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『論理(学)の哲学』 2 妥当性 Validity[編集:3/21] |
| Author |
イストラン
[ 2836 to イストラン ] 9/28/Fri/2002 |
4 妥当性と論理形式
非形式的な論証が(システム外的な意味で)妥当かどうかを、たんにその前提と帰結の真理値を調べることによって言うことはできない。もしも論証が真なる前提を持ち、偽なる帰結を持つならば、それは 非 妥当であることを示している。しかしもしも真なる前提と真なる帰結を持ち、あるいは偽なる前提と真なる帰結を持ち、あるいは偽なる前提と偽なる帰結を持つとしても、それが妥当であることを示しているとはならない。なぜならば、それが妥当であるのは、真なる前提と偽なる帰結を単に持たない限りにおいてではなく、持つことができない限りにおいてだからである。しばしば起こるように、真なる前提と偽なる帰結を持たないとしても、論証が非妥当であることを示すためによく使われるテクニックがあって、それは 同じ形式を持ち 、真なる前提と偽なる帰結を持つような、別の論証を見つけることである。たとえば、「ゲーデルの証明が非妥当であるか、代数が不完全であるかだ、従って代数は不完全である」は、真なる前提と真なる帰結を持っているが、それでも非妥当である。このことを示すためには、構造的に類似した論証で非妥当な、「7+5=12であるか、犬はミャーミャー鳴く、だから犬はミャーミャー鳴く」を使って、これが真なる前提と偽なる帰結を持つことを指摘することができるだろう。これはもちろん妥当性を示すよりも非妥当性を示すより良い方法である。真なる前提と偽なる帰結を持つ同じ形式の論証を見つけることができなくとも、論証が妥当である決定的な証明とはならない(参照 Massey 1974)。
論証が非妥当であることを示すために人が求めるものは、真なる前提と偽なる帰結を持った、構造的に類似する論証である。このことが示唆するのは、論証は「その形によって」妥当なり非妥当なりになるという格言には或る真理がある、ということである。そして一つの図式的な一般化された方法で、非形式的グループに共有されていると判断され、その妥当性や非妥当性の根拠として判断される構造を表現するために、形式論理システムが考案されたのだ。このことによって今度は次のようなことも考えられがちだ。非形式的な論証は独自の認知しうる構造をもっていて、いわばその形を成している表現である骨格と、その内容を成している表現である肉とから構成されているという考えであり、形式論理学者はその「論理定数 logical constant」を、構造的構成部分をたんに考案しているという考えである。しかしこれは単純化しすぎである。もっと良いと思うイメージはこうである。「かつ」や「〜ないかぎり」や「あらゆる」といった或る種の表現の発生によって特に際だつ構造的類似性を、人は非形式的論証の間に認知する。(しかし、非形式的論証がそれぞれこのパターンで独自の場所を必然的に持つことを期待するべきではない。)形式論理学者は構造的類似を記しづける発生した表現から、形式的扱いができそうな有望な候補であるもの(様々な理由によって。たとえば、真理関数的に。参照第3章§2)を選ぶ。
このイメージは素描であるが、すでに次のことを説明し始めている。どの英語の表現が「論理定数」と見なされるべきかを特定する試みが、何かしら不快な容認を伴う結論に至る傾向にあるのは何故か、つまり、すべての「話題中性的な」表現が(Ryle 1954)、すべての、非形式的論証の妥当性に本質的と思われる表現が(von Wright 1957)、必ずしも形式論理のシンボリズムで考えられているわけではない、という結論に至るのは何故か、ということである。たとえば「いくつかの several」というのは、「すべての all」と同じく話題中性的であり、また同じく論証に本質的であろうが、形式論理学者の装備に含まれているのは後者の類同物であり、前者のではない。クワインが列挙した論理定数を比較してみよう。「‥『である』、『ではない』、『かつ』、『あるいは』、『〜ないかぎり』、『もしも』、『それなら then』、『〜もまた〜ない neither』、『そしてまた〜ない nor』などなど」(1940 P.T)。注目すべきことだが、このリストは古典的命題や述語計算のうちに丁度含まれるものだけを含んでおり、たとえば「必然的に」とか「可能的に」というものは排除している。これは疑いなく、様相論理の可知性に関するクワインの懐疑主義の故である。この「などなど」はもちろん助けにならない。このリストに付加可能と見なされるのがどんなものかについていかなる指示もないからである。
非形式的論証とその表現 representations の関係は、人を期待させるような一対一の直線的なものではない。非形式的論証は異なった形式に異なったやり方で近似的に表現される。たとえば、
あらゆる自然数は0より大きいか等しい。そしてあらゆる自然数は
奇数か偶数である。だからあらゆる自然数は0より大きいか等しく、
また奇数か偶数である。
ということは命題計算では次のように正しく表現される。
P
−
Q
そして述語計算では次のようになる。
(x)Fx&(x)Gx
−−−−−−−−−−−−−
(x)(Fx&Gx)
(他の表現が可能かどうかはオリジナルの曖昧性には依らない。とはいえ、非形式的論証が曖昧であるならば、それは一つの形式的表現以上のものを持つことを意味する。これについては Anscombe のすばらしく曖昧な「貴方が何らかの any魚を食べることができるならば、貴方はどんな any 魚も食べることができる」を参照のこと。)
「p、だからq」は非妥当である。しかし「(x)Fx&(x)Gx、だから(x)(Fx&Gx)」は妥当である。そして後者は前者よりもオリジナルな非形式的論証の構造のより多くを明らかにするのであるから、最善の形式的表現は最高の構造を展開するだろう、と考える誘惑に人は陥るかも知れない。しかしながら、私の非形式的論証は再び述語計算のシンボリズムで、さらにこんな構造をもって表現されえる。
