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パラドックス(『論理学の哲学』第八章、Susan Haack) |
| Subject |
パラドックス(『論理学の哲学』第八章、Susan Haack) |
| Author |
イストラン
[ 2929 new post ] 1/25/Fri/2003 神秘主義と哲学 |
1 <嘘つき>とそれに関連するパラドックス
真理の理論に対する<嘘つき>のパラドックスの重要性はすでにあきらかになっている。というのは真理の定義に関するタルスキーの形式的妥当性条件は大部分、それを避ける必要に動機づけられているからである。さて<嘘つき>とそれに関連するパラドックスを説明するために、直接注意を向けることにする。
なぜ「嘘つきのパラドックス」なのか?<嘘つき>文は真理に関する明らかな原理とともに、表面上妥当な推論によって矛盾に至る。それがパラドックスと呼ばれる所以である(パラドックスとはギリシャ語で「パラ」と「ドクサ」、「信念の彼方」)
<嘘つき>にはいろいろなヴァージョンがある。古典的なものは次の文に関わる。
(S)この文は偽である。
Sが真だとしてみよう。それが言っていることはその通りなのだから then what it says is the case 、それは偽である。対して、Sが偽だとしてみよう。それが言っていることはその通りではないのだから、それは真である。従ってSはSが偽であるときに限り真である。他のヴァージョンには間接的に自己−指示的文章を含むものがある。
次の文は偽である。前の文は真である。
そして「葉書のパラドックス」がある。葉書の一方の側にこう書かれているとする。
この葉書の裏側の文は偽である。
そして他の側にはこう書かれているとする
この葉書の裏側の文は真である。
他のもの、「エピメニデス」のパラドックスはエピメニデスというクレタ人に関するもので、彼は、すべてのクレタ人は嘘つきだ、と言ったとされている。嘘つきとはその言うことがいつでも偽である人のことだとすれば、エピメニデスの言ったことがもし真であるならば、それは偽である。しかし、<エピメニデス>は<嘘つき>よりどこかパラドックス的でない。というのも、それはいつでも真であるとは想定されえないが、いつでも偽であるとは想定されえるからである(参照 Anderson 1970)。また「本当を語る者」(「この文は真である」)とか命令文(「この命令には従うな」)というものもある。
他のパラドックスは「真(偽)」よりも「〜について真(偽)」に関わる。「異種的 heterological」は「それ自身に関して真ではない」。たとえば「ドイツ語の」「長い」「斜字
体の」というのは異種的である。対して「英語の」「短い」「印刷された」という同種的であり、それ自身について真である。さて「異種的」というのは「異種的」なのか?もし異種的が異種的であるならば、それは自身に関して真ではない。だから異種的ではない。しかしそれが異種的ではないならば、それ自身について真である。だから異種的である。従って、「異種的」が異種的であるのは、異種的が異種的でないときに限る。(Grellingのパラドックス)。
また他のものは「定義可能」や「表記可能 specifiable」に関わる。10 ten という数字は一音節の語で表記可能である。7 seven という数字は二音節の語、17 seventeen という語は三音節の語で表記可能である。それでは、20音節より少ない音節では表記できない最小の数は何か。その数は19音節で、つまり「20音節より少なくては表記できない最小の数」で表記可能である(Berryのパラドックス)。有限な数の語で定義可能な十進数のクラスをEと呼ぼう。そのメンバーは一番目、二番目、三番目...というふうに並んでいるとしよう。Eのn番目の十進数におけるn番目の形がmのときに、Nのn番目の形がm+1であるか、m=9のときには0になる、そういう数をNだとする。そうすると、NはEのあらゆるメンバーとは異なっている。しかしそれでも有限の数の語によって定義されていたのだ(Richardのパラドックス)。
他のパラドックスは集合の概念に関わる。いくつかの集合はそれら自身のメンバーである。他のものはそうではない(たとえば、抽象的対象の集合は、それ自身ひとつの抽象的対象であり、それ自身のメンバーである。牛の集合、これはそれ自身は牛ではなく、だからそれ自身のメンバーではない)。さて、それ自身のメンバーではない集合の集合を考えよう。それはそれ自身のメンバーであるのかないのか。もしもそれ自身のメンバーであるならば、そのメンバー全部がもつ固有性をそれも持つ。つまりそれはそれ自身のメンバーではないということだ。反対に、もしもそれがそれ自身のメンバーでないならば、それ自身のメンバーであるための集合を特性づける固有性を持つ。だからそれはそれ自身のメンバーである。したがって、それ自身のメンバーではない全ての集合の集合がそれ自身のメンバーであるのは、それがそれ自身のメンバーではないときに限る(ラッセルのパラドックス)。他の集合論的パラドックスにはカントールのパラドックスがある。すべての集合の集合よりも大きないかなる集合もありえない。しかし、どんな集合をとっても、それとは別の、そのすべての下位集合の集合があって、それはもとの集合より大きい。それからブラリ−フォルティのパラドックスがある。すべての順序数の系列は、基数を、たとえばΩを持つ。しかし与えられた順序数への、またそれを含む全ての順序数の系列は、その順序数を1だけ超過する。したがって、Ωへのまたそれを含むすべての順序数の系列は基数Ω+1を持つ。
これでもって文献に登場するパラドックスが尽くされてしまうわけではない(参照 ラッセル1908a、マッキー 1973補遺、他)しかしながら、パラドックスの解決が扱わなくてはならない問題の種類を素描するには十分であると期待する。考察のポイントは、さまざまなヴァリエーションによって、提起された解決が十分な視野を持つか否かをチェックすることができるかどうかということである。