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TOPIC 『論理(学)の哲学』 2 妥当性 Validity[編集:3/21]
 
Subject 4 妥当性と論理形式
Author イストラン [ 2836 to イストラン ]  9/28/Fri/2002   

 4 妥当性と論理形式

 非形式的な論証が(システム外的な意味で)妥当かどうかを、たんにその前提と帰結の真理値を調べることによって言うことはできない。もしも論証が真なる前提を持ち、偽なる帰結を持つならば、それは 妥当であることを示している。しかしもしも真なる前提と真なる帰結を持ち、あるいは偽なる前提と真なる帰結を持ち、あるいは偽なる前提と偽なる帰結を持つとしても、それが妥当であることを示しているとはならない。なぜならば、それが妥当であるのは、真なる前提と偽なる帰結を単に持たない限りにおいてではなく、持つことができない限りにおいてだからである。しばしば起こるように、真なる前提と偽なる帰結を持たないとしても、論証が非妥当であることを示すためによく使われるテクニックがあって、それは 同じ形式を持ち 、真なる前提と偽なる帰結を持つような、別の論証を見つけることである。たとえば、「ゲーデルの証明が非妥当であるか、代数が不完全であるかだ、従って代数は不完全である」は、真なる前提と真なる帰結を持っているが、それでも非妥当である。このことを示すためには、構造的に類似した論証で非妥当な、「7+5=12であるか、犬はミャーミャー鳴く、だから犬はミャーミャー鳴く」を使って、これが真なる前提と偽なる帰結を持つことを指摘することができるだろう。これはもちろん妥当性を示すよりも非妥当性を示すより良い方法である。真なる前提と偽なる帰結を持つ同じ形式の論証を見つけることができなくとも、論証が妥当である決定的な証明とはならない(参照 Massey 1974)。
 論証が非妥当であることを示すために人が求めるものは、真なる前提と偽なる帰結を持った、構造的に類似する論証である。このことが示唆するのは、論証は「その形によって」妥当なり非妥当なりになるという格言には或る真理がある、ということである。そして一つの図式的な一般化された方法で、非形式的グループに共有されていると判断され、その妥当性や非妥当性の根拠として判断される構造を表現するために、形式論理システムが考案されたのだ。このことによって今度は次のようなことも考えられがちだ。非形式的な論証は独自の認知しうる構造をもっていて、いわばその形を成している表現である骨格と、その内容を成している表現である肉とから構成されているという考えであり、形式論理学者はその「論理定数 logical constant」を、構造的構成部分をたんに考案しているという考えである。しかしこれは単純化しすぎである。もっと良いと思うイメージはこうである。「かつ」や「〜ないかぎり」や「あらゆる」といった或る種の表現の発生によって特に際だつ構造的類似性を、人は非形式的論証の間に認知する。(しかし、非形式的論証がそれぞれこのパターンで独自の場所を必然的に持つことを期待するべきではない。)形式論理学者は構造的類似を記しづける発生した表現から、形式的扱いができそうな有望な候補であるもの(様々な理由によって。たとえば、真理関数的に。参照第3章§2)を選ぶ。
 このイメージは素描であるが、すでに次のことを説明し始めている。どの英語の表現が「論理定数」と見なされるべきかを特定する試みが、何かしら不快な容認を伴う結論に至る傾向にあるのは何故か、つまり、すべての「話題中性的な」表現が(Ryle 1954)、すべての、非形式的論証の妥当性に本質的と思われる表現が(von Wright 1957)、必ずしも形式論理のシンボリズムで考えられているわけではない、という結論に至るのは何故か、ということである。たとえば「いくつかの several」というのは、「すべての all」と同じく話題中性的であり、また同じく論証に本質的であろうが、形式論理学者の装備に含まれているのは後者の類同物であり、前者のではない。クワインが列挙した論理定数を比較してみよう。「‥『である』、『ではない』、『かつ』、『あるいは』、『〜ないかぎり』、『もしも』、『それなら then』、『〜もまた〜ない neither』、『そしてまた〜ない nor』などなど」(1940 P.T)。注目すべきことだが、このリストは古典的命題や述語計算のうちに丁度含まれるものだけを含んでおり、たとえば「必然的に」とか「可能的に」というものは排除している。これは疑いなく、様相論理の可知性に関するクワインの懐疑主義の故である。この「などなど」はもちろん助けにならない。このリストに付加可能と見なされるのがどんなものかについていかなる指示もないからである。
 非形式的論証とその表現 representations の関係は、人を期待させるような一対一の直線的なものではない。非形式的論証は異なった形式に異なったやり方で近似的に表現される。たとえば、

   あらゆる自然数は0より大きいか等しい。そしてあらゆる自然数は
   奇数か偶数である。だからあらゆる自然数は0より大きいか等しく、
   また奇数か偶数である。

ということは命題計算では次のように正しく表現される。

   P
   −
   Q

そして述語計算では次のようになる。

   (x)Fx&(x)Gx
   −−−−−−−−−−−−−
    (x)(Fx&Gx)

