
 
Subject 世界とは何か、心とは何か
Author KK [ 3034 to イストラン ]  4/21/Mon/2003   

>>このように人間は頭の中に世界に関するモデルを構成し、それに基づいて認識も行動も行っています。この状況を「世界内存在」と表現したと考えると、
>
> この表現がちょっと違和感があるのですが、世界内存在と言われるときに、現存在つまり人間には、もともと世界というものがその構成要素として属している、というような見方ではなかったでしょうか。
>
 その通りだと思います。そこで、客観的存在としての人間と世界を考えると、
人間の中に世界が元々属しているというのは明らかに誤りです。なぜならば
人間が存在する以前に既に世界が存在していたというのはほとんど自明ことだからです。
 ところが、「世界」を人間の心の中にある「世界」、私の言葉を使えば、
「世界に関するモデル」と考えるならば、また、ここでの「人間」を
客観的・物的存在としての人間ではなく、人間の心と考えるならば、
心の中には予め「世界モデル」という概念があるということになります。
これならば私も含めて、多くの人が納得できるでしょう。



> 世界とは、ものの集まり総体のことであると通常は考えられているが、世界とは<理念的>なものであるということ、こういうことが言われていたのではなかったか。
>
 つまり、「世界内存在における『世界』は客観的な世界ではなく、
心の中にある世界に関するモデルである」という私の意見と一致するわけですね。


> そして世界というのはすでに理解されている、ということ、ここから存在了解しながらしか存在しない人間という規定と世界がカップルになる。
>
 つまり、「人間の心の中にある世界に関するモデルは、その心を持っている人間と
不可分の存在である」というわけでしょう。これもほとんどの人が
納得できる自然な発想だと思います。


> では了解とは何か。それは意味を「投げる」ことである。これに対して気分とは「投げられてある」ことである。
>
 つまり、了解には世界モデルに基づいた解釈が行われているということでしょう。
工学的な言い方をすれば、そこでは情報処理過程が含まれているということになる。
そして気分という概念が示していることは、人間の心には情報処理過程には還元
できない部分が含まれているということだと思います。
 


> ここに、了解=企投と気分=被投性という受動能動性が出てくる。そしてこれこそハイデガー的意味での「心」だった。
>
 私は、ハイデガーは結局「存在と時間」でその枠組みを越えることはなかったと
言いたいわけです。つまりハイデガーが考えていたのは最後まで心だったと。
かれはそこ(現存在の実存分析)から出発すれば客観的な存在にまで到達できる
ようなことを最初には述べているが、実際にはそこまで到達しなかったのです。
そんなことは到底無理だと分かったし、自分の追求したいものが
そのようなものではないことが分かったから、後半を書けなかったのです。

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トピック= 2960 宛先= 3019 同宛先= 返信= 3051
 
Subject Re3: 『存在と時間』の意味
Author KK [ 3029 to 慧遠(EON)=招かざる客 ]  4/16/Wed/2003   

 実に長い文章ですね。息継ぎができなくて苦しくなりました。

>従ってハイデガーの「存在」とは現実的に直接的な「存在」、すなわち「存在的なもの」を対象としているのではなく、解釈学的反省に於いての「存在」としてあるところの反省意識的な「存在論的なもの」と考えています。
>
 そうだとすると(私もそうだと思っているのですが)、例えば、アリストテレスの
存在概念とは目指す方向が違う。したがって、アリストテレスの存在論を同列に
置くかのような言い方を「存在と時間」でするのはおかしいと思うわけです。
「ウーシア(実体)をめぐる戦い」などといっているけれど、実はハイデガーは
その戦いの場所にはいないのです。全く別の場所から話をしているにもかかわらず、
自分は同じ戦いの場所にいるように述べている。ここに彼の言語的詐欺がある。
 「自分は心の捉える世界を考察しているのだ」と正直に言えばよい。もしも
それが自分でも分かっていないのならば頭が悪いし、自分で分かっているのならば
詐欺師です。「心の捉える世界」として読むならば、「存在と時間」には参考になる
部分が十分にあると思います。しかし客観的存在について考察しているというならば、
それは誤りに満ちた、ほとんど取るべきところのない著作だと思います。
 それとも私のような考えはハイデガーを学んでいる人からすると当然なので
しょうか。「存在と時間」における「存在」をアリストテレスの「存在概念」と
結びつける方が非常識なのでしょうか。

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トピック= 2960 宛先= 3015 同宛先= 3017 返信= 3038
 
Subject 世界とは何か、心とは何か
Author イストラン [ 3019 to KK ]  4/9/Tue/2003   

>このように人間は頭の中に世界に関するモデルを構成し、それに基づいて認識も行動も行っています。この状況を「世界内存在」と表現したと考えると、

 この表現がちょっと違和感があるのですが、世界内存在と言われるときに、現存在つまり人間には、もともと世界というものがその構成要素として属している、というような見方ではなかったでしょうか。

 世界とは、ものの集まり総体のことであると通常は考えられているが、世界とは<理念的>なものであるということ、こういうことが言われていたのではなかったか。

 そして世界というのはすでに理解されている、ということ、ここから存在了解しながらしか存在しない人間という規定と世界がカップルになる。

 では了解とは何か。それは意味を「投げる」ことである。これに対して気分とは「投げられてある」ことである。

 ここに、了解=企投と気分=被投性という受動能動性が出てくる。そしてこれこそハイデガー的意味での「心」だった。

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トピック= 2960 宛先= 3006 同宛先= 3009 3015 返信= 3034
 
Subject Re3: 『存在と時間』の意味
Author KK [ 3017 to 慧遠(EON)=招かざる客 ]  4/7/Mon/2003   

ご返答ありがとうございます。
返信したいのですが、時間がないので
後日また投稿します。すみません。

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トピック= 2960 宛先= 3015 同宛先= 3029 返信=
 
Subject 存在
Author KK [ 3016 to イストラン ]  4/7/Mon/2003   

 ご返答ありがとうございます。
>
> 存在の意味への問いは同時に「人間は存在者ではない」ということを含意している。その内実はどうであれ。
>
 これを私の立場から解釈するならば、「こころが自己を認識するやり方は、
他者を認識するやり方とは(根本的に)違う」と言うことになると思います。
確かに、他者を認識するときは、見たり聞いたりという、五感が最初にあります。
しかし自己を認識するときは、五感よりももっと別の認識方法が根本にあるように
思えます。「人間は存在者ではない」を客観的な立場から捉えると矛盾的に
聞こえますが、心的記述として捉えると通常の直感に合うと思うのです。

