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TOPIC 自己触発の形象3 『精神分析の系譜』(ミシェル・アンリ)
 
Subject 1 見テイルト私ニ思ワレル
Author イストラン [ 2763 to イストラン ]  4/13/Fri/2002   

 「デカルトにおいて存在の前提条件としてスムに導くもの、それはほかでもない現われることであり、この現われることが懐疑においても、またこれも魂が限定されてとるひとつの形態であるかぎりで、「我歩行す」においても、等しく君臨しているのである。」

 「デカルトの機械論が根元的な仕方で定式化して見せるのは、まさに存在者が存在の真理に対してもつ解消不能な異質性である。コーギトーがもたらす現象学的還元とは、実際に両者を区別して見せること、すなわち、しかじかのものとして現出することにおいて現われながらも、現出することそれ自身の現われることではもはやないものから、現出することの現出を分離して見せることである。それは現出することのほうを、つまり「魂」のほうを重視して、現出するもの、つまり「物体」を抹消することである。」

 「...現われることの本質を問うことによって、われわれはデカルト哲学の核心に至る。
 見テイルト私ニ思ワレル(videre videor)。コーギトーはその究極の定式を、自分が見ていると私に思われるという命題に見出す。...「しかし少なくとも、自分が見たり、聞いたり、暑かったりすると私に思われる(at certe videre videor, audire, calescere)」。とすれば、エポケーの果てに残っているのは、この視ること(vision)、つまり眼と見なされているものやいわゆる身体や世界と称されるものとの関係をいっさい捨象したうえで、視それ自身へと、つまり、それ自身による純粋な感得へと切りつめられ、それ自体として考察された純粋な視ではないのか。」

 「いったい見ることとは何だろうか。...見ること、それはまなざしの前に身を持すものにまなざしを向け、それに到達することである。かくして、そのように前に投げ置かれるものは、もっぱらそれの対-象化(ob-jection)によってのみ、見られ、まなざされることになるが、その場合、見られ、まなざされることは対象化と同時であるとともに、また同一の事柄でもある。面前に措定され置かれるがゆえに見られるようになるものの対-象化は、しかしながら、事物や本質の対-象化であるより先に、まず前に-置かれて-在ることそのものの対-象化、つまり純粋地平の対-象化である。純粋地平の対象化とは、存在論的差異としての開け(ouvert)の開性(ouverture)のことであって、あらゆる存在者的現前はこの開性に基づいている。脱-立という外へと立ち出ること(ex-stasis)が、見ルコトを、そしておよそ見ルコト一般を可能にする条件なのである。ところが、還元によって不意に見切りをつけられているのは、まさにこの本源的な脱-立である。だとすれば、還元にとって何が残っているのだろうか。還元はいったい何を手中にしていると、なおも主張できるのだろうか。」

 「始原のデカルト哲学の前提に従うなら、現存する、存在するとは、現われることを、すなわち自らを顕現させることを意味している。私ニ思ワレルの意味はそれ以外にない。」

 「この原始の思われははたして、見ることが自分の対象に到達して、まさしく一個の見ることとして構成される場であるところのものと同じものなのだろうか。はたして開示の本源的本質は、存在論的差異の脱-立に解消されうるのだろうか。
 まったくもって否である。」

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トピック= 2758 宛先= 2762 同宛先= 返信=
 
Subject 1 見テイルト私ニ思ワレル
Author イストラン [ 2762 to イストラン ]  4/12/Thu/2002   

 「ものの観念を一挙に思うものに準拠させ、ものの観念はもっぱらそれのみに基づくべきだと主張すること、このことによってデカルトは、存在者から出発して存在を存在者の存在とみなすあらゆる解釈をあからさまに退ける。それだけではない。彼の推し進めるのは、まさにまったく新たな、そして彼以降はほとんど発展をみることのない或る学説の第一歩なのである。われわれはこの学説を今後、実質的現象学(phenomenologie materielle)と呼ぶことにしよう。」

 「ところが、せっかくこのように<始原>をその開始点において認めておきながら、それに続いて致命的な転落がデカルトに生じる。思惟は、思惟の向こう側に留まっている実体の主要属性でしかなくなる。実体については、その十全な観念が神にとっておかれるのに対して、思惟のほうはもはや、物体と同じ資格をもつ一被造実体でしかなくなり、こうして、超越的な構成によって構築された体系の内部で物体と肩を並べることになる。だが、こんな超越的構成などどうでもよいことにしよう。」