(他の表現が可能かどうかはオリジナルの曖昧性には依らない。とはいえ、非形式的論証が曖昧であるならば、それは一つの形式的表現以上のものを持つことを意味する。これについては Anscombe のすばらしく曖昧な「貴方が何らかの any魚を食べることができるならば、貴方はどんな any 魚も食べることができる」を参照のこと。)

 「p、だからq」は非妥当である。しかし「(x)Fx&(x)Gx、だから(x)(Fx&Gx)」は妥当である。そして後者は前者よりもオリジナルな非形式的論証の構造のより多くを明らかにするのであるから、最善の形式的表現は最高の構造を展開するだろう、と考える誘惑に人は陥るかも知れない。しかしながら、私の非形式的論証は再び述語計算のシンボリズムで、さらにこんな構造をもって表現されえる。

   (x)(Fx∨Gx)&(x)(Hx∨Ix)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    (x)((Fx∨Gx)&(Hx∨Ix))

 人が必要とする以上の構造がここで展開されているという感があるのは明白である。もしも非形式的論証がシステム外的に妥当と判断されるならば、システム内で妥当な形式的論証を一貫して与えることで最小の構造を明らかにするようなものとしての最適な形式的表現を考えることが好ましい。
--------------------------------------------------------
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これはクワインの 浅い分析の格率 (1960a p.160)である。「痒くなければ引っ掻かないこと」
 すでに示しておいたが(p.16) 実用の論理教示の論理 の相互作用においては、形式的な理論のなめらかさのために、妥当性の前形式的な判断を犠牲にすること、あるいは非形式的な論証の評価を収容するために形式的な理論を訂正すること、あるいは−そしてここで追求したいのがこの点であるが−形式的な論理において非形式的な論証を考える represent 適切な道についての見方を手直しすること、こうしたことを人は価値のあることだと判断するだろう。非形式的な論証が与えられた形式的論証によって正しく表現されているかどうかを判断する基準は、妥当性の直観的判断が尊重されているかどうかである。たとえば、「誰かは首相であり、その誰かは女王である、だから首相は女王である」が妥当であるという信念は、次のような述語計算において形式的論証により妥当であるとすることに抵抗を抱かせる。

   a=b
   a=c
   −−−−−
   b=c

そして非妥当な次のような形を要求させる。

  (∃x)Fx&(∃x)Gx
  −−−−−−−−−−
   (ix)Fx=(ix)Gx 訳注

  訳注 ix の i は本当はiの小文字を180度回転させたような字で、この記号は
     確定記述を意味するとされている。FxのようなxはGxのようなxである、
     というふうに読むのだろうか。

 他方、もしもある非形式的論証を妥当であると判断するならば、妥当な形式的論証によって人は表現を見つけようとするだろう。たとえば、標準的述語計算の範囲内で、副詞的に変容された述語は通常新しい述語文字によって表現される。だから論証は以下のようになる。

   大統領は赤いペンで条約に署名した。
   だから大統領は条約に署名した。

ということは次のように表現される。

    Fa
    −−−−
    Ga

ここでは「a」は「大統領」を表現する。「F」は「赤いペンで条約に署名した」を、Gは「条約にサインした」を表現する。もちろん、これは述語計算では非妥当である。

26
ゆえに、オリジナルの非形式的論証の想定された妥当性という観点からは、副詞的に変容された述語とその変容されない形式の関係を単に消し去るだけではない、副詞的な変容を表現するもっと明快な手段が求められてきた。たとえばDavidson(1968a)は次のような形での表現representationを提案している。

    (∃x)(xは大統領による条約の署名であり、xは赤いペンでなされた)
    −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     (∃x)(xは大統領による条約の署名であった)

これはオリジナルのものと同じく妥当である。これはオリジナルな論証に標準的述語計算内での表現を与えるものであるが、それは出来事を量化しつつ、出来事の述語として副詞を扱いつつなされる。もう一つの可能性は標準の形式主義を拡張しようというものであり、たとえば副詞を表現するために述語演算子を付加することでなされる。「必然的に」とか「可能的に」という様相的副詞の場合に、こうした形式論理学の語彙の拡張はすでに生じている。