>
> 現存在という呼称は、存在を問いにかける特殊な存在者としての人間ないし意識に与えられた名称である。このとき、現存在はただの存在者ではない優越を持つ。絶えず存在の意味を問い正す存在者はすでにただの存在者ではない。かつまた、己のことをたんなる存在者とみなすことは、『存在と時間』の理屈から言えば、Vorhandenheit のレベルにある視線であり、それは<頽落>している。
>
> そして、『存在と時間』の概念組織は、世界の存在者化、自己の存在者化、時間の存在者化という頽落的解釈から、身をもぎはなして、この存在了解ではない別の存在了解へと赴くということである。もっとも一体それがどういう了解なのか、ということが曖昧に見えるという点はあるのだが。
>
>
 確かに、こころを分析しようとするときには自己を特権的な地位に
置かなければならないということは正当な発想のように思います。
またこころが時間をどう捉えるかということを考えるときに、
物理学な時間概念ではまずいだろうということも理解できます。つまり、
「世界の存在者化」とは「こころにとって世界とはどのようなものか」
ということであり、「自己の存在者化」は「こころは自己をどのように
捉えるか」ということであり、「時間の存在者化」とは「こころにとって
時間とは何か」という問いであると考えるならば、いずれも物理学的な
世界や自己や時間とは異なるものが見えてくると解釈するならば
私には非常に理解しやすいのです。
 ただ自己や時間を物理学的に捉える視点も当然あってよいわけですし、
そのような視点と心から見た視点が両立することは直感的に
自然にりかいできるわけです。物理学的な視点を頽落という
否定的な言葉で表現することは若干抵抗がありますが、
どう名前を付けるかはある意味でどうでもよいことなので
(例えば視点1・視点2と言ってもよいでしょう)
気にしないことにすれば、ハイデガーの言っていることは全く
正当であると思います。ただハイデガーと違って、私のように
表現してしまうと、あまりにも分かりやすくて有難みがない
と思うのは私だけでしょうか。
 とにかくここでの問題は、心という観点から見ると物理的とは違う
どんなものが見えてくるのかという具体的な分析内容だと思います。

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トピック= 2960 宛先= 3010 同宛先= 返信=
 
Subject Re2: 『存在と時間』の意味
Author 慧遠(EON)=招かざる客 [ 3015 to KK ]  4/7/Mon/2003   

KKさんへ

私も20数年前に分析哲学に転向した者です。従いまして、KKさんの言われることはある種の同感を感じます。私自身については、転向以前はハイデガーについてもかなりの本を読んだと思っており、特にハイデガーのカント批判の書を始め、彼の近代哲学(者)に関する哲学史の書からは多くのことを学びました。

> そもそもハイデガーはここで本当に「存在」について
> 考えているのだろうかと思います。
>
> そこで『存在と時間』を「こころ」を論じているものとして考え直してみると、
> この私でも、実に自然に『存在と時間』を理解することができるように
> 感じるのです。
>
> すると「気遣い」ということばも難解ではなくなる。つまり、それは
> こころが対象を意識する働き一般を指す概念です


私は、ハイデガーの「存在」論とは、あくまでも解釈学と言う枠組みであることを忘れてはいけないと思います。従ってハイデガーの「存在」とは現実的に直接的な「存在」、すなわち「存在的なもの」を対象としているのではなく、解釈学的反省に於いての「存在」としてあるところの反省意識的な「存在論的なもの」と考えています。すなわち、解釈学としてある反省的意識に於いての・の内の、その反省的な(存在)直観による(自己)意識的な(自己存在)解釈としての「存在の意味(地平)=存在一般」として、その「存在」の本質への(自己)意識的把握たる了解でもって、その「存在」への気遣いとするところの主観的な自我意識の自己(存在)把握(=所有)としての歴史的精神化への遂行こそ、ハイデガーの言う生の事実態の解釈学であると思っています。まさにその意味でハイデガーの存在論的解釈学とは、ハイデガーの言うその「生ける精神」の"反省意識的"な「事実的な生の自己解釈」(の意識)と言っても良いと思われ、そうした自我意識の自己(存在)把握(=所有)を目指す意識的生として、反省意識的に「私の<我在り>の意味」を問うことが、それの意識的なそこでの世界-内-存在としての「現に在る」ことの関連性を(自己)反省することであるような、「私が自己としての私自身に出会う根本的経験」とされるところの「私が私を所有する」と言う「自己の特定の在りよう」としての実存の意味の"反省意識的"な経験についての、そうした解釈学的諸概念を意識として形作っていると思われます。従いまして、以上のような意味で私が理解するハイデガーの「存在」論とは、KKさんが言われるような「『存在と時間』を「こころ」を論じているものとして考え」ることは、私には正当なものと思えます。


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Subject 存在
Author イストラン [ 3010 to イストラン ]  4/5/Fri/2003   

 ハイデガーは存在というものを存在者とは別にしたがっている。これは一つには存在者への関わりから逃れるということを意味するのだが、なぜそんなことになるのだろうか。

 同じ存在論への注視という面を持つニコライ・ハルトマンは「存在者の学」を存在論としている。ハイデガーが存在存在というときには、存在は存在者的なものではない、という基本設定が欠かすことができない。

 この目線にはこう言ってよければ神秘主義的(とあえて言ってみる)かつ人間主義的目線があるように思われる。人間というのを存在者にしたくないということなのである。存在者となった人間とは、他の多くの存在者と同じ平面にならんでしまう存在者である。

 そういう思考は人間というものを他の多くの存在者の間での等価的な一つの存在者にすぎないものにする。この動向に否定的なのがハイデッガーの目線であろう。

 存在の意味への問いは同時に「人間は存在者ではない」ということを含意している。その内実はどうであれ。

 現存在という呼称は、存在を問いにかける特殊な存在者としての人間ないし意識に与えられた名称である。このとき、現存在はただの存在者ではない優越を持つ。絶えず存在の意味を問い正す存在者はすでにただの存在者ではない。かつまた、己のことをたんなる存在者とみなすことは、『存在と時間』の理屈から言えば、Vorhandenheit のレベルにある視線であり、それは<頽落>している。

