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ぱんどら
[ 2920 to イストラン ] 1/22/Wed/2003 |
> そうすると、それは自己の範囲内でなんとかなるもの、たとえば信念の持ち方
>とかの範囲に閉じられるような感じですね。 人間的場面でそういう信念を導入
>して考えると、客観性と主観性の間には断絶というよりも、関係というのがあるよ
>うに感じる。
意思決定における動因要素はそんなものではないですか?
これから神風攻撃隊で戦地に向かうときなど国のためだと納得するか、死後の世界
を信じきるとか、あたふた身の不運を嘆くだけなら、飛び立つ前に銃殺刑になるとか
現実は同じでも自分自身をどこかに設定するようになっている。
客観性と主観性の関係といっていいのかもしれませんね。
>そういう話じゃないでしょう。性欲のブロックがなぜ起こるか、こういう話になる
>かもしれない展開だった。
そうですか?<筋>がちがったかなー、<脈>の連なりがわるいんでしょうか・・・。
>私は自分にはもはや性欲は涌いてこない、歳を取ればこういうこともありうる、
>そう言った。
そんなことありませんよ!今は70現役ですから、本人のやる気しだいだと
思います・・・。イストランさんまさか70以上ではないですよね。
>欲求を持っている内が花だという認知から、ではなぜ欲求の制止が起こるのか、
>に結びつけてもよかった。
なんか物悲しい気分です・・・。
>もしも、普遍的なものがあって、この「誰でも受け入れざるを得ない」ものががん
>としてあるというなら、こういう生成が起こることをどうやって説明すればよいのだ
>ろうか。
別にこだわらなくてもいいと思うのですが、科学がそれほど固定的なものの上に
構築されたわけでもないでしょう。それでもカントやハイデカーの哲学と違って
べつに『プリンキピア』とか『新科学対話』を引き出す必要はない。
プラグマティックなものがキーポイントなのではと言う感触です。
>試験をしてその真理に達したかどうかを認定する、こんな受験生的真理観とは
>別の原理で学の世界が運動しているのだろう。
それでもいずれかのパラダイムに迎合しなければ<行為性>は発揮できるのですか?
>つまり<普遍性>というものを言語的に一部分の<命題>に形容し、<客観性>を行為性からなんらか外して考える風味がぱんどらさんにあるので、その風味についていけない。
わたしとて傲慢ではないつもりですが自分の絶対性を表明して批判してもらったほう
が新しい発展に繋がることが多かったという経験則ですね。
でも<行為性>って単独で成立している要素ですか?