 おそらく直接認知されえるのではないが、正しい記号表現が展開する独自の論理形式を、非形式的論証が持つためのもっときちんとした像を求めること、これを促す論理の哲学者がいた。そうした見方は、たとえばWittgensteinとRussellによって、彼らの論理的絶頂期に支持されたものである(Russell 1918 Wittgenstein 1922 を見よ。また第四章でのRassell の記述の理論参照)。というのも、論理形式が完全に展開されるような理想的に明快な独自の言語を考案しようとしたからである。もっと近いところでは、Davidson が似たようなスタンスを取っている。Davidson にとっては、論証の論理形式は形式言語におけるその表現であり、それにとって真理はTarsky の理論(第七章第五節参照)によって課される条件に一致して定義されえる。Russell の考えでは、命題の文法的形式はその論理形式に関して誤解へと導きやすい。表層の文法構造の下にある、だがおそらくまったく別の深層構造という Chomsky の仮定(例えばChomsky 1957を見よ)に注目する最近の論者たちは、論証の論理形式がその深層文法構造と同定されえると示唆している(例えばHarman 1970 を見よ)。関与する深層文法/論理構造は、おそらくは言語の中にあって普遍的なものでなくてはならないのだが、そうでなければ論証がヘブライ語では妥当であり、ヒンディー語では非妥当だということになってしまう危険を冒すことになるだろう。そして思うに、言語学者が最終的に十分に豊富な普遍的文法構造を発見することを期待できるかどうか、それは疑わしい。だからこの−確かに満足しえる整理された像−の展望については楽観的になれない。だがそれにも拘わらず、直観的非形式的な妥当性判断、非形式的な論証の本質的な特性に関する予感と、形式論理システムの発展との相互依存に落胆する理由はない。むしろ、なぜ論理の哲学の中心的問いかけが、非形式的論証とその形式的表現の適合という問題のまわりに群がるのか、このことが説明するその仕方に人は満足さえ感じるかも知れない。その問題は結合子、量化子、単一項 singular termsに関するもので、次の三つの章はもっと全体的に探求することになる。

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Subject 選択可能な公理ないし規則
Author イストラン [ 2766 to イストラン ]  4/30/Mon/2002   

 選択可能な公理ないし規則

 もしも二つの形式化が表記上の異体を持つならば、それらの公理ないし規則は少なくとも記法的に異なっているだろう。さらに、もしもそれらが異なった constants を原始的なものとみなすのであれば、通常、おのおのがその原始的な constants を公理ないし規則の中で使用する。(しかしながら、しばしば一つのシステムは、それが constants を公理/規則で現われるよう定義することで形式化される。『プリンキピア』では、「―」と「∨」だけが原始的であるが、「→」もまた公理中に現われる。)
 公理や代置規則よりも、 公理図式 axiom schemata を使用する形式化もある。その違いは、たとえば、

 (p→q)→((q→r)→(p→r)) という公理を持つこと、公理のいかなる代置事例も一つの定理である、という規則を持つことと、

 以下のような図式を持つこととの間にある。

 (A→B)→((B→C)→(A→C))

 下のものでは、「メタ変数」である「A」「B」「C」を用いることは、この言語のどのような論理公式もこの文字の代わりに置かれ、その結果生じる論理公式が公理であることを示している。
 これまで述べた表記と提示の多様性とはまったく別にして、異なった形式化は単純に異なった公理/規則群を持つ。たとえ表記上の差異が許されているにしてもである。それらの公理/規則群は重複することがあるだろうし、まったく別物であることもあるだろう。一つの例として、メンデルソン Mendelson の公理図式とメレディス Meredith の公理図式を比べてみよう。両者とも二値命題計算のために「―」と「→」を使用する。

 メンデルソンのセット
  1 (A→(B→A))
  2 ((A→(B→C))→((A→B)→(A→C)))
  3 ((―B→―A)→((―B→A)→B))

 メレディスのセット
  1 ((((A→B)→(−C→―D))→C)→E)→((E→A)→(D→A))

(他に選択可能な公理については、プライアー Prior 1955pp.301ff、Mendelson 1964pp.40-1を参照のこと)

 たった今見た例は二値論理計算のための他の公理群である。選択可能な形式化は、同じ定理と妥当な推論の群を生み出す。形式化が異なるということでは、それらが別の定理と別の妥当な推論をもたらすようになるということもある。直観主義命題論理には、二重否定や排中律を含めて、いくつかの古典的定理がない。