 そして、『存在と時間』の概念組織は、世界の存在者化、自己の存在者化、時間の存在者化という頽落的解釈から、身をもぎはなして、この存在了解ではない別の存在了解へと赴くということである。もっとも一体それがどういう了解なのか、ということが曖昧に見えるという点はあるのだが。

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Subject Re2: 『存在と時間』の意味
Author イストラン [ 3009 to KK ]  4/5/Fri/2003   

いらっしゃいませ。『存在と時間』を読まれた方とお話できるのは嬉しいことです。今後ともよろしくお願いします。

 以下、いくつかの箇所を重点的に取り出したく思います。


>そもそもハイデガーはここで本当に「存在」について考えているのだろうかと思います。

 これはハイデッガーにとって存在というのはどういう意味合いを持つかという大きなテーマですね。


>そこで、この本の本当の主題は存在でも時間でもなく、「こころ」であり、ハイデガーなりの心理学−−こころについての系統的な考察という意味での−−であると思うようになりました。

 ここで「こころ」という観点から『存在と時間』を捉えておられることには私は同意します。内容的にはちょっとひっかかるものがありますが。


> 例えば、「世界内存在」という概念における「世界」は客観的な意味での「世界」ではなく、人間の頭の中にある世界に関するモデルを指していると私には思えます。

 このあたりはこころというものと「世界」というものとがどう結びついているのか、ということですが、今少し『存在と時間』の中身とは乖離している印象がします。

 以下順にこれらのことを反省してみます。

 1 存在とその持つ状況
 2 心とその持つ状況
 3 世界とその持つ状況

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Subject Re: 『存在と時間』の意味
Author KK [ 3006 to hussel ]  4/4/Fri/2003   

>昔、『存在と時間』を読みました。結構ハマッタらしく合計3回は読み返しました。プラス入門書を5冊くらい。
>(本を読んだ方が返信してくださることを期待します)
>


 私は放送大学で哲学を学んでいるものです。私も『存在と時間』は一度読みました。
私ははっきりと分析哲学シンパなので、その良さがさっぱり分からないというのが
正直な感想でした。そもそもハイデガーはここで本当に「存在」について
考えているのだろうかと思います。私には『存在と時間』に「ハマッタ」人間はまるで
別世界の人間であるように思われました。
 ところが最近「こころ」を系統的に分析する試みをしているのですが、
その分析が進むにつれて『存在と時間』とそっくりな展開になってきたのです。
そこで『存在と時間』を「こころ」を論じているものとして考え直してみると、
この私でも、実に自然に『存在と時間』を理解することができるように
感じるのです。そこで、この本の本当の主題は存在でも時間でもなく、「こころ」
であり、ハイデガーなりの心理学−−こころについての系統的な考察という意味での−−
であると思うようになりました。ただ、ハイデガーがここで考えているのは
「こころとは何か」という通常の哲学的問いかけではなく、もっと現象的・具体的に
「現実にこころはどのように働いているのか」ということであると思います。
ここに哲学としての新しさがあるのかもしれません。
 例えば、「世界内存在」という概念における「世界」は客観的な意味での「世界」
ではなく、人間の頭の中にある世界に関するモデルを指していると私には思えます。
 人間は自分の周りの対象を認識しますが、認識するとは自分の頭の中にある
「世界に関するモデル」の中にその対象を位置づけるということです。
例えば、或る物をリンゴであると認識することは、それが食べられるものであり、
食べると甘酸っぱいおいしい味がするものであると判定することです。
そこでこれを手にとって食べようという欲求が発生します。
このように世界の中の対象を「食べられるもの」と「食べられないもの」という形で
弁別するわけですが、これは頭の中にある世界モデル−−そこでは食べられるものと
食べられないものという区別が存在するーーに対象を位置づけたわけです。
客観世界においては元々「食べられるもの」と「食べられないもの」という区別は
存在しませんから、これは明らかに頭の中にある世界モデルに基づいています。
これに対応して、「世界内存在」という概念における「世界」には遠い宇宙の
はるかかなたにある銀河は含まれていません。つまり「世界内存在」での
世界は通常の客観的意味での世界ではなく、自分が世界であると意識している
範囲だけが含まれています。
 このように人間は頭の中に世界に関するモデルを構成し、それに基づいて認識も
行動も行っています。この状況を「世界内存在」と表現したと考えると、
私には無理なくこのことばを理解することができます。言い換えれば、
それを「存在一般の基盤」であるよりも「こころの働きにおいて基盤をなしている状況」
と考えたほうが私には理解しやすいのです。

 ではこの世界内存在という状況においてこころはどのように働いているのでしょうか。
先ほどの「食べられるもの」「食べられないもの」という区別が示しているように
我々はある対象が自分にとってどういう意味を持つか、自分とどういう関係にあるか、
ということを常に考えます。極端に言えばどのようにその対象は自分にとって
どんな利益・不利益をもたらすかという判断が基本にあるように思われます。
つまり、我々が他の対象を認識するときの基準は、「それが自分にとってどんな風に
役に立つか、役に立たないか」であると言える。この基準を「道具的気遣い」と
言うことができるように思えます。
 すると「気遣い」ということばも難解ではなくなる。つまり、それは
こころが対象を意識する働き一般を指す概念です。つまり「ノエシス」です。
すると意識する対象としての「ノエマ」が「存在」ということになる。ただ
「ノエシス」や「ノエマ」という言葉を使ってみたところで、単に名前を
つけてみたというだけのことで、何が明らかになるわけでもありません。
大事なことは「ノエシス」が具体的にどのような働きであるのか、
「ノエマ」がその中でどのような具体的な意味を持つのかという
実際的・具体的な心の働きを解明することなのです。
 しかしそういう研究ならばフッサールもやったのではないか。その通りです。
ただその結果はハイデガーとはずいぶん違う。例えば、「道具的」というような
発想はありませんでした。心の働きの具体的分析という点では
フッサールよりもはるかにハイデガーの方が独創的で魅力的です。
フッサールの分析はあまりにも形式的・一般的過ぎて、心の秘密を知りたい
と思っている人は全く魅力がないでしょう。先ほど、

