| Subject |
『言うことと何も言わないこと』から |
| Author |
イストラン
[ 2856 to イストラン ] 11/12/Mon/2002 285728582860 |
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思考する人間やその場所あるいは思考する状況や時などにかかわりなく, 論理法則が思考の仕方を指令する(prescrire) ということを認めるならば, その種の人間(=われわれとは異なる思考法則によって思考している人間)が思考しているとはいえなくなるだろう.p.16
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カントの定義によれば論理学とは, 思想の実質的内容となるさまざまな対象を特別扱いすることなく, あらゆる思想一般の条件を扱う学問である.・・・論理学は完全にア・プリオリな仕方でしか遂行されえないし, なんらかの経験なり学問からいかなる原則も借用してはならない.したがって論理学は心理学からも他のいかなる学問からも厳格に分離されれねばならない.カントは, 論理学を心理学から取り出そうとするのは道徳を生活から取りだそうとするのと同じくらい愚かなことであろうと言う.カントによれば「論理学において重要なのは必然的法則であって偶然的法則ではない.われわれがどのように思考するかではなく, われわれがどのように思考しなければならないかが重要なのである.p.16
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「−(p&−p)」がトートロジーであるということと, 「p&−p」が矛盾であるということとは, じっさい, まさに同じことを示している.すなわち, pでありかつ−pであるというのは論理的に矛盾することや, pでありかつp→qであるならば論理的にqであることなどは, 「(p→q)&p&−q」が矛盾であるという事実によっても, 「[(p→q)&p]→q」がトートロジーであるという事実等々によっても示されるような事柄である.しかしいずれにせよ明らかなのは, ここで問題になっているような真理性や虚偽性をたんに定式化することによっては, 論理学はなにも指令できずなにも禁ずることができないということだ.論理学がわれわれに提供できるのは, 矛盾の形式を機械的に識別しうるような方法である.しかし矛盾の形式を排除しようという決定は, ある種の別種の配慮によって動機づけられているはずだ.・・・すなわち法則のもつ規範的機能と記述的内容とのあいだの通常の関係を論理学の命題にもたせることを禁じたのである.p.27
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感官は, われわれが物理的対象についての認識をもつために, 論理的能力にくわえてつまり思考に加えて要請されているものである.しかし論理的能力は, 特別な能力であるどころか, なんであれ客観的判断が成り立つためには必要なものだ.物理的対象の認識において感官がはたす役割に類似した役割を抽象的対象の認識において果たす特別な能力とはなんであろう.場合によっては, その種の能力が論理的能力に付加されてはじめて抽象的対象の認識がわれわれにあたえられるということもあるだろう.しかし抽象的対象の認識は論理的能力のほか何も要求しない.p.44
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可能でないものは記述されることもないp.182
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