 この点で、私のそもそもの問題に立ち返るだけの材料が十分に得られた。それは他に選択可能な形式化を 同一の システムの形式化として扱えるのはいつか、ということである。私は「同一のシステム」に関する二つの説明を示すことにする。一つはより広いもので、一つはより狭いものである。どちらもある目的にとっては都合がよい。
 より狭い意味。L1とL2とは、もしそれらが 同じ公理ないし推論規則 を持つならば、そして記法の差異(たとえば「&」を「.」で置き換える)と原始常項 primitive constantの差異(たとえば「p&qを「―(―p∨―q)」で置き換える) が許容されるならば、同じシステムの異なった形式化である。
 より広い意味。L1とL2とは、もしそれらが 同じ定理と妥当な推論 をもち、そして記法と原始常項の差異が許容されるならば、同じシステムの異なった形式化である。
 例。『プリンキピア・マテマティカ』の形式化と『論理学を始める』のそれとは、狭い意味では異なったシステムの形式化である(一方は公理+modus ponens を持ち、他方は推論規則しか持たない)。しかしより広い意味では(両者は同一の定理と推論を生成する)、同じシステムの形式化である。
 「同じシステム」のこれら二つの意味が、ある齟齬する直観の和解に役立って欲しいと思う。より狭い意味の方は、L内妥当の定義に使用するには適当であるし、対してより広い意味の方は、たとえば二値論理と多値論理の対立にもっと有用であるだろう。妥当性のより狭い意味が持っている優位とは、それがないと脅威になるような循環を避けるということであって、その循環とは「定理」と「推論」が或るシステムに相対的に定義され、「システム」が一群の定理と妥当な推論に相対的に定義されるということである。
 矛盾した形式化に関する議論にとっても狭い意味が有用なものとなるだろう。というのも、ある種の非規約的なシステムを除いて、矛盾から導かれるものは何であれ、「A→(―A→B)」という定理のおかげで、すべての矛盾するシステムは広い意味では同じシステムとみなされてしまうからである。狭い意味によって、すべてのではないがいくつかの矛盾する形式化が決して重大な哲学的興味を持たせるものではないという直観を尊重することが可能となる。たとえばフレーゲのものである。そこではラッセルのパラドックスは定理である。

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Subject 公理的演繹の形式化と自然演繹の形式化
Author イストラン [ 2764 to イストラン ]  4/13/Fri/2002   

   公理的演繹の形式化と自然演繹の形式化

 論理の公理システム(たとえば 『プリンキピア マテマティカ』)は一つの以上の推論規則以外に、一群の論理式 wff を含むが、これは論証のどこでも使用可能で、その真理はシステム内においては不問とされる。諸公理はシステムの定理の中に含まれる。というのはそれらは自明なこととして trivially それら自身から導出されえるからである。(公理システムは少なくとも一つの推論規則を持たねばならない。一つの論理式から他の論理式に移行するための手段がなくては、いかなる導出も証明も可能ではないからである。)
 自然演繹の形式化(たとえば『論理学の始め』)は、これと対照的に、推論規則のみに依拠する。(仮定の規則によって、出発点となる公理を必要とせずに出発することができるだろう。)自然演繹の規則が、間接的な、準メタ論理的でさえある性格を持つことは注意に値する。∨除去 vel elimination の規則を考えてみよう。仮定AからCを導出したとする(他の仮定も加えることが可能)。そして仮定BからCを導出したとする(他の仮定も加えることが可能)。そのとき、A∨Bという仮定からCを導出できる(AからCを、BからCを導出する際に使用した他のいかなる仮定も加えることができる)。原注1
 真であることが、あるいは偽であることすら知られていない公理が、ただたんにその帰結を調査する目的で採用されることがしばしばある。有名な例は、幾何学の歴史にある。サッケリ Saccheri はユークリッドの平行線の公準の矛盾を公理としたが、それは結果が矛盾したものであることを示そうとしてのことであった。そして平行線の公準がユークリッドのほかの公理から導出できることを示そうとしたのだった。この公準が実際には他のものからは独立していたのだから、彼は目的を達成できなかった。(「トンク tonk」に対するプライアーの推論規則に関する議論を参照。第3章§2)
 まさに同一の妥当な論証と定理が、公理的にであろうと、また自然演繹の規則によってであろうと、生成され得る。たとえば、『プリンキピア マテマティカ』の公理ないし『論理学の始め』の規則によって。しかしもちろん、このことは自然演繹と公理的テクニックの差異が重要なものではないということを言うものではない。たとえばニール Kneale は自然演繹の形式化が論証の妥当性への論理の中心的関わりを、より良く反映していると論じている(1956, §4)。『概念記法』と『プリンキピア』の公理的形式化がもたらした不幸な効果によって、論証の妥当性から論理式の論理的真理へと観点が移動してしまった、と Kneale は指摘する。そしてブランベルグ Blumberg の示唆によれば(1967 p.24)、自然演繹の形式化は形式論理と、幾何学や生物学のような他の形式的理論との間にある差異を際立たせる。後者は論理的推論規則の共通の土台を超越する特殊な主題に関与する特殊な公理を要求する。論証に対する論理の関わりを強調したり、形式論理の自然演繹的提示によって、この関わりが信頼のおけるものになることには同意するが、しかし、論証の妥当性と論理式の論理的真理とは密接に結びついているのであるから、公理的な形式化をとったからといって、かならずしも人の視野が捻じ曲がることはない。(カルナップ Carnap 1934は、いかなる前提からも、また前提がないところからも、与えられた論理公式を推論するという効果にとっては、公理というものを、むしろ推論の特殊な規則と考えることができる、と指摘する。)そして論理的システムと他の形式的システムの違いもまた、公理的提示において見失われる必要はない。というのも、そこには論理的な logical 公理と適切な proper (たとえば、幾何学的、生物的などなどの)公理の差異の余地があるからである。道具主義的科学哲学者の中には、科学的法則を公理というより規則と見なすべきだという向きがあるが、これは妥当である。