(x)(Fx∨Gx)&(x)(Hx∨Ix)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(x)((Fx∨Gx)&(Hx∨Ix))
人が必要とする以上の構造がここで展開されているという感があるのは明白である。もしも非形式的論証がシステム外的に妥当と判断されるならば、システム内で妥当な形式的論証を一貫して与えることで最小の構造を明らかにするようなものとしての最適な形式的表現を考えることが好ましい。
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これはクワインの 浅い分析の格率 (1960a p.160)である。「痒くなければ引っ掻かないこと」
すでに示しておいたが(p.16) 実用の論理 と 教示の論理 の相互作用においては、形式的な理論のなめらかさのために、妥当性の前形式的な判断を犠牲にすること、あるいは非形式的な論証の評価を収容するために形式的な理論を訂正すること、あるいは−そしてここで追求したいのがこの点であるが−形式的な論理において非形式的な論証を考える represent 適切な道についての見方を手直しすること、こうしたことを人は価値のあることだと判断するだろう。非形式的な論証が与えられた形式的論証によって正しく表現されているかどうかを判断する基準は、妥当性の直観的判断が尊重されているかどうかである。たとえば、「誰かは首相であり、その誰かは女王である、だから首相は女王である」が妥当であるという信念は、次のような述語計算において形式的論証により妥当であるとすることに抵抗を抱かせる。
a=b
a=c
−−−−−
b=c
そして非妥当な次のような形を要求させる。
(∃x)Fx&(∃x)Gx
−−−−−−−−−−
(ix)Fx=(ix)Gx 訳注
訳注 ix の i は本当はiの小文字を180度回転させたような字で、この記号は
確定記述を意味するとされている。FxのようなxはGxのようなxである、
というふうに読むのだろうか。
他方、もしもある非形式的論証を妥当であると判断するならば、妥当な形式的論証によって人は表現を見つけようとするだろう。たとえば、標準的述語計算の範囲内で、副詞的に変容された述語は通常新しい述語文字によって表現される。だから論証は以下のようになる。
大統領は赤いペンで条約に署名した。
だから大統領は条約に署名した。
ということは次のように表現される。
Fa
−−−−
Ga
ここでは「a」は「大統領」を表現する。「F」は「赤いペンで条約に署名した」を、Gは「条約にサインした」を表現する。もちろん、これは述語計算では非妥当である。
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ゆえに、オリジナルの非形式的論証の想定された妥当性という観点からは、副詞的に変容された述語とその変容されない形式の関係を単に消し去るだけではない、副詞的な変容を表現するもっと明快な手段が求められてきた。たとえばDavidson(1968a)は次のような形での表現representationを提案している。
(∃x)(xは大統領による条約の署名であり、xは赤いペンでなされた)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(∃x)(xは大統領による条約の署名であった)
これはオリジナルのものと同じく妥当である。これはオリジナルな論証に標準的述語計算内での表現を与えるものであるが、それは出来事を量化しつつ、出来事の述語として副詞を扱いつつなされる。もう一つの可能性は標準の形式主義を拡張しようというものであり、たとえば副詞を表現するために述語演算子を付加することでなされる。「必然的に」とか「可能的に」という様相的副詞の場合に、こうした形式論理学の語彙の拡張はすでに生じている。
おそらく直接認知されえるのではないが、正しい記号表現が展開する独自の論理形式を、非形式的論証が持つためのもっときちんとした像を求めること、これを促す論理の哲学者がいた。そうした見方は、たとえばWittgensteinとRussellによって、彼らの論理的絶頂期に支持されたものである(Russell 1918 Wittgenstein 1922 を見よ。また第四章でのRassell の記述の理論参照)。というのも、論理形式が完全に展開されるような理想的に明快な独自の言語を考案しようとしたからである。もっと近いところでは、Davidson が似たようなスタンスを取っている。Davidson にとっては、論証の論理形式は形式言語におけるその表現であり、それにとって真理はTarsky の理論(第七章第五節参照)によって課される条件に一致して定義されえる。Russell の考えでは、命題の文法的形式はその論理形式に関して誤解へと導きやすい。表層の文法構造の下にある、だがおそらくまったく別の深層構造という Chomsky の仮定(例えばChomsky 1957を見よ)に注目する最近の論者たちは、論証の論理形式がその深層文法構造と同定されえると示唆している(例えばHarman 1970 を見よ)。関与する深層文法/論理構造は、おそらくは言語の中にあって普遍的なものでなくてはならないのだが、そうでなければ論証がヘブライ語では妥当であり、ヒンディー語では非妥当だということになってしまう危険を冒すことになるだろう。そして思うに、言語学者が最終的に十分に豊富な普遍的文法構造を発見することを期待できるかどうか、それは疑わしい。だからこの−確かに満足しえる整理された像−の展望については楽観的になれない。だがそれにも拘わらず、直観的非形式的な妥当性判断、非形式的な論証の本質的な特性に関する予感と、形式論理システムの発展との相互依存に落胆する理由はない。むしろ、なぜ論理の哲学の中心的問いかけが、非形式的論証とその形式的表現の適合という問題のまわりに群がるのか、このことが説明するその仕方に人は満足さえ感じるかも知れない。その問題は結合子、量化子、単一項 singular termsに関するもので、次の三つの章はもっと全体的に探求することになる。