「ノエシス」や「ノエマ」という言葉を使ってみたところで、単に名前を
つけてみたというだけのことで、何が明らかになるわけでもありません。

 と言いましたが、フッサールの分析にはこれと同じ欠陥が目立ちます。

 もう一つのハイデガーの特徴は、彼独特の哲学的話術にあります。
一般に我々は心の働きが捉えた内容と現実の世界は別物であると考えています。
例えば、「りんごを見たと思った」ことと「リンゴが実際にそこにある」こととは
別のことであると通常考えています。しかしハイデガーはその区別を巧妙な
方法によって曖昧化しています。
 先ほど述べたように、「ノエマ」と呼べばそれが意識的・心的な概念であることが
明確になりますが、「存在」と呼べば、何かそれが心的なものの奥にある
対象の本質そのものであるかのように感じられる。だからハイデガーの
文章を読むと自分は今対象の客観的本質を考察しているように
(カントの物自体に近づいているように)錯覚してしまう。
しかしハイデガーは、このような心の考察によってなぜ対象の客観的本質に
迫れるのかということきちんと説明してはいない。「ノエマ」を
「存在」と呼びかえることによって、そのような「雰囲気を出している」
だけだと思います。
 最終結果において、心の考察にから対象の客観的本質に迫れているのならば、
事前にそれをきちんと説明する必要はないのですが、実際には
それが実現されているとは私には到底思えないのです。この意味でも
ハイデガーが考察しているのはこころであって、存在でも時間でもないと
言えるように思います。あるいはそう考えると「存在と時間」をすっきりと
理解することが、少なくとも私には、できる。

 以上分析哲学的な立場から「存在と時間」を分析してみましたが、
これがハイデガーに「ハマッタ」方からはどのように見えるのでしょうか。

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Subject 実存の形象
Author hussel [ 2978 to イストラン ]  2/27/Thu/2003   

 他の人はどう見ているか知りませんが、死と良心とはカップルになって、本来的未来/過去を作るように見えます。
> ゾルゲの構造として一度、企投/被投性の対が提示され、つぎにこれがもっとも存在に接近する有り様である、死(企投)と良心(被投性)に接続する、こんな風に映っています。
>
> この事態を一言で表現すれば、片方に頽落的企投(仮言性)/被投性(恐怖)が、片方に実存的企投(死)/被投性(良心)があって、どちらも円環を為している。ただ実存は頽落の円環から逃れて、つまり無言になって、別の円環に入る。この事情は現在を無視していますが、だいたいこんなふうに映って見えます。
>

確かにこのあたりはついていけませんでした。
無意味だとは思いませんが、『存在と時間』の文脈でで展開できるものだとは思いませんでした。

> そして、私はここで一つ信念のようなものを告白しなければならないのですが、頽落というのはこう言ってよければ伸び拡がった<受動/能動>であり、実存とは圧縮された<受動/能動>なのであると。
>

「ただ今この瞬間を生きる」くらいの意味でしょうか。

ところで急遽この掲示板から撤退しなければならなくなりました。
(というよりしばらく哲学自体に携われなくなりました)
私の『存在と時間』観は大体述べることができたと思います。
長らくしかも丁寧に付き合って頂いてありがとうございました。
楽しかったです。
イストランさんは今院生でしょうか。
これからも御学業に励んでくださいね。
では、また。

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トピック= 2960 宛先= 2977 同宛先= 返信=
 
Subject 実存の形象
Author イストラン [ 2977 to hussel ]  2/27/Wed/2003  神秘主義と哲学 

>ただ、現存在分析からの続きにしてはいきなりレベル的な違いが出てくるのではないかなーと。
>その辺りの違和感を『存在と時間』を読んだ他の方はどのように埋めているのでしょうか。

 husselさんの読み方には一つ欠落している部分があると思うのですが、それは死と隣り合わせになった良心現象のことです。

 他の人はどう見ているか知りませんが、死と良心とはカップルになって、本来的未来/過去を作るように見えます。
 ゾルゲの構造として一度、企投/被投性の対が提示され、つぎにこれがもっとも存在に接近する有り様である、死(企投)と良心(被投性)に接続する、こんな風に映っています。

 この事態を一言で表現すれば、片方に頽落的企投(仮言性)/被投性(恐怖)が、片方に実存的企投(死)/被投性(良心)があって、どちらも円環を為している。ただ実存は頽落の円環から逃れて、つまり無言になって、別の円環に入る。この事情は現在を無視していますが、だいたいこんなふうに映って見えます。

 そして、私はここで一つ信念のようなものを告白しなければならないのですが、頽落というのはこう言ってよければ伸び拡がった<受動/能動>であり、実存とは圧縮された<受動/能動>なのであると。

 ただ、husselさんのおっしゃるように、実存と頽落というのが実は無意味な区別ではないか、という意見もあるでしょうね。『滞留』でデリダはそんなことを言ってかな。

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トピック= 2960 宛先= 2975 同宛先= 返信= 2978
 
Subject 了解と未来性
Author イストラン [ 2976 to hussel ]  2/27/Wed/2003  神秘主義と哲学 

>>例えば
>>・気分=過去
>>・了解=現在
>>でもいいんじゃないかなーと(笑)

 それは道具存在論の過程を無視しているように思います。道具存在論(世界の世界性の分析)では、最終的項は世界の世界性を現存在の存在可能に帰着させている。ということは、この「可能性」の意味がある限り、未来性へと了解が収斂するのはまぬがれない。

「初原的な「の為」は「誰か、すなわち現存在「の為 Worum-willen」である。この Um-willen は一方、「おのれの存在において、みずから存在しながらも、その存在の為に um 関わりゆく、みずから在らんが為に関与することを本質とする」ような現存在の存在に、つねに該当する。」(87)

 了解というものが根本的に未来性からずれていないということ、このことを確認するべきでしょう。

 もっとも、これを人がいいや違うという権利はありますが、ここら辺が難しいところで、つまりハイデガーの何を認めて何を拒否するのか。

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トピック= 2960 宛先= 2972 同宛先= 返信=
 