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Subject 選択可能な原始的定数
Author イストラン [ 2761 to イストラン ]  4/10/Tue/2002   

   選択可能な原始的定数 alternative primitive constants

 定数の様々な組はその表現力において等しい。たとえば、二値の真理関数を表現するための「&」と「―」、「∨」と「―」。存在量化や普遍量化のための「(∃x)」と「―」、「(x)」と「―」。いくつかの表現形式では、「&」と「―」が原始的なものとみなされ、「∨」や「→」を定義する。他のものでは「∨」と「―」が原始的とみなされ、「&」や「→」を定義する。たとえば、『プリンキピア・マテマティカ』は原始的なものとして否定と選言しか持っていない。対して『ビギニング・ロジック』は否定、選言、連言、実質含意を持つ。

 訳注 ここの「―」というのは定数を表していると考える。しかしそう考えると、この部分は何を言いたいのかわからない。真理関数の中でどれを原始的と考えるのか、ということが絶対的ではない、ということを言うなら、定数などという必要はないのだから、定数という訳はおかしいのだろう。

 原文:Different sets of constants are equivalent in expressive power.

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Subject 記法上の異体
Author イストラン [ 2760 to イストラン ]  4/9/Mon/2002   

   記法上の異体

 印刷字体として、さまざまな表現が同一の演算に対して使用される(たとえば同一の真理関数に対して)。もっとも普通に使われる記法上の異体として、つぎのものがある。

否定-、〜Np [注1]
選言Apq
連言p・qKpq
実質含意Cpq
実質等価 [注2]、Epq
普遍量化子)、(∀)、Λ、Π
存在量化子(∃)、(E)、V、Σ


 それぞれの最後のものは、ポーランド記法である。これには括弧を使わない利点がある。演算子はそれが支配する式の前にあり、そのスコープは括弧なしで限定される。

 注1 ほかにpの上に横棒がある字が書いてあるが、このhtmlでは表記できない。
 注2 これは一重線の双方向の矢印であるが、このhtmlでは表記できない。

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Subject 3 形式的論理システム:「L-妥当」における「L」
Author イストラン [ 2759 to イストラン ]  4/8/Sun/2002   

3 形式論理システム:「L-妥当」における「L]

 形式的論証に適用可能な妥当性のシステム相関的な概念と、非形式的論証に適用可能な外システム的概念とを私は前に区別しておいた。前者のLにおける妥当性に関して適切に説明するとなると、どのようにして人は形式的システムをそれと同定し、個別化するかということを何らか説明しなくてはならないことは明らかである。この問題は、たとえば Principia Mathematica (Russell and Whitehead 1910)や Beginning Logic (Lemmon 1965)に見られる命題論理を考えることで例示されるだろう。もしも二値論理と多値論理の違いに関わるのであれば、人はそれらを 同一の (二値論理の)システムに関する選択可能な表現形式 formulation と自然にみなすだろう。対して、公理的演繹技術と自然演繹技術(p.19参照)の対照に関心があるなら、人はそれらを 異なった システムとみなすだろう。
 ぴったりした中性的表現を使うために、私はシステムの特殊な提示 presentation を論理システムの「表現形式 formulation」と呼ぶことにする。さて諸表現形式の間の相違は主に二種類ある。語彙における差異と、公理や推論規則における差異である。最初に諸表現形式間の重要な差異を素描し、それから「同じシステム」に関する二つの説明、一つはより広く、もう一つはより狭い説明をする。

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Subject 2 演繹的妥当性 帰納の強さ
Author イストラン [ 2744 to イストラン ]  3/30/Fri/2002   

 帰納的な強さ

 帰納的な強さというものは、構文論的にであれ意味論的にであれ、帰納論理の形式的システムに相関して記述されるだろう。しかしながら、古典的演繹論理が楽しむ堅固な場所に類するものを持つような帰納論理の形式的システムは存在しないのであるから、帰納論理の強さに関しては、外システム的観念が特別の中心的な役割を持つ。その観念によれば、諸前提が、たとえ帰結的確証というほどのものではないとしても、その帰結に対する確証度を与えるならば、論証は帰納的に強い。すなわち、もしも諸前提が真であり、かつその帰結が偽であるということがありそうにないならばということである。(注意しなければならない。このように表現するならば、すべての演繹的に妥当な論証は、帰納的に強いとみなされるだろう。演繹的妥当性は帰納的な強さの極限となるだろう。そこでは諸前提が真でありかつ帰結が偽である可能性はゼロである。)
 しかし、以下のことも注意に値する。帰納的強さの外システム的観念の記述において、スカームズ Skyrms(1966 pp.9-11)は以下のような定式化を主張している。「諸前提が真であることが与えられるならば、帰結が偽であることはありそうにない」。というのも、帰結の高い本当らしさ、あるいは諸前提の低い本当らしさというものは、それら自体で論証の帰納的な強さにとって十分である、ということを彼は認めなくないからである。彼の帰納的な強さに関する見解は、演繹的妥当性に関する関与の論理学者たちの考えと非常に近い、ということは意義深い。

