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TOPIC 総体的受動能動論の例:『演技する精神』(山崎正和)再考
 
Subject 日常の中の演技
Author イストラン [ 2958 to イストラン ]  2/13/Wed/2003  神秘主義と哲学 

 舞台や映画は演技、ワイドショーの司会者の笑顔も演技、軍隊の行進も演技、茶の湯の手前も演技、テーブルマナーも政治家の演説も、ごっこ遊びも、孤独な就眠儀式も演技、家族の死を悲しみながらの表情も演技、外国語学習の発音練習も、打席の前の素振りの練習も演技とまではいかないが、演技のようなものである。

 そういう風に言われれればそうかもしれないと思う。

 日常の中になんらか日常性を超えるものがある。それは特定の型とリズムを持ち、危機に臨んで混乱しがちな感情を整理することに役立ち、他者の目に映る自己の姿を意識的に操作し、自己の対社会的な姿勢を確立することである。

 また演技とは、心身全体の行動であり、現実的な目的の実現を目指さず、功利性や倫理性を逃れる、非現実的な行動である反面、現実の行動以上に緊張をはらみ、快感、高揚感を与え、その人間の生きる姿勢の根本と結びつき、日常にはない手応えを与える意味では日常の行動よりももっと現実的な行動である。

 そういう風に言われればそうかもしれないと思う。

 著者は演技というものを三段階に分けている。それは<観客の目>という第三者の目の存在を意識しながらである。

 第一には、この観客の目が最小の「ごっこ遊び」であり、これは技術習得のための練習にも結びつく。それは「第一義的に自分を自分に対して表現する行動であり、伝達の構造からいえば、密室のなかの独り言にも似た性質を持っている」(20)。

 自分を自分に対して表現する、というのは面白い言い方だ。伝達に際してはそもそも自己性以外の不純物が必要なのであり、だから独り言は何も伝達せず、他者から後退したところに、言語から後退したところに、意図が、それと一体になった真の自己がある、そういうフッサールに対して、デリダはそんな意図と合体する非言語的自己など存在しないと言った(『声と現象』)。

 著者はそうは言わないのだが、このごっこ遊びのレベルにおいてもすでに他人の視線に対する暗黙の志向を秘めている、と言っている。行動者の内面の眼のみが観客であるとすれば、なぜ子供は変身の姿を空想するだけで満足できずに、想像を身体に結びつけ、実際に身体行動するのか。

 つまり行動という概念は著者にとって、他なるものへの接続を意味している。いかなる行為概念も方法的に括弧に入れるという主旨からすれば、行動に<外性>や<他性>を付与するのは控えたいところであるが、ここの主旨は演技行動を三段階に分けることなので、とりあえずその三段階を聞かなければならない。

 第二のレベルは、化粧、衣装、行儀作法といったものであって、それらは「遊戯以上に社会化されている」。遊ぶ人間が共同参加者を求めるのに対して、容姿や振る舞いを整える人間は暗黙に批評家を期待する。演ずる人間は社会性に従ってその演技が型に基づくことを期待する。その型の中で最大限の自由を求める。自己を普遍化することと個性化することの巧みな調和、他者の視線と自己内部の視線を同時に満足させることを求める。

 第三のレベルは、社交というレベルである。社交はこの他者が無限に拡大したところに成立する。彼自身の内的規律を持った美意識は社会全体の美意識であり、無数の第三者の視線を内面化している。この型、美は食欲や性欲という特定の享受者を前提とせず、そうした欲求を持たない不特定な他人を排除しない。

 こうして、第一レベルは自己の眼が優位であり、第二レベルは自己の眼と他者の目が拮抗し、第三レベルは他者の目が優位となる、というふうにまとめられる。

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Subject 総体的受動能動論の例:『演技する精神』(山崎正和)再考
Author イストラン [ 2953 new post ]  2/12/Tue/2003  神秘主義と哲学 

 この書は実に不思議な書であり、その不思議さはいたく考えさせられる。著書の演劇に関する知識のせいもあって、その思考の厚みは重たい。

 軽々しく評価などくだせないのだが、人の目を惹きつけるのは、それがあとほんの少し継ぎ足せばもっと自分に近くなるだろうという気持ちを起こさせるからであって、それがもう少し反省を、ということになるのだ。

 こういう形の受動能動論は哲学を別のものに、芸術、文学に接続させ、そしてさらに人生総体へと視線を誘う。



第一章 演技とその常識

 一 問いと対象

 反省してもらいたいのは、演技と行為と一体どちらが全体的な概念であるのかということだ。「演技とは何か」の代わりに「模倣とは何か、遊戯とは何か」と問うべきだったかもしれない、と著者は言うが、なぜそれが「別の言い方をすれば人間の行動について考える人間は」となるのだろうか(11)。

 つまりいつのまにか問題は行為の方へ移ってしまっているではないか。ではなぜ行為とは何かという問いにならないのだろうか。

 潜在的に行為とは何かという問いをはらんでいながら、演技とは何かというふうになっているこの著作では、演技と行為はほぼ外延を等しくする、どちらが全体とも部分とも言えないような結構になっており、こうして同じような、しかし異なる概念の交錯を通して、問いが生成する。

 問いは、著者が冒頭で引用するクローチェの芸術哲学の、ハイデガーを思わせる<円環>の中に確かにあるのだろうが、これをもっと具体的に言ってみれば、まず還元という型の理解の構造が予想され、<演技>は<行為>に還元されるだろう。しかし同時に、<行為>は<演技>に還元されるというふうに、二つの中心を持つ楕円のような形を描いているように見えるのだ。


 思い起こしてみれば、ドゥルーズの『差異と反復』は一つの<演劇の哲学>であった。それは再演/表象 representation を伴わない運動の哲学であって、これがそうなのは演劇が魂の真の運動であるという直観による。いわば<魂の行為>としての演劇。

 「演劇、それは現実的運動である。そして演劇は、おのれが利用するすべての芸術から、現実的運動を引き出す。だからこそ、そうした運動は、というよりその運動の本質と内的性格は反復であって、対立ではなく、媒介でもないと、ひとは私たちに語るのである。」(『差異と反復』訳、31)

 私のもくろみはこの著作をあめ玉をしゃぶるようにして読みながら、このことの意味、つまり媒介が存在しないということの意味を、受動能動に即して辿ってみることである。

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