Subject 死の形象
Author hussel [ 2975 to イストラン ]  2/27/Wed/2003   

> というハイデガーにある程度即した説明は脇においておくとして、死というものを何か救いのようなものとすることは、ほうぼうにある解釈ではないでしょうか。たとえば、火事場の馬鹿力というのがあるけれども、これなんか、死ぬ気になれば何でもできるということで、身近な感覚ですよね。死は病や異常や限界でもあるが、その反面、救済の形象といった感がある。
>
> のび拡がった時間の中で埋没し、あれやこれやの思慮に呻吟する意識を解き放ち、意識をしゃんとさせる、こんな感じ。

イストランさんのいうような文学的な読みも確かにわかるのです。
『存在と時間』は文学的に読んでもかなり面白いですから。
実際、多くの解説書もそうでした。
ただ、現存在分析からの続きにしてはいきなりレベル的な違いが出てくるのではないかなーと。
その辺りの違和感を『存在と時間』を読んだ他の方はどのように埋めているのでしょうか。

もし、現存在分析がそのまま敷衍されれば私は次のようになると思うのです。
現存在にとって死の可能性がなんらかの形で「追い越される」と頽落が始まるというよりも、実は常に「追い越されている」。あれやこれやの思慮に呻吟する意識があるからこそ世界はわれわれに現れるのですから。
つまり、頽落こそハイデガーがこぼしてしまった「死」の最後の契機であり、それは隠蔽というよりはむしろわれわれが世界の受容している証なのだ、と。
実際、個人個人が死を受け止めているか隠蔽しているかは別レベルの話ではないでしょうか。

では頽落を言及できるような「不安」という立場は特権的なのでしょうか。文学読みの『存在と時間』にとっては残念ですが、そうではないと思います。『存在と時間』を哲学書と位置づけ、文学書や教条書と切り離してみるなら「不安」だって反省的に現れる1つの気分です。要するにフッサールのいう超越論的還元の立場を超えてはいません。

とりあえずここまで述べておきます。

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トピック= 2960 宛先= 2973 同宛先= 2974 返信= 2977
 
Subject 死の形象
Author hussel [ 2974 to イストラン ]  2/27/Wed/2003   

>>だとしたらそこから人間の可能性を拾ってくるというのは論理の展開として無理がある、というか、むしろ「タイラク」の状態にこそわれわれ現存在のすべての可能性があるのではないかと。先駆的決意性の先に待ったいるのは理念的な死です。(現実に自分の意思で呼吸を止めるような人間や心因性の精神失調が直接原因で死亡する人間をいればの話ですが。。。)
>
> 理念的な死というのはおもしろいですね、表現として。死というものを通常見られるものとしては考えない、ということでは確かに理念的な死ではある。
>
> しかし、理念というのが極限であるからこそ、またそこにはすべての死の形象の根底にある事態の直観があるとも言える。いや言えるわけではなく、そういう風に表現してみたい。
>
> 死は一切の可能性の途絶であるがゆえに、現存在に「おまえ自身が一個の可能性なのだ」という意識をつきつける。この可能性がなんらかの形で「追い越される」と頽落が始まる。
>
> この追い越されの中には「もしもこうしたらああなる」という形でのカントだったら仮言性とか他律とでも言うだろう事態もある。そしてこの仮言性はまた客観的時間の延び広がりにも接続している、とハイデガーは見ていたかもしれない。
>
> 最初に実存の存在への接近を特徴づけるのは、不安による世界の開示だったが、それは被投性と解され、そして死が表すのは企投の純粋さであり、第二編が死から始めるというのは、実存の二契機の中に<未来性/企投の優位>を置くということに等しい。この解釈はまた実存の頽落がまずは恐怖という存在者への取り込まれることからも力を得ているかもしれない。
>
> というハイデガーにある程度即した説明は脇においておくとして、死というものを何か救いのようなものとすることは、ほうぼうにある解釈ではないでしょうか。たとえば、火事場の馬鹿力というのがあるけれども、これなんか、死ぬ気になれば何でもできるということで、身近な感覚ですよね。死は病や異常や限界でもあるが、その反面、救済の形象といった感がある。
>
> のび拡がった時間の中で埋没し、あれやこれやの思慮に呻吟する意識を解き放ち、意識をしゃんとさせる、こんな感じ。

返信(引用有)   返信(引用無)   全スレッド   ツリー表示   最新20   新規投稿   削除   編集
トピック= 2960 宛先= 2973 同宛先= 2975 返信=
 
Subject 死の形象
Author イストラン [ 2973 to hussel ]  2/26/Tue/2003  神秘主義と哲学 

>だとしたらそこから人間の可能性を拾ってくるというのは論理の展開として無理がある、というか、むしろ「タイラク」の状態にこそわれわれ現存在のすべての可能性があるのではないかと。先駆的決意性の先に待ったいるのは理念的な死です。(現実に自分の意思で呼吸を止めるような人間や心因性の精神失調が直接原因で死亡する人間をいればの話ですが。。。)

 理念的な死というのはおもしろいですね、表現として。死というものを通常見られるものとしては考えない、ということでは確かに理念的な死ではある。

 しかし、理念というのが極限であるからこそ、またそこにはすべての死の形象の根底にある事態の直観があるとも言える。いや言えるわけではなく、そういう風に表現してみたい。

 死は一切の可能性の途絶であるがゆえに、現存在に「おまえ自身が一個の可能性なのだ」という意識をつきつける。この可能性がなんらかの形で「追い越される」と頽落が始まる。

 この追い越されの中には「もしもこうしたらああなる」という形でのカントだったら仮言性とか他律とでも言うだろう事態もある。そしてこの仮言性はまた客観的時間の延び広がりにも接続している、とハイデガーは見ていたかもしれない。

 最初に実存の存在への接近を特徴づけるのは、不安による世界の開示だったが、それは被投性と解され、そして死が表すのは企投の純粋さであり、第二編が死から始めるというのは、実存の二契機の中に<未来性/企投の優位>を置くということに等しい。この解釈はまた実存の頽落がまずは恐怖という存在者への取り込まれることからも力を得ているかもしれない。

 というハイデガーにある程度即した説明は脇においておくとして、死というものを何か救いのようなものとすることは、ほうぼうにある解釈ではないでしょうか。たとえば、火事場の馬鹿力というのがあるけれども、これなんか、死ぬ気になれば何でもできるということで、身近な感覚ですよね。死は病や異常や限界でもあるが、その反面、救済の形象といった感がある。

 のび拡がった時間の中で埋没し、あれやこれやの思慮に呻吟する意識を解き放ち、意識をしゃんとさせる、こんな感じ。

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トピック= 2960 宛先= 2971 同宛先= 2972 返信= 2974 2975
 
Subject 「死」と「不安」
Author hussel [ 2972 to hussel ]  2/25/Tue/2003   

訂正

>例えば
>・気分=過去
>・了解=現在
>でもいいんじゃないかなーと(笑)

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トピック= 2960 宛先= 2971 同宛先= 2973 返信= 2976
 
Subject 「死」と「不安」
Author hussel [ 2971 to イストラン ]  2/25/Mon/2003   

>
> その論の持って行き方というのは、気分存在というのを「見いだされてある」という形で、あるいは開示されてあるという形で、存在に関する根源的な受動性を強調します。これを被投性という。そしてこれが実存的時間性の過去と解され、了解の企投/未来性とカップルになる。こうした持って行き方は強引ですが、引き込まれます。
>

ふむふむ。
そこは『存在と時間』の一般的な解説書に書いてあることなのですが、私はどうしても違和感がある場所なのです。
・気分=過去
・了解=未来
という図式には昔から論理的な強度を感じないのです。
例えば
・気分=過去
・了解=未来
でもいいんじゃないかなーと(笑)
私はイストランさんとは逆にこのあたりから『存在と時間』に飽きてきたのです。

>
> 不安は現存在が己の存在にもっとも接近した有り様、存在様態ということでしょうね。これはcura=慮の引用にもつながる。
>
> このあたりを一言で言えば、「存在に接近する」とは「存在者が黙る」ということになる。あながち言語と関係なくはないのはこの「黙る」という契機があるからでしょう。
>

ハイデガーは「不安」という気分を「死」の分析とからめて極限的な無意味(感)として措定していると私は読むのですが、問題は「不安」が極限的なものとして描かれながらもそこから「先駆的決意性」という「本来的な」可能性が論じられていることです。「存在者が黙る」とか「世界が不気味なよそよそしいものとして現れる」とかいう感覚は、精神病者や芸術肌の人間の描写によく現れてくるものですが、それを推し進めて完全に理念化したのがハイデガーの「不安」なのではないでしょうか。(「もはや可能性がないという可能性」みたいな表記もあったような気がします)
だとしたらそこから人間の可能性を拾ってくるというのは論理の展開として無理がある、というか、むしろ「タイラク」の状態にこそわれわれ現存在のすべての可能性があるのではないかと。先駆的決意性の先に待ったいるのは理念的な死です。(現実に自分の意思で呼吸を止めるような人間や心因性の精神失調が直接原因で死亡する人間をいればの話ですが。。。)

>>(表題は「認識と行為」ということですが、『存在と時間』の現存在分析では2つを分けないですよね。)
>
> そうです。もともと、認識作用ということをhusselさんが強調されていたので、一体行為はどうなるか、という話をしようと思ったのですが、書き始めたらその話は飛んでしまいました。

誤解を与えて申し訳ないです。
ほかに言葉が選べなかったので「認識」だけだと能動的ニュアンスや純粋に思考だけというイメージが強いので「認識作用」としてみたのですが。

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トピック= 2960 宛先= 2970 同宛先= 返信= 2972 2973
 
Subject 認識と行為
Author イストラン [ 2970 to hussel ]  2/25/Mon/2003  神秘主義と哲学 

>確かハイデガーはここから「気分」を比喩ではなく実際の気分として分析してくのだったと思いますけど、その論のもって行き方についてはイストランさんどう思いますか。

その論の持って行き方というのは、気分存在というのを「見いだされてある」という形で、あるいは開示されてあるという形で、存在に関する根源的な受動性を強調します。これを被投性という。そしてこれが実存的時間性の過去と解され、了解の企投/未来性とカップルになる。こうした持って行き方は強引ですが、引き込まれます。



>加えてあらゆる気分の中で「不安」が根本的気分であるというのはどうなんでしょう。

 不安は現存在が己の存在にもっとも接近した有り様、存在様態ということでしょうね。これはcura=慮の引用にもつながる。

 このあたりを一言で言えば、「存在に接近する」とは「存在者が黙る」ということになる。あながち言語と関係なくはないのはこの「黙る」という契機があるからでしょう。

>(表題は「認識と行為」ということですが、『存在と時間』の現存在分析では2つを分けないですよね。)

 そうです。もともと、認識作用ということをhusselさんが強調されていたので、一体行為はどうなるか、という話をしようと思ったのですが、書き始めたらその話は飛んでしまいました。

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トピック= 2960 宛先= 2969 同宛先= 返信= 2971
 
Subject 認識と行為
Author hussel [ 2969 to イストラン ]  2/24/Mon/2003   

> ハイデガーは認識ということをほとんど了解と読み替えています。それはまた存在了解であり、存在了解しながら存在する人間、という形でたえず人間にこの了解がつきまとう。
> しかし了解と同時に気分というのがまたつきまとっていて、この双方を合わせて実存の構造、ゾルゲとしています。
> ということは、いかに語りがこの二つと並ぶ等根源的な事態であろうとも、ゾルゲを被投的企投と解する以上、語りはそこからもれざるをえません。
> 了解と気分の二大分節がないと実存論にはならないと思います。

この辺りもイストランさんと同感です。
現存在の受動的契機を「気分」、能動的契機を「了解」として分析しましょうということでしょうか。われわれは普段から言い表しにくいことを「〜の感じ」「〜の気分」と言いますから、なかなか妥当なネーミングですよね。ゾルゲ(気遣い)から「語り」がもれざるをえないというよりもともと観念論、超越論において3分節というのがトリッキーすぎると思いますね。「存在を可能にしているのは言語である」という命題にもっていくなら、「言語/言語でないもの」という分節に直して論じ直せばよかっただけの話だと思います。
確かハイデガーはここから「気分」を比喩ではなく実際の気分として分析してくのだったと思いますけど、その論のもって行き方についてはイストランさんどう思いますか。
加えてあらゆる気分の中で「不安」が根本的気分であるというのはどうなんでしょう。
(表題は「認識と行為」ということですが、『存在と時間』の現存在分析では2つを分けないですよね。)