 もちろん周知のように、帰納の正当化については問題がある。私が述べたことが意味しているのは、帰納的に強い(しかし演繹的に非妥当な)論証があるということである。実際、演繹と帰納とは、一般に想定されるよりももっと対称的であると考える。Haack 1976b参照

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Subject 2 演繹的妥当性 実用の論理と教示の論理
Author イストラン [ 2741 to イストラン ]  3/29/Thu/2002   

 実用の論理 logica utens と教示の論理 logica docens

 実際のところ、まったく複雑な適合過程がありそうである。人は、非形式的論証の外システム的妥当性の直感的判断を土台として、形式システムを発展させることを始めるかもしれない。つまり記号表記で論証を表し、推論規則を準備し、(非)妥当と判断される非形式的論証の形式的表象 representations がそのシステムで(非)妥当となるようになる。しかしこうした規則が与えられると、他の形式的論証がそのシステムで妥当であることになり、それはおそらく直感的に非妥当と判断される非形式的論証を表す形式的論証である。ついで、人はシステムの規則を改定し、あるいは、とくに規則が是認されるほど単純で、もっともらしく、非形式的非妥当性の直感が強くなければ、その非形式的論証の妥当性に関する意見すら改定するかもしれず、またこうした特殊なやり方での非形式的論証を表象することの適切さに関する意見を変えるかもしれない。そしてひとたび、形式的論理システムが確固不動のもとなるならば、もちろんそれが今度は非形式的論証の妥当性と非妥当性に関する人の直感を指導することになる。パース Peirce(彼は中世の論理学から述語を借りたのだが)に従って、非形式的論証の妥当性に関する非反省的判断を実用の論理 logica utens と呼び、これらの判断に関する反省を通じて形式システムが準備されるもっと厳格で厳密な判断を教示の論理logica docens と呼ぶことができよう。その形象は図Tのようなものである。


実用の論理
非形式的論証
教示の論理
形式的論証
非形式的論証の記号表象
外システム的妥当性システム相関的妥当性


図T

 上に説明したような妥当性の外システム的概念の適切さに関して疑いを持つ著者たちがいる。もしも諸前提が真であり、かつその帰結が偽であることが不可能ならば論証が妥当になる、という考えにおいて、彼らが反対していることは、その「かつ」である。この説明では、もしも論証の諸前提が不可能であるならば、あるいはその帰結が必然的であるならば、そのときにはそもそも a fortiori 諸前提が真であり、かつ その帰結が偽であることが不可能であり、論証が妥当であることが不可能である。そしてもちろん、諸前提がその結論とはまったく非関与であるとしても、このことは言える。「関与の論理 relevance logic」の主導者たちは、従ってこの妥当性の概念に挑戦する。この挑戦のために、彼らは諸前提の結論への関与を要求する非古典的形式論理の採用を主張する(Anderson and Bernal 1975,§22.2.2 および第10章§7を参照)。そういうわけで、妥当性の通常の非形式的概念について彼らが抱いている不満足は、その古典的論理への挑戦と密接に結びついている。(因習上、関与についての考察は論証の評価の次元というよりは修辞的な次元へ追いやられている。)

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Subject 2 演繹的妥当性 外システム的妥当性
Author イストラン [ 2738 to イストラン ]  3/28/Wed/2002   

   外システム的妥当性

 これまで考えてきた構文論的、意味論的妥当性の諸概念は、システム相関的であり、ただ形式的論証にのみ適用される。しかし非形式的論証を妥当であると判断するとき、何が起こっているのか。帰結がその諸前提から生じる followsと 、またその諸前提が真であり、かつ帰結が偽であることはありえないと、人は主張しているように思う。(もしも妥当であることに加えて、論証が真なる諸前提を持つならば、そして、真なる帰結も持つならば、これは健全であるといわれる。)なんらか通常の非形式的な論証を良いものと、他の論証を悪いものと直感的に判断するとき、この妥当性概念のようなものがおそらく働いている。もちろん、論証を「良い」と判断することは、それを「妥当」と判断することよりも多くを含んでいる。しかしわれわれの認識するところでは、妥当性は、それが唯一ではないにしても、論証の重要な価値である。
 定理性と論理的真というシステム相関的な概念に対応する非形式的外システム的概念もまた存在するのかどうかという問いが生じる。私は存在すると考えている。とはいえ、これが妥当性の外システム的観念よりも発展したものであるとか中心的なものであるとかいうことには疑問である(妥当性を論理的真の特殊事例として扱うよりも、論理的真を妥当性の特殊事例として扱うことのもう一つの理由である)。諸前提が真でありかつ帰結が偽であることはありえないというようなものとしての妥当な論証の外システム的観念は、単一の言明に適用され(ちょうど形式的定義が「ゼロ前提の帰結」に適用されたように)、偽ではありえない、つまり必然的真の言明という観念を生じさせる。そしてこの観念のようなものは実際に非形式的なレベルで見出される。たとえば、人はある言明が「トートロジー的な」と判断する。これは非テクニカルな意味では、これらの言明がつまらなく真であるということ、ただ同じことを二度言っているということ(「トートロジー的」の語源的意味が示唆するように)、したがって偽ではありえないということである。もちろん、トートロジーの非形式的な概念は、真理関数的な論理の論理的真のみを含むテクニカルな使用よりも広大である。そして、必然的真の非形式的な観念もまた論理的真の形式的観念よりも広い(第10章§1参照)。形式論理システムの研究と発展によって、これら非形式的な概念が洗練されてきたということは驚くべきことではない。
 しかし形式的論証に適用可能なシステム相関的妥当性概念と、非形式的論証に適用可能な外システム的概念との間にある結びつきについて、何を言えるのだろうか。それはこのようなものである。形式論理システムが目指しているのは、非形式的論証を公式化することであり、それらを正確で厳密、一般化可能な観点において考えることであり、そして応用可能な形式論理システムは次のようなものでなければならない。もしも与えられた非形式的論証がそこである種の形式的論証によって考えられるならば、その形式的論証は、非形式的論証が外システム的な意味で妥当である場合にのみ、システムにおいて妥当であるべきである。