 「それでもやはり、始原のデカルト哲学の根幹は、現われることの営みを遂行するものと、逆にその力量のないことを自ら明かしているものとの間に、本質的な差異を打ち建てることに尽きる。このような差異が魂と物体との間の差異である。魂は現われることを本質として備えており、本来はこの現われることを指し示す。これに対して物体のほうには顕現の力能の欠如が、しかも原理上、帰属する。本源的な現われることの実効化およびその現象学的実効性であるかぎりでの「魂」は、したがって、今日われわれが「思惟」と呼ぶもの、すなわち、と考える(penser que)とか、と思い抱く(imaginer que)、と判断する(juger que)、と思量する(considerer que)などということとは何の関係もない。デカルトが容赦なく存在者に対立させるこのような「魂」は、近代哲学の言う思念すること(meinen)ではない。」

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トピック= 2758 宛先= 2758 同宛先= 返信= 2763
 
Subject 自己触発の形象3 『精神分析の系譜』(ミシェル・アンリ)
Author イストラン [ 2758 new post ]  4/7/Sun/2002   

「デカルトが情熱をこめて追求したものは、したがって、本源的<自然>によって授けられる<開け>の開性としても、また、プラトンのイデアの形態においても、いわゆるデカルトの知覚においても近代の表象において獲得されはしない―それどころかまさに、それらの拒否によって、それらとはまったく別のものとして、脱立とはまったく別のものとして得られるのである。デカルトにおける我思うは思惟以外のすべてを意味している。われ思うの意味は生であり、「第二省察」の著者が「魂」と呼んだものである。」

「生の本質を本源的な現われ出ることの本質として捉えることのできる真に根源的な現象学だけが、この生を空想や背後世界の神話から救いだし、在るべきところに、すなわち、われわれのうちに、われわれがまさしくそうであるものとして、生を保持することができるのである。」

「この根源的な現象学はショーペンハウアーが構築する哲学的手段をもたなかったものである。彼は実に天才的なやり方で、表象とは別のものはけっして表象のうちには現われ出ることができないということを明らかにしてうえで、原初的身体性をその表象とは別のものの遂行に場として、また同時にわれわれをそれと一体化するものとして明示する。一方しかしながら、内感を、言い換えると、絶対的主観性を時間の脱立に、したがって表象に還元するカントの理論のために、彼は、結局のところ、<意志>を定義している内在に現象学的意味を与えることができないでいる。意志は再び西洋の思想のくびきにつけられ、その命運に、すなわち自らを前にもたらして時間の脱立の光の中に自らを前置するか、あるいは夜の中に沈むか、表象か無意識か、という命運に従うことになる。生は、それが名づけられたまさにその瞬間見失われるが、そこにすでにいるのは、まごうかたなきフロイトである。」

 「これと反対にニーチェとともに、一瞬、現われ出ることは生の固有な本質であるとして、現われ出ることに生を復帰させる輝かしい考えが閃く。或る決定的な前進が条件となっており、その条件とは、現われ出ることがついに、その現われ出ることの開始のそして永遠の自己への到来の非脱立的な次元―<同一者の永遠回帰>―において、すなわち生において認められるということである。」

 「この根源的な現象学を背景にしてひとつの存在論が姿を現し、情感性 affectivite を<存在>のそれ自体における開示として、存在の質料として、その実質、その肉として発見する。」

 「その後フロイトを読むことが可能となる。精神分析がその治療行為や本質的な分析において必要としているのは、何よりも、またいつも、表象的思惟や―知覚、形象、記憶、夢や象徴的、美的、宗教的算出など―表象的思惟において現われるものすべてを、別の次元の力能に従属させることではないだろうか・」

 「しかしながら、生を説明するために生の後ろに置かれたこの背後の世界は、なんと生に似ていることか。生からそのすべての特徴を借りてきているのがわからないほうが不思議である。『草稿』の二重の神経系において備給される「刺激」は情感(触発)に、すなわち現象性に付けられた名前にすぎず、「外因性の」刺激は世界による―「生命組織」の―超越論的情感(触発)であり、「内因性の」刺激は、したがってその自己刺激は、<生>であるかぎりでの絶対的主観性の本源的本質を構成する自己触発(auto-affection)である。」

 「またフロイトが素晴らしい記述を行った不安―あらゆる情動の通貨―は不安で、生が自己から逃れることのできないことの不安にすぎない。結局のところ、その超越論的構築物においても、また、その最良の現象学的テキストにおいても、フロイトの思想はそのうちにわれわれの時代にもっとも欠けているものを隠しもっているのである、そこにこそおそらく、その理論上の不確かさや矛盾や、さらにはばかばかしさにもかかわらず、フロイト思想の成功の不思議の秘密があるのだろう。」

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