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トピック= 2960 宛先= 2968 同宛先= 返信= 2970
 
Subject 認識と行為
Author イストラン [ 2968 to hussel ]  2/24/Sun/2003  神秘主義と哲学 

 ハイデガーは認識ということをほとんど了解と読み替えています。それはまた存在了解であり、存在了解しながら存在する人間、という形でたえず人間にこの了解がつきまとう。
 しかし了解と同時に気分というのがまたつきまとっていて、この双方を合わせて実存の構造、ゾルゲとしています。
 ということは、いかに語りがこの二つと並ぶ等根源的な事態であろうとも、ゾルゲを被投的企投と解する以上、語りはそこからもれざるをえません。
 了解と気分の二大分節がないと実存論にはならないと思います。

返信(引用有)   返信(引用無)   全スレッド   ツリー表示   最新20   新規投稿   削除   編集
トピック= 2960 宛先= 2967 同宛先= 返信= 2969
 
Subject 『存在と時間』の論理性
Author hussel [ 2967 to イストラン ]  2/23/Sun/2003   

>
> しかしそうなりますと、ハイデガーにおいては、認識作用が現存在を覆い尽くしてしまいませんでしょうか。
>
イストランさんのおっしゃる通りです。
ここは存在と現存在の関係というよりもある意図を持った言い換えと考えてみてください。
ハイデガーも意識していたように論理学的には当然循環論法なのですが、われわれが何を「論理的」と感じるかということから言えば「言い換え」も一種の論理だと思います。
「存在」「現存在」「世界」「気分」「了解」「不安」「死」「時間」「歴史」
これかの術語は、論理学的な視点からするとただの比喩を並べているだけなのですが、ある程度の強度を持っていればそれらの繋がりは論理と呼ばれうるようです。もっともあらゆる観念的なもの、概念的なものは何らかの意味で繋がり(連想)がありますから、『存在と時間』を哲学の書物として成立させているのはハイデガーのバランス感覚でしょう。ハイデガーがいう「実存論的に」というのはいつも独特の言い換えだと思います。


>
> まず世界というのは、現存在分析では主観の中に取り込まれますね。物理的客体の集まりではない世界、それが世界の世界性であり、この意味では人間とはもともと世界的である(世界内存在)、歴史的である、であるからこそその地平で世界認識、歴史認識が可能になる。こういうもって行き方がある。
>

この論法は現象学の基本だと思います。同意します。
地平、場、超越論的主観性。いろいろな言い方をしますけど、主観とか主体とかを強調するときに「現存在」というようですね。

> 紐というのが哲学史で見えるとすると、ライプニッツの実体的紐帯というのがありますが、ハイデガーはライプニッツからも影響を受けているという話もありますから、そういうことも言えるかもですね。

すみません。前のレスに銘記した以外の道具立ては私にはありません。(ライプニッツ、哲学史詳しくありません)ただ、それほど大仰なものを意図したわけではないのです。あらゆる物事、認識には「〜と私は思う」または「〜と思う私」のようなカント的にいえば超越論的統覚作用がついてまわる、ということです。(また大仰な言い方をしていますね(苦笑))
ただ意識すればいつでも発見できる「私」。そういう意味で可能的についてまわる「私」ということです。現代思想で扱われるような実存的に悩みや不思議を持った私ではありません。

ところで現存在を可能にしている3契機(情状性、了解、語り)についてはイストランどう思いますか。とうぜん上記の論点にまだまだ納得できないならそちらも続けましょう。

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トピック= 2960 宛先= 2966 同宛先= 返信= 2968
 
Subject 一つの疑問
Author イストラン [ 2966 to hussel ]  2/23/Sun/2003  神秘主義と哲学 

>従って私の読みは「存在を可能にしているのは現存在である」とは、成立している事象を認識作用として見よ。または一種の「視線」として意識せよ。くらいのことです。

 しかしそうなりますと、ハイデガーにおいては、認識作用が現存在を覆い尽くしてしまいませんでしょうか。


>「世界、現象、事象」とかいわれるものには必ず、「私」とか「われわれ」とか「主体」とかいわれるような「紐(ひも)」がいつも可能性としてくっついていることの強調とも取れます。

 まず世界というのは、現存在分析では主観の中に取り込まれますね。物理的客体の集まりではない世界、それが世界の世界性であり、この意味では人間とはもともと世界的である(世界内存在)、歴史的である、であるからこそその地平で世界認識、歴史認識が可能になる。こういうもって行き方がある。

 紐というのが哲学史で見えるとすると、ライプニッツの実体的紐帯というのがありますが、ハイデガーはライプニッツからも影響を受けているという話もありますから、そういうことも言えるかもですね。

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トピック= 2960 宛先= 2964 同宛先= 返信= 2967
 
Subject Re4: 「実存」「距離」について
Author hussel [ 2965 to イストラン ]  2/22/Sat/2003   


> 現存在と存在との関係は、現存在が存在との間に持つ距離といった風に映っております。現存在は存在ではないという形で存在に関係する。
> しかし存在ではないが、存在に接近することはできる。一番存在に接近している状態を実存と言う。
>

すみません。私の片手落ちでした。「実存」「距離」のほうに答えてなかったですね。イストランさんのいう「現存在が存在との間に持つ距離」というのは、私なりに言い換えれば次の2つです。
1.反省の深さとしての距離
2.違和感としての距離

1つは哲学みたいなものをやっていればわかるように、物事というのは考えれば考えるほどくっきり大きく現れてくる。そういく意味で距離。もう1つは納得感というか、それが「おかしい」「不思議だ」という意味で距離。もちろんこの2つは繋がっていますが、とりあえず分けておきます。イストランさんの「一番存在に接近している状態を実存と言う」ということに関しては細かい点で覚えてないので何とも言えません。(ハイデガーはそういうふうにも使っていた気がします)
しかし、ここでイストランとの議論を円滑に進めていくために私の「実存」という概念解釈も述べておきましょう。

1.社会/個人系の「実存」
2.客観学/実存学系の「実存」

1は今日使われているように、自分以外の何か大きなものと自分の関係を論じるときに使われる、または自分以外の視点から論じるのではなく自分の視点から論じるという意味で使われる。2は科学-事実学ではなく自分の実感から論じる学問という意味で使われる。フッサールのいう本質学と同じ。当然1と2は繋がるものがありますが、ここでも便宜上分けておきます。

@私は哲学を独学で勉強していたため、ドイツ語。フランス語の元ネタや周辺的な哲学者、概念に詳しくありませんが、イストランとの議論を円滑に進めていくために自分の「道具立て」を最初に披露しておきたいと思います。

・哲学者フッサール、ハイデガー、メルロ=ポンティ、ウィトゲンシュタイン、(フロイト、デカルト、カント、ヘーゲル)
・日本人では特に柄谷、竹田。
・もともと理系の文学好きなので理系の知識多少。
・論理学の知識、微小。
・哲学をやる動機自分自身の「超越論的欲望」のため。

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トピック= 2960 宛先= 2963 同宛先= 2964 返信=
 
Subject Re4: 『存在と時間』の意味
Author hussel [ 2964 to イストラン ]  2/22/Sat/2003   


> 現存在と存在との関係は、現存在が存在との間に持つ距離といった風に映っております。現存在は存在ではないという形で存在に関係する。
> しかし存在ではないが、存在に接近することはできる。一番存在に接近している状態を実存と言う。
>
> こんな風に記述しちゃんですけどね。まずいですか。

「現存在」に限らず『存在と時間』の術後はいろいろな意味に使われている場合が多いです。
現存在の主要な意味は
1.認識主体である人間
2.人間の認識作用

現存在とは「現にそこに存在している」くらいの意味だと思いますが、ハイデガーは上記の2つの意味を混ぜて使っているようです。
イストランさんの解釈はおもしろいですが、現存在(主体)と存在者(客体)を分けてしまうと、例の主観客観問題に出会ってしまいますので、私はおもに現存在を2の認識作用そのものと取って読みました。
従って私の読みは「存在を可能にしているのは現存在である」とは、成立している事象を認識作用として見よ。または一種の「視線」として意識せよ。くらいのことです。

「世界、現象、事象」とかいわれるものには必ず、「私」とか「われわれ」とか「主体」とかいわれるような「紐(ひも)」がいつも可能性としてくっついていることの強調とも取れます。

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トピック= 2960 宛先= 2963 同宛先= 2965 返信= 2966
 
Subject Re3: 『存在と時間』の意味
Author イストラン [ 2963 to hussel ]  2/22/Sat/2003  神秘主義と哲学 

>「存在」を可能にしているものは何か。
>現存在(人間が認識すること)である、とその辺りからはじめてみるのはどうでしょうか。

 現存在と存在との関係は、現存在が存在との間に持つ距離といった風に映っております。現存在は存在ではないという形で存在に関係する。
 しかし存在ではないが、存在に接近することはできる。一番存在に接近している状態を実存と言う。

 こんな風に記述しちゃんですけどね。まずいですか。

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トピック= 2960 宛先= 2962 同宛先= 返信= 2964 2965
 
Subject Re2: 『存在と時間』の意味
Author hussel [ 2962 to イストラン ]  2/21/Fri/2003   

イストランさん、さっそくのレスありがとうございます。
>
> 最初にどういうところから眼を向けたらよいのでしょう。

主題は「存在とは何か」ということらしいですが、序説(いま、手元に本がないので章分けはうろ覚えです)は、どうでもいいでしょう。「存在」というギリシャ語の語源がどうのこうの、「あわわれるものをあらわれるがままに」どうのこうのとトリッキーな記述がひたすら続いていたよう気がします。

「存在」を可能にしているものは何か。
現存在(人間が認識すること)である、とその辺りからはじめてみるのはどうでしょうか。

レスお待ちしてます。

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トピック= 2960 宛先= 2961 同宛先= 返信= 2963
 
Subject Re: 『存在と時間』の意味
Author イストラン [ 2961 to hussel ]  2/19/Tue/2003  神秘主義と哲学 

 husselさん、はじめまして。

>昔、『存在と時間』を読みました。結構ハマッタらしく合計3回は読み返しました。プラス入門書を5冊くらい。

 私もはまりました。全部要約しようと思って要約したことがありますが、67節あたりで、「じゃ今までのことは何だったんだよう」という感慨を持ちまして、ストップしました。これはかなり前なのでもう覚えていないのですが。

>この掲示板は『存在と時間』に関するカキコが多いので懐かしさとうれしさのあまり投稿します。

 こちらこそ有り難いことです。ぜひ末永くご覧いただければという思いです。


>つまり現存在を可能にしているのは時間(性)ではなありません!私は哲学専攻ではありませんでしたが、そこんとこ専攻している院生につっこんだらうろたえられました。哲学界の定説を覆すこのツッコミ、議論を尽くす機会があったらやってみたかったです。

 やりましょう、やりましょう。私では役不足でしょうが、これが機縁となって、他の方からもレス頂けるかもしれませんし。

 最初にどういうところから眼を向けたらよいのでしょう。

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Subject 『存在と時間』の意味
Author hussel [ 2960 new post ]  2/18/Tue/2003   

昔、『存在と時間』を読みました。結構ハマッタらしく合計3回は読み返しました。プラス入門書を5冊くらい。
この掲示板は『存在と時間』に関するカキコが多いので懐かしさとうれしさのあまり投稿します。
(本を読んだ方が返信してくださることを期待します)

ずばり言いますと『存在と時間』は表題からして間違っています。何ゆえか。存在と時間の構成は存在(者)→現存在→時間(性)の順番で進みます。→に進むほど「それを可能にしている」つまり、根拠づけになっているというのがハイデガーの主張です。が、私の読むところ最後の→が間違っています。つまり現存在を可能にしているのは時間(性)ではなありません!私は哲学専攻ではありませんでしたが、そこんとこ専攻している院生につっこんだらうろたえられました。哲学界の定説を覆すこのツッコミ、議論を尽くす機会があったらやってみたかったです。

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