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Subject 2 演繹的妥当性 システム内の妥当性
Author イストラン [ 2723 to イストラン ]  3/23/Fri/2002   

 2 演繹的妥当性:帰納的な強さに関する簡単なコメントとともに

 システム内の妥当性

 形式論理システムのうちでは、妥当性は構文論的にも意味論的にも定義できる。すなわち、システムの公理ないし規則という観点からと、その解釈という観点からとである。形式的論証なるものを私は一続きの良く形式化された公式 well-formed formulae(つまり形式言語の文法的文章、これ以後は 「論理式」'wffs'と呼ぶ)として考える。A1...An-1, A(n≧1)において、A1...An-1の部分が前提であり、Aの部分が帰結である。

構文論的妥当性 は、次のような表現 lines に沿って説明され得る。

   A...An-1, An がL内妥当 valid-in-L であるのは、AがA...An-1とLの公理から、なんらかLの推論規則に従って導出可能である場合だけである。

 これはたいていは次のように表される。A1...An-1│-Ln
意味論的妥当性は、次のような表現によって説明され得る。

   A1...An-1がL内妥当であるのは、A1...An-1が真であるすべての解釈において、Aが真である場合だけである。

これは通常次のように表される。A1...An-1│=Ln

「│-L」や「│=L」の「L」は、これらの妥当性の概念がシステム相関的 system-relative であることを注意するのに役立つ。
 一連の論理式の構文論的妥当概念、意味論的妥当性概念には、論理式の定理性 theoremhood と論理的真の概念が各々照応している。お気づきになったかもしれないが、ただ一つの論理式から成る論証の可能性も認める(しばしばこれらの論証は、「0前提の結論 zero-premise conclusions 」と呼ばれる。)もしも上に素描された妥当性の概念がこの特殊な場合に適用されるならば、こういうことになる。
   AがL内妥当であるのは(AがLの定理であるのは)、なんらかLの推論規則によってLの公理からAが導出される場合だけである(│-LA)

そして

   AがL内妥当であるのは(AがLの論理的真であるのは)、Lのすべての解釈においてAが真である場合だけである(│=LA)

 定理性と論理的真というのを、それぞれ構文論的妥当性と意味論的妥当性の言わば特殊事例であると私は考えている。他のやり方で、事柄に接近することもまた可能であったろう。妥当性というのを、対応する条件 conditional に関する定理性として説明することである。私の取ったアプローチは、前提と帰結の間の結合に論理が関与しているということを強調する上で優れているので、こちらを選択した。
 いかにして構文論的な概念と意味論的な概念が調和するのだろうか。たしかに、構文論的に妥当である論理式が意味論的に妥当であるような、そうした形式システムを持つことを、人は自然に望む(健全性と完全性はこの定理性と論理的真が一致することを示す)。

 論理的システムに適用されるのではない別の「健全性」の意味については、先の方で定義する。

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Subject 『論理(学)の哲学』 2 妥当性 Validity[編集:3/21]
Author イストラン [ 2716 new post ]  3/22/Thu/2002   

 1 論証を評価すること


 論証は非常に多くのやり方で評価される。たとえばあるものは別のものより説得力があり、もっともらしいと判断される。あるものは他のものより興味深く、実りあるものだ、などなどと判断される。なされうる論証の種類は、あらかじめ大まかに、次のように分類することができる。

 (i)論理的:前提と帰結の間に適当な結合が存在するか。
 (ii)実質的:前提と帰結は真であるか。
 (iii)修辞的:論証は聴く者にとって説得的、心に訴え、興味深いものか。

