| Author |
イストラン
[ 2886 to イストラン ] 12/13/Thu/2002 神秘主義と哲学 |
「けれども、もしも人間がもう一度、存在の近さのうちへと行き着くべきであるとするならば、そのとき人間は、名前では言い尽くしえぬ名状し難いもののなかに実存することを、まずもって学ばなければならない。そのとき人間は、公共性による誘惑も、また私的なものの無力をも、ともに等しく、認識しなければならない。そのとき人間は、自分が語り出すまえに、なによりもまず、自分を放棄して存在によって再び語りかけられ要求されるままの状態にしなければならない。その際には、この存在が語りかけてくる要求のもとでは、自分はごくわずかに、あるいはごくまれに、言うべき何ごとかをもつのみであるという危険をも覚悟しなければならない。そのようにしてのみ、言語に対しては、その本質の貴重さが、また人間に対しては、存在の真理のうちに住むための住まいが、再び贈られるのである。」(『ヒューマニズムについて』、ちくま学芸文庫、29)
私的なものは無力であることは、公共性に対峙する私的実存が無力であるということ、この公共性の支配が徹底的に貫徹しているという現代社会のイメージでもある。それを認知せよということは、<整序開始>や<権限樹立>の主観性の支配を甘んじて受けるということではないだろう。「自分を放棄して」というのは、主観性の形而上学と闘争するということである。放棄するのは<存在者>に定位する行為性(能動性)であって、<存在>自体はあのユートピア的形象、<存在/行為>の単一性の<境域>にある。
<存在者>ではないもの、アクトゥスではないもの、名称ではないものへの視線は、こうして「自分を放棄して」とか贈「られる」という受動態で記述されることになる。してみると、この道はもう形式的に「受動的な能動性」とか「能動的な受動性」とかいうふうに再表現してみたくなるのであるが、一方でそういう表現の必然性はどうしようもないという思いがあると同時に、この表現では一般的すぎて、像がはっきりしないという漠たる不完全感もあるのである。こんな表現などどこにでもころがっているのだから。
「そのアドルノの思想のライトモチーフは、<合理性>を反省すること、そしてこの反省をへた合理性を用いて<経験>をまったく切り縮めることなく首尾一貫した形で表現することにある。このモチーフは、数十年にわたってアクチュアリティを保持していった。なるほど今日では、啓蒙やモダンなど時代遅れだと公言する人は多い。だが、そうした状況にあってもなお、<啓蒙された啓蒙>というアドルノの考え方は人々を挑発し、活発な議論を呼び起こしている。この<啓蒙された啓蒙>は、美的経験の権利を承認するものである。美的経験とは、合理性がしりぞいてしまいはせず、むしろ能動的な受容性へと研ぎ澄まされていく場だからである。」(R.ヴィガースハウス、『アドルノ入門』)
こんなふうにパラフレーズしてみたくもなる。カント以来、第三批判(美の理論)は受動能動のふきだまりなのだと。