論証の各次元に特有の問いの種類を曖昧に指摘だけであるが、目下の意図にとっては大まかな指摘が適当であるとしなくてはならない。修辞的考察に与えられたカテゴリーによって、論証の妥当性や前提の真理がその説得性にとって関わらないということを言いたいのではない。もしも人が完全に理性的であるなら、真なる前提を伴った妥当な論証によってのみ人は説得されるのであるが、実際には、非妥当な、偽なる前提を伴う論証によって説得されるのがしばしばであり、健全な(第14章以下参照)論証によってではない(そうした合理性の過誤についての議論、またそれらをいかにして避けるか、については例えば Thouless 1930, Stebbing 1939, Flew 1975, Geach 1976 を参照)。
 この先私はほとんど論証の第一の次元にのみ関わるだろう。この次元においては、今度は利用されるだろう論証の様々な基準を区別する必要がある。論証は演繹的に妥当であると判断され得る。あるいは演繹的には非妥当であるが帰納的には強い。あるいはどちらでもない。演繹的な基準は、これが示しているように、そして後でもっと詳しく見るように、帰納的なものよりも厳密である。前提と帰結の結合は、帰納的強さよりも演繹的妥当性にとって、いわばもっと厳格なものである。注1
 論証には二つの種類の論証>があって、一方に演繹的論証があり、他方に帰納的論証がある、ということはしばしば指摘される(たとえば、Barker 1965, Salmon 1967)。この「区別」は、少なくとも通常説明されるようなものとしては、ただ事柄を混乱させるだけである。「演繹的な論証」は「説明的 explicative」であり、「非-拡張的 non-ampliative」である、つまりそれらは「前提においてすでに含まれていないものは何も帰結において含まない」などと言われる。もしも、このことで意味されることが、一見して、論証が演繹的に妥当であることの意味であるとするならば、以下のようになる。すなわち、もしも「前提においてすでに含まれていないようなものは何も帰結において含まない」ということが文字通りの意味でならば、これは間違いである(というのも、「AかつB、だからA」はこの条件を満たすが、「A、だからAあるいはB」という同じく演繹に妥当なものがこの条件を満たさないのであるから)。あるいはまた、もし「前提においてすでに含まれていないようなものは何も帰結において含まない」ということが比喩的に受け取られるならば、これは取るに足らないことである(というのは、「AあるいはB」が演繹的に「A」から生じるということでなければ、「AあるいはB」が「A」のなかに暗黙の内に「含まれている」ことのテストとは何だというのか)。これに対して、「帰納的な論証」というものは「拡張的」ないし「非説明的」と言われる。つまり「その帰結は前提に含まれているものを超えて行く」というふうに。これは事柄を悪化させる。なぜなら、このことは、「演繹的な論証」の説明と対称的に、ある論証にとって帰納的に強いということの説明とみなされることができないからである。というのも、これが帰納的な論証について言っていることは、それが演繹的には妥当でないということにすぎず、しかしながら必ずしもすべての演繹的に非妥当な論証が帰納的に強いということにはならないからである。
 であるから、私は(スカームズ Skyrmsとともに, 例 1966, 第一章)つぎのように言いたい。論証の二つの種類があるのではなくて、論証は、演繹的、帰納的な基準によって、異なって論理的に評価されるのだと。それは演繹的に妥当である、帰納的に強い、あるいはどちらでもない、というふうに。そしてこのことによって明らかになるのは、続く問いがどういうものであるべきかということである。一体論証とは何であるのか。論証が演繹的に妥当であり、ないし帰納的に強いと見なされるためには、どのような条件を満たさなくてはならないのだろうか。
 論証とは何であるか。言説の或る伸び拡がり stretches が、前提によって帰結を支持するものとして、前提から帰結へ論じるものとして意図されているということは人の認知するところである。自然言語の非形式的な言説では、「だから」とか「従って」とか、「ということになる」とか、「なぜなら」などの言い回しによって、この意図は一つの陳述から別の陳述への移行を示すことにより、表されている。形式論理においては、各行についての指示を伴った一連の論理式の提示による。これは先行する行ないし複数の行から、しかじかの推論規則によって生じるとされる。しかしながら、人が妥当であるとか妥当でないとか判断するものは、言説のたんなる伸び拡がりではない。もしも形式的論証を考えるならば、形式言語の論理式 wffs であり、非形式的な論証を考えるならば、自然言語の一続きの文章である(あるいは陳述、ないし命題である。第6章参照)。(同様に、あることがらが肯定的に意図されている――話者はかれらの真理を主張することを意図する、と人は言う。そして別のことがらはそうではないと。しかし、真であり偽であるのは言われたことである。)


注1とりわけパース Peirce、最近ではハンソン Hanson は別の論理的基準も存在すると考えている。それは「仮説的 abductive」ということである。関連する議論については、Haack 1977